第十章 君がため
今でも思い出す景色がある。
繰り返し、夢に見る一幕がある。
息が詰まるほど暑い日、マジモノに襲われた。車ごと田んぼに突っ込んで、あぜ道に落ちた黒い影を、いつまでも見ていた。頭の上から太陽が照りつけていて、凍ったように動かなくなった両腕で、泣いている弟を抱き締めていた。煙を上げる車と、そこに突き刺さったマジモノが、テレビの向こうのことのように、あまりに非現実的で。
誰も、煌太の目を塞ぐ大人はいなかった。
じっと見つめていたマジモノは、ただの肉の塊に見えた。その塊が動いて、ようやく、車と地面を濡らしているのが血なのだと、煌太は認識する。きろきろと大きな目を動かして、煌太は仔細にその光景を記憶した。
救急隊が助け出した母は、気を失ったまま救急車に入れられた。何とか這い出た父は、両足が何度も叩き潰されたようにひしゃげていて、煌太に近付くこともできなかった。見るな、と叫んでいたのかも知れない。だが、煌太には聞こえていなかった。
肉の塊が、ざっくりと二つに割れた。蛹が羽化するように。現れたのは羽を持った成体ではなく、人だったが。殆ど白骨化して、一部にだけ筋肉が残っているような、誰が見ても死体だと断じるもの。それが、生きているかのように、肉の割れ目から飛び出した。
そこに至ってようやく、駆けつけたサムライが、煌太の目を塞いだ。
拒絶するいとまもなく、綾音は霖之助に抱き締められていた。
「ごめん、綾音」
細い綾音の肩を、更に強く抱き寄せる。
「ごめん」
陶器のように冷たい指が、霖之助の首に触れる。
「……り……ん……?」
掠れた綾音の声は、震えていた。
「うん」
背後で、サムライが怒鳴っている声がする。刃同士がぶつかる音がする。振り返ればそこに、綾音が起こした惨劇の結果がある。だがその全てを背景にして、霖之助はただ綾音だけを見つめた。
「りん……だ……クチナシ、じゃ、ない……?」
綾音は霖之助の顔を見上げ、その頬へと指を伸ばす。揺れる瞳は、血の紅が淀み、黒みが戻ってきていた。
「うん」
つられるように涙を浮かべて、霖之助は綾音の頬に手を当てた。綾音はふにゃりと顔を笑わせて、
「今更?」
霖之助の頬に、ずぶりと指を突き刺した。
「……あ、や」
「今更ヒーロー気取りか元凶のくせに」
肉が抉られる感触。激痛は遅れてきた。綾音が指を引き抜いて、霖之助は自分の頬に手を当てる。べったりと掌を濡らす血と、綾音の目が、同じ色をしていた。
「……さいごの、警告」
目と同じ色の涙で頬を濡らして、綾音は霖之助の首を掴んだ。
「逃げて」
天井から降りてきた糸が、槍へと変化する。数多の槍となった糸束は、霖之助を喰らおうとするように、その胴回りへと先端を向けた。
「殺させるな!」
叫んだのは、慧だった。それが、床に張り付いた煌太の足を突き動かす。
床を、綾音と霖之助の頬を濡らす鮮血が、煌太の目の奥に焼き付いた光景を呼び覚ます。雷神の名を持った父から足を奪ったもの。自分達に向かってきた、理不尽な憎悪と、怒りと、悲しみと、飢え。助けてくれたサムライの顔は忘れても、焼き付いた血の色だけは消えてくれなかった。あの日の光景全てが、血を見るたびに蘇ってくる。一寸先も見えないようなサムライの世界で、一歩踏み出せば、紅の怪物が大口を開けて、自分が堕ちてくるのを待っている。そんな悪夢を、何度見ただろうか。
それでも。
「ふっ……ざけんな!」
煌太は走り出した。両手に握った刃で糸を断ち切り、血の海へと両足を踏み出した。血で滑る綾音の指から霖之助を引き剥がし、綾音の胸ぐらを掴む。
「桃井綾音!」
名前を呼んでも、もう綾音の目は揺らがない。
「見えるか! 聞こえるか! まだそこにいるんだったら、諦めるんじゃねえよ!」
綾音が煌太の脇腹を掴み、その指先が皮膚を破る。その痛みに一瞬顔をしかめながら、煌太は綾音の額に自分の額を当てた。ヘッドバンド越しに、ごつんと鈍い音がする。
「必ず助かる! マジモノの中に人の心があると思うんなら、あんたこそ諦めちゃだめだろうが! 完全なマジモノだって、一瞬人に戻るんだろ!? だったら!」
確証は一つもないが。
「最後まで、人間であることを諦めるな!」
だからと言ってすぐに納得できるほど、煌太も人間ができてはいなかった。
喉を押さえて咳き込み、霖之助は血をぬぐう。その手を、ゲンブが掴んだ。
「ひえっ!? き、君は?」
「雑菌が入る。それ以上傷を触るな」
ゲンブが手を伸ばし、きゅっと霖之助が目をつぶる。ゲンブの指先から青白い光が零れ、それが湾曲した針と糸を形成した。
「軽く縫合する。後で人間の医者に診てもらえ」
「……痛くない」
「麻酔……もどきの術だ。傷が治ったわけではない。触るなよ」
十数秒で傷の処置を終え、ゲンブは頭蓋の面を頭の上へと押し上げた。
「主人に聞いてもらいたいところだがあいにく忙しそうだ。代弁しよう。お前は何がしたい」
「へっ?」
弾き飛ばされた煌太が、二人の隣へと飛んできた。手に残った服の断片を投げ捨てて、煌太は体勢を立て直す。
「僕は……」
「サムライ協会は」
口元をぬぐって、煌太は横目で霖之助を見遣る。
「常に、依頼人の味方だ。俺が助けたくても、このままじゃあの人は討伐される」
煌太は、霖之助の顎に刀の背を当てた。
「どうする。ここであの人の味方になれるのは、俺と、あんただけだぜ」
「……僕は、」
霖之助はぐっと拳を握った。
「助けたい」
「了解した」
間髪入れず、ゲンブが一歩を踏み出した。霊力で編んだ黒手袋をはめ、持ち上げていた頭蓋の面を下ろす。
「人間の治療ならば俺の独壇場だ。協力しろ【アラハバキ】」
「おう」
まっすぐ綾音へと向かう二人の背を見て、霖之助は床にへたり込んだ。
「……どうして」
零れかけた疑問を、すんでのところで飲み込む。ここに立っている相手に投げかけるには、あまりの愚問だ。どうして、自分達なんかのために戦えるのか、など。
自分は足から力が抜けて、今にも泣いてしまいそうなのに。
「……僕は」
自分は、今日何をした?
人間であることを思い出した。自分の名前を思い出した。自分の人格を取り戻した。謝りたくて走ってきた。
それだけだ。
「……僕も」
下がりかけた視線を持ち上げて、霖之助はぐっと唇を噛んだ。もう疲れたと言う、情けない足を叱咤する。
「僕だって」
傷はもう痛まない。驚くような新しい事実など、目の前には一つもない。
ならば、恐れるものは何もないではないか。
真夜が振るうのは、静形薙刀。女のサムライの中でも、銃や弓以外で戦うことを選んだ者に多く選ばれる。腕力を武器の重さと長さで補え、間合いが掴みにくい得物だ。
そして何より厄介なのが、刀を持つサムライのほとんどは、薙刀を相手取る機会がほとんどないということだ。
「ふんぐっ……」
振り下ろされた一撃を受けて、威斯はその重さに顔をしかめる。
「篠原、悪いが任せた。すぐ戻る」
「はいっ!」
慧が先導して、燈瑞は陰陽師の繭を引き摺って反対側の階段へと向かった。真夜がその視線を、部屋の中の煌太に向ける。
「ふっ」
息を吐いて刃を逸らし、威斯はドアの前に立った。
「邪魔だてすんなよ真夜ぁ」
「……邪魔はそっち」
真夜はフレームに指を引っ掻け、割れた眼鏡を外して捨てる。
「わたしたちの夢をかえして」
無造作に振り上げられた刃を、刀の背で滑らせる。
「夢……夢、かあ」
真夜の目は揺らがない。澄んだ、どこまでも澄んだ紅だ。威斯は眉根を寄せて、口の端を持ち上げた。
「でも、琳は死んだんだぜ」
その言葉を口にして、つきんと胸が痛む。嗚呼、まだ自分はこの痛みを忘れていなかったのだと、どこかで安堵する。当たり前のように生きている自分だって、仲間の死を忘れたわけではないのだ。
「……くせに」
「ん?」
「何もしなかったくせに!」
真夜が叫んだ言葉が、そのまま威斯の心臓に突き刺さった。
「くっ、」
攻撃を避けた威斯に向かって、真夜は躊躇いのない一撃を繰り出す。威斯は部屋から離れながら、腰のポーチに手を伸ばした。
「死んだって? そんなこと分かってる! 私が! 誰よりも! 琳は戻ってこない。二度と笑ってくれない!」
建物の中とはいえ、ホテルの廊下は、真夜が得物を振り回すのにはさほど狭くない。必殺の攻撃を受け流しながら、威斯は廊下の突き当りまで退いた。
「――――夢くらい見たっていいでしょう」
絨毯に食い込んだ刃を持ち上げて、真夜は、笑う。泣いてしまいそうなのをこらえて、頬に張り付いた髪も払わずに。
「琳がいない世界に、もう疲れたの」
顎を薙ぐように振り上げられる刃の意志を、威斯は否定できなかった。
「……駄目だ」
だが。
威斯が刃を避けた直後、振り上げられるはずだった薙刀の下端は、威斯の足の下で止まった。右足で石突を、左手で刃の下を押さえ、威斯は真夜の薙刀を止める。
「それでも、そっちに行ったら駄目なんだ」
刀を床に落として、威斯は真夜の肩を掴む。ほとんど反射的に退こうとした真夜から、薙刀を引き剥がした。
床に落ちた威斯の刀に折り重なって、真夜の薙刀が倒れる。威斯は、真夜とのわずかな距離を一歩で詰めた。薙刀を取り返そうと伸ばされた右手を握って、顔を自分の肩にうずめさせる。
「ごめん」
そのまま、倒れそうになった真夜を全身で受け止めた。右手を掴んでいた手を腰へと回し、抜け出せないように固定する。サムライとして鍛えられているとはいえ、真夜では威斯の腕を振りほどけなかった。
「――――っうううううっ!」
真夜が、威斯の首元に喰らいついた。人間の数少ない刃が、ずぶりと威斯の皮膚を突き破る。痛みに顔をしかめ、威斯は真夜の頭を掴む手に力を籠める。その手には、陰陽師から渡された浄化の札が握られていた。燈瑞が使ったものと違い、真言を唱える必要はない。真夜の項に押し当てられた札は、音もなく発動して真夜に浄化の力を流し込んだ。
「……大丈夫」
真夜の頭を掴んだまま、威斯は目を閉じた。真夜の体が、小刻みに震え始める。
「大丈夫」
もう一度、言い聞かせるように呟いた。
「止まって、休んで……また立てるようになるまで、傍にくらいはいてやれるから」
「………………」
真夜の手が、威斯の服を掴んだ。
天井に張り付いていた糸が、塊となって床に落下する。綾音は垂れ下がった前髪を掻き上げた。広くなった視界の中心で、式神とサムライが、忌々しいほどにまっすぐにこちらへ向かってくる。
「……カミは」
やや離れた場所で足を止め、ゲンブは綾音の首を指差した。
「人に憑くとき、うなじのあたりに本体を置く形になる。……外に依代があれば当然腰掛ける程度だが、肉体そのものが依代ならば、まず間違いなく核は延髄だろう」
「えんずいってどこだっけ」
「……お前な」
睨み上げてくる緑色の目から顔を逸らして、煌太は頬を掻いた。
「……ともかく。ナオビカミもマガツカミも、人の霊力呪力がなければ力を失う。なので」
白衣の裏から取り出したゲンブの手には、長い針があった。
「一時的に、身体の霊力の流れを止める。……もし人格が喰われていなければ、うなじから引っこ抜けるが、無理ならば拘束して陰陽師に引き渡す」
「ずばって浄化できねえの?」
「相手は呪力ではなくカミそのものだぞ。あそこは糸……あいつの手足が多すぎる。まずはこちらに有利な戦場に引きずり出すぞ」
「……了解」
痛む脇腹から手を離して、煌太は短く息を吐いた。
煌太が顔を上げるのと、糸束の蛇が大口を開けて煌太に飛び掛かったのは、同時だった。
「――な」
すんでのところ煌太が頭を下げ、蛇はヘッドバンドだけを攫っていく。蛇の根元で、腕を伸ばした綾音が鋭く舌打ちをした。
「かけまくもかしこきみむすびのおおかみたちのくすしきみたまによりてあれいでませるいつはしらのもとつかみ」
素早く、綾音の口が祝詞を紡いだ。
「今何つった!?」
「五元の祝詞……」
さっ、とゲンブの顔が青くなる。
「カミの御業が来る!」
言葉の意味は知らなくとも、危険性だけは煌太も感じ取ることができた。糸で形作られた八つの頭が、赤黒い光を纏って口を開く。
「――オン」
霖之助が、ゲンブと煌太の前に飛び出した。一言の言霊で発動した術が、空中に青白い光の壁を作る。
「やめろ!」
ゲンブが叫ぶ。八つの頭は一つに寄り集まりながら、光の盾の中心に突き刺さり――――貫いた。
盾が持ちこたえたのはほんの一瞬。次の瞬間には、赤黒い槍は霖之助の腹に届いていた。粉々に砕けた光の破片は、空中で花弁のように解けて消えていく。霖之助の体が折れて、腕がだらりと垂れ下がった。
「馬鹿野郎っ……」
「ゲンブ!」
煌太は既に床を蹴っていた。
霖之助が稼いだ時間は一瞬。だが、それは煌太が綾音に到達するには十分な時間だった。鞘を捨てた刃を振りかぶって、煌太は綾音の目の前に飛び出す。
横に振り抜いた一撃目は、かがんで避けられた。着地と同時の背後からの二撃目に、綾音は素早く振り返る。
「オラァ!」
足に絡みついてくる糸を断ち切りながら、煌太は綾音に体当たりした。振り返った直後の綾音は、あっさりと煌太のタックルを食らう。そのまま綾音の足は床から離れ、糸に支配された空間から押し出された。
絨毯の上に放り出され、綾音は右手を空へと伸ばす。それに呼応するように、ずっ、と床の糸が蠢いた。
だが。
「残念!」
綾音の手を、血塗れの霖之助の手が握った。緩く開いていた指と指を絡ませて握りこみ、そのまま床に押し付ける。ごぼり、と血の泡が霖之助の口からこぼれた。だが、その顔には笑みすら浮かんでいる。
「信じてる、綾音」
「――――り、」
瀕死の重傷で、それはあまりにも無慈悲な信頼だった。
糸の動きが止まり、ゲンブは綾音の隣に膝をつく。傾いだ霖之助を、煌太が支えた。
「やれ、ゲンブ!」
「~っ、」
真っ先に、ゲンブは霖之助の胸に針を刺した。
「一人も死なせてたまるか」
針は霖之助の体内で術を発動させ、肉体の時間をほんの数分だけ巻き戻す。霖之助の腹の傷が消えると同時に、ゲンブは針を二本、綾音の鎖骨付近に刺した。
びくり、と綾音の体が跳ねる。ゲンブに睨まれ、煌太は綾音の体を押さえ込んだ。
「そうだ」
煌太は、血でぬるりとする掌にぐっと力をこめる。
「絶対助けるんだ」
血の気がない二人の体に触れながら、自分にもう一度言い聞かせた。
これでいいのかと自問自答を繰り返した。他人を傷付ける。サムライでいられなくなる。そう、初めは否定した。それでも突き付けられる問いは、自分が心から望んでいる欲望そのもので。
『ここで俺が退いたら駄目なんだ!』
そう言われて、自分が取り返しのつかない化け物になったのだと自覚させられた。
いつの間にか肥大した怪物が、欠片になった自分を飲み込もうとしていた。呪力の糸でがんじがらめになった自分は、最早、マガツカミにとっては餌でしかない。
自分の最後の一欠片がなくなれば。自分が死んでしまえば、呪力を礎にするマジモノの力は、決して無尽蔵ではなくなる。マジモノの呪力も、式神の霊力も、突き詰めれば同じ、生きた人間の心の欠片なのだから。
だから、さよならをして、消えてしまおう。あとは殺してもらえばいい――――
『最後まで、人間であることを諦めるな!』
そうして手放した希望の糸を、もう一度、眼前に突き付けられた。
『信じてる、綾音』
嗚呼、諦めてしまえば楽だと、分かっているはずなのに。
『絶対助けるんだ』
そこまで言われてしまったら、自分だけ諦めていられないではないか。
(返して)
綾音は、自分の中に入ったカミを、拒絶する。
(――――返せ)
遮断されていた痛みを。力として消化された怒りを。礎にされた憎しみを。焦りを。恐怖を。諦念を。夢幻にされた安堵を。裏返された愛情を。
目を逸らしたがった全てを。
(返せ!)
――――そして視界は明転する。
「……りん?」
ぼやけた顔を見上げて、そう呼んだ。
「うん……もう大丈夫、大丈夫だから」
震えている声が、自分に向かってかけられているのか、彼自身が自分に言い聞かせているのか、綾音には定かではなかった。だが、吐き出した自分の息は、確かに安堵を伴っていた。
「自我が戻ったか」
「治ったのか?」
「いいや。まだマガツカミが抜けたわけじゃない。念のためもう少し力を遮断する」
「そっか……俺、陰陽師の人達呼んでくる」
傍らにしゃがんでいたサムライが、足早に去っていく。式神は、長い息を吐いて目元の面を押し上げた。澄んだ緑色の瞳は、呆れたように綾音を見下ろしている。
「全く。とんでもない前例を作ってくれたものだ」
まだ視界ははっきりとしなかったが、式神が笑っているのが分かった。
威斯に背負われた真夜と、煌太に抱えられた綾音が、担架に乗せられていった。腹を押さえた霖之助も、ゲンブに付き添われて救急車に乗せられる。護送用車両を回す間、慧は陰陽師達の繭と一緒に転がされていた。
「高杉さん!」
煌太が駆け寄り、慧はそれに片手を上げて見せる。
「大丈夫ですか? 顔色が……」
「一応、意識ははっきりしてるよ。君こそ……血だらけじゃないか」
「……半分以上、俺の血じゃないっすよ」
煌太は緩く唇を噛む。
「俺、また……間違えました、かね?」
「……さあね。人質になるのは褒められた行為じゃないけど」
「やっぱり」
「でも、誰も死ななかった」
煌太は顔を上げる。
「君の熱血が、人を救ったよ」
慧の笑みに、鼻の奥がつんと痛んだ。「でも」と俯いた煌太の頭に、大きな手が乗る。
「うわっ?」
「血液恐怖症はどうしたのやら」
振り返ると、煙草を咥えた燈瑞がいた。
「そんなこと言ってられなかったんで」
言われて思い出したように、煌太は顔を引きつらせて笑う。燈瑞は「そうか」と微苦笑を漏らした。
「ひすいー、僕も吸うー」
繭に寄り掛かって、慧は力なく手を挙げた。頭を後ろに倒して、大きく開いた口に、燈瑞は呆れたように息を吐く。
「しゃんとしろ」
「無理……僕頑張ったほうじゃない? 大体引き絞ってる弓の弦切られたらどんなに怖いことになると思ってるんだ」
「お前が正気だと思わなかったんだ」
腹筋で体を起こし、慧は頭をぶんぶんと振る。
「あのマジモノの精神攻撃から死ぬ気で自我を守ったんだ。エネルギーが足りないよ……」
「そら、口を貸せ」
「ん」
慧がぱかりと開いた口に、燈瑞はポーチから取り出したチョコレートを放り込んだ。
「……思ってたのと違ぁう」
文句を言う慧をそのままに、燈瑞は集まっている陰陽師達の方へと歩いて行った。
「……煌太君も座ったら? 大分お疲れの顔してるよ」
「いえ」
陰陽師達は、ホテルの中に残った糸の除去や浄化をしに行くようだった。討伐完了の報せで戻ってきた警官に、避難指示の解除やホテルの被害状況を伝え、燈瑞は次の仕事へと移る。護送車への繭の積み込みと、アンダーシティ支部への報告だ。慧は自力で護送車に乗り込み、威斯が見張りと付き添いのためにその後を追った。
「煌太」
「ひゃいっ」
背後から声をかけられて、素っ頓狂な声が出る。
「高杉のバイクを支部に持っていく。お前も戻るか?」
携帯をポーチにしまい、燈瑞はロビーから運び出したバイクを指差した。
「鍵はあるから乗って行けるが」
「あ、いえ……俺チャリで来ちゃったんで」
「そうか。戻ったら支部長に直接報告をしなくてはならない。着替えたら支部長室に来い」
「……はい」
煌太は俯いた。
勝手に飛び出し、人質になり、挙句脱出の手助けもせずその場に残った。結果はどうあれそれは事実だ。ゲンブがいれば、励ましとはいかなくとも、背を押してくれる一言でもくれたのだろうが。
自転車を押して、煌太はとぼとぼと支部への道を戻っていった。
燈瑞と並んで立ち、煌太は唇を引き結んだ。
「――以上が、桃井綾音とクチナシ、改め、住良木霖之助に関する騒動の顛末です。住良木霖之助は自力で意識を取り戻し、桃井綾音も同じく、マジモノ化から自我を取り戻しました」
「なるほど、分かりやすいハッピーエンドにまとめたねえ。大したもんだ」
椅子に座って足を組み、美鶴は表情をやわらげた。
「その二人のことは京都支部に任せよう。放り出したぶん、しっかり責任は取ってもらうさ。厄介ごとを嫌っての処置なら、後処理くらいはしてもらわないとね」
「既に、京都の知人に連絡だけはしてあります。正式な報告書は、後日」
「手間かけるね。特別報奨を申請しなきゃ」
美鶴の視線が、燈瑞から煌太へと移る。その間に、顔の険しさが目に見えて増した。
「で? そっちの小僧は何をしたんだい」
びくっ、と、ほとんど反射で体が震える。秒針が三度鳴っても燈瑞が口を開かず、煌太は乾いた唇を恐る恐る動かした。
「桃井さんと、話しに行って……人質に……」
「……誰かが社用車がないって騒いでたっけ。お前か」
美鶴は眉間に指の背を当てた。椅子が軋んで、ぎゅっと煌太の心臓が縮む。
「それで?」
「えっ?」
「人質になったが、あんたは障られていないようだね。何かしたのかい」
「……いいえ」
煌太は俯いた。
「いいえ。何も……何も、できませんでした。俺は……」
綾音を止められたかと言えば絶対に否で。むしろ後押しをしてしまったのではないかという思いすらあった。陰陽師達は助けられず、慧のように息をひそめて策を弄すこともできず。燈瑞や威斯のように、場を攪乱して人質を救出する機会も作れず、霖之助のように綾音の手を掴むこともできず、ゲンブのように助けることもできなかった。
「俺は……本当に、何も……」
それ以上は、言葉が出なかった。
俯いて肩を震わせる煌太を、美鶴はしばらく黙って見ていた。隣に立つ燈瑞に視線を向けても、何かを言う様子はない。
「……沙汰は追って。今日は休みなさい」
燈瑞が礼をして、煌太もそれに合わせて頭を下げた。燈瑞の後ろについてロビーまで降りて、煌太は大きなため息を吐く。
「……煌太」
「はっ、はい」
「今日、この後何かあるか」
「いいえ……」
「なら、うちに来ないか」
燈瑞の申し出に、煌太は「へっ?」と声を上げた。
「疲れただろう。美味い飯でも食っていけ。リクエストがあれば今連絡するが?」
燈瑞を見上げて、煌太は目を瞬かせる。それから、気の抜けた笑いを漏らした。