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三坪の戦争

作者: たかな

先程まで降り注いでいた雪は、アスファルトの汚れや靴の汚れでで黒くなり、

べちゃべちゃと道行く人のズボンの裾を汚していた。

厨房の灯をつけたばかりの店には、三十代前半であろう店主一人が、

せっせとまだ来ぬ客の為に仕込みを続けていた。

小さな厨房の中。

店主の側でゆらゆらと淡い青色の小さい炎に炙られた鍋の中には、

最高級の鰹節でとった黄金色の出汁が、出番はまだかと、

なんとも言えない良い匂いを出しつつ湯気をたてていた。

そこにお玉を一寸差し込み、ずずっと出汁の具合を確かめ、少量の薄口醤油ちょちょっと垂らした。


今夜お薦めとして提供する予定の鍋の汁だ。

これは良い鍋ができると確信した店主は早速次の用意をする。

せっかく用意した美酒の香りを殺さず、

かつ、食欲を増幅させるための胡麻豆腐の餡掛けだ。

たまたま店で見かけた柚子胡椒を使いたいが為に、丹念にすりばちで煎りたての胡麻をゴリゴリとすり下ろし、

上物の吉野葛を入れ、バットに入れて冷やして固めた。


上品な豆腐生地を小鉢に入れ、薄黄色の餡をかけ、

その中央に香り高くピリリと味を引き締める、翡翠色の柚子故障を乗せる。

考えただけも美目麗しい。


そして店主はまるでラベルの名曲ボレロで最初から最後まで刻み続けるスネアの様に、

トントンと規則正しいリズムで大根を切っている。

刺身用のツマだ。

ただの大根ではあるが、半透明の美しい糸のようなそれは目立たないまでも、

自分の仕事がまざまざと出るものだ。

店主は底にも気を抜かない。

次々にボウルに張った水のなかにさらさらとした大根の糸が踊る。


忘れてはいけないとばかりに店主はさっとまな板を洗い、次に取りかかり始める。

新鮮な魚だ。今日は金目が安く鍋の材料として使おうと一尾購入してあった。

鮮やかなバラのような赤い体に、その名に相応しい金色にも見える大きな眼。

店主は慣れた手つきで出刃包丁をあてがい、身を崩さないよう裁き始める。

薄ピンクなその美しい身は、火を入れることでまるで桃のような甘美な味を舌へともたらす。

鍋を食べたものはきっとほぅ…とその余韻に心を溶かされるような感覚になるだろう。


黙々と作業をしているうちに暖簾を出す時間となった。

表には今日のおすすめを書いた黒板を出し、

店のイメージカラーの紺色の暖簾を掲げた。


店を開けてしばらくすると、口ひげを生やした初老の男性がやって来た。

コートに小さい水滴がついているところを見ると、どうやらまた雪がちらつき始めたようだ。

男性は焼酎とおすすめである金目の鍋を頼む。

店主はニコリとし、男性に胡麻豆腐と焼酎を出すと、

男性は「ほう……胡麻豆腐ですか」と呟き、割り箸で裂くと口へと運んだ。

男性の口の中では胡麻の香ばしい香りと滑らかさがコロコロと舌をくすぐる。

餡の甘さが胡麻のエグさをまた丸く包み込み、なんとも言えない。

男性はあっという間に食べ終わりその余韻を楽しんでいた。


そこへすかさず店主は自信作の鍋を出した。

薄い色の出し汁の中で白菜、葛切りや、春菊に、焦げ目をうっすらつける程度に焼いた餅。

水菜にネギに仕事をした椎茸や紅葉の生麩。

ねじり梅の形に切った人参や自家製の木綿豆腐が踊っている。

大事な金目は火を通しすぎないよう、出す直前に入れた。


男性は色とりどりのそれらに目を輝かせ、

魚に火が通るのを今か今かと待ち望んでいた。


そこでふと、男性はもう逸品のお薦めを発見した。

トロの刺身と書かれている。

すかさず彼はそれを頼んだ。


すっと白い刺しの沢山入った刺身を出された彼は無我夢中になりながらそれをあっという間に平らげる。

甘い脂にまみれた口を整えるために、

脇に添えられたツマに醤油をたらし、

サクサクと軽妙な音をたてて食べた。

長すぎず、細すぎず、太すぎないそれは、

口の中に清涼感を与え、実に美味い。


そして彷徨に浸っている間に、鍋がグラグラと言い始めていた。

男性は具材を満遍なく取り皿に入れ、

はふはふと熱い湯気を吹きながら次々と平らげる。


店主はその姿を見てほっとなでおろし、今日も戦に勝てたのだと確信する。

そして、客より「ごちそうさま。おいしかった」の胃袋敗北宣言を頂き、また明日への糧とする。

板前はまた、こうして戦いに備えるための活力を蓄えているのであった。


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― 新着の感想 ―
[一言] おいしそうですね。 涎が垂れて来ました。
2011/06/08 15:59 退会済み
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