第七章 暗雲
アンダーシティの外れ、ダウンタウンにもアンダーシティにも近い小さなホテルの一室。ベッドに突っ伏している綾音を見下ろし、クチナシは溜息をついた。
「いつまで不貞腐れている。もう夜が明けるぞ」
「……好きであんな倒し方してるんじゃないわ」
「……あのサムライに言ってくれ、それは」
ホットココアをサイドテーブルに置き、クチナシは椅子に座る。シャワーで濡れた服や布を乾かす間、ホテルの鏡には布が掛けられていた。垂れ下がってきた前髪を持ち上げ、クチナシはココアを啜る。
「……主」
「何?」
「今回は、随分長く逗留するんだな」
「ええ、まあ……調べものがまだ済んで……」
綾音は起き上がり、クチナシを振り返る。そして、苦々しく顔を歪めた。
「雨で大分浪費しちゃったわ。式神を作り直さないと」
「……神降ろしか」
「ええ。ウタ童なら私も……」
クチナシが、綾音の額に手を当てた。
「……何?」
「いいや。心がひどく乱れている」
「落ち着ける訓練くらいはしているわ」
綾音はスーツケースを開き、そこから折り畳んだ布を取り出した。床に広げられたそれには、晴明桔梗の五芒星が描かれている。最も一般的な魔除けの紋であり、人の身と五行の元素――木火土金水――を結び付ける糸口ともなる印である。
人の外の存在と関わるということは、少なからず危険が伴う。まして今から綾音がしようとしているのは、神降ろし――陰陽師の最高機密の技術である。
陰陽師が唱える魔除けの真言と、神降ろしのための祝詞。種類は異なれど、人の認知の外にあるものと繋がる言葉は、意図しない存在を引き寄せる。まして式神に宿すナオビカミは、特に降りにくい神だ。術者の精神状態は、成功率に直結する。
「外に出ていて。一人で降ろすわ」
「いや、だが」
「……大体ね」
綾音は指先をクチナシの胸に突き付けた。
「誰のために逗留していると思っているの? こうして旅をしているのも、アンダーシティに来たのも、藤虎さんに接触しようとしているのも、誰のためだか知っているの?」
「……それは」
「悪いけれど出ていて。命令よ」
綾音に部屋を追い出され、クチナシは溜息をついた。狭い廊下の左右を見遣り、エレベーター前の椅子へと足を向ける。
「……誰のため、か」
綾音と出会ったのは五年前だ。そのころの記憶は朧気で、瀕死だったらしいこと、綾音が自分を引き取ると言って聞かなかったらしいこと、京都支部の陰陽師に何か術を施されたこと程度しか覚えていない。それ以前は京都で、結界の要を守護していた。クチナシは、そのころからの名だ。五年前以前に、綾音と会った記憶はない。だが、気付けば綾音は自分の主人になっていた。
自分に施された術が何なのか。何故鏡を見ないように厳命されているのか。考えないことはなかったが、違和感も不自由もなく月日は過ぎ、いつしかそれが当たり前になっていた。綾音の放浪は恐らく自分のため。安定した支部での仕事を捨てた綾音に、自分は報いなければいけないのだろうから。
だから、命令違反をする気など、露ほどもなかったのだ。
「…………え?」
エレベーター前の椅子。その横に小さなウォーターサーバーがあって、その上に、インテリアとして飾られていた鏡があったことなど、気にも留めていなかったのだ。
地下道場で、煌太は慧と手合わせをしていた。共に非番で、しかし自宅で特にやることも思いつかなかった同士だ。煌太の二つの刃を小太刀一本で易々と受け流し、慧は息を吐いた。
「いいなぁ二刀流。僕もやってみようかな?」
「いや何でそんなに余裕なんすか!」
煌太は既に息が上がっている。対する慧は、鼻歌すら歌いそうな様子だった。
「太刀筋が分かりやすいんだよね、煌太君は。速さは一級だけど。一撃はどうしたって軽いし」
「ふんぐっ……」
振り上げた右手を突かれ、煌太は木刀を取り落とす。にっと笑う慧に、詰めていた息を吐いた。煌太はどさりと床に座って足を投げ出す。
「あっつい……」
「ね。ちょっと二刀流教えてくれない?」
「はいい? 高杉さんそれ以上強くなってどうするんすか」
「格好いいものは身に付けたいじゃないか」
煌太が落とした木刀を拾い、慧は二本の木刀を構えてみせる。
「こう?」
「二天燕翔流は右手の方が長い奴っす」
「ふむふむ。……よく片手で振れるね?」
「腕で振ってるんじゃないっすよ。それじゃ流石にただの棒っきれです」
煌太は立ち上がり、壁際からもう一本、短い木刀を持ってきた。
「でも、一撃を軽くする代わりに速くしているんだろう?」
「確かにそれは売りっすけど。刀を支えるのが腕一本だから結果として軽くなってるだけで、腕をぶんぶん振り回しはしないっすよ」
「ふうん。やっぱり胴が主体なんだね」
「弓もっすか?」
「ああ、腕よりも腹と背だね」
基本の構えと型を見せながら、煌太は、汗一つかいていない慧の顔を見上げた。体力には自信があるのだが、慧のこの飄々とした様子は真似できそうもなかった。体力の配分が上手いのか、それとも長年サムライをやっているからこその底なし体力なのか、疲労困憊している慧を見たことがない。
「……で、出した方に体重をヴァっと移動して、そしたらそっちに重さがくるんでそれに合わせてこうぐわーっと」
「君教えるのクソ下手だね」
「出来てるじゃないっすか」
「そりゃ見て真似るくらいはね」
慧は構えを解き、垂れ下がった前髪を掻き上げた。
「こう見えて僕は元天才だから」
「……元っすかぁ?」
「幼いころの天才なんて、ほとんどがただの早熟だよ。そこから発展できなければ、時間が経てば平凡になるのさ。僕みたいに」
「その早熟さが天賦の才能って呼ばれる部分なんじゃないっすか」
「さあねえ」
道場の戸がノックされた。顔を出したのは、白い肌に白い着物、つややかな黒髪がよく映える女だ。
「さやちゃん。どうしたの?」
球磨田沙弥子。アンダーシティ支部の陰陽課に所属する陰陽師だ。
「暇な人を探してたんだけど……慧、サムライの子が探してたわよ。そっちはー……」
「煌太っす」
「煌太君……ああ噂のルーキーね。これから暇かしら?」
「まあ……」
「お腹は空いてる?」
「ペコペコっす」
「アレルギーはある?」
「ないっすけど」
「甘いものは好き?」
「……そんなには」
「クレープいくつ食べられる?」
真面目な話かと身構えていた煌太は、最後の質問に苦笑いを返した。
小さな紙コップが、指先から滑り落ちる。クチナシは、カップを落とした手をそのまま、鏡へと伸ばした。チリ、と左頬の封印が痛む。だがそれ以上に、跳ねた心臓が痛かった。
心臓がある左胸に手を当てて、嗚呼、と呻く。
「綾音……だから、お前は……」
鏡を乱暴に戻す。落とした紙コップも、濡れた床もそのままに踵を返した。エレベーター前から泊まっている部屋までは、速足なら十秒とかからない。
ドアノブに手をかけ、押し開けようとした。だが、がちん、と金属音がして、ドアノブが止まる。オートロックか。クチナシは舌打ちをもらした。
壁に背を預け、腕を組んで口を引き結ぶ。左頬の痛みは激しくなっていた。やすりで皮膚をこすられたような痛みだ。表面は燃えるように熱く、心臓の拍動に合わせて鈍痛が頭を貫いていく。指先が腕を叩き、足も落ち着きなく床を突いた。
神降ろしは、時間のかかる儀式だ。どれほど短くとも、あと三十分はかかるだろう。クチナシは奥歯を鳴らし、目を閉じる。
やがて、ドアノブが回った。クチナシは顔を上げ、壁から身をはがす。
「リンはどこ?」
半開きのドアの向こうから、綾音が言った。
「煌太さんはどこ?」
ただ疑問に思ったから聞いている。そんな口調だった。クチナシはきゅっと唇を引き結ぶ。
「……あのサムライはいない。綾音、」
「どうしてあなたなの?」
「……綾音」
「どうして残ったのがあなたなの」
クチナシは一歩退き、壁に背を当てた。ドアがゆっくりと開き、綾音が廊下に一歩を踏み出す。
「私はあなたが許せない。リンをそうしたマジモノが許せない。……いいえ、ダメ、サムライは憎んではいけない。でもマジモノなんて存在そのものが罪なのに」
綾音の細腕が、クチナシの胸ぐらをつかんだ。ぞわっ、とクチナシの背中が粟立つ。綾音が俯き、ばさりと長い髪が垂れ下がった。
「憎い。人殺しのくせに同情されるなんてありえない。人の心を失って、苦痛も恐怖も忘れているのに殺したって意味がない。……いいえ。人の心は脆いから。苦痛は結果。違うわ、痛めつけたいのが本音」
ぶつぶつと、綾音の口から言葉の羅列が零れ落ちていく。
「……つかれ、」
「だから、あなたが悪いから、逃げて」
綾音が顔を持ち上げた。クチナシの胸ぐらをつかんだ手が、固く握りしめられたままで震えている。
「いや……嫌よ、マジモノになんか」
クチナシが、綾音の肩を掴んで引き剥がす。
「桃井綾音」
はっきりと、クチナシは綾音の名を呼んだ。
「お前はサムライだ。六年前に養成校を卒業。その年の単騎マジモノ討伐数は新人として異例の二十体。京都支部の陰陽師と付き合いがあり、サムライでありながら術に秀でる。将来を期待されていて、未来に希望がある」
何かを言おうと開いた口に、クチナシの指が突っ込まれた。
「だから頑張れ。必ず戻るから」
ふっと、クチナシの目尻が下がる。綾音の目が丸くなった。
「僕は君を信じてる」
綾音の力が緩んだ。クチナシはその隙を逃さず、綾音を部屋へ押し戻す。
「十五分!」
それだけ叫び、ドアを閉めた。指先で五芒星を空に刻み、ドアに叩き付ける。ばちん、と音がし、ドアに見えない鍵がかけられた。それを確認する暇もなく、クチナシは階段へと走り出す。
床に転がり、綾音は遠ざかる足音を聞いていた。床に広げていた布は、焼き払われたかのように焦げた切れ端になっている。白い椀や高坏は粉々に砕け、零れた水が床を濡らしていた。
「……かぁーごめ、かぁごーめー」
綾音は震える声で、言霊を紡ぐ。床に転がっていた缶が、かたりとひとりでに開いた。紙の童達が、その中から這い出てくる。
「かぁごのなぁかのとーりぃはー……」
『いーつぅいーつぅでぇやぁるー』
綾音の後を、童達が引き継いだ。綾音は抱えた膝に顔をうずめる。マジモノですら、一時人の心を取り戻させる術だ。術者である綾音が多少不調であろうと、童達は容赦なく、綾音の心に忍び込んだ。
「……分かっちゃいけない」
自分に言い聞かせるように、童の輪の中で綾音は呟く。
神降ろしに失敗した。そう認識した次の瞬間には、自分は自分でなくなっていた。自分の名前は分かる。経歴も、記憶もつぶさに述べることができる。だが、今ここにいる自分は『桃井綾音』ではない、と、過去の自分達が否定した。
理解してしまえば、気が狂う。
神降ろしに失敗した自分に何が起きたのか。どうしてクチナシを許せないと思ったのか。その先は考えてはいけない。自分の状況を理解するということは、その不都合極まりない事実を受け入れるということだ。待っていれば必ずクチナシは戻ってくる。優秀な陰陽師達を連れて、自分を助けに来る。
(――――もし、連れてきたのがサムライだったら?)
そう囁いたのは、弱気な心か、憑いた何某か。
「……いや」
かすれた悲鳴が、均衡を破った。
あまりに急いでいて、ガラス戸を開けることを忘れていた。ロビーに入り、クチナシは額を押さえてふらふらと受付に近付く。
「待ちなさい!」
真夜が突き出した薙刀が、クチナシの行く手を遮る。その顔にははっきりと、苛立ちが浮かんでいた。しかし真夜は顎を引き、クチナシをさらに一歩退かせる。
「あなた、あのフリーの人の?」
「あ、うん、その……」
「……高杉さんに連絡を。あの人が担当になってたはず」
真夜が受付嬢に言い、通りすがりの沙弥子がそれを承った。地下に降りていく沙弥子を視界の端で見送って、真夜は薙刀を下ろす。
「……鏡」
「え?」
「鏡、見せてくれ」
俯き加減で、クチナシは右目を手で覆った。真夜が手鏡を差し出し、クチナシはそれを覗き込む。
澄んだ緑の目。紅の目を持つマジモノの対極、ナオビカミの目だ。だがクチナシの右目は、人と同じ、黒色をしていた。
「……つっ……」
左頬の印が、また痛む。手鏡を真夜に返し、クチナシはふらりと一歩退いた。閉じた目の裏に、覚えのない光景がちらついて、吐き気がする。
倒れかけたクチナシの腕を、慧が掴んだ。
「……あんた、は」
「大分参っているようだね」
慧は、何の気負いも疑問もなく、その名を呼んだ。
「住良木霖之助君」
ばちん、と。平手で顔を叩かれたような衝撃があった。
「……へっ?」
自分の腕を掴んで、自分の目を見て、自分の名を呼んだ。目の前にいる男が行ったのは、至極単純な行為だ。
膝から力が抜けて、冷たい床にへたり込む。肺に吸い込んだ息が、そのまま詰まって出口を探した。水もないのに溺れそうになって、吐き出した息は、声にもならなかった。
「……僕は」
目を見ないようにと命令されていた。恩人である綾音に、逆らえなかった。術で認識を阻害されていた。理由はいくらでも挙げられるだろう。だがそんなものは、言い訳にしかならなかった。
「うん。その反応だと、本当みたいだ」
慧の声は、容赦なく告げた。
「君は、式神と人間の混じ者なんだね」
砂が零れるように、左の頬の印が崩れ落ちた。
中会議室に入り、慧は軽く息を整えた。キャスター付きの椅子に座らせられたクチナシが、真夜に押されてホワイトボードの前に据えられる。引っ張られてきた煌太が、机を片付けてスペースを空けた。数人の陰陽師と、待機していたサムライがどやどやと入ってくる。
「真夜ちゃん、何人かさやちゃんに見繕ってもらったから先行して人払いして。ホテルシェラーゼの大依駅前」
「はい」
「煌太君、鶴さん連れてきて」
「はい!」
陰陽師の男達を連れて、真夜が会議室を出ていく。慧は肩と顔で携帯電話を挟み、手元の茶封筒から資料を取り出した。陰陽師達と入れ替わりに、美鶴が入ってくる。
「坊」
「今陰陽師が先行しました」
慧は、数枚めくった資料を美鶴に突き出した。それを受け取り、美鶴は顔をしかめる。
「現状は?」
「彼が」
美鶴と慧、そしてサムライ達の視線がクチナシに向いた。クチナシは俯いたまま、口を引き結んでいる。
「ちょっと電話を。陣頭指揮は僕が執ります。……ああ、燈瑞! 僕だけど」
慧が後ろ手でドアを閉め、美鶴は長い息を吐いた。
「坊、黙ってないで現状を教えてくれるかい」
「……綾音が、憑かれた」
「理由は?」
「……その、」
美鶴は舌打ちして、クチナシの胸ぐらを掴み上げる。
「愚図は嫌いだよ。あんたらの事情なんか知らないからね。原因と現状と望む対応を言いな」
「……ホテルで、神降ろしに失敗して……多分、綾音に、マガツカミが憑いて……ます」
「……全く、予想を悪い方向に裏切ってくれる」
美鶴が手を離し、クチナシは椅子に崩れ落ちた。
「マジモノ発生だ。こいつは隔離。特殊だが頭が痛い案件じゃない。いつも通り処理しな」
「はい」
「まっ……違う! 綾音はマジモノじゃない!」
背を向けた美鶴に、クチナシは叫んだ。美鶴がぴたりと足を止める。
「ヒトとカミが一つの器に入っちまったら、そいつはもうマジモノだよ。あんたもそうだ」
「……でも」
「いたずらに殺しやしないさ。人に害をなすなら討伐する。まだ助かりそうなら人に戻す。それが仕事だ。……もし殺してほしくないってんなら、桃井を信じて祈っているんだね」
「……誰に祈れって言うんだ」
組んだ手に額を当て、体を折ってクチナシは呻く。ドアが閉まる音がして、足音が遠ざかっていった。
「燈瑞が今からくる。現場が現場だから、小回りの利くサムライが……」
戻ってきた慧は、会議室をぐるりと見回して首を捻った。
「煌太君は?」