完璧王子は愛されていることを疑わない
愛の重たい男が出てきます。
苦手な方はご注意ください。
灰色の空が広がり、今にも雨が降り出しそうな今日。
陛下から国全体にある発表があった。
その内容に貴族や商人、平民、孤児など身分を問わず悲しみ、嘆き、惜しみ、一人の立派な方へと思いを馳せて王都の中央に構える王宮へと目を向ける。
『我が国の王太子ユーグ・トズベルンが病のためにその地位を降り、治療に専念する。また、第二王子ドーナ・トズベルンを新たに王太子に指名する』
第一王子のユーグ・トズベルンは一つの悪評もなく、非の打ち所がないほどに優秀で民にも優しい。
将来は理想的な王になると言われていた。
教えられたことはすぐに飲み込み、挨拶を交わせば身分が低い者の名前でも忘れない。
とても努力家であり、勉学と共に毎日のようにたっぷりの汗を掻いて剣を振り、腕の立つ剣士でもあった。
時にはお忍びで訪れた先で自らを危険に晒してまで平民を守ったという噂も聞く。
何よりもユーグ・トズベルンの功績と言えば、この国で知らない人がいないほど有名な話がある。
十年前、国で固く禁止されている奴隷を水面下で勝手に作り出している下衆貴族がいた。
奴隷にされていたのは、その下衆貴族が管理する孤児院の子供達。
国から各孤児院には一定の額が支給され、そのお金は孤児院の運営や子供達の食事、衣類や医療費などに使うためのものであった。
しかし、そのお金を己の懐に入れ、子供達を酷い環境下に置いていた。
一日二食の食事内容は小さなパンと味の薄く量の少ない野菜スープ。躾と称して頬を叩いたり、極寒の日に薄着で外に放り出したりと随分な有様だった。
孤児院で育てた容姿の整っている子供は金払いの良い貴族に売り払い、平凡以下の子供にはきつい労働を与え、休みなく働かせる。
国にいくつか点在する孤児院の中でもそこはもっとも酷い環境であったが、頼れる者がいない子供達は言いなりになるしか生きる道がなく、誰もがその現状に気付いていなかった。
しかし、平民の生活を知るという目的で市井にお忍びで遊びに来ていたユーグがその異変に勘付き、あっという間に下衆貴族を制圧する。
ユーグは孤児院の未来ある子供達を華麗に掬い上げて、栄養満点の食事を与え、怪我をしている者は治療し、温かな寝床を与えた。
ユーグ・トズベルンは、それだけでは止まらない。
そこから更に現王に進言し、奴隷を作ろうとしている組織や貴族を根こそぎ潰し、孤児院制度を自らの管轄に置き、環境を見直し始める。
よく調べてみると孤児院を管理する貴族によって子供達の生活には大きな差があった。
そこでユーグは区別をつけないために読み書きを教え始める年齢、学園に入学させる義務など孤児院の在り方の決まりを細かく作成して管理者達に徹底させた。
抜き打ち調査を時々行い、正しく管理されているかを確認して、逆らった者には罰を与えて国内から膿を取り出す。
下衆貴族一掃から孤児院の改革までを僅か三か月で行ったユーグ・トズベルンはこの時、まだ十歳の少年であった。
この美談は貴族から平民まで幅広く伝わり、次期国王は間違いなくユーグ・トズベルンだと言われ、多くの民から支持を受けている。
また、どんなにその成果を褒めても驕ることはなく、周りの協力があったからだと控えめに笑うユーグの姿は更に高い人気を集めた。
その後もユーグ・トズベルンは多くの功績を収め、国にとってなくてはならない人になる。
そのユーグが三年前から公務中にふらりと倒れそうになったり、国主催の行事や夜会を欠席することが増え、心配する声が上がっていた。
そして今日、その理由が『病』であったことが発表された。
ああ、どうかユーグ・トズベルン様の病が治り、元気な姿がまた見られますように。
曇る空に向かって手を合わせ、祈りを捧げる姿が国の各地で見られたという。
・◇・◇・◇・
三年前。
ユーグ・トズベルン王太子や多くの高位貴族が参加する夜会に、ユーグの婚約者であるティーナ・クイーズも招待されていた。
明るい茶色の胸元まで伸びる緩やかに波打つ髪、薄い水色の目。背はそれほど高くなく、標準的な体付きで健康的な身体。
ユーグに用意された青紫一色のドレスを纏い、ティーナは彼にエスコートされて入場した。
その後、ユーグと一緒に挨拶を受けて貴族達と軽く歓談する。
そこまではティーナの想像通りで、夜会に参加する際のいつもの流れと変わらない。
しかし、そこからが違った。
通常ならユーグはティーナをホールの中央へとエスコートして一緒にダンスを踊り始めるはずが、楽団が一曲目を演奏し始める前にユーグはティーナを壁際へと誘い、数名の女性護衛をその場に残してどこかへ消えてしまう。
一人で挨拶したい相手がいるのか、喉でも乾いたのか、そんな風にティーナは軽く考えていた。
ユーグは五歳からの婚約者であり、家族の次に信頼している相手でもある。
彼は出会った時から優しく、楽しいことがあると一緒に笑ってくれて、弱音を吐くと自分が頑張るから無理しなくて良いと慰めてくれる心からお慕いしている人。
そんなユーグの良くない噂をティーナは最近、耳にした。
ユーグの噂と言えば『奴隷解放』や『孤児院改革』など悪い噂は一つもなく、優秀な彼を褒め称えるようなものばかりで婚約者として誇らしく思っていた。
しかし、貴族達の間に『ユーグ殿下がある伯爵令嬢に懸想して、ティーナ・クイーズ公爵令嬢と婚約破棄しようとしている』という噂が広がっている。
ティーナにとって全く嬉しくないものであったが、昔から知っているユーグのことをティーナは当然信じていたし、ユーグがティーナに向ける瞳はいつも真っ直ぐで疑う余地はない。
銀髪の青紫色の目を持ち、長身瘦躯の格好良い完璧なユーグの婚約者であるティーナは多くのご令嬢の嫉妬の的であったため、今回の噂もティーナに対して当てつけのように誰かがわざと流したものだと深く考えないようにしていた。
しかし彼はいつの間にか、ティーナが知るユーグ・トズベルンではなくなっていたらしい。
「…どうして」
目の前に広がる信じられない光景に震える声でぽつりと零したティーナの言葉を拾ったユーグの顔には、いつもの優しげな笑みはなく、呆れたような感情が見て取れる。
「それは自分が一番よく分かっているのではないかな?ティーナ」
壁際に一人取り残されていたティーナの前に、噂で名が挙がっていた伯爵令嬢と仲良さそうに腕を組んでいるユーグが現れた。
慕っていた婚約者からの明確な裏切り行為に、ティーナは彼が噂通りに婚約を破棄したいのだと察する。
ユーグとティーナの婚約は互いに利益があって結ばれたものではあるけれど、ティーナは自分なりに彼のことを想い、温かな家庭を築きたいと願っていたのに。
ティーナと一緒にいる時に見せるユーグの柔らかい雰囲気に、彼が伯爵令嬢のことをどれほど大切にしているのかを嫌でも理解してしまった。
ティーナを見下ろすユーグの青紫の目は凍りつくように冷たく、グッと奥歯を噛み締めて必死に感情を押し殺して涙を堪える。
ティーナが知っているユーグなら、もし婚約者以外の女性に懸想していたとしても正当な手順を踏んで婚約を白紙に戻すはずだ。
どうしてこんな大勢の目がある中で婚約者以外の女性を隣に置く非常識な方法を選択したのだろう。
優秀なユーグの行いから外れるような気がした。
彼の将来を危険に晒すやり方を選ぶほど、ティーナが大きな罪を犯してしまったのだろうか。
それとも彼女と一刻も早く一緒になるためにわざとティーナが悪いように大勢の前で言い、悪役令嬢に仕立て上げて婚約破棄しようと考えているのだろうか。
理由は分かっているだろうと言われても、心当たりは一つもない。
頭が良過ぎる彼の理解者になろうとずっと努力してきたつもりだったが、この時からユーグ・トズベルンという人が分からなくなった。
噂の中心人物であるユーグと伯爵令嬢、そしてティーナの三人が揃った壁際はよく目立つ。
楽団の演奏はいまだに始まらず、広い夜会の会場は静寂な空気に包まれている。
ティーナを擁護する声は一つもなく、ここにいる全員から責められているような気持ちになって、恐怖で脚が震えた。
それでも王太子妃としての矜持が、何もせずにこの場から逃げ出すことを許さない。
「理由をお聞かせください」
「君が次期王妃に相応しくない行いをしたからだよ」
「…具体的にお願いいたします」
優秀で何事も完璧にこなしてしまうユーグと肩を並べ、堂々と一緒にいるためにティーナはずっと励んできた。
一日のほぼ全てを妃教育にあて、礼儀作法から語学などあらゆることをユーグと婚約してからの十二年間、周りに心配されるぐらい一生懸命に学んで頑張った。
ユーグが『孤児院改革』の後、正式に王太子に指名されてからは次期王妃の覚悟もしていた。
確かにティーナはユーグほど完璧だとは言えない。知識も経験もユーグには敵わない。
それでも、満足することなく更なる高みを目指して出来る限りの努力をしてきた。その誇りもある。
いつかユーグの隣で胸を張って国民達の前に立ち、泣く子供がいないように、今以上に笑顔で溢れる国になるように少しでも尽力する。
それが次期王妃としての目標だった。
混乱している頭で考えても、ユーグが告げた罪を思い浮かべることが出来なかった。
「自覚がないなんて驚いたよ。仕方ない、詳しいことは僕が用意した牢屋の中で詳しく説明してあげよう」
「ろ、牢屋?」
「そう。彼女を連れて行ってくれ」
「お待ちください!私は何もしておりませんっ!」
ユーグが指示を出すと少し前まで護衛としてティーナを守ってくれていた女性騎士達に両脇をがっちりと囲まれて逃げ道を絶たれる。
振り払うように細腕を動かしたが、びくともしない。
鍛えた騎士とか弱い令嬢ではどちらに勝機があるのか、誰から見ても一目瞭然だった。
「失礼します、ティーナ様」
「離してっ!離しなさい!」
いつからユーグや騎士達に裏切られていたのか。
会場に入った時から、いや、このドレスを身に着けた時にはもうティーナの味方はいなかったのかもしれない。
助けを求めるように周囲に視線を走らせるがティーナに向けられる貴族からの視線は、罪人を見るそれと同じで目の前が真っ暗になり、絶望した。
王太子妃から降ろされる理由が明確ではない状態なのに、誰もティーナを信じてくれない。
せめてここに父や兄がいてくれれば、何か変わったかもしれないが家族は誰も夜会に参加していなかった。
優秀なユーグと公爵令嬢という身分だけがあるティーナでは今までの実績が全く違う。
このような場所でティーナを咎めるのは可哀想では?と心の中で思う者も一部はいたが、あの秀才で完璧なユーグに間違いはないだろうとすぐに納得して声を上げることはなかった。
ユーグが今まで積み上げてきた功績が彼の理不尽な行動を許し、ティーナを助けようとする者は誰一人として現れない。
そして、その日のうちにユーグとティーナが婚約破棄したことが国中に広がることになった。
・◇・◇・◇・
ティーナは夜会から無理矢理連れ出された後は当然、抵抗した。
しかし、ティーナが暴れることを見越したように馬車に乗せられるとハンカチを口に当てられて、何かの薬を嗅がされてしまい、徐々に身体から力が抜けていく。
闇にゆっくりと落ちていく中で瞼の裏に過ぎったのは、ユーグと伯爵令嬢が肩を並べて国民達の前に立っている姿だった。
「……ん、」
「ティー?起きた?」
「……ユー、グ、さま?」
重い瞼を開けた先にいたのは、目が合って嬉しそうに笑うユーグ・トズベルン。
ティーナの顔を覗き込んでいた彼は身体を起こしてティーナの右側のベッドの端に腰をかけた。そしてベッドに寝かされているティーナの頬に手を伸ばして、するりと愛おしそうに白い肌をなぞる。
その瞬間、夜会でユーグに裏切られたことが頭を過ぎってパッと彼の手を叩いた。
距離を取るように慌てて上半身を起こしてベッドボードまで身体を引き上げると右手首に違和感を覚え、予想外の音が耳に届く。
シャランと金属が擦れ合う聞きなれない音。
黒いそれは隙間なくティーナの右手首に装着されていて、ベッドの脚の方に長く伸びている。
ティーナが戸惑っているとユーグがくすりと笑い、離れた距離を詰めるように座る場所を変えた。いつもより近い距離に警戒心を募らせながらユーグの様子を窺う。
「びっくりして僕の手を払いのけちゃったの?仕方ない子だなあ、ティーナは」
「っ、」
ティーナがユーグの手を拒んだのは婚約してから初めてのことで、その行為が彼を怒らせたことに気付いた。
笑っているはずのユーグの目は仄暗く、次はないからねと言われているような気がする。
夜会で見た彼が頭にちらついて喉が引き攣り、声が出ない。
恐怖で小さく震えているティーナの行動を赦したユーグが、蜂蜜のようにあまい声を出して問いかけた。
「ねえ、ティー。気に入ってくれたかな?僕が用意したティー専用の牢屋だよ」
「え…?」
「ティーの好きな色を揃えたり、クイーズ家のティーの部屋に寄せてみたんだ。是非、感想が聞きたいな」
その前に手首に付いている手錠について詳しく聞きたかったが、逆らってはいけない気がしてベッドの上から見える限りでさっと視線を走らせる。
確かに慣れ親しんだ自分の部屋によく似ていた。
しかし、ここが自分の部屋ではないことは、はっきりと分かる。
目に入った一品一品の家具はどれも高級で、壁に飾ってある有名な絵画は相当な額が予想される。
いくら公爵令嬢といっても使うのに躊躇してしまいそうなものばかりが揃っていて、牢屋というにはあまりにも豪華。
だが、楽しそうにティーナの反応を待っているユーグは間違いなく、ここを牢屋と言った。
「どうかな?」
「は、はい。とても素敵だと思います…」
こんな呑気に話している場合じゃないのに、またユーグの気に入らない態度を取ると冷酷な彼が顔を出すのではないかと思うと恐ろしくて、ぎこちなく首を縦に振る。
ここは一体どこなのだろう。
窓がなく、外の様子も分からない。貴族が罪を犯した時に入る牢屋は一般的なものと比べて豪華だと聞いていたが、さすがにここまでではないと断言が出来る。
つまり、ここは牢屋であって、牢屋ではない。
「良かった!ティーに喜んでもらいたくて一から揃えたんだよ」
「ありがとうございます…?」
迷いながら感謝を言うとユーグが手を伸ばして来たのでびくりと身体が反応してしまったが、大人しくしていると彼は慣れた手付きでティーナの頭を撫でた。
これは彼なりの賛辞のようで、時々こうやって良くできました、というように褒めてくれる。
しかし、ティーナはこれが苦手だった。
年齢は同じなのに子供扱いされているように感じるのだ。
でも嫌だというわけにもいかず、彼が満足するまで待つしかない。
「ティーをこれから世話する人達は僕の息が掛かった者だから何でも頼って良いからね。基本的にティーの願いは何でも叶えるように言ってあるから」
「は、はい」
「もちろん、ティーが僕の前から去ろうとする以外は、だよ?」
明るく軽口のようにユーグは言い、最後に頭をポンポンとしてティーナから手を離したが全く冗談には聞こえない。
嫌な汗が全身から溢れ出すのを感じながら右手を微かに動かしてしまい、シャランと音が鳴る。
恐る恐る彼の様子を見ると右手首に同意なしに付けられた黒い手錠を視界で捉えて、満足そうな顔でそれに向かって手を伸ばし、愛おしそうに触れた。
「これね、特注で作らせたんだ。この牢屋の中なら自由に動き回れるぐらいには長いから安心してね」
「どうして、これを…?」
「どうして?罪を犯したティーナには必要なものでしょ?」
問いかけの意味が分からないと言いたげに首を傾げたユーグに、ぞわりと悪寒が走った。
彼はティーナを罪人として接している。
本当にここまでしなければならないほどの罪を犯してしまったのだろうか。
全く記憶にないが知らず知らずのうちにユーグを失望させて、別の女性を選ぶまでのことをティーナがしてしまったのかもしれない。
聞くのは怖い。
しかし自分の罪と向き合わないことには牢屋から出る方法も見つけられないため、覚悟を決めてゆっくりと唇を開いた。
「ユーグ様、私が王妃に相応しくないとおっしゃった理由をお聞かせください」
「ああ、それね。ティーナは本当に自覚がないの?」
「はい」
「そうか、困ったね」
犯した罪にいつまで経っても気付かないティーナを責めるような目で、ジッと見つめる。
そのまま彼はティーナの柔らかな茶髪、細い首、華奢な肩、ふっくらと膨らむ胸、そして白い腕へなぞるように目を向けた。
ティーナは身に着けているものが夜会の時と変わっていることに気付いて全身が真っ赤に染まり、自分を守るように両手で身体を抱き締めるとシャランと音が鳴る。
いつもはユーグの希望で露出の少ないドレスを着ていたが、今は恐ろしいほど生地が薄く、肌が透けて見えるネグリジェを身に着けていた。
薬で眠らされている間に誰かに着替えさせられたらしい。
淑女が寝ている間に身勝手に肌に触れるような人ではないと思いたいけど、今のユーグならあり得るかもしれないと思い、身が震えた。
「成長するにつれて身体が変化するのは仕方ない。でも、ティーナはその妖艶な身体と美しい顔で僕以外の男を誘惑したよね」
「そ、そんなはしたないことはしていません!」
「無意識だなんて、とても恐ろしくて王妃にはさせられないよ。君が王妃になれば貴族だけではなく、多くの民にその姿を晒すことになる」
悩ましげに、はあと深いため息を吐き出すユーグの言っている言葉が理解できない。
婚約者がいる身として男性と接触する時は十分に気を付けていた。
ティーナに触れるのはユーグか、家族のみ。
挨拶を交わすような男性貴族だってティーナの立場を理解しているため、必要以上に距離を詰めて来ることはない。
それにティーナの身体は確かに成長に伴って女性らしいものにはなったが、妖艶なんて言葉が似合うような体形ではないと思っている。
そんな事実もない罪で王妃に相応しくないと言われるのは、今までの努力を否定される気がして激しい怒りが沸いた。
人の気持ちに敏感なユーグならティーナが今どんな感情を抱いているのか分かっているはずなのに、ユーグは我儘な子供に言い聞かせるように優しく諭す。
「いい?君は男達の脳裏で既に酷い扱いを受けているんだ。このままだと今まで以上に被害者を出すことになる」
「被害者って…」
「安心して。ティーナに目を奪われた男達は僕がしっかりと処分しておいたから」
迷子の子供を導くような優しい顔付きのユーグのどこに安心要素があるというのだろう。
男性にどんな目で見られているかなんて考えたこともなかったが、頭の中でどう考えていようとそれを表に出さなければ個人の自由だ。
その対象が自分だと思うと気持ち悪いけど、誰だって好みの人がいたらデートしたいとか、ダンスを一曲踊りたいとか思ってしまうだろう。
人の頭の中を覗き込むことなんて不可能なのに、どうやってそれを判断したというのか。
処分なんて、明らかに行き過ぎている。
せいぜい言葉で忠告程度に留めて欲しいが、それ以上のことをしてそうで内容を聞くのは憚られた。
自分が正しいと疑わないユーグが、恐ろしくて堪らない。
ティーナの知っているユーグと目の前の彼は本当に同一人物なのだろうか。
証拠もない罪状でティーナを拘束し続けることは出来ないし、男達を罰するとユーグの方が有罪になると優秀な王太子の彼なら当然分かるはずなのに。
「これでティーナが罪を犯すのを防げる。でも、この牢屋にいないとまた同じことの繰り返しになるかもしれないから、一生僕の牢屋に居るんだよ」
決定事項を告げるにこやかな笑顔にティーナは戦慄した。
無実の罪なのに死を迎えるまでここで暮らしていかなければならないなんて、ティーナには耐えられなかった。
窓のない閉塞感ある豪華な牢屋、動きを拘束する手錠。ティーナを捕らえて離さない狂気に満ちた青紫色の目。
衣食住に不自由はしないかもしれないが、自由もないのは言われなくても分かった。
目標に向かって頑張っていたのに、慕っていた相手にそれを踏み潰されてしまいそうになっている。
理不尽な理由で王妃になるのを諦めなければならないのなら、別の女性を好きになったと言われた方がまだ救われた。
嬉しそうなユーグと視線を交わし、緊張しながら唇を薄く開く。
「どうしてそこまで私を…」
───縛りつけようとするのですか。
最後まで言い切る前にユーグが愛おしいものを見るような、とろけた目をティーナに向けた。
たっぷりの愛情を注ぐその視線にこれまで胸を高鳴らせてきたが、今は素直に喜ぶことを拒んでいる。
あまい響きは、嫌な音へと変わってしまった。
「何を当たり前のことを言っているの。ティーを愛している、それ以外に理由がいる?」
ティーナを愛しているから、これ以上の罪を犯させないように手錠で動きを封じる。
ティーナを愛しているから、ユーグ以外の男の目に触れないように牢屋に閉じ込める。
全ては愛する婚約者のためだとユーグは一切の曇りのない顔で言い切った。
ここまでユーグに想われているとは知らなかったティーナは唖然とすると共に、重過ぎる愛に危険を感じた。
ティーナに危害を与えるとは思いたくないが、いつ彼の逆鱗に触れるか分からない。
思いやりに溢れた優秀な彼がいつからこんなにも壊れた考えを持つようになってしまったのか。
ずっと隣で彼のことを見てきたはずなのに。
ユーグを止められなかった。
その先に待つ未来が自分をこんな目に遭わせると知っていたら、彼から全力で遠ざかる努力をしたのに。
いや、まだ諦めるわけにはいかない。
ユーグから離れられないとしても、自由を縛る手錠と牢屋からは逃れたい。
ティーナは必死に頭の中を回転させて、抜け道を探し始めた。
「か、彼女は…夜会で一緒にいた方は良いのですか…?」
「ああ、彼女ね。利害が一致したから組むことにしたんだ。あんな女に触られるなんて不快だったけど、ティーナが隣にいると思い込んで何とか乗り越えたんだよ」
まるで褒めてとでも言いたそうな顔でティーナを見つめるユーグに頬が引き攣った。
必死に何も気付かなかった振りをしてティーナは話を続ける。
「り、利害の一致とは?」
一瞬、ユーグに睨み付けられた気がしたが彼は「ティーナが知る必要はないけど」と前置きして、何の感情も含んでいない声で伯爵令嬢について一応は説明してくれた。
その際にくるくると自分の指先にティーナの髪を巻き付けて遊ぶのは警告なのか、嫌がらせなのか。
考えるのも怖くてティーナはユーグの話を聞くことに専念した。
ティーナを王妃にしないためにはまずは王太子妃から降ろさなければならない。そうなると当然、ユーグの婚約者の座の奪い合いがご令嬢達の間で始まる。
しかし、ユーグはティーナ以外の女性と婚約する気も結婚するつもりもないし、擦り寄って来るご令嬢達をあしらうのも面倒。
そこでお金に困窮して今にも没落しそうだった貴族の娘、件の伯爵令嬢に条件付きで声を掛けた。
大金を渡す代わりにユーグの婚約者として振る舞うこと。
夜会やパーティーなどにユーグの婚約者として出席し、その役目を果たすこと。
ユーグに懸想しないこと。
ユーグに迷惑をかけないこと。
ユーグの行動の一切に口を出さないこと。
彼の話をまとめると、お金をあげるからユーグの言いなりになるという契約らしい。
『ユーグ殿下がある伯爵令嬢に懸想して、ティーナ・クイーズ公爵令嬢と婚約破棄しようとしている』というユーグの悪い噂は彼女と契約を交わしている姿を見た誰かが流したものなのだろう。
「しかし、夜会であのように目立つとユーグ様の名前に傷をつけます」
「ティーは優しいね。でも、君を王妃にさせないためには何か理由が必要でしょ?あんなに真面目に頑張っていたティーを王太子妃から降ろすといっても簡単に父上達は納得しない。だから夜会を利用したんだ。大勢の前で言ってしまえば、そうするしかないからね」
仕方なさそうに肩を竦めるユーグ。
彼らしくないやり方だと思っていたけど、ユーグ自身も納得した方法ではなかったらしい。
しかし、その程度で自分の名に傷がつくことがないことも見越していたのだろう。
彼の言葉が具体的ではなく曖昧だったのにも関わらず、あの場にいた貴族達はユーグの話を信じていた。
それでもティーナはあの場では混乱していて何も思いつかなかった希望が一つ、見出せた気がした。
「貴族達の間でティーの印象が悪くなってしまうけど、もう表舞台に出ることはないから気にしなくて良い」
名誉が傷つくのはとても引っ掛かったが、ユーグが気にするなと言うのなら今は口に出来ない。
代わりに一番気になっていることを聞くことにしたが、彼の指先はまだティーナの髪に触れていて、緊張はいつまで経っても解れなかった。
「私はこれから、どうなるのでしょうか」
「うん?ずっとここにいるんだよ」
「…陛下が許さないのではないですか?」
「どうして?」
「私が王太子妃から降りることに陛下が納得していないと先ほどユーグ様はおっしゃっていました」
ユーグは幼い頃から功績を残して王太子となり、強い権力を持っている。しかし、彼よりも陛下の方が権限は強い。
陛下の協力をどうにか仰ぐことが出来ればティーナはこの牢屋から解放されると思った。
「それは夜会前の話。仮に今も納得していないとしても、父上は僕に口出しできる立場にないから心配ないよ」
「え…?」
「陛下の威厳を保つために僕が思いついた案や意見を渡して、自分のものにさせていたんだ。僕ばかりが功績を上げるのはまずいでしょ?そのおかげで父上は今、賢王と呼ばれて厚い支持を受けている」
陛下のことはとても尊敬している。
非常に素晴らしい方だから子供の教育にも力を入れていて、彼のような立派な次の王を育て上げたのだと思い込んでいた。
でも、実際はユーグが陛下を裏で操って『賢王』に仕立て上げた、らしい。
これでは陛下を味方につけてここから逃げ出す計画は破綻する。
あとティーナに手を貸してくれそうな人は家族ぐらいしかいない。
王妃にユーグの弟やその婚約者、宰相など何人か頭の中に思い浮かんだ人はいるが、その人達も陛下と同じようにユーグの言いなりになっている気がした。
唖然としていたティーナは気持ちを整えて、少し早口になりながらも次の策を打つ。
「私の悪評が広まるとクイーズ家の名にも傷がつきます。父や兄に迷惑がかかるのではないでしょうか?」
今ならまだ修正が出来る。
ユーグに連れていかれて牢屋に入っている身ではあるけれど、釈放されて行き違いがあったと各方面に説明すれば互いに傷は少ない。
王太子妃の立場に戻してもらえれば、挽回の可能性は十分にあるはずだ。
父や兄だってその方が喜ぶだろう。
ティーナが目標に向けて頑張っていたことも知っているし、王太子妃の家としての誇りも持っていた。
ティーナの立場が上がるほど、彼らが手を広げられる幅も伸びる。その逆になってしまえば一緒に地に落ちるだけだ。
「問題ないよ。彼らには良い地位を用意して納得してもらったから」
「ですが、私が牢屋に入っていることは多くの貴族が知っています。父達への風当たりが強くなると思います」
「それも大丈夫。ティーの記憶を人々から抹消するために上書きでいくつか噂を流すつもりだから、ティーが心配するようなことは何一つないよ」
どうにか理由をつけてここを逃げ出す糸口を見つけ出そうとするけど、迷いなくティーナの問いに答えるユーグに綻びは見つけられない。
この後もいくつか気になることを質問したが全て準備を終えているらしく、すんなりと返答される。
ティーナが色目を使って誑かした男が万が一にもティーナを探し出そうとしないように書類上、辺境地にある修道院に向かったことにするらしい。
その修道院はユーグが既に買収済みでティーナがそこにいなくても、存在していることにしてくれるそうだ。
ティーナを探し出そうとする人などいないと言いたくなったが冷たい視線が突き刺さり、ツンと軽く髪を引っ張られて黙るしかなかった。
「……私のことはよく分かりましたが、ユーグ様はこれからどうするのですか?」
「もちろん、ティーと一緒にいるよ」
ユーグを説得して牢屋から出るのは諦めた。
最終手段として、彼がここにいない間に隙を見つけて逃げ出すしかない。
手錠の問題など考えなければならないことはあるけど、彼に常に行動を見張られていたら何も出来ないのだ。
まずはユーグにこの牢屋から出て行ってもらう。
「ユーグ様はこの国にとって大切なお方。次期王となる貴方にはやるべきことが山ほどあるはずです」
「そうだね、僕は王太子だし」
「はい」
困ったように眉間に皺を寄せるユーグの手がやっとティーナの髪から離れ、彼を誘導することに成功してホッとした。
しかしまだ気を抜くわけにはいかない。
ティーナがここから逃げ出そうとしていることに気付かれたら、彼がどんな行動を起こすか分からないから。
心の内を隠しながら、ティーナに構わずに公務に精を入れるようにそれとなく促そうとしたが、ユーグの次の言葉によって考えていたことが全て飛んだ。
「三年後に僕が王太子を降りるまではティーに寂しい思いをさせてしまうけど、少しだけ待ってくれる?朝と夜は一緒だし、毎日必ず構ってあげるからね」
「降りる!?そんなこと貴方が出来るはずありません!」
最後に不吉な言葉が聞こえた気がしたが、それよりも前半の方がティーナにとっては重要だった。
ユーグの支持は高く、国中の人が彼に次の王になって欲しいと望んでいる。
『奴隷解放』や『孤児院改革』の功績、貴族の意見に真摯に耳を傾け、差別することなく平民に優しく接する姿勢。
優秀で実力もある完璧なユーグをいくら陛下が彼の言いなりになっているとはいえ、王太子から降りることを認めるわけがない。
彼がこの国の未来を背負う者として一番適していると誰もが知っているのだから。
「出来るというか、そうするんだよ」
「許されません!」
「父上にはもうしばらく頑張ってもらうし、次の王は弟にさせる。心配しなくても国は上手く回るよ。弟の婚約者は馬鹿じゃないし、必要なら僕が裏から指示を出す」
声を荒げるティーナに対して至って冷静に対応するユーグからとても怖い言葉が聞こえた。
彼の弟のドーナはユーグの後ろに隠れた日陰の存在。
頭を使うよりも剣を振るうことを得意としている人で、彼が苦手な部分は頭脳明晰な婚約者が担う予定だった。
それがいきなり次期王、次期王妃などと言われても納得出来るはずがないだろう。
ティーナもまだ王太子妃の座から降りることを受け入れたわけではない。
それなのに。
「皆、納得してくれているよ」
にっこりと笑うユーグが嘘をついているようには見えないが、夜会から今までの彼を見ていると“納得させた”で間違いないだろう。
彼らを脅しているのか、弱みでも握っているのか。
この牢屋の外で誰かがティーナを助け出すために動いてくれていることを祈っても無駄になりそうだ。
やはり自力で逃げ出すしかない。
牢屋の場所や夜会から経過した時間など欲しい情報は手元にないが、ここにいてはいけないと本能が警告している。
ティーナがティーナではいられなくなる、そんな予感が頭を掠めた。
黙り込んだティーナをユーグが目を細めて見ているとも知らずに、ティーナは彼をここから追い出す手段を計算し始める。
「ねえ、ティーナ。この際だから全部話してあげようか」
ユーグの鋭い視線を急激に感じて身体がびくりと動いた。
シャランという音を耳が捕らえ、警戒を強めながらユーグの形の良い唇が動くのを静かに待つ。
「僕が王にならない、ティーナも王妃にならない。これは奴隷解放を行う前から決まっていたことなんだよ」
「どういう意味、ですか…?」
「僕は劣悪な環境下にあった孤児を引き取って、正しく育てた」
ユーグは一番問題となっていた孤児院を他の貴族に任せることなく、自分の管理下に置いた。
ティーナもユーグと共に時々訪問して子供達と一緒に遊んでいたので仲が良く、友達のように思っている。
その子供達が大きくなって、ティーナの護衛を任されていることも知っている。夜会でティーナの周りを囲んだ女性騎士達は全員が孤児院出身の者だ。
ユーグが管理する孤児院の子供達は『奴隷解放』の立役者である彼に大きな恩を感じていて、いつかユーグ様の役に立つんだ!と笑顔で勉強を頑張っていたのでティーナが教えてあげたりしていた。
「ティーナ、僕はね、子供達が可哀想だから奴隷解放に乗り出したわけじゃないんだ」
「っえ…?」
「“僕を裏切らない”忠実な部下を育てるためにしただけなんだよ」
全身から血の気が引き、指先が凍りついた。
王家に名を連ねる者として、未来ある子供達を守るために優れた頭脳を動かしたのではなかったのか。
この美談の解釈が根本から誤っていた、なんてとても信じられない。信じたくなかった。
ユーグは、子供達が必要だったから孤児院の仕組みを変えた。
もし、彼が使い物にならないと判断していれば今でも元奴隷達は酷い環境下で過ごしていたかもしれない。
王太子であるにも関わらず、彼は国のためではなく、自分の利益のために動いたという。
あの子達の生活環境は整ったとしても、彼の奴隷に立場が変わっただけだ。
どのように育てたのかは分からないが、子供達の笑顔の裏にはティーナが想像出来ないほどの血のにじむ努力が隠れていたのかもしれない。
何度も孤児院に通ったのに、ティーナは何も知らなかった。
ただユーグが子供達の声無き叫びに気づいてくれて良かったと彼を尊敬し、皆の幸せを願った。
恩に報いるためにユーグの役に立ちたい、その孤児達の思考を彼は利用したのだ。
グッと固く握り締めた両拳がわなわなと震えて、怒りがコントロール出来ない。
こんなにも激しい感情が込み上げたのは、ユーグから国で禁止されている奴隷の存在を聞かされた時以来だ。
ティーナがもっと優秀ならば、子供達を助けてあげられたかもしれない。
そう思えば思うほど、自分の力の無さに嫌気が差す。
ティーナが王太子妃として唯一出来ることは、間違った道に進もうとしているユーグを止めることだ。
「皆を解放してください!こんなこと間違っています!」
「この優秀な僕が間違っている?そんなわけないだろう」
「いいえ!あの子達は貴方の部下になることを望んでいたわけではありませんっ!」
「ティーナ、君は勘違いしているんだね。僕は僕の大切な人を守れる強い人を探していると子供達に言ったけど、部下になれと命令したことはない。子供達の方から自分に任せて欲しいと名乗りを上げたんだよ」
孤児達は、完全に洗脳されてしまっている。
助けられたユーグに恩返しをしなければならないと子供達に思い込ませて、自分勝手に使える駒として育て上げてしまった。
どうやって止めよう。
自分が置かれている立場よりも子供達のことが気になって仕方がなかった。
皆と根気よく話をしても『孤児院改革』からもう七年も経過している。
それにこの牢屋からティーナが離れられる保証もない。
孤児院出身の人達に接触出来る機会を見つけるのも難しいだろう。
そう思った瞬間、ハッと気付いてしまった。
「さ、先ほど私を世話する人達が貴方の息の掛かった人達だとおっしゃっていたのは…」
「うん、正解。この離宮にいる人は全員が孤児院出身の元奴隷だよ」
それならば皆を説得する機会もあるし、ここから出る手助けを頼むことも可能かもしれない。
閉じ込められているのが離宮なら王宮との距離も近い。
王宮に出入りが許されている父と連絡が取れたらユーグから逃げられる。
絶望的だった目の前に唐突に光が差し込んだ。
ところが。
「あのね、ティーナ。僕に嫉妬させるためにそうやって罪を重ねようとしているんだろうけど、ここからは出られないよ」
「っ、」
「そもそも孤児院の件も手錠も牢屋も、全てはティーナを守るためにやっていることなんだからね?」
嫉妬させようとなんてしていない!守って欲しいなんて望んでいない!と心の中で声を荒げた。
ティーナの思惑は人の機微に敏感なユーグに完璧に読まれてしまっている。
ユーグが自分で考え、行動し、利用してきたはずなのに。
全てはティーナのためにやったことだと大きな責任を押し付けて、ユーグは言い切った。
願ったことなど一度もないのに、ティーナを守るための正しい行動だと己の行いを一切疑っていない。
ユーグ・トズベルンという存在が、怖い。
彼の優秀な部分も、残酷な部分も、全ての源はティーナにあった。
どうしてここまでティーナのためにするのかと聞けば、また同じ答えが返って来るのはユーグの熱の含んだ青紫色の目に見つめられると分かってしまう。
異常と言ってもいいほどに重たい愛。
長い間ずっと隠してきた心の内を明らかにし、余すことなく自分を曝け出したユーグは心底楽しそうに笑っている。
「ねえ、ティー。喜んでくれた?五歳の時に君と婚約してから僕はティーを守るために頭を使い、身体を動かし、笑いたくもないのに笑ってきた。そんな僕にもちろん、ご褒美をくれるよね?」
「ご、ごほうび…?」
「なに、嫌なの?ティーナのために僕が何年も掛けて頑張ってきたのに、ティーナは僕のために何もしてくれないんだ?」
一方的に押しつけられて本当に喜ぶと思っているのだろうか。
いや、本気でそう思っているから見返りがあって当然という顔をしているのだ。
いつから自分が知っているユーグではなくなってしまったのだろうと考えていたけど、そうではなかった。
ティーナが彼をおかしくさせた。壊してしまった。
五歳より前のユーグは物静かで、笑わない子だったと王妃が教えてくれたことをふと思い出す。
そんな彼がよく喋り、感情豊かになったのはティーナと出会ってからだと随分と昔のお茶会で言われて、驚いた記憶がおぼろげにある。
ティーナが覚えている幼いユーグは、すでに誰よりも優しく思いやりのある人だったからすっかり忘れていた。
そんな彼の隣に並べるように、毎日のようにティーナが勉学に励んでいた裏でこんな恐ろしい計画を立てていたなんて考えることすらしていない。
時々弱音を吐いたティーナに自分が頑張るから無理しなくて良いと言ったのも、王妃になる目標をユーグ自身が砕くことを分かっていたからだろう。
完璧と言われる彼の黒い部分にもっと早く気付くべきだった。
いや、完璧なユーグだからこそ、彼の口から聞くまで気付けなかった。
「……私は、何をすれば良いですか?」
「そうだなあ。ティーにして欲しいことはいっぱいあるんだ!」
こうやって陛下達も彼に陥落したのだろう。
もうこの牢屋からも手錠からも逃れられそうにない。助けを求められる相手もいない。
外と関わりを持つことは二度と出来ないのだ。
退路は最初から完全に断たれていた。
今最善の策は、ユーグの機嫌を損ねないこと。
彼がティーナではなく、愛称で呼ぶのは機嫌が良い時だとようやく分かった。
「ティーが恥ずかしがっている姿は可愛いけど、敬称なしで僕を呼んで欲しいな。それから美味しい物をあーんって食べさせてあげたいし、食べさせて欲しい。あまえる姿も見たいし、ティーに似合うと思って用意してあるドレスが沢山あるんだ!あとはティーからのキスも欲しい。毎日愛しているって言われたいなあ」
ユーグが求めているのは婚約してからの十二年分のご褒美。
ティーナが頼んだ覚えは一切ないのに、ユーグの中ではそれだけの見返りがもらえると思っている。
あまりにも大きな対価に顔が真っ青になるが、ふわふわと嬉しそうに未来に思いを馳せているユーグは気付いていない。
ティーナが一瞬でも抵抗する素振りを見せたら見返りをちらつかせて、何も言えなくさせるのだろう。
彼の中ではこの十二年をどれほど重く捉えているのか。
想像するだけでぞっとした。
「まずは婚姻届に名前を書こうね?」
「婚姻……」
「ティーナ」
低い声で名前を呼ばれて、拒みそうになったことに触れないようにそっと頷く。
ユーグからは逃げ出せないのだと覚悟した。いや、絶望だったのかもしれない。
ティーナは恐怖に縛られて、自分がユーグの言いなりになっていることから目を逸らした。
差し出された彼の手に手錠が目立つ自分の右手を乗せると、鎖を引きずりながらソファまで誘導される。
ティーナが腰を下ろすとユーグが棚から婚姻届を取り出して、テーブルの上に置く。
そこにはすでにユーグの名があった。
陛下はこの婚姻届を早々に受理するだろう。
ティーナが震える字でなんとか書き終えると、並んだ二つの名前を愛おしそうにユーグは見つめる。
そして婚姻届を持って一人だけ立ち上がり、彼は扉の外にいた誰かと少し言葉を交わしてそれを渡していた。
ソファに即座に戻ったユーグは妻の存在を確かめるように力強くぎゅう、と抱き締める。
耳元に寄せられた唇から吐息と共に零れる、とろけるようなあまい声にティーナは支配された。
「僕も愛しているよ」
ティーナは本当のユーグの姿を知るまで、確かに彼に恋愛感情を持っていた。
しかし、現状では愛よりも恐怖の方が勝っている。この先、これが逆転することがあるのかは分からない。
今のティーナに断言出来るのは、ユーグと同じだけの気持ちを返すのは絶対に不可能だということ。
自分も深く愛されていると疑わないユーグがティーナにご褒美を求めるのは、それからまもなくのことだった。