プロローグ
俺の左肩が悲鳴をあげた。
それは高校生活最後の夏。甲子園を目指して追い込み練習をしていた時だった。
俺はプロのスカウトや記者が注目する中、軽く投げ込み練習をしていた。他の部員は夜遅くまで練習する予定だったが、俺は、今日はすぐに帰ろうと思っていた。
それは仕事中毒の両親が珍しく、二人とも定時で帰って来ると聞いていたからだ。
親子の語らいなどには興味がない。ただ何となく、そう何となくだ。珍しいことだから俺も珍しく練習を早めに引き上げようと思ったのだ。
「江夏君。こっち向いてくださーい」
地元のテレビ局のスタッフが俺の名を呼ぶ。もう何度も取材を受け、見知った間柄だ。愛想よくしておこう。
「はい。これでいいですか?」
俺は帽子を取り、ペコリと頭を下げた。そしてまた投げ込みを再開する。
「やっぱり愛想良いわね、あの子。実力もあるし、プロに行ってもすぐに人気出るわ。ちゃんと指名してくださいよ。スカウトさん」
「上層部にはちゃんと報告してありますがな。甲子園に出られへんでも上位で指名。甲子園で優勝すれば、うちの一位指名は江夏優やわ」
あれは在阪球団のスカウトさんだ。おべっかだろうが、一位指名もあるようなことを言ってくれている。
ただ、それは無理だろう。
うちは古豪高ではある。県大会を勝ち抜くことはできるだろう。しかし、甲子園に出たところでベスト一六が関の山だ。野手陣はそれぐらいのレベルしかない。俺が完璧に抑えるしかない。控えの二年生投手のレベルは、お世辞にも甲子園レベルであるとは言えない。だから俺が投げ抜くしかない。
それでも指名はしてくれるみたいなので、気楽に投げよう。
「キャー。江夏君、こっち向いてー」
軽く投げても女の子が黄色い歓声をあげてくれる。別に甲子園で負けるのなら、この声援が罵声に代わることは無いだろう。逆に、貧打の打線を甲子園まで連れて行った、ヒーローとして慰めてくれるかもしれない。
そうだ。別に本気で投げることは無い。怪我をしないように投げて、プロになろう。そして活躍して、ファンの歓声に包まれるのだ。
「最後、いきます」
俺はキャッチャーに言ったのか、見学人に言ったのか、どちらに言ったのかは分からないが、そう言って腕を振ろうとした。
だがそれができなかった。
「あああああああああ」
何かが裂ける音が身体中に響き渡った気がした。それをかき消すように自身の悲鳴が上書きしていく。
「おい、大丈夫か!?」「きゃーー」
俺はあまりの痛みに左肩をおさえ、うずくまってしまった。外野が何か言っているが耳に入ってこない。
そして俺はそのまま気を失った。
これまでたまに肩が痛くなることはあった。だが、ただの投げ過ぎによる炎症だと思うことにし、病院には行かず、痛みが引くまで投げ込みはせずに、走り込みをしていた。
多分怖かったのだろう。それは自身が投げられなくなることがではない。両親が自分の心配をせず、仕事から帰ってこないことを恐れていたのだ。
朝から左肩に少し違和感があった。だから今日は軽めに投げていた。
今日は両親が定時で帰って来る。少しお互いの話をした後、一緒に夜間病院について来てもらおうと思っていた。
◇◇◇
目が覚めると、病院のベッドの上だった。ちょうど巡回に来ていた担当の先生から自分の肩の説明を受けた。
腱が完全に断裂しているそうだ。それに細かな骨の分離などもあったようだ。俺は目の前が真っ暗になった。
俺には野球しかない。小学生のころから勉強よりも野球を優先して、授業中は鉛筆ではなくハンドグリップを握っていた。高校もスポーツ入学だ。
顔も良くは無い。記事などでは、昔ながらの高校球児らしい好青年と書かれている。だが裏を返せば、芋っぽいと言うことだ。今どきの顔ではない。それに髪型や服も、今の流行を知らない。今の自分は黒髪の短髪で、普段着はジャージかTシャツぐらいしか持っていない。
その野球だが医師の話では、二年棒に振ることになるが、また投げられるようにはなるそうだ。
「私が絶対治すから、君もリハビリを頑張ろうな。プロには社会人からだってなれるさ」
俺は医師の言葉を呑み込めなかった。
今の医療技術なら医師の言うとおり、投げられるようにはなるのだろう。けれど、それは元に戻ると言うだけでブランクが生まれてしまう。それに練習の制限もかかるだろう。
十八歳で肩の大きな故障を持っている選手を取る球団などあるのだろうか。もし取ってもらってもプロの練習について行けるだろうか。
そんなことも頭にチラッと浮かんだが、それはどうでも良い。それよりも今は……。
「あの。両親は?」
俺は気を失ってから丸一日以上寝ていたみたいだ。一旦家に帰ったのだろうか。まさか息子を置いて仕事には……。せめてどちらかは……。
そんな不安が俺の頭によぎった。そしてそれは当たってしまった。
「二人とも仕事に行ったみたいだよ」
自信の背が勝手に反応した。そして体が震えているのが分かる。医師の言葉に、俺の心の中でなにかが壊れたのだろう。
「そうですか。仕方ありませんね。僕は僕でリハビリ頑張ります」
「ああ、頑張りなさい。私たちも精一杯サポートするからね」
医師は俺の頭をポンポンと撫でた。外見から六〇歳近いだろう。祖父の顔が頭の中にチラついた。その顔は悲しそうな顔をしていた。ただ俺の決意は変わらない。
「すみません。少し廊下を歩いても大丈夫ですか?」
「ん? 気が早いな。けどまぁ大丈夫だろう。おい君、一緒に廻ってあげなさい」
医師は少し怪訝そうにしながら一緒にいた看護士にそう言った。彼女は疑う様子もなく俺に繋がっている点滴薬を持ってくれた。
さすがに年を重ねているだけあって、医師の方は俺の裏に感づきそうになった。ただ俺も小さなころから周りの顔を伺って取り繕ってきた。そこらの大人なら騙すことも容易だ。
「では、行きましょうか」
「ええ、お願いします」
看護士さんが点滴薬を吊り下げたスタンドを持ってくれている。俺はベッドから降りて自分の足で歩けるか確かめた。薬の影響からか少しふらつくが大丈夫だろう。
俺は看護士さんと一緒に部屋の外に出た。そして、すぐに見舞いに来た人が使う休憩スペースの方へと足を向けた。おそらくこちらの方には……。
「よし。あった」
休憩スペースにはベランダに繋がるドア窓があった。そして鍵は閉まっていなかった。
「え、ちょっと。え」
俺は、看護士さんを無視して、自身に繋がっていた点滴を腕から引っこ抜く。そして、一目散にベランダへとふらつきながら駆けて行く。
「ごめんなさい」
俺はそう言って、ベランダから身を投げ出した。