第二章 06 風呂
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風呂は宿屋本館とは別棟の建物で、男湯と女湯の二つの入り口があった。ヴァルルシャに別れを告げ、リユルとユージナは女湯の扉をくぐる。
まず、玄関のような土間があった。
そこから一段高くなった場所は、温泉宿のような脱衣所だった。鍵のかかるロッカーが並んでいる。靴を脱いで上がるのだろう、土間に下駄箱らしきものがあるのが見える。
ロッカーの横にはかごがあり、綺麗にたたまれたバスタオルが重ねられていた。そこには『大タオル、一人一枚』と注意書きがしてあった。
「バスタオルだね」
「あいたちがさっき決めたとおりだね」
ユージナとリユルは目線をかわす。隣のかごには『使用済み』と注意書きがしてあり、中には何も入っていなかった。まだ風呂には誰も入っていないのだろう。
そこには今入ってきた扉のほかに、二つの扉があった。正面にある、ロッカーの先にある木製の引き戸は、隙間から湯気が漏れてきていて、浴室の扉とわかる。
土間の右側にある、まだ土足で行けるところにも、扉があった。
「こっちの扉は何だろう?」
リユルが、右にあるその扉を開ける。
脱衣所は木の床だったが、そこは水はけのよい石作りの床だった。
扉から見て部屋の右側は床の半分が広く浅くくぼんでおり、いくつかの排水口が見える。その上の壁にはいくつかの蛇口があり、石鹸らしきものがあるのも見える。
『ご自由にお使いください』と書かれた場所に大きめの木桶がいくつも置かれており、無数の線が刻まれた木の板が入っていた。
「洗濯板だ」
「洗い場だ」
二人はそう声を上げた。
部屋の様子は、そうとしか思えなかった。
出入口は脱衣所につながる扉しかなかったが、扉の左側、脱衣所の先の浴室の真横に位置するあたりは、壁の上側が開いており、風の吹き出す音がしていた。
蛇口のある方の壁は上部に窓があり、そこを風が吹き抜けていた。
風の当たる位置にはロープが張られていて、そばにはハンガーと洗濯ばさみがたくさん置いてあった。
「ここは……お風呂のお湯をあっためるための、ボイラー室ってとこかな?」
リユルが左側の壁に近づき、風に手をかざしてみる。熱かった。洗濯物がすぐ乾きそうだ。その窓は、リユルの身長でものぞき込めないぐらいの高さにあった。
ヴァルルシャが入っていった男湯の入り口は、女湯の入り口から、脱衣所の土間とこの洗い場のちょうど二倍ぐらいの距離にあった。おそらく、ボイラー室を中心にして左右対称の作りになっているのだろう。
「洗濯のこと忘れとったけど、これで下着とか洗えるね。洗濯板とか貸してくれるし、宿代、ちゃんとした値段を設定しといてよかったね」
ユージナの言葉に、リユルはうなずいた。
「水を上水タンクからこの部屋に溜めて、炎の精霊の力で加熱する装置かなんかがあって、お風呂用のお湯を作るのと同時に、その熱で洗濯物を乾かす、って感じかな? あいたちが考えなくても、よくできてるね」
世界の設定は自分たちの発想を超えてきているようだ。それは、うれしいことだった。
「中の構造はわかんないけどいいか。あいたちが知らなくても世界は回っていくんだもんね。じゃ、お風呂はいろっか! お風呂はどんな感じだろ?」
リユルが言い、ユージナも期待に満ちた顔で脱衣所に戻る。
土間の左側の下駄箱に履き物をしまい、二人はロッカーの方に向かった。
「バスタオルは……先に借りてった方がいいかな? 風呂上がりだと濡らしてまうもんね」
ユージナとリユルはかごからバスタオルを一枚取り、ロッカーを開けて、着替えと共にしまった。脱いだ服も入れ、着替えを包んできた風呂用手ぬぐいだけを持ち、ロッカーのカギをかけて、浴室へ向かった。
浴室は、水はけのよい石造りでできていて、五人ぐらいがゆったりと浸かれそうな浴槽にお湯が満ちていた。
浴槽と同じぐらいの広さが体を洗う場になっており、壁から等間隔に蛇口が並んでいた。普通の蛇口だけでなく、細かい穴の開いた、シャワーヘッドがあるのも見える。
蛇口のそばには石鹸が置かれており、木製の小さな椅子と、小型の木桶も並べられていた。
「脱衣所もそうだけど、中世ヨーロッパ風のファンタジー異世界のはずなのに、なーんか日本の温泉っぽいんだよね」
リユルは言うが、不満があるわけではなく、口元には笑みが浮かんでいる。
「作者が現代日本人なんだでしょうがないよ。でも洗濯の部屋は異世界っぽくなかった? 使い方は想像つくでいいけど。風呂も慣れとる形式なら入り方がわかるしさ」
ユージナも笑みを浮かべながら、手慣れた様子で木桶を手に取り、湯船につかる前に体に湯をかけ始めた。
二人は、いつもこうして宿屋の風呂を利用している、という様子で、風呂を堪能した。
ユージナはたたんだ手ぬぐいを頭に乗せ、リユルは洗った髪を手ぬぐいでまとめ、最後に二人は湯船に入った。
湯船で体を伸ばしながら、リユルがユージナの腕を見る。さっき葉獣にやられた場所だ。
「回復魔法で治るとはいっても、傷跡にはなっちゃうんだね」
ユージナは自分の腕を見る。そこには確かに今日の傷跡が残っていた。
「ほんとだ。自然治癒力を高める、ってことだで、怪我を無かったことにするわけじゃないんだもんね」
ユージナの全身には、よく見るとほかにも傷跡がたくさんあった。
「うちが、剣士として、魔物と戦ってきた証……。これは、その記録なんだね。今日のも、その一つとして、残っていくんだね」
ユージナは誇らしそうな顔で言った。リユルもそれを見て嬉しそうに体を伸ばす。浴槽から湯があふれ、排水口に吸い込まれていった。
「あ、そういやさ。トイレの設定の時にも言っとったけど、下水タンクって、『浄化の魔法で汚水を無害にして放出する』みたいな話になっとったよね? で、野外のトイレは、水の補給や掃除は数日に一回はしないといかんけど、下水タンクのメンテナンスは何十日かに一回でもいい、って話になったよね?」
「うんうん、それで?」
「下水を放出するって、どこにするの? 野外トイレにそんなに頻繁に水を補給しとるってことは、排水も相当な量にならん? 浄化して無害になっとるとはいえ、その水はその辺の土に流しとるの? もしかしてあの、水が湧きだしとる泉って、元はトイレの廃水……?」
二人は顔を見合わせて黙り込んだ。しばらく考えて、リユルが言う。
「いやいやいや! 精霊の力で消える、ってことにしよう! 魔物にぶつけた水の魔法が消えるように、浄化したのちに消えるんだよ! 水が容器から消えない……『残水の魔法』が上水タンクにかかってるでしょ。下水タンクにもそういう……『汚水が浄化したのちに消える、水が精霊の世界に消える』、みたいな魔法がかかってるってことにしよう! 汚水のままだと精霊は受け付けてくれないけど、浄化してきれいに戻したら受け入れてくれるってことでさ! そうやって、下水タンクから水が消えて、それは精霊の力になって、それを魔法使いがまた呼び出す、そういう風になってるんだよ!」
トイレの廃水が泉になったと考えたくないリユルは、必死に設定をひねり出した。
「そうだね。それに宿屋でこんだけ水を使っとるんだから、浄化してきれいな水に戻しても、それを宿屋の周りの地面に全部放水しとったら、いずれ周りに悪影響が出るよね。地盤沈下とか……あれは地下水の組みすぎだっけ?
とにかく、下水タンクの排水は、浄化したのちに消えてく、っての、いい設定だね」
図らずも、また一つ設定が固まった。
風呂から出たらヴァルルシャに伝えておこう、彼はこのメンバーの中で髪が一番長いから、風呂にも時間がかかるだろう、などと二人が話していた時、浴室の扉が開いた。
そこに立っていたのは、鍛えられた上腕筋、割れた腹筋、たくましいハムストリングスを持つ、いかにも物理系の戦士という雰囲気の女性だった。体つきの細部までわかったのは、彼女が風呂に入るために裸だったからだ。
自分たちが世界の設定をどうこう言っているのを聞かれた? とリユルとユージナは顔を見合わせたが、女戦士は「あ、先客がいたのか。失礼」と短く言って、体を洗いに向かった。
リユルとユージナはそろそろ風呂から上がることにした。脱衣所で着替えを済ませ、使用済みのバスタオルを指定のかごに入れる。
それから、洗い場に向かった。下着と風呂用の手ぬぐいを洗うためだ。
土間から隣の洗い場に行くと、さっきの女戦士の物だろう、洗っても血のにじみを流しきれていない服が、干してあった。
「お風呂に入る前に洗濯するのが普通なのかな?」
リユルが桶と洗濯板を手に取りながら言う。
「どうだろ……人によるとか? それに、今日、出血したばっかって感じだし、服が汚れとるで先に洗ったのかもしれんしねえ」
しかしさっきの女戦士の体に生々しい傷は見られなかった。服には血の跡が残っているが、傷は回復魔法で治したのだろう。
リユルとユージナは下着を洗い、女戦士が干しているように、ロープに自分たちの洗い物をつるす。
「『盗難注意』って書いたるね」
ユージナが、ハンガー置き場のそばの注意書きに気づく。
「盗まれそうなものは自分の部屋にでも持ってけってことかな。洗濯道具も石鹸も宿屋の使わせてもらってるし、干したものの管理まで宿屋にお願いするのは贅沢だもんね。あ、だから風呂の前に洗い物を済ませて、熱風である程度乾かして、風呂後に部屋に持ち帰る、ってする方が安心なのかも!」
「服とかはそうかもしれんね。でもうちらが洗うのって下着と風呂用の手ぬぐいだし、手ぬぐいは風呂に入る前には洗えんでしょ。ここは女湯の脱衣所からしか来れんから、下着が盗まれる心配はいらんだろうけど、風呂前に洗うんだったら、脱いだ下着を全裸で洗いに来んといかんくなるよ」
おしゃべりして笑いつつ、二人は洗濯をすませ、洗い物を干した。