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第八章 桃の香

 床に寝そべっていると、足音が近づいてくるのがよく分かった。苦痛のないまどろみの中で、綾音は自分の人生を懐古する。

 サムライになる、と自分が言い出したのは、小学生の頃だったという。姫路の海が見える街で生まれ育ち、京都のサムライ養成校に進学した。成績は中の下、座学は抜きん出ていたが、実技となるとからきしであった。多少生まれながらの素質に左右される陰陽師と異なり、サムライは、養成校に入ってからが全てだ。七年課程から五年課程に変更されて以降、その厳しさは並の高校とは比べ物にならないと言われていた。

 毎日、午前は八時半から十二時半まで座学。午後は一時半から四時半まで実技。土曜も午前は座学の補講がある。長期休みなどないに等しい。それを充実していると感じるか、息が詰まると感じるか。綾音は後者であった。

 いくら鍛えても、体は一向に動かない。二メートルの壁すらまともに越えられない。剣を振れば腕を痛め、薙刀は足に絡まって振り回すどころではない。弓は一射ごとに取り落とす。教師にはっきりと、陰陽課への転向を薦められたことも一度や二度ではなかった。

(……どうしてサムライなんかになったんだろう)

 陰陽課に行かなかったのは、陰陽課の基礎の基礎――浄化の術が全くできなかったからだ。五年間歯を食いしばり、できない実技を捨てて、術を磨いた。浄化はできずとも、マジモノは倒せる。マジモノが倒せれば、サムライでいられる。

(そんなにしがみつくほどのものなんて、なかったのに)

 温まった手で、床を掴む。思い返しても、辛いことばかりではないか。五年間苦しみ、更に一年必死でサムライでいて、その後また五年間苦しんだ。何が楽しくて、今までサムライでいたのか。

 辞めてしまえばよかったのだ。

 ドアが開いた。クチナシが仕掛けていった結界が破れ、外の音が入ってくる。館内放送で、避難が呼び掛けられている。

(――――サムライなんて)

 廊下の明かりを背負って立っているのは、女の影だ。その手の先で、銀色の刃が光っている。嗚呼、と呻いて、綾音はぎゅっと口元を笑わせた。

(失ってばかりの仕事なのに――――可哀想に)

 霊力――否、今の自分ならばこれは呪力と呼ぶべきか――を編んで、半透明の糸を作る。自分の手足のように、その糸は客人へと向かっていった。

(楽にしてあげる……わたしみたいに……サムライに、もう幻想なんていだかないように)

 慈しみすらその目に浮かべて、綾音は客人を迎え入れた。



 給湯室の隣には、ゲンブが勝手にねぐらにしている部屋がある。元々は物置らしい部屋には、壁に立てかけられた網目のラックに、色々な瓶が紐で吊るされていた。

「……今、何と言った」

 立てた膝に腕を乗せ、ゲンブは客人を振り返る。丸椅子の上で首を縮め、煌太は視線を泳がせた。

「だから、マジモノを人間に戻す方法」

「そんなものあったらとっくの昔に発表されている」

「そうだけどさ」

「身内なら依頼して助けて貰え。巻きこむんじゃない」

 ゲンブは煌太に背を向ける。

「第一、マジモノの基盤になっているのは死者だ。ほとんどの場合は。お前がマジモノに情をかけるのは知っている。だが、死者に心を砕いて生者を巻きこむなんて」

 黒いパーカーのフードを目元まで降ろし、ゲンブは細い息を吐いた。

「みっともなくて、見ていられない」

「……じゃあ、生きた人間になら?」

 煌太は椅子から立ち上がり、ゲンブを見下ろした。

「生きた人間に心を砕くのは、いいんだな」

「……それは当然。それがサムライの本分でもあるだろう」

「それになら、手を貸してくれるか」

「……何をするつもりだ」

 ゲンブは煌太を振り返り、目を細める。

「……分からない」

 だが、煌太は首を横に振った。

「は?」

「だって、桃井さんの状況が分からねえし、俺が出しゃばっていいのか分からねえし」

「……貴様」

 ゲンブの低い声に、煌太は首を縮めた。

「その情報を仕入れてくるのが先だろうが」

「だけど、桃井さんが危なのは事実なんだ。だって、でなきゃあのクチナシが青い顔で来ねえし、緊急招集なんてかからねえだろ?」

「……はあ、分かった。先走りたいんだな」

「う……まあ。その、アンダーシティ支部はマジモノに容赦ねえし、その、昨日言い合いで終わっちまったし、一回ちゃんと話したいんだ」

 ゲンブはフードに腕を突っ込み、がりがりと頭を掻いた。

「いいだろう。手を貸してやる」

「ほんとか!」

「情報は俺が仕入れてくる。お前は先に支部を出ておけ。過保護な奴らのことだ、お前とあいつの接触は避けようとするだろう」

 ゲンブはパーカーのフードを降ろし、乱れた髪を手櫛で整えた。

「最後にもう一度、意志の確認だ。何となくでも罪悪感でもなく、お前が、【クシナダ】に、会いたいと思っているんだな」

「ああ」

「結果として説教や謹慎を喰らってもか」

「……ああ」

 ゲンブは腕を組み、じっと煌太を見上げる。煌太はただ真っ直ぐにゲンブの緑眼を見返した。唇をへの字に曲げて、ゲンブは視線を逸らす。

「引き受けた。こちらからも一つ条件だ」

「?」

「手を出せ」

 煌太が右手を突き出すと、ゲンブはその手を握って手の甲を上に向けさせた。そこに自分の、白い右手を重ねる。

「今から俺が言う言葉をそのまま繰り返せ」

「お、おう」

「汝の枷を外し」「なんじのかせをはずし」

「字を以て契りを結ばん」「あざなをもってちぎりをむすばん」

「汝、蘆原を守護せし一柱」「なんじ、あしはらをしゅごせしひとはしら」

「器の名はゲンブ、縁の名は東雲」「うつわのなはげんぶ、えにしのなはしののめ」

「御霊を握りて心を与う」「みたまをにぎりてこころをあたう」

「【アラハバキ】藤虎煌太」「……【アラハバキ】、藤虎煌太」

 重なった手の間から、青白い光が洩れる。それは鋭いものではなく、ぼんやりとゲンブの指の間を照らして消えた。針で刺されたような痛みが走り、煌太は顔をしかめる。

「……なあ、今の」

「さあ行け。高杉のは目敏い」

「あ……うん」

 煌太は廊下へと押し出された。右手の甲をさすると、ほのかに温かい。

「……式神との契約の文言」

 陰陽道が専門でなくとも、知識として知っていた。自分が作成したものではない式神との契約は、サムライであれば往々にしてあり得る場面だ。燈瑞がヤマブキやウズメと契約しているように。

 つまり今、ゲンブは、自分に契約を「させた」ことになる。主がいないことを強調していて、恐らくはその主に相当な思い入れがあるであろうゲンブが。

「……ゼータク」

 緩んだ口元を引き締めて、煌太は顔を上げた。



 情報が整理されたホワイトボードを見、燈瑞は煙草を咥える。だが、火を点ける前に沙弥子が口から煙草を引き抜いた。

「禁煙」

「……すまん。これが、クチナシからの情報か」

「うん。今、彼女はホテルにいる。真夜ちゃんが先行して様子見。彼の証言によれば、神降ろしをしてマガツカミが彼女に降りた。そんなところかな」

「……そうか」

「支部長は」

 慧は腕を組んだまま、顎でクチナシを示す。

「彼に関する情報もご所望。彼もマジモノだからね。記憶の混乱があって彼自身は何一つ核心的なことは覚えていない」

 開いたドアの裏で、ゲンブは腕を組んで壁に寄りかかる。分厚いファイルを担いで戻ってきた美鶴は、手近な机を引っ張ってきてそれにファイルを乗せた。

「桃井綾音に関する情報、全部がこれだよ。私と高杉の坊やの限界だ。経歴、成績、討伐記録、資格……だがクチナシと住良木、それから五年前の京都の事件に関してはからきし」

「箝口令だっけ」

 美鶴と慧の視線が、燈瑞に向いた。

「必要なら、私の権力全部で護ってやる。言いな、藤坊」

 美鶴の手が、ファイルの上で握られる。燈瑞は煙草を箱に戻し、長い息を一つ吐いた。

「それを言う為に、ここに来たんです」

 燈瑞の背後に控えていたヤマブキが、小さな茶封筒を掲げる。

「京都支部の一部の人間、及び神器の三人に共有された情報です。桃井綾音及び住良木霖之助とクチナシのマジモノに関する情報と留意すべきこと」

「長い」

「……彼と桃井の情報です」

 燈瑞は封筒の中身をホワイトボードに張った。

「五年前の辞令です。陰陽師住良木霖之助と式神クチナシの融合したマジモノ……つまり彼は」

 燈瑞は、クチナシへと視線を向ける。

「たっての希望で、桃井綾音の預かりとする。なお、以後五年の間に住良木が意識を取り戻さない場合、もしくは五年以内にマジモノとして理性を欠いた場合、即座に協会の預かりとする」

 クチナシが顔をあげ、唇を震わせた。

「追記。マジモノには綾音を主とする暗示をかけ、自らをマジモノだと自覚しないよう、認識阻害の術を施す。以後、マジモノの行動の一切の責任は桃井綾音に」

「待て!」

 淡々と読み上げる燈瑞の言葉を、クチナシが遮った。

「じゃあ……じゃあ綾音は、僕の為に……ずっと僕の為に苦しんでたって言うのか?」

 立ちあがり、クチナシ――否、霖之助は椅子の背を掴む。じわりと掌に汗が滲んでいた。

「僕はそれを……わすれて……いいや、違う、サムライ協会はそれを知っていて、綾音を放り出したってことか! この五年、綾音はずっと、式神のことを調べていた。そうか、僕を人間に戻すために……! それに、サムライ協会は手を貸さなかったって言うのか!?」

「そうだな」

「何で、何でそんな酷いことができるんだ! 綾音は苦しんで、悩んで、焦って、その綻びがマガツカミを引き寄せたんだろう!」

「坊」

 燈瑞に詰め寄った霖之助を、じろりと美鶴が睨んだ。

「あんたがそれを言える立場かい」

 静かだが凄みのある声に、霖之助は息を飲んで口を閉じる。

「今藤坊が言っただろう。桃井綾音があんたを引き取ったのは、桃井綾音の希望だ」

「でも、それは丸投げってことじゃ……」

「サムライ協会は、五年前にお前に関する結論は出している」

 燈瑞は、肩を掴んで霖之助を座らせた。

「害なすマジモノならば処理。それ以外のマジモノならば研究対象。五年は、綾音の懇願による執行猶予だ」

 燈瑞は目を細め、青白い霖之助の顔を見下ろした。

『【クシナダ】が京都支部と密約を交わした。クチナシはマジモノで、【クシナダ】は彼のためなら人生を棄てられる。だから連中には気を付けろ』

 半月前の利佳子の警告を思い出し、燈瑞は手に力を籠めた。

 全ての事情を理解したうえで、茨の道を突き進む綾音。そして、何一つ事情を知らされずにその背を押し続けたクチナシ。それを黙認したのは、確かに協会だ。だが、本来マジモノに執行猶予など無いことは、霖之助も重々承知だろう。

「……でも」

 理屈はそうでも、感情が納得できない。霖之助はぎっと歯を鳴らした。

 ゲンブが、足音を殺して部屋を出ていく。慧は横目でそれを追い、組んでいた腕を解いた。燈瑞は眼帯の紐に指を引っ掛け、眉間に皺を寄せる。

「ねえゲンブ君、煌太君知らない?」

 ドアの縁に手をかけ、慧はゲンブの背に呼び掛けた。

「……あいつは非番だろう」

「うん。でも今手が空いてるサムライで、一番室内戦に向いてるの彼だし」

「知らん」

「非番なのは知ってるんだね」

 ゲンブが足を止めて振り返る。慧は細く息を吐いた。

「呼んでいないのに、君はどうして来たんだい」

「…………鋭い癖に、少しばかり今日は腰が重いな」

 ゲンブはパーカーの襟に手をかけた。首元まできっちりと閉めたファスナーの先端が、微かな金属音をたてる。

「まさか、煌太君もう」

「式神は主の利益を第一に考えるものだ」

 ゲンブは、一気にパーカーのファスナーを開いた。じゃっ、と音が鳴ると同時に、漆黒のパーカーが揺らめき、その形を変える。フードは消え、丈が太腿まで伸び、漂白されたように白くなり――白衣となった。半分に欠けていた猫の頭蓋骨の面も、白い光と共に完全な形へと戻る。慧は数歩退き、唇を噛んだ。

「お前が止めに行くというなら、俺がここでお前を止めよう」

 ゲンブが突き出した手には、医療用のメスが握られていた。

「……ホント、君達は好き勝手してくれるよね」

 慧は額に手を当て、首を振る。それから幾度か、ゲンブと床へ視線を遣った。ゲンブは眉一つ動かさない。

「分かった、分かったよ。……ゲンブ君、僕は君も煌太君も止めない。だけど、桃井さんはマジモノになっているということは留意して」

「言われずとも」

 ゲンブは踵を返し、廊下を走り去っていった。その背を見送ってから、慧は表情を引き締める。ぱん、と両手で頬を叩き、食いしばっていた奥歯から力を抜いた。



 アンダーシティ支部の玄関脇にあった自転車で、煌太はホテルへと向かっていた。荷台に座って、ゲンブは煌太の服を掴んでいる。

「時間がないから掻い摘んで言うぞ。桃井綾音はマジモノになっている。以上だ!」

「サイッコーにシンプルだな!」

「それよりいいのかこの自転車、他人のだろう」

「支部の社用車だって言ってたから大丈夫!」

 車通りのない道をドリフトで曲がり、煌太はギアを更に一段階重くした。ぐんと速度が上がり、直線の道を一気に駆け抜ける。

「あれか!?」

「知らん」

「あれだよな! アンダーシティってホテル少ないもんな! あれだな!」

 狭い駐車場の一角に自転車を停め、煌太は剣帯を腰に巻きながらロビーへと向かった。

「やあ」

 ロビーでは、慧が待っていた。

「……へっ?」

「速いね。僕はショートカットルート使ったのにほとんど遅れずに着くなんて」

「え、いや、何で」

「僕はここで待ってる」

 慧は、絨毯の上に停めたバイクに寄りかかった。指先にヘルメットを引っ掛け、笑って見せる。そのいつもと変わらない笑顔に、むしろ煌太は慄然とした。

「状況は真夜ちゃん達が伝えるだろう。十分だけ君にあげる。その間は、陰陽師もサムライもここで止めよう」

「……十分っすか」

「その時間が、僕の君に対する信頼だ」

 慧は、バイクに固定していた和弓を取った。既に弦は張られている。

「僕達の仕事はアンダーシティを、ダウンタウンを、その市民を護ること。だけれど、決して一個人のことを軽視していいわけじゃない。その点君は非常に優秀だ。戦場に個人の感情を持ち込んで、失敗しない。僕には真似できない」

 褒められているのか貶されているのか、分からず煌太は頬を掻いた。

「だけど、今回は少しばかり相手が特殊だ。……万が一の事態は、君に背負わせられない」

 慧は弓を握って、「さあ」と階段を示した。煌太は慧に頭を下げ、そちらへと向かう。

 煌太の背が見えなくなって間もなく、慧の無線にノイズが入った。ワイヤレスのイヤホンを耳に入れ、慧はマイクを襟に留める。

「はいはい?」

『慧!』

 聞こえてきたのは、切迫した燈瑞の声だった。さっ、と慧の顔色が変わる。

『今すぐ桃井を拘束しろ!』



 絨毯が敷かれた階段は、煌太とゲンブの足音を完全に殺していた。両の腰に吊るした刀が、妙に重い。ゲンブの背を見上げて、煌太は歯の間から息を吐いた。

「怖いか」

 ゲンブの言葉に、煌太はきゅっと唇を引き結ぶ。揺れるゲンブの後ろ姿をもう一度見て、視線を落とした。視界に入った右手は、白くなるほど強く拳を握っている。

「怖えよ」

 そう正直に言うと、ふっと足が軽くなった。

「ならば傍らにいよう」

 ゲンブの言葉は簡潔だ。励ましでも貶しでもない、確認と対処。それがむしろありがたかった。

 ホテルの三階には、宴会場が二つある。ゲンブはそこで足を止め、奥の宴会場へと視線を向けた。廊下も階段も電気が消されている中、半開きのドアから光が漏れている。

 ほんの十数メートルの廊下が、果てしなく長く感じられた。煌太は、手汗をズボンで拭いて、大きく息を吸う。ドアの前に立ち、顔を持ち上げて、ノックをした。

 返事の代わりに、ずず、ずず、と床を何かが引きずられる音がする。一度目を閉じて天井を仰ぎ、煌太は「よし」と小さく呟いた。

「……推して参る」

 自分の背を押すように言って、煌太はドアに手をかけた。

 滑りのいい蝶番は、音も立てずにドアを開ける。重いドアは、驚くほど抵抗なく開いた。ワインレッドの絨毯に、白いテーブルと椅子。純白のテーブルクロスが、蛍光灯の光を反射していた。メッキとアクリルで作られたシャンデリアが、きぃきぃと揺れている。

「……桃井さん?」

 綾音は、そのシャンデリアの下にいた。絞り出すように呼び掛けてから、煌太は息ができなくなる。

 綾音の足元から背後は、景色が白く塗りつぶされていた。よく見ればそれが、数多の糸が寄り集まったものだと分かる。だが煌太の位置からでは、壁も、床も、天井も、部屋の半分が白い何かに埋め尽くされているようにしか見えなかった。しかし、綾音の傍ら、今まさに綾音が引きずっていたものが何かは、煌太にも確認できた。

「……繭……?」

 形は楕円形。大きさは綾音の腰ほどまで。丁度蚕の繭のように、幾重にも重ねられた糸で編まれたそれは、綾音が手を挙げると、天井へと釣り上げられた。繭の表面に浮き出ている人の手形に、煌太はひゅっと息を飲む。

 釣り上げられた繭を追って視線を持ち上げれば、同じような繭が三つ、既に天井に張り付いているのが分かった。

「何か御用かしら?」

 涼やかに、綾音が問うた。眩暈に襲われ、煌太はゆっくりと視線を戻す。こちらを見ている綾音が、歪んで見えた。ふらつく視界の中で、綾音は微笑んでいる。完璧な微笑だ。

「……あんた」

 苦々しくそう切り出した煌太の背を、ゲンブが叩いた。思わず言葉を切り、煌太はゲンブを振り返る。ゲンブは素知らぬ顔で、目元を頭蓋骨の面で隠した。煌太は詰めていた息を吐き、綾音に向き直って背筋を伸ばす。

「謝りに来たんだ」

 そう切り出した煌太を、綾音はやはり完璧な微笑で見つめていた。

「お話? なら、お茶を用意しましょう」

 糸が蠢き、綾音の傍らに机が引きずられてきた。「さあ」と示された椅子に、頷いて煌太は腰掛ける。

 机の上には、白地に青の植物柄の、北欧風のカップとソーサー。注がれた紅茶は琥珀色で、三段のアフタヌーンティー・スタンドには、軽食とデザートが入れられている。

 煌太は膝の上で拳を握った。向かいでは綾音が、足を組んで紅茶のカップを口へと運んでいる。音も立てない所作はあまりに優雅で、周囲の惨状を忘れさせるほどだ。

「改めて……謝るって、何を?」

「あんたの考えを、正面から否定したことを」

 湯気の立つ紅茶の水面を睨み、煌太は切り出した。

「別にいいんですよ。マジモノに人の心を戻して苦しめるなんて、お優しいあなたは共感できないでしょう」

 ソーサーにカップが戻る。

「私が勝手に、仲間をほしがっただけ。マジモノを真っ向から否定しなければいけないのがサムライ。そのくせ、マジモノの中に人をみいだすなんて異端も異端。あなたは同情し、私は憎んだ。もとから分かりあえはしないのですよ。なのに、同じ異端と言うだけで共感しタがった」

 綾音の言葉は理性的で、ともすれば昨日の綾音の方がおかしかったのだと思い込んでしまいそうだ。サムライを矛盾に満ちていると嗤い、マジモノに罪を償わせて救うのだと言っていた彼女の方が、遥かに恐ろしく感じられた。

「……そうか」

 煌太は顔を上げ、紅の瞳と向き合った。

「あんた、マジモノが憎かったのか」

 今目の前にいるのは、綾音の剥き出しの本音だ。

 サムライは、マジモノを憎んではいけない。その憎悪はマジモノの力となる。自然災害に立ち向かうが如く、憎しみも怒りも抱かずに刃を振るわなければいけない。

 養成校で、最初から最後まで一貫して叩き込まれる心構えだ。綾音も当然、それは分かっていただろう。

「……だってマジモノは、私からあのひとをうばったの」

 それでも、割りきれないことは当然ある。

「憎んで、何が悪いの」

「……悪くねえと、思う」

 綾音は、煌太の言葉に意外そうな顔をした。

「その……前に、言われたんだ。考えてるのはお前だけじゃないって。あの時は分かってなかったけど……百人いれば百通りの考えがある。その当たり前を理解しろってことだったんだと……思うんだ」

 煌太はがりがりと頭を掻いた。言葉を探すように視線を彷徨わせて、ややずり落ちたヘッドバンドを持ち上げる。

「俺は、俺の考えは異端だって分かってたけど、その……何処かで、自分は絶対に正しいんだって思い込んでたんだと思うんだ。だから、桃井さんの考えが理解できなくて、何様だなんて……でも、そうだよなって。全員が何かしら考えてて、その時の最適解を探してるんだ」

「……真面目なんですね」

 煌太の言葉を辛抱強く聞いてから、綾音はそれだけ言って立ちあがった。

「桃井さん?」

「決めた」

 綾音は、壁の糸束に手を当てる。と――――ずずっ、と糸が蠢き、壁から煌太の足元へと這い寄った。退こうとした煌太の手を、綾音が握る。骨まで握り潰されそうな力に、煌太は顔をしかめた。

「やっぱり、私はあなたが欲しい。あなたと……外で待っている、あのサムライが」

 まるで幼子が菓子をねだるように、綾音はにっこりと笑ってそう言った。眩暈に襲われて、煌太の膝から力が抜ける。

「ねえ、タカスギアキラさん。あなたは何処をつついたら、私のお人形になってくれる?」

 煌太を捕まえたまま、綾音はドアへと視線を向けた。

「……人のトラウマは、触れないのが吉だよ」

 開け放たれたドアの向こうに立ち、慧は額に汗を滲ませていた。



 名前がついているマジモノを、斬れるかと問われたことがあった。

 あれはつまりは、人と変わらないような相手でも、マジモノならば刃を向けられるかということだったのではないか。人と同じように名前を持ち、呼び掛けに応じる相手を、マジモノだと認識して斬ることができるか。

「……あら、サムライが集まってきちゃった」

 甘かった、と、煌太は霞んだ視界で綾音を見上げた。煌太は、糸束に拘束され、芋虫のようにされて床に転がされていた。やや離れた所で、気配を殺したゲンブが、カーテンの裏側から様子を伺っている。綾音の足元には、慧が倒れていた。

「……邪魔しないで欲しいのに、彼らのためにも」

 綾音は繭を見上げ、慧の肩を掴んで立ち上がらせる。

「仕方ないわね。露払いをして」

「…………はい」

 生気のない声で、慧は呟く。

 その目は、煌太の位置からもはっきり分かるほどの真紅に染まっていた。

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