第二章 東雲
最年少で神器の名を継いだ秀才。若くしてフリーへと転身した腕利き。牛頭の式神を従え、大型マジモノすらも一人で討伐しうる、サムライ協会の切り札的存在。幼少期にマジモノに右目を奪われながら、復讐に飲まれることなく正道を貫いた現代の武士。
様々な冠が乗せられるサムライは、しかし、煌太の目には極めて普通の男に見えた。やはり右目の眼帯は目を引くが、その程度である。筋骨隆々とした上半身も、顔や手に見える傷跡も、サムライでは別段珍しくもない。
「【アラハバキ】……蝦夷の神だったか」
「えっ、あ、はい。一応……」
「……式神に案内させる。先に事務所に行っていろ」
燈瑞が自分の後方を指差す。煌太がそちらを覗くと、燈瑞の腰ほどの高さから、白いものがひょっこりと現れた。純白の童の狩衣、小さな手足、そして顔を隠すほど大きな牛の頭蓋骨。煌太は目を瞬かせた。これが牛頭の式神だろうか。
「よし、行くぞ【アラハバキ】。荷物の準備はいいな」
「あ、ああ」
「特別さぁびすで持ってやるからな。ついてこ……?」
煌太は手を伸ばし、牛頭の式神の頬に指先を当てた。
「にゃっ!?」
「ぷにぷにしてる! めっちゃぷにぷにしてる!」
「うわ、やめ、もちもちすんな!」
式神が煌太の手を振り払い、煌太の荷物の影に隠れた。叩かれた手をさすり、煌太は頬を緩ませる。
「ほら行くぞ!」
式神は煌太の荷物を両手で持ち上げ、とてとてと駆けだした。「はーい」と緩んだ顔のまま返事をして、煌太は式神の後を追っていった。
「……あの子さ」
「うん?」
「素直過ぎない?」
呆れ気味に、慧は息とともに吐く。
「……素直、と言えば聞こえはいいか」
燈瑞も溜息を一つ吐いた。
「で。……せっかちというのはどういうことだ」
「そのままの意味。作戦で、とにかく待てないんだってさ。試しに一体討伐しに行ったけど確かにそうだった。ただの粋がったルーキーならまだ易しいんだけどね」
慧は肩をすくめる。
「こちらの話はもちろん聞いているし通じる。命令違反が悪いとも分かっている。マジモノの中に残っていた遺体を見て真っ青になるのに、容赦なしに切りかかって……二重人格と言われた方がまだ納得できるよ」
「自覚は?」
「ある。だから厄介なんだ」
燈瑞は腕を組み、顔をしかめた。外へ視線をやっても、既に煌太は見えない。偶然通りかかったサムライが、燈瑞の視線に驚いたように振り返った。
「無自覚な癖より、自覚したうえで治せない癖、か……」
「もちろんお願いする以上、できる限りのサポートはするからさ。……あの性格じゃ、支部にいても浮いちゃうと思ってね……同じ藤虎だし、ご親戚だろう?」
「そういえば名乗らなかったな」
「緊張してるんじゃない?」
慧はソファに座り、組んだ手に額を当てた。
「ああ……それにしても。ようやく少し気が楽になったよ。あなたが引き受けてくれなかったらどうしようかと……」
慧は長々と息を吐く。燈瑞も慧の隣に座り、ぽんぽんと慧の肩を叩いた。
「胃薬いるか」
「ほしい……。仙台の支部長はお世話になった先輩だし、うちの支部長はああいう死に急ぎはいらないってスタンスだし……でも先輩が頭を下げて頼んできたら、断れないだろう?」
「優秀な後輩が頭を下げてきても断れないがな」
「ホント感謝してます」
慧は両手を合わせて頭を下げる。
「……ま、僕が頭を下げて済むならいくらでも下げるけどさ。未来ある若者を護るのは大人の仕事ってやつ?」
「過保護もほどほどにな」
「そっくり返すよ。……煌太君放っておいて大丈夫?」
「ヤマブキもウズメも、あれで大人だから心配していない」
燈瑞は一度強く慧の背を叩き、立ち上がった。慧は「痛いよ」と苦笑する。
「じゃ、くれぐれもよろしく、先生」
「ああ」
ガラス戸を開いて出ていく燈瑞の背に手を振り、慧もソファから立ち上がって伸びをした。
燈瑞の事務所は、小さな二階建てのビルだった。入り口は二階の側面にあり、一階にはシャッターが下りている。牛頭の式神が鍵を開けて、戸を押し開けた。
「お邪魔します……」
控えめな声で煌太が言う。と、玄関の正面、カーテンで区切られたスペースから、少女が顔を出した。
「おかえりなさい、ヤマブキ君。お客様?」
「んー……弟子?」
牛頭の式神、ヤマブキは煌太を見上げる。
「えっ、で、弟子?」
「【ムラクモ】の弟子だろ?」
「そうなんですね。私は式神のウズメといいます。よろしくお願いします」
少女、ウズメは式神らしからぬ黒髪を揺らして礼をした。大きな双眸は澄んだ緑で、淡い桃色に色づいたエプロンが似合う美少女であった。
「じゃあ早速、弟子の仕事をしてもらおうかね」
「え」
荷物に寄り掛かり、ヤマブキは頬杖をついた。頭蓋骨の下に覗く口元が、にっと笑うのがわかる。ウズメも頬に手を当てて笑みを浮かべた。
「え……え?」
二人の式神の笑顔に、煌太は困惑して視線をさまよわせる。がん、とその背後で鉄の床を突く音がした。
「ひえっ!?」
「客人か」
ドスのきいた声に振り向けば、ウズメと同じ程度の背丈の式神が立っていた。抜けるような白い髪と緑の瞳、顔の右目周りは白い猫のような頭蓋骨の面をつけている。服は墨のように黒いジャケットとスラックスであった。手には箒を握っている。
「いや……ええと」
「新入りだよ」
「そうか。なら後輩だな」
その式神は、煌太の手に箒を握らせた。
「えっ」
「そういうこと。じゃ、お掃除よろしくお願いします」
「サボるなよ!」
煌太を残して、三人の式神は散っていく。十秒と経たないうちに、玄関には煌太のみがぽつんと残された。
「……ええー……」
「あ、言っとくが」
ヤマブキが、奥の扉を開いて顔を覗かせる。
「これも修行だぜ、しゅ、ぎょ、う」
修行。その言葉に、煌太はぐっと唇を引き結んだ。箒を握り直し、ざかざかと玄関先を掃き始める。
ちょろい。と、その背を見ながらヤマブキは笑いを漏らした。
帰宅した燈瑞に、正式な辞令の紙を渡された。入れ替わりに、煌太は百合下からの紹介状を渡す。中身を確認し、燈瑞は顔をしかめていた。
「今日は掃除が済んだら休め。緊張の連続で思ったよりも疲れているだろう」
「はあ……どうも」
煌太は鞄に辞令を突っ込み、煌太は床の掃除を続行する。
奥の戸を開くと、先の黒服式神が部屋の中央に陣取っていた。床に胡坐をかいて、膝の上に大きな本をのせている。周囲には、乱雑に本が積み上げられていた。
「……お邪魔?」
「別に」
式神は立ち上がり、本を閉じて棚に戻す。煌太は後ろ手で戸を閉め、狭い部屋をぐるりと見渡した。
「すっげ……全面本棚か」
「知識は裏切らない……がここの主の信条だそうだ」
「ん? あんたはここの式神じゃないのか?」
「俺に主はいない」
式神は床の本を持ち上げ、裏表紙を叩いて汚れを払う。
「……霊力をもらっている相手はいる」
「それが主じゃ……」
「いない。……断じて」
式神の鋭い視線に、煌太は口をつぐんだ。清廉潔白の具現たる式神でありながら、黒い服を身にまとっているのだから、何か事情があるのだろう。
「手伝うよ」
背伸びをしていた式神の手から本を取り、煌太は本棚の上段に本を戻す。ずらりと並んでいるのはいずれも陰陽関係の本で、入門書から専門書までがそろっていた。式神が持っていたのは、式神の制作、改造の入門書だ。
「……そういや、名前は? 俺は煌太。字は【アラハバキ】だ」
「……し……」
「ん?」
「ゲンブだ」
視線を煌太からそらしながら、式神、ゲンブはぽつりとそう言った。
燈瑞に仕事の依頼が入り、早朝から煌太はアンダーシティを走っていた。燈瑞の事務所に着くや否や、燈瑞にヘルメットとゴーグルを投げ渡される。車庫から出した燈瑞のバイクに乗り、煌太はゴーグルの奥で目を細めた。二階の窓を開いて、ヤマブキが飛び降りてくる。燈瑞の背に乗ると、ヤマブキは無線機を燈瑞の耳に取りつけた。煌太がヘルメットをかぶったことを確認して、燈瑞はバイクを発進させた。
「緊張するか」
「べっ……別に!」
「強がるな」
燈瑞の言葉に、お見通しなのだと頬が熱くなる。煌太と燈瑞の間に挟まっていたヤマブキが、それを見上げて口を挟んだ。
「恥ずかしいことねーぞー【アラハバキ】。【ムラクモ】も十年前は青い顔して現場に向かってたから」
「ヤマブキ、ちょっと黙れ」
ヤマブキは牛の頭蓋を持ち上げ、煌太に笑って見せた。煌太は下手な笑いを返す。
依頼の現場は、アンダーシティの北側であった。ダウンタウンに隣接する、団地が立ち並ぶ地区だ。途中で合流した慧のバイクが、先導するように前を走る。立ち並ぶ団地に切り取られた狭い空は、進むにつれて更に狭まっていった。側面に金魚の絵がある棟の下で、慧はバイクを留める。
「ここの五階だ。先に来たフリーの人が時間を稼いでいるらしいよ」
「時間稼ぎ? 一人じゃ難しいのか? ですか?」
バイクから降りて、腰の装備を整えながら煌太が首を捻った。慧は苦笑いを漏らす。
「……ま、特殊な例もあるってことさ」
慧はそう言って、一足先に階段を上っていった。煌太は燈瑞を振り返って首を捻った。
「……どういう現場なん……ですか?」
「ああ。そうだな、目隠しの用意だけしておけ」
「?」
戦場で、目隠しとは。煌太はますます首を捻りながら、燈瑞の後を追って階段を駆け上った。
現場の部屋の前で、一人の女が待っていた。慧は女に駆け寄り、頭を下げる。
「連絡をくれた【クシナダ】さんかな」
「ええ。流石アンダーシティ支部はお仕事がお早い」
女は組んでいた腕をほどき、ほっと息を吐く。こわばっていた表情が緩み、心なしか甘い香りがした。
「それで、状況は?」
「芳しくありません。私の式神が抑えておりますが……生存者一名、安否不明、一名です」
安否不明――――それはサムライに関連する連絡の場合、生きてはいるが非常に危険な状態であることを示す。煌太はごくりと唾を飲み、刀を握った。
「あら? 二人と伺っていたのですが」
「小回りが利くから連れてきた。足手まといにはならないさ」
慧は煌太の背を叩き、煌太は慌てて女に頭を下げる。
「……入るか」
燈瑞はドアノブに手をかけ、ヤマブキがその足元で身構えた。
ドアがゆっくりと引かれ、狭い玄関と、細い廊下が現れる。むっと、血の香りが溢れてきた。冷気が足元を這って、五人の足首を撫でていく。
「クチナシ!」
女が呼びかけ、奥の暗がりから白い青年が現れる。背は慧と同じ程度で、髪は澄んだ白――――式神だ。長い前髪の左側だけをピンで留め、その下の目元を布で隠している。
暗がりの中で、光っているようにすら見えるその青年の膝から下は、血で紅く染まっていた。煌太は息を飲み、一歩下がって唇を噛む。式神は女の前に片膝をつき、深く礼をする。
「主。何とか対象は自我を保っている。だが決壊は時間の問題だ」
「被害者は?」
「生きている」
「結構。……では、お願いいたします」
女が燈瑞と慧を見やり、二人は黙って頷いた。
「【アラハバキ】はここで」
燈瑞に言われ、煌太はかちりと頷く。心臓を落ち着けようと深呼吸をすれば、その分血の匂いが肺に潜りこんできた。
ヤマブキが先に駆け込み、燈瑞も足音を殺して入る。慧はドアを開け放った状態で固定し、無線に口を近づけた。
「……ああ、僕だ。人払いをお願いしたいんだけど――――さすが、警察は仕事が速いね。……いや、危険度が高いわけじゃない。外見の問題さ」
慧は腕時計を見やり、息を吐く。
「朝っぱらからトラウマなんか作りたくないだろう」
背後から聞こえてきた言葉に、煌太は更に体を固くする。
ぴったりとカーテンが閉じられた部屋は暗かった。廊下の先、部屋の中で、目標は蠢いている。床が、僅かに差し込む朝日を反射していた。フローリングを濡らすのは、まさか水や油ではないだろう。
「……カーテン」
「はいよ」
ヤマブキがカーテンを引き開けて、それが朝日の下にさらされた。
「………………」
燈瑞は黙って刀を抜き、口を引き結んだ。
それは、ともすれば芸術作品のようにすら見えた。巨大な幹のような本体と、枝のように突き出した無数の白い腕。最上部には、女の上半身が生えていた。顔は蒼白で、叫ぶように口を大きく開いている。
血が滴っていなければ、それが本物の人間の体だなど、誰が信じるだろう。
「さ……むら……さん……?」
女の顔が、ぎしぎしと音を立てながら燈瑞を向いた。
「ね……が…………殺し……ころ……て……」
口がわずかに動いて、そう、声を絞り出す。それは――――マジモノに限りなく近づいた人は、人の肉体をほとんど失ってなお、生きていた。
マジモノは、人が生み出す呪いが、人を喰ったものだ。自らの、あるいは誰かからの呪念に憑りつかれ、命を吸われ、体が変質し、やがて自我を失う。その過程にあるこの女は、全身を捩じ切られる苦痛の最中で、まだ生きている。
「ああ」
燈瑞は小さく答えて、刀を握った。
「すぐに楽にしよう」
動かないマジモノに近付いて、刀を振り上げる。
「――――待て、【ムラクモ】っ!」
ヤマブキが鋭く叫び、燈瑞の刃は、マジモノの体に触れる寸前で止まった。
「おかあさん……?」
か細い声が聞こえたのは、その直後だった。燈瑞は顔を歪め、舌打ちする。
声は、マジモノの内側――――幹のような、その腹から聞こえてきていた。
何が起こったかは、煌太にも察しがついた。燈瑞は振り上げた刀を下ろして退き、ヤマブキがその傍らで毛を逆立たせている。
「燈瑞?」
「子供がいる」
怪訝な顔をした慧に、短く燈瑞は告げる。慧の横顔にも緊張がにじんだ。煌太は廊下の壁に背を当て、それで自分の体が震えていることに気付く。
「おかあさん……くらいよ、暑いよ……」
聞こえてくるのは、幼い少女の声だ。サムライの現場において、最も優先して救出すべき、生存者。それが、マジモノの内側にいる。
「……ヤマブキ、依代は」
「胸よりちょっと下」
「……【アラハバキ】」
「はいっ!?」
燈瑞は刀を納め、来い、と煌太を目で呼んだ。
「お前が一番小回りが利く。俺を踏み台にして依代をえぐれ」
「……、」
「俺は子どもを引き受ける」
煌太は「分かりました」と震える声で言う。燈瑞は、安心させるように煌太の肩を叩いた。
相対すると、マジモノはますます巨大に見えた。天井に届くほどに体は伸び、白い骨のような腕が執拗に、子供がいるであろう場所を包み込む。まるで、その見えない幼子を守ろうとするかのように。
煌太は壁際まで退き、燈瑞が片膝をついてその背を足場として用意した。ヤマブキの指がまっすぐに指差す場所、そこにきっと依代がある。
煌太が床を蹴る。二歩目で固い燈瑞の肩を踏み、その体は宙へと飛び上がった。突きの構えをした短刀が、空を切り裂き、肉へと突き刺さる。マジモノの肉体に着地すると同時に振り抜かれた短刀は、ぶつん、と太い何かを両断した。
「覚悟、」
そう、煌太が自分を鼓舞するように口を開いた瞬間、マジモノと、目が合った。
「……、」
さあっ、と血の気が引く。白い顔、陶器のような顔。髪まで脱色されて、まばゆいほどに白い。だがそこに残っていた目は、悪い冗談のように、人の目そのままであった。
血走っているわけでもない。見開かれて、いっぱいに涙をためて、哀願するように、煌太を見つめていた。
「ぐあっ!?」
腹に衝撃があり、煌太は吹っ飛ばされた。壁の時計に背中からぶつかり、ガラスの破片と一緒に床に崩れ落ちる。そのまま床に倒れこむと、一気に意識が遠のいた。
不思議と痛みが来ない。代わりに、気を抜けば眠ってしまいそうな、泥のような眠気に襲われた。
立たなければ。そう思っても、投げ出された腕は他人のもののようだ。持っていたはずの短刀が、遠くに転がる音がする。
「煌太君っ!」
慧の焦った声だけが、嫌に響いた。