第六章 潔癖
嵐はますます強くなってきていた。煌太は腰のポーチからゴーグルを取る。バイクに乗るときのためにと燈瑞から借りているものだ。ゴーグルのレンズ部分に、雨が容赦なく叩き付けられる。
道の先に、マジモノらしき影が見えた。だがその姿に、煌太の顔から血の気が引く。
それは、地面に顔を押し付けて這いつくばる、人の形をしていた。否、服は身に着けていない。髪もない。あえて言うならば肉塊がその形をしているというだけだ。腕は体に張り付いて一体化しているし、足も左右が一つになっている。だが、頭も腕も、丸まった背に浮く背骨も、それが人だと主張していた。
「……あれ、」
「さあ救いましょう」
たじろいだ煌太を追い越し、綾音は腰のポーチから小さな箱を取り出す。
「――――とぉりゃんせ、とぉりゃんせ」
クチナシが、歌を口ずさみ始める。綾音がその手に、白い布を握らせた。細長い布を持ち、クチナシはマジモノへ駆け寄っていく。
「行きはよいよい、帰りは――――こわい」
マジモノの行く手を塞ぐように、布が地面を走った。狭い道の左右へと布が伸び、道が塞がれる。同時に、布の上端を青白い閃光がほとばしった。
マジモノが、頭――だったであろう場所を持ち上げた。粘度の高い液体が、顔と地面の間で糸を引く。煌太の脳裏に、幼い頃に見たアニメ映画のワンシーンが浮かんだ。
「【アラハバキ】さん」
「はえっ!?」
「……あのままでは私の術も通りません。機動力を削ぎます」
「あ……はい」
煌太は、呆れたような顔の綾音から顔を逸らした。手のグローブを填め直すと、雨で滑り止めがギュッと鳴る。手首のベルトをしっかりと締めて、手に伝わる刀の感触を確かめた。
「……俺が、何をしたいか」
燈瑞の言葉をもう一度、舌に乗せる。そして、覚悟を決めて唇を引き結んだ。
自分が何をしたいか。そんなものは、とうに決まっている。そのためにサムライになった。ならば。
「……推して参る!」
いつか、父親が言っていた言葉で、煌太は自らの背を押した。
「馬鹿を言うんじゃないよ藤坊」
美鶴が、支部長のデスクに書類を叩きつけた。
「マジモノに同情だって? そんな、学生でも言わない馬鹿を、飛び級のあいつが言う訳がないだろう。そんなんじゃ精神鑑定に引っかかるに決まってる」
「……異端だと自覚している異端者は、それを隠せるんじゃないですか」
緑茶を啜り、燈瑞は視線を逸らす。美鶴は指先で苛々とデスクを叩いた。
「あんたの言葉が嘘だとは思わないさ。だが、そんなんでサムライとしてやっていけると本当に思ってんのかね、あの坊やは……!」
「……それと鶴さん。あのフリーのサムライのことですが」
「ああ、【クシナダ】だったね。よく働いているよ。あの式神の姿には引っかかるがね」
美鶴は詰み上がった書類の上から、一枚の紙を燈瑞へ差し出した。
「高杉の坊やが色んなツテをフルに使ってくれてね。そこそこの情報量だと思うが、どうだい?」
「……あの式神、クチナシについては?」
燈瑞の言葉を、ノックが遮る。
「どうぞ」
「失礼します。支部長……と、あなたもいたのか」
入ってきた慧は、茶封筒を美鶴に差し出した。それを受け取り、美鶴は慧にも座るように言う。
「丁度いい。課長補佐とフリーの二人だ、実力もあるし動きやすいだろう。あんたらに仕事だよ」
「……嫌な予感がするんですが」
燈瑞が顔を歪め、美鶴は口の片端を上げた。
「あんたの疑問の答えだ、藤坊。五年前の京都の一件。その時の被害で、行方不明の陰陽師が一人、式神が一人。その式神の名はクチナシと言う」
「……ああ、うん」
「何だい知ってたみたいな顔をして」
燈瑞は口をつぐんで茶を啜った。
「……ま、いい。それで、その時に行方不明になった陰陽師、住良木と言うらしいんだが……そいつと【クシナダ】は浅からぬ仲だったらしい。クチナシと【クシナダ】の繋がりは、ここかい?」
美鶴が慧に視線を向け、慧は頷いた。
「ご苦労様さん。まあ先に【クシナダ】の話をしよう。あのお嬢ちゃんは、神戸支部のサムライだった。だがどういうわけか、五年前に京都で『行方不明』と処理された式神を連れて、突然フリーになっている。……私のツテじゃ何も情報は出なかった。高杉、あんたの網には引っかかったかい?」
「何も。現段階では。……不自然なくらいに、誰も彼も、知らないと言いました」
慧が肩を竦める。美鶴の視線が燈瑞に向いた。
「……あんたは嘘が下手だねえ、藤坊」
「……箝口令が敷かれています。それ以上は言えません」
燈瑞が言い、美鶴は納得したように頷いた。
「知られちゃいけない何か。……クチナシと【クシナダ】には何かがある。それは、箝口令が敷かれるほどの事態で……【クシナダ】は、親友、あるいは恋人だった住良木を、マジモノが関わった一件で失っている……と」
美鶴は視線を鋭くして燈瑞を見遣った。燈瑞は溜息を吐いて茶碗を置く。
「どうせ俺と高杉に監視をしろと言うのでしょう」
「まあそりゃあね。組合を脱退せざるを得なかったサムライに、疑念を抱くのはしょうがないだろう。組合の後ろ盾を失うってことは、それを引き替えにしても得たいものがあるってことだ。それに口出しする資格は、私達にはないよ。だがね」
封筒を置き、美鶴は立ちあがる。そして、半開きのブラインド越しに外を見遣った。折からの雨は激しさを増し、ガラス戸を水滴が滑り落ちている。灰色の空を見上げれば、何処かの店のチラシが舞っていた。
「ここはアンダーシティ支部の領域だよ。この街の、ひいてはダウンタウンの安全に、私は責任がある。よそ様を警戒するのは仕様のないことだろう」
「……承知しました。恐らく、彼女は俺に接触しようとするでしょう。……ただ、俺は彼女に渡せる情報はありません。それが、彼女の事情を知っている俺の意見です」
「そうかい。……やれやれ、清廉潔白が目標だと言っても、サムライ協会も人の組織だ。事情も同情も温情もある。……腐ってなければいいんだが」
美鶴がテーブルの横に立ち、燈瑞と慧も立ち上がった。美鶴は腕を背中へ回し、二人を見上げる。
「では改めて。サムライ協会アンダーシティ支部支部長、桂樹からの協力要請だ。サムライ課課長補佐高杉慧。非組合員藤虎燈瑞。仕事は非組合員桃井綾音及びその式神クチナシの監視、観察、有事の際の対処……しっかり頼むよ」
支部長室を出て、慧はすぐに携帯を取り出す。画面にずらりと並んでいる通知に、燈瑞は微苦笑を漏らした。
「また情報網を広げたのか」
「知識は役に立つ。あなたの言葉でしょう。情報だって知識だ」
「便利で助かるが、泥沼には入るなよ」
「ご忠告どうも」
慧は足早に事務所へと入っていった。燈瑞は一階のロビーへと階段を降りる。その途中、誰かの荒々しい声が聞こえてきた。切羽詰まっている依頼者が怒鳴ることは別段珍しくもないが、その声の主に、燈瑞は心当たりがあった。
「煌太?」
「あっ……どうも」
ロビーに入ると同時に、燈瑞は声の主を呼ぶ。煌太は大きく開いていた口を閉じ、燈瑞を振り返った。
煌太は全身ずぶ濡れで、何やら厳しい表情をしていた。燈瑞に声をかけられてその表情は緩んだが、右手は綾音の胸ぐらを掴んでいる。
「……喧嘩ならよそでやった方がいいぞ」
「……すみません」
煌太は視線を落とし、その奥で、綾音は唇を曲げたままで俯いていた。
十数分前。
「っ……うっ……」
マジモノの体を地面に縫い付け、煌太は呻いた。表面の皮膚が削げたマジモノからは、人の肋骨が覗いていた。皮一枚で繋がっている両腕が、地面を這いずっている。爪が削れた指先が、地面をかりかりと引っ掻いていた。
「かぁーごめかぁごーめー」
綾音が歌い、綾音が持つ箱から、紙の童たちが飛び出した。童達が輪を作り、煌太もろとも取り囲む。半透明の童が手に手を取って、小さい口で歌いだした。
「これ、はっ!?」
童達が歌い始めた途端、ずん、と背中に石地蔵を乗せたかのように煌太は膝をついた。手が勝手に刀を離し、冷たい地面に肘がつく。不味い、と傍らのマジモノを見やるが、マジモノも同様に、地面に押し付けられてみしみしと骨を鳴らしていた。
「……かぁごのなぁかのとぉりぃはー……」
綾音の声が、いやに鮮明に聞こえる。同時に、心の奥底に腕を突っ込まれ、引っ掻き回されるような吐き気がした。
「あ……れ……?」
雨ではないものが頬を濡らして、煌太は困惑する。背中が軽くなり、膝をついたまま体を起こした。囲んでいる童達の顔に、ぶわっ、と心の奥から湧き上がるものがある。幼い頃の友人に会ったときのような、通っていた小学校のグラウンドに入った時のような。夕暮れ時の校舎の風景、部活帰りに寄ったコンビニ、教室の中での他愛のないお喋り。それから――
「【アラハバキ】!」
ぴしゃり、と、クチナシの声が耳朶を打った。瞬間、へたり込んでいた煌太は襟首を掴まれて持ち上げられる。クチナシは片腕で軽々と煌太を担ぎ上げると、童達の頭上を越えて、その輪の外へと飛び出した。
「つっ……ぅああああああっ!」
輪から引きずり出される一瞬、煌太はクチナシの肩ごしに、その輪の中へと手を伸ばした。掴もうとしたのは、置き去りにした得物ではない。一緒に遊ぼうと手招きしている、幼い少年の手だ。
だが、地面に下ろされた瞬間、その幻覚は掻き消えた。沸き起こった衝動も、見えていた懐かしい風景も、瞬きのうちに過去のものとなる。呆けた煌太の頬を、クチナシが手の甲で叩いた。
「戻ってこい」
「……はっ」
煌太はクチナシを見上げる。クチナシは唇をへの字に曲げていた。呆れているのだろうか。
「……じき片付く」
煌太が立ち上がるのを待って、クチナシは綾音へと駆け寄った。
童達の輪が止まり、小さな口が一斉に開いた。
「うしろのしょーめん、だーぁれー」
輪の中のマジモノは、縮こまって震えていた。抉れた肉が蠢いて唇を形作り、きゅー、きゅーと言葉にならない音を漏らす。
「残念」
綾音が言って、童達が笑う。無邪気な笑いとともに、マジモノはゆらゆらと揺れながら、その形を失っていった。露わになった依代を無造作に掴み、綾音は口元を笑わせる。
ずっ、と依代が引き抜かれ、マジモノは完全に動きを止めた。腐肉と人間の骨格、いくらかの泥が、その場にわだかまる。綾音が箱を開くと、童達は紙に戻ってその中へと入っていった。
「……ご協力、ありがとうございました煌太さん。無事終わりました」
「……あの」
煌太は眉宇をひそめて綾音に近付いた。
「今のは、術ですか」
「ええ。私は、力は強くありませんし、かといって陰陽師の方のように、浄化の術が使えるわけでもなし……自然、この形になったのです」
「……そうですか」
煌太は刀を拾い、汚れをぬぐって鞘に納める。
「……何か?」
「言いたいことはいろいろと。でも……先に組合に行きましょう。風邪をひきそうだ」
煌太の言葉に、綾音は首を捻った。
先立って歩きながら、煌太は胸元を掴む。未だ、心臓が痛いほどに脈打っていた。
童の輪の中で、マジモノは自壊した。その瞬間に抱いた自分の感情が、どうにも理解できない。心臓が締め上げられるような感覚と、否応なしに涙が湧き上がる情動。あとほんの僅か冷静さがなければ、あの輪の中に飛び込んでいただろう。そのことを望んだ自分がいて、しかし同時に、それを拒絶する自分もいる。混乱している心内をどうにか落ちつけたくて、煌太は足を速めた。
アンダーシティ支部のロビーに入り、煌太はタオルをもらって綾音とクチナシの頭にかぶせた。綾音はタオルを乗せたまま受付に向かい、クチナシは大人しく煌太に頭を拭かれる。だが、目元を隠す布に触れようとすると、煌太の手を払って背を向けた。
「……ちっ」
「ガキじゃあるまいし」
「うわぷ」
頭だけを拭き、クチナシは煌太の顔にタオルを投げつけた。
「それで、煌太さん」
依代の提出を終え、綾音はクチナシと煌太のもとへ戻ってくる。濡れた長髪をタオルにくるみ、綾音は首をかしげた。
「先ほどから、何を怒っていらっしゃるのですか?」
綾音の言葉に、煌太の頬が引きつる。
「……怒ってるように見えますかね」
自分の頬を引っ張って、煌太は苦笑した。
「ええ、とっても」
「……うまく言えるか分からないんすけど、いいですか」
「ええ」
綾音も笑顔を引っ込め、クチナシは綾音の背後へと下がる。
「あの術は、何なんですか」
とげとげしく、煌太が言った。
「……確かに、こっちは傷付かないし……有効なのかもしれませんけど。自壊するほど圧をかけるなんて、俺はちょっと……そりゃあ、斬ったり撃ったりするサムライが言えたことじゃないですけど」
「残酷だと?」
「ええ」
綾音は唇を曲げた。
「あなたがそれを言うんですか? ……マジモノが人のなれの果てだと、あなたも言っていたでしょう。私もそう思います。マジモノと人の根底は同じ。マジモノを形作る呪念も須らく人の心です」
「………………」
「だから、救わないと。無垢だったころのように、戯れて、その中で逝けば、きっと苦しくないでしょう」
にっこりと笑った綾音の顔に、煌太は総毛だった。
「あんた……人として、マジモノを殺してるのか」
「? ええ、もちろん。マジモノと人に、境界などありません。人だって人を憎み、傷つけ、見捨てるのです。でしたら、災害として罪がないように処理するなんて。……悔いて、生にしがみつこうとする『ヒト』に戻ってこそ、死は贖罪としての意味を持つ。そうしてあがなってこそ、その魂は赦されると思いませんか?」
「……違う」
震える声で、煌太は言った。
「……そんなの間違ってる」
「あら? あなただって、マジモノの中に人を見るでしょう?」
「違う! あんたと一緒にするな!」
震えを取り払おうと、煌太は声を荒げて吐き出した。
「俺が急くのは、もう人に戻れないならせめてってだけだ! ただ……ただ、なけなしの情っていうか……あんたのとは違う!」
「……そうでしょうか」
「だって、あんたの考え方は人殺しと同じじゃねえか!」
煌太が怒鳴り、綾音は目を丸くした。騒ぎを聞きつけ、奥から威斯が顔を出す。
「……ふふ、あははっ」
綾音は口元に手を当て、朗らかとすら言えそうな笑みをこぼした。
「そんなことを言ったら、人殺しじゃないサムライが、どこにいるのです? あはは、可笑しい。人の世を護ると言い、潔白を謳いながら、血にまみれて人を殺す。そんな矛盾こそがサムライでしょう」
煌太の紙一重の理性が、綾音の言葉であっけなく吹き飛んだ。
「ふっっ……ざけんな!」
煌太は綾音の胸ぐらを掴んだ。クチナシがその手首を掴むが、煌太は意に介さず綾音を引き寄せる。
「あんたはっ……」
言葉が詰まり、煌太はただ綾音を睨みつける。怒りに後押しされての行動に、「まずい」と威斯が煌太に駆け寄った。だが、煌太が握った拳は、床を向いたままで震えている。
「あんたは一体何様なんだよ!」
ようやく、それだけ言葉が出た。言いたいことはたくさんあるはずなのに、まるで言葉が出てこない。喉の奥で、言葉が渋滞を起こしているようだ。言葉のかわりに涙が出そうになって、情けなくなる。
「煌太?」
降ってきた声に、煌太は振り返った。そこに燈瑞がいることに気づいて、煌太の頭から血が引いていく。
「あっ……どうも」
「……喧嘩ならよそでやった方がいいぞ」
「……すみません」
どうやら聞かれてはいないらしい。煌太は安堵の息を吐いて、綾音を放した。
綾音は乱れた襟を整えると、足早に支部を出た。呼び止める威斯の声も聞こえたが、それを無視して走り出す。クチナシは黙って従っていた。
「……クチナシ」
綾音が足を止め、クチナシを振り返る。その目にはいっぱいに涙が溜まっていた。
「なかなか理解してもらえないものね。残念……ああ、せっかく【ムラクモ】さんに近付けたのに。あなたのためにアンダーシティまで来たのに、どうしてこううまく行かないのかしら」
「………………」
「……もう時間がないのよね」
綾音はクチナシの顔を引き寄せ、目元の布をめくり上げる。
「急がないと」
綾音は涙をぬぐい、口元を引き締めた。
アンダーシティ支部の二階には、サムライが休憩するための仮眠室がある。隣の更衣室には人数分のロッカーがあり、仕事で汚れたサムライは、シャワーを浴びてから一休みすることが常であった。
「……どしたの、彼」
その仮眠室の入り口で、慧は怪訝そうに燈瑞に尋ねる。その視線の先には、煌太がいた。座布団を枕に寝転がる者や、座ってバッグの中身を確認する者がいる中、煌太はじっと正座していた。十畳ほどの部屋の隅で、壁を向いて正座をしていれば否応なしに目立つ。
「さあ。トラブルらしいがそれくらいは自分で解決するのが大人だろう」
「……あれ解決している最中なのかな」
「自分の機嫌を取っているのかもしれないな」
煌太のそばには、気まずそうな顔の威斯もいる。威斯は燈瑞と慧を見つけると、座ったままでぺこりと頭を下げた。
「威斯君に任せる?」
「賢明かもしれないな。俺達よりは話しやすいし多少事情を知っているようだ」
「そうだね。あとゲンブ君にも話しておこう。彼のこと気にしてるみたいだから」
慧が踵を返し、燈瑞も廊下へ出て戸を閉める。ほとんど同時に、向かいの小会議室からゲンブが現れた。
「ああ、丁度よかった。ゲンブ君」
「……なんだ」
「煌太君が落ち込んでる」
「だから何だ」
「ううん、それだけ」
ゲンブは「そうか」とだけ言い、口に手を当てて踵を返す。給湯室へと向かったその背を見送り、慧は微苦笑を漏らした。
「あいつがサムライを気に掛ける日がくるとはな」
「彼の事情を知らないからこそ、かもしれないね。煌太君は現状、唯一この支部でゲンブ君のことを知らないわけだから」
「おい聞こえているからな」
給湯室からゲンブが顔を出した。
「勝手な憶測で俺を量るな。別にあいつのためじゃない」
ゲンブが引っ込み、燈瑞と慧は顔を見合わせる。
「……何て言うんだっけ、ああいうの……」
「昔と、あとは拗ねているときのヤマブキに似ている」
「あ、ツンデレ?」
「……つんでれ?」
そう、と笑った慧の頭に、水を含んだスポンジが飛んできた。
壁を向いている煌太の背中に、哀愁が漂い始めていた。唇を曲げ、ゲンブは煌太の頭の上に盆を置いた。
「甘いものは好きか」
「好きじゃねえ」
煌太が振り返り、ゲンブは盆を持ち上げる。盆の上には、緑茶と鯛焼きが二匹乗っていた。
「そうか。だが食え」
「もがっ」
半開きの煌太の口に、ゲンブは鯛焼きをねじ込む。威斯が困った顔でそれを見上げていた。
「何があったか知らんが、精神の疲労には休息と甘味がいい。美味い肉でもいいが胃が受け付けないだろう。俺のとっておきだ、ありがたく食え」
「お前は俺の母ちゃんかよ!」
口から鯛焼きを引き抜いて、煌太が吠える。
「形状としては男なので父親を所望する」
「そういう問題じゃねえよ……人が悩んで黙りこくってたら黙っててくれよ」
「何だまぁたうじうじ悩んでいるのか。面倒くさい奴だな」
「あーあーはいはい。人間にはいろいろあるんですー」
「式神には何もないとでも思うのか」
ゲンブの声のトーンが下がり、休憩室に緊張が走る。
「……ねえとは言わねえけどさ。悪かったよ八つ当たりして」
「すぐ非を認めるのは美徳だな。俺にはない」
湯呑を煌太の前に置き、ゲンブは盆を肩に乗せた。
「世話くらい焼かせろ。これでも医療系の式神だ」
「……はいはい、ありがとよ」
改めて鯛焼きを齧り、煌太はゲンブを見上げた。
「ん? 医療系?」
「ああ」
「……医療系で、今主人がいない?」
「ああ」
「…………ダウンタウン襲撃のっ!?」
煌太がゲンブの顔を指差し、ゲンブはわずかに眉宇をひそめた。唇の間から細く息を吐き、目を細めて唇を引き結ぶ。一度長い瞬きをし、それからゆっくりと、口の端を持ち上げた。
「何だ、今更」
「……お前……何でそんな自由なんだよ」
「式神は法律上、責任を負うことはできない。俺の行動の責任は主にあり、主はマジモノとなったことで責任能力を失った」
「でもそりゃ法律、建前だろ?」
「ああ、ああうるさい。この議論は半年前からし飽きた。サムライにはサムライの思惑があって、俺には俺の理由がある。それで納得しておけ」
二つ目の鯛焼きが乗った皿を置き、ゲンブは休憩室から出ていく。
「おい二個もいらねえよ」
「やる」
「いらねえってば!」
「やる。高かったんだから捨てるなよ」
ゲンブはぴしゃりと後ろ手で戸を閉めた。その音に肩をすくめ、煌太は二匹目の鯛焼きを見下ろす。柔らかそうな鯛焼きの腹からは、中身の餡が透けて見えた。
「篠原さん、食べます?」
「いらね。もらっとけもらっとけ。珍しいモン見て腹いっぱいだ」
「……珍しいモン?」
「ゲンブ、だっけ? あいつがあんなに話すの初めて見た」
「……はあ」
一匹目のしっぽをくわえて、煌太は湯呑を取った。それからしばししっぽを上下させ、息を吐いて立ち上がる。鯛焼きが乗った皿を持って休憩室を横切ると、口の中に詰まっていた鯛焼きを飲み込んで戸を開いた。
「ゲンブー、やっぱ俺いらねえよ、好きなんだろ? 食え。……いいからさ。高えんだろ? ほら。そんでさ、今度またクレープ食おうぜ。おごるから」
とげとげしいが拒否はしていないゲンブの声が聞こえ、威斯は息を吐いた。