川霧
川霧の ふもとを籠めて 立ちぬれば
空にぞ秋の 山は見えける
清原深養父・拾遺和歌集
また、同じ夢を見た。深い霧がゆっくりと晴れていくと不思議な形をした山が現われてくる。あたしはそれを奇妙な期待感をもって見ている。そこで何かありえないようなことが起こってびっくりして目が覚める。……
子どもの頃から繰り返し見ているけれど、いつも何に驚いたのか憶えていない。すっきりしない頭を熱いシャワーで流しながら、今日の仕事の段取りを考えるよう気持ちを切り替える。
今日は会議が3つ、クライアントとの打ち合わせが2つ、その間になんのかんのと判断を仰ぎに来るかわいい部下たちが列を作っている。
女性でしかも最年少のリーダー、昔風に言えば課長だけど、権限も大きければ責任も重いのに給料はほんのちょっぴり増えただけ。どう考えても本部長の陰謀だ。
ようやく仕事が終わって、やれやれってため息をつきそうになるけれど、隣で飲んでいる部下の手前そうはいかない。生まれてこの方、医者に診てもらったことがないのがあたしの自慢で、弱いところなんか見せられない。
この子、と言ってもあたしと年は2つしか違わない江上君は仕事は迅速丁寧の逆だけど、なんか憎めなくてよく飲みに連れて行く。おいしくて安くて落ち着ける飲み屋を探すのがうまいし、気を使ってないようで気を使ってくれる。一人っ子のあたしだけど、弟を相手にしているような気分だ。
仕事の話なんかしたくないくせに「あんたは“ほうれんそう”もできない。新人並みだ」なんて説教をついしちゃうと、「ホウレン草のおひたしを頼みましょう」なんて言う。
「あんたはいい子だよ。好きだよ」
レモンサワーのグラスを傾けながらのいつもの冗談を言う。
江上君はグレープフルーツをぎゅうぎゅう絞りながら、
「ぼくも梨緒さん、好きですよ。……でも、生絞りサワーっておいしいかもですが、面倒でお店の手抜きなんじゃないかって思いますね」とあたしが実はファーストネームで呼ばれるのが好きなことを知っている。
会社の連中が聞いたら耳を疑うだろう。
「何よ。30過ぎのおばさんのは絞れないって言うの?」
「30になったばっかりでしょ? まだまだ絞れますよ」と大きなグレープフルーツを持ち替えて覆うようにしてひねる。
「あはは。褒め上手だね。じゃあ、結婚する?」
「ぜひぜひ。いつがいいですか?」
この辺までは3杯くらい飲んだところで出るつもりだった。結婚なんて女性上司からのセクハラだって言われても仕方ないようなことを言い始めてるのはストップのサイン。もちろん彼はそんなことは気にしてないし、調子を合わせてからかっているわけでもないし、本気に取っているわけでもない。……と思っていた。
「あ、そうだ。その前に梨緒さんのご両親にご挨拶にいかないと」
「うんうん。そうしてくれたまえ」
「それからぼくの田舎にも行ってくれますか」
「いいよぉ。……あんたの田舎ってどこだっけ?」
「ちょっと遠いんですよ」
「北海道とか?」
「もうちょっと遠いですね」
「沖縄?」
「もうちょっと」
「外国なの?」
「うーん。もうちょっと遠いですね」
「ん? そっか。M78星雲か?」
そこでこの冗談も終わりで、3分しかもたないんだろなんてまた下品な突込みを考えていたのだった。
「もうちょっと遠いですね。だいいちあんなとこ住めませんよ」
「え?……どこ?」
「マイトレーヤ星雲です。56億7千万光年離れてます」
「聞いたことないよ」
「ええ。たぶん。今の観測技術だと見えないかも知れません」
ああ、そうか。これは新手のジョークなんだと思った。じゃあ、SFマンガとか好きなわたしとしては、とことん付き合ってやるか。4杯目のサワーを飲み干して次を頼む。
「どうやって来たの? ワープ航法?」
「そんなエネルギー使う方法はやりませんよ。複素空間を利用するんです」
「はあ」
「簡単に言えばブラックホールを通ってくるんですよ」
「そんなのに入ったら身がもたないじゃない」
「だいじょうぶですよ。次元数がπのフラクタル面をたどれば……」
いきなり背広のポケットから手帳を取り出して、わけわかんない偏微分方程式みたいなものを書き出した。エクセルも満足に使えないくせに手が込んでるなぁって思いながら、次々と数式を書いているのを見ているうちに眠ってしまった。……
気がつくと川べりに仲良く並んで、あたしは江上君の肩に頭を載せていた。背広がやさしくかけられている。後ろのビルの灯りが水面に映っている。飲みすぎたわりには頭も痛くないし、喉もからからってほどでもない。
「おはようございます」
「って、まだ暗いじゃない」
「もうすぐですよ。夜が明けるのも」
確かに向こうの方が深い青に染まり始めている。あたしがとても好きな時間だ。
「そっか。じゃあ、帰らないと」
「ぼくの田舎に今から行きませんか?」
「ああ、何とか星雲? いいけど、タクシー代足りるかなぁ」
「だいじょうぶですよ。フィアンセだから」
ちょっとドキってする。江上君は冗談で言ってないってわかる。でも……
「そろそろ、本当にびっくりさせちゃいますね」
そう言って川の向こう側に目をやると、川霧が急に立ち込めて、あたしたちをすっぽりと包む。もうそれが夢と同じ風景だと気づいていたので、そんな気分じゃなかったけれど、最後の冗談を言った。
「これって、ドライアイス?」
「そのようなもんです。演歌歌手が出て来たりしませんけど」
辺りが見る見る明るくなって、深い霧がゆっくりと晴れていくと不思議な形をした山が現われてくる。いや、それは空中に浮いていて、底面にはたくさんのライトがちかちかしている。
「思い出しました?」
江上君の声は倍音が増えたような感じで、奇妙な響き方をする。体全体がほのかに光っている。ふと見るとあたしの手も同じように光っている。
「そうか。やっとわかったよ。……長いことありがと」
失われた記憶が流れ込んで来る。彼はあの星であたしの恋人だった。要人誘拐事件の巻き添えで地球に連れて来られて、記憶を消去されてからずっと地球人として育ったのだった。あたしが一度も医者にかかったこともなく、レントゲン一つ受けたこともない理由がわかった。ずっと大切に見守られていたんだ。この時が来るまで。でも……
「あっちに戻っても、あたしが上司だからね」
「それに慣れちゃったから、いいですよ」
静かに抱き合いながら、そうささやき合って、あたしたちは浮かび上がった。