第一章 07 宿屋
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さっき、皆がトイレに向かうときに開けた、この部屋の扉。
その扉をノックする音が響いた。
三人は息をのんで顔を見合わせる。扉の向こうから声が響いた。
「このミーティング室は誰か使ってるのか?」
男の声だった。目でお互いにうなずき、リユルが返事をする。
「ど、どちら様ですか?」
扉の両側で起こる沈黙。それは、三人にはとても長く感じられたが、実際にはほんの一瞬のことだった。
「おいおい、この宿の亭主の声を忘れたのか? 掃除しに来たんだがまだ打ち合わせ中か。終わったら声かけてくれ。コップとか使ってるなら台所に返してくれよ」
扉の向こうから、笑い声交じりの言葉が返ってきた。そして足音が遠ざかっていくのが聞こえる。
扉の向こうに人の気配がなくなってから、三人は息を吐いた。
「びっくりしたーーーーーー!!!! あいたち以外のキャラが出てくるなんて!!!」
「うちらがあれこれ設定考えとる間に、世界が動きだしたんだね!!! 設定だけ作って終了した、昔の話と違うよ!!」
「私たちの世界が、物語が、動き出した、という感じですね……! こうしてはいられませんね。この部屋から出ましょう。外の世界はどうなっているんでしょうか!?」
三人とも、興奮で立ち上がる。そのまま扉に向かおうとするが、ユージナが制する。
「ちょっと待って! 宿屋の亭主って、どんな人なん? コップ返せって言われたけど台所ってどんな感じ? それに宿屋なら、宿代はどうしとるん? 決めとかんと出て行ってから困らん!?」
その言葉に、確かに、と三人はもう一度腰を落ち着ける。
「リユルさんはカバンがありますけど、私とユージナさんは手ぶらですし、旅をしている設定ならもっと荷物があるはずですよね。自分たちの所持金の設定もしておかないと、支払いを求められたときに困ります」
「あいだってこのカバン、服が入ってただけだもの、お金らしきもの見当たらないよ」
「さっき金の単位は決めたけど、全部硬貨だで、まとまった金額を持っとると結構重いよね。旅をしとる場合、いくらぐらい持ち歩いとるのが普通なんだろ? うちらを大金持ち設定すれば後々楽な気もするけど、特殊な立ち位置におるの飽きたで、標準、ぐらいでいいよね? でもこの世界の旅しとる人の所持金の標準、っていくらぐらいだろ?」
三人はしばし考え込む。やがてヴァルルシャが言った。
「魔物退治で生計を立てる者が多くいる世界で、どこに発生するかわからない魔王を探して旅をする者も珍しくない世界観ですよね? そういう人はそもそも、全財産を持ち歩いて旅をしているんでしょうか? 盗まれたら一文無しになってしまいますよ」
「どっかに自宅があるんかな? そういえば二人の出身とかどこよ?」
「知らないよ~! あいはそんな細かい設定無いんだから~! ユージナは東洋に自宅があるのかもしれないけど」
「いや、それでも遠くまで旅をしてきとるってことは、もう自宅へは帰らん、帰れんのかもしれんよ。うちの昔の設定では、親も殺されたし家も奪われてそれで旅をしとる、ってことだったけど、もうそんな設定嫌だし」
「家や家族構成まで考え出すとまた長くなりそうですよ。今はとにかく、我々の所持金のことを決めましょうよ」
ヴァルルシャの言葉に、二人はうなずいた。
「ええと、全財産を持ち歩いてるとなると、不用心だし、なにより重いよね。重くない程度のお金を持ち歩いててそれが全財産、ってことにする手もあるけど、さすがにそれは嫌だなあ。チートな強キャラも恥ずかしいけど、あんまりしんどい設定も嫌だよ~」
リユルが頭を押さえる。
「じゃあ、一部を持ち歩いて、残りはどこかに預けている、ということになりますね。となるとこの世界にも銀行がある設定にするか……となると通帳などが必要になってきますし……偽造の防止とか、紛失の対策とか、紙製ならば強度も必要になってきますし、そこまで技術が発展している世界にしますか? 一応、中世ヨーロッパ風の世界観ですよね? ……精霊の力で通帳のようなアイテムがあることにしますか?」
「設定に行き詰まると精霊の力を利用するね、うちら」
ユージナが思わずつっこむ。
「そうだけど、精霊の力を便利に利用するかわりに魔物が生まれる世界なんだからいいじゃない。でもどんなアイテムか細かいこと考えるとまた時間かかりそう……」
そこまで言って、リユルが手を叩いた。
「そういえばさ! さっき机の下からあいのカバン出したじゃん? 具体的に描かれてない部分は、何も決定されてないってことだよね? じゃあ、それぞれ大きいカバンを持ってるってことにして、中身を決めなければ後からどうとでもなるんじゃない?」
「なるほど! じゃあ、泊まっとる部屋にうちらのカバンがあることにして……泊まっとる部屋ってどんな感じだろ? うちは日本刀も置いてあるはずだし」
一つ設定ができても、また新たに決めねばならないことが出てくる。三人は考え込んだ。
「さっき、宿屋のご主人が、ここを『ミーティング室』と言ってましたよね。魔物退治に行く前に、戦術などを話し合うための部屋、ということでしょうか? それで机と椅子しかないような殺風景な部屋なんですね。わざわざそういう別室が設けられているということは、宿泊部屋でそういう打ち合わせができない、ということでしょうか?」
「てことは、めちゃくちゃ狭いってことかな? 1パーティーが全員泊まれるような大部屋が無くて、一人が寝泊まりするだけの狭い個室しかないとか? ビジネスホテルみたいな感じ?」
「ビジネスホテルの個室でも数人で話し合うぐらいの広さはあるんじゃ? トイレやシャワーのスペースもあるしさ。あ、シャワー、っていうかお風呂ってこの世界ではどうなっとるんだろ! 風呂無いと嫌だよね!」
ユージナが言い、リユルがうなずいた。
「上水タンクがあっても、際限なく水が使えるわけじゃないよね。それにあんまり現代日本っぽいと異世界感が無くなっちゃうし。このミーティング室の前にトイレがあるってことは、トイレとかお風呂は共用、って感じかな? 男湯と女湯がどこかに作ってあってさ」
「ということは、宿泊部屋は水道設備などは無いわけですね。そして狭くて、打ち合わせはミーティング室に行かなければならないということは、部屋を開けたらベッドのみ、ぐらいの狭さと考えてもいいでしょうか。寝室、兼ロッカー、ぐらいの。部屋を施錠すれば、部屋に荷物を置いて、こうしてミーティング室にこられるということで」
「なるほど! じゃあ、うちらどっかに鍵持っとるはずだよね!」
ユージナが言い、三人はそれぞれ自分を探った。ユージナとヴァルルシャは着ている服から、リユルはさっき取り出したカバンから、宿屋の個室の鍵が見つかった。鍵は金属製で、木製の札が付属している。
「あったあった! 番号も書いてあるね。203……アラビア数字だけど、書き文字も現代日本語に訳されてるって考えていいんだよね」
「私は201で、ユージナさんは202ですね。それぞれの個室にカバンが置いてあって、その中に財布が入っていることにしましょう。具体的な金額を明記しなければ後からどうとでも設定できるはずです」
「そうだね。それなら宿屋の主人に宿代を請求されても何とかなる……そういえば、宿屋の主人ってどんな人だろ?」
リユルが言い、ユージナが首をかしげる。
「それも設定しないかんかな? だって、うちらが設定せんでも出てきたわけだし」
「だって、怖い人だったら困るよ! さっきの声じゃ気さくそうではあったけど、猫なで声でぼったくりとかたくらむ人だったら嫌じゃん! いい人だって設定しておくのに越したことないよ!」
リユルの力説に二人はうなずいた。
「確かに。曲がったことが嫌いな人、などと設定しておいた方が安心できますね。あとは、男性であることは確かですが、どういう人物像がいいですかね」
「うーん、町から離れた場所に一軒だけで宿屋をやっとるわけだから、腕っぷしは強そうだよね。元々は魔物退治で生計を立てとったけど、年取って引退して、魔物退治に行く人用の宿屋を経営することにした、とか?」
「それいいね。だから、魔物退治で旅をしてる人に対して好意的とか……。ところで、『魔物退治で生計を立てる人』『旅をしてる人』とか、長くて言いにくいね。なんか、いい名称ないかな?」
リユルの言葉で、また決めねばならないことが見つかった。
「職業として成立しているわけですから、言いやすい名称はあった方がいいと思いますが……『魔物退治者』……ではちょっとゴロが悪いですね」
「『賞金稼ぎ』……だと、人間のお尋ね者を捕まえる感じになってまうかな。魔物を……駆逐、抹殺、だとちょっと物騒な響きだし」
「それに、魔物はどんどん生まれてくるから尽きることはないし、抹殺とか、すべて消滅させたら世界の仕組みが変わっちゃうか。ゴロのいい言葉……思いつかないなー! あいから言っといてなんだけど、この設定は後でいいかな?」
「そうですね。あと、台所の設定も決めなければいけませんし」
ヴァルルシャが机の上を見て言った。さっき、コップは台所に返してくれと、宿屋の主人に言われたからだ。
「そうだこれも返さないかんね! このミーティング室には何にもないで、なんか飲みながら話し合いがしたければ、宿泊客が台所からコップや水差しを持って来る、ってことになっとるのかな? だったら、台所にそれ用に食器がまとめられとるかもしれんね。『ミーティング室用です』とかわかりやすく書いたるかも」
「台所の大きさはどのぐらいを想定しましょう? 台所があるということは、この宿屋で食事を提供してもらえるのでしょうか? 台所、というか宿泊客の食堂でもあるのなら、ある程度の大きさが無いといけませんよね」
「そうかそういうことも考えないかんか……。部屋から出るだけでどんだけ決めんといかんの~!」
ユージナが頭を抱えた。
「でも、どうせ外に出るなら建物の大きさとか決めないといけないし、宿屋の規模はいずれ決めなきゃいけないことだもんね。この宿は宿泊だけです、食べ物は自分らでどうにかしてください、って言われてもあいたち困るし、食堂があるって設定した方がいいよ。あと少し、がんばろ!」
リユルに言われて、ユージナはうなずいた。
「そうだね。この宿って何人ぐらい泊まれるんだろ。個室は狭いってさっき設定したけど、それが何部屋作られとるんかな?」
「さっき宿屋のご主人が掃除をしにきた、ということは、従業員はいないか少ない、と考えられますね。宿屋のご主人と、例えば奥さまだけで切り盛りしてるとか」
「てことはそんなに大きくないよね。あいたちの部屋の鍵番号が201から203、二階の一号室とかそんな感じだよね。てことは、二階は泊まりの個室が並んでるってことかな?」
「ここはミーティング室で、窓から見える風景から、一階と推測できますね。一階はこの部屋や、台所や食堂、お風呂などの共用の施設。二階以降が宿泊部屋、というのが不自然でない設定でしょうか?」
「となると、三階建て……四階建てまでいくとちょっとでかすぎるか? 二階と三階が個室として、各階に何部屋ぐらいあるだろ? ベッドだけの狭い部屋だとしても……十部屋ぐらい? それだと、最大で二十人か。少人数で経営しとる宿屋なら、そのぐらいがちょうどよくない? 三十人まで行くとでかすぎるよね?」
「あいたちは三人パーティーだけど、ゲームでも旅の仲間って五人前後ってとこだよね。泊まれるのが最大で二十人なら、三つか四つのパーティが泊まれることになるよね。町から離れた宿屋なら、そのぐらいでいいんじゃないかな?」
「では、台所と、そこに食堂が隣接しているとして、そこもそのぐらいの人数が入れるぐらいの大きさ、と想定すればいいですね。それでは……」
ヴァルルシャが、机の上のコップを見た。
「この部屋を出て、台所に返却しにいきますか?」
リユルとユージナも、目を見かわす。
「他に、決めることないよね?」
「これだけ決めとけば、出て行っても困らんよね?」
三人はうなずいた。椅子から立ち上がり、リユルは自分のカバンも持つ。
お盆などは無かったので、ヴァルルシャが水差しとコップを、リユルとユージナがコップを一つずつ持ち、扉に向かって歩き出した。