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第九章 しがらみ

 慧が支部を出て数分後、真夜が一人で戻ってきた。青い顔をした受付嬢に腕を引っ張られ、燈瑞はロビーへと駆け下りる。ガラス戸の外側で、真夜は俯き加減で短剣を握っていた。

「楠木、一人か?」

「近付かないで!」

 ガラス戸を開いた瞬間、真夜は叫んで短剣を突き付けた――――自らの首に。

「……高杉、さんは?」

「ホテルに向かった。以降の陣頭指揮はあいつが」

「今すぐ陰陽師を! 琳が……いいえ、戻らなきゃ……でも……」

「……障られたのか」

 真夜は歯を食いしばって顔を上げる。真夜の両目は血のように紅くなり、眼鏡はフレームが歪んでいた。かちかちと歯が鳴り、その首には白い糸が一筋絡まっている。

「帰らなきゃ……琳が……呼んでるんです……行かなきゃ……」

 ふらりと真夜は踵を返し、足を引き摺りながら歩き出す。燈瑞は無線のスイッチを入れ、慧の無線にチャンネルを合わせた。

「慧! 今すぐ桃井を拘束しろ!」

 真夜を追い、燈瑞はその腕を掴む。

「楠木が戻ってきた。障られている。陰陽師とサムライを連れて俺も行こう。現状の確認と戦略の提案を頼む」

『……了解』

 真夜は、鋭く燈瑞を睨み上げた。目がぎらりと光り、食いしばった歯が剥き出しになる。

「楠木、すぐに陰陽師に治療を」

 短剣が、燈瑞の顔に向かって突き出された。

「っ!」

 何の躊躇いも前触れもない攻撃を、燈瑞は辛うじて避ける。右の頬骨をかすり、眼帯の紐を断ち切って、銀色の刃は空を切り裂いた。

「……楠木」

「うるさい……うるさい、うるさい、うるさい、うるさい! 人殺し!」

 真夜の首に絡まっていた糸が、赤く燃え上がる。一瞬でその炎は消えたが、真夜の首には赤い筋が刻まれていた。見開かれた目は、一点の曇りすらない深紅だ。

「お前が琳を殺したくせに!」

 燈瑞の手が緩んだ瞬間に、真夜はその手を振りほどく。真夜は短剣を両手で握り、脇腹に柄をつけて構えた。燈瑞の左手が、腰の刀を掴む。

 その燈瑞の襟首を、誰かが引っ張った。

「うっ!?」

 完全な不意打ちで、燈瑞は後ろに引き倒される。燈瑞の前に飛び出して両手を広げたのは、威斯だった。

「真夜!」

 威斯が怒鳴り、真夜はぴたりとその動きを止める。

「……ダメだ、真夜」

「……うるさい」

「そんなお前を見てあいつは喜ぶのかよ!」

「うるさい!」

 真夜は威斯に短剣を投げつける。威斯がそれを避けて視線を逸らした瞬間に、真夜はその場から逃げ出した。

「真夜!」

 走り出そうとした威斯を、燈瑞が引き留める。

「今追っても逆撫でする」

「なっ……何でそんな冷静なんすか!」

「冷静に見えるか」

 頬の血を拭い、燈瑞は落ちた眼帯を拾う。その横顔に、ぐっと威斯は言葉を飲み込んだ。

「……すみません」

「いいや。……もし向こうで楠木ともう一度対峙するなら、お前に一任しよう」

 ヤマブキが、陰陽師を二人連れてきた。燈瑞は、場所と今分かっている情報を簡潔に伝える。マジモノ化している最中の人が相手ならば、サムライよりも陰陽師の方が適役だ。不安げな頬を打って表情を引き締め、陰陽師達は燈瑞へと視線を向けた。

「【ムラクモ】さん!」

 階段を駆け下りてきた霖之助に、燈瑞は振り返る。霖之助は中指に手甲の先端を引っ掻け、駆け下りてきた勢いそのままでガラスに激突した。

「いぎっ……つつ……【ムラクモ】さん、僕も行きます!」

 左右で色の違う目で、霖之助はまっすぐな視線を燈瑞に向けた。

「……大丈夫なのか」

「いいんじゃない? 状態は極めて安定しているわ。多少、記憶に損傷はあるようだけれど。そもそも、彼の人格はクチナシと融合していなくて、ずっと眠っていただけのようだから」

 霖之助の背後で、沙弥子は肩をすくめてみせる。

「肉体の方は、専門の医者でないと何とも。シヲンでは傷の治癒はできても診断はできないわ。ゲンブにでも診せないと」

「……その意味でも連れて行くのは得策か。いいだろう」

「あっ……ありがとうございます!」

 霖之助は勢いよく頭を下げた。



 弓を握る。矢を番える。右手でその矢筈を包むようにして、矢を弓に押し付ける。幾度となく繰り返した行為は、たとえ弓を握る左腕が、金属の義手になろうと変わらなかった。

 矢を水平に構えたとき、慧の弓の射程は約四十メートル。競技としての弓道よりは長いが、マジモノ相手では決して有効な距離ではない。数十メートル離れていても、無防備を晒すのはあまりに危険なのが、マジモノという相手である。

 だが、人間相手であればそれはあまりに遠い距離であり、発射から一秒と経たずに迫ってくる質量のある刃は、時に弾丸よりも凶悪な武器となる。

「待て!」

 燈瑞がそう叫んだ次の瞬間には、威斯の足元に、矢が突き刺さっていた。

「ひっ」

 威斯は息を飲み、足を止める。踏み固められた地面に易々と突き刺さるのは、間違いなく慧の矢だ。

「奴の姿が見えない場所に隠れろ!」

 燈瑞が言い、威斯は陰陽師の一人の襟首を掴んで、傍らのビルに飛び込んだ。燈瑞もほとんど同時に、反対側の家の影に隠れる。取り残された霖之助が、ばたばたと威斯の隣に逃げ込んだ。

「たっ、高杉さん、そんな……」

 青い顔で、威斯は燈瑞の方を見遣る。燈瑞は、転んだ陰陽師を助け起こして、ポーチから鏡を取り出した。

「……厄介だな」

「まさか、障られて……」

「……楠木は海石榴野の名前を呼んでいた。もし相手が、過去に失った誰かや、心の傷につけこむなら」

 鏡越しの慧を見やり、燈瑞は隻眼を細めた。

「あいつの傷は大きすぎる」

 鏡の中で、慧はその手を腰の遺髪入れに触れさせていた。だが燈瑞が鏡を動かすと、即座に矢を構えて弓を引き絞る。駅前とはいえ道はさほど広くない。五人が潜む路地と慧の距離は、十メートルも離れていなかった。

「どうするんすか、回り込むにも……あの人と戦うにも、キツイっすよ」

「困ったときは正面突破に限る。移動しようにも、あいつの射程は見えている範囲全てだ。……いや、曲射ならば屋根がなければ見えなくても届くか」

「正面って……正面からすっ飛んでくる矢なんて避けられないっすよ」

「近接なら俺の方が強い」

 燈瑞は腰から拳銃を抜いた。

「障られているならばなおさら、時間との勝負だ。幸い陰陽師がこちらにいる。……あいつと、楠木を除けば、あとは桃井と陰陽師達だけだ」

「……対人戦闘をする日が来るなんて」

「篠原、お前、銃は使えるか」

「全然っす」

「そうか。なら俺が撃とう」

 拳銃の安全装置を外し、弾を装填する。

「弦を狙う。弦が切れたらお前が飛び込め。二人がかりなら攪乱できる」

「はい」

 燈瑞は陰陽師に鏡を渡し、家の反対側へと走った。燈瑞に合図され、陰陽師は鏡をちらつかせる。慧はぐんと弓を引いた。弓の上半分、ぴんと張った弦と湾曲した弓が、燈瑞の射線上に用意される。

 機会は一度。距離は有効射程ぎりぎり。目標は細い弦。緊張が極限まで高まるには、条件が揃いすぎている。

「………………」

 燈瑞はぎっと口元を獰猛に笑わせた。



 銃声が耳朶を打って、煌太は目を開いた。

「仲間にも、平気で銃を向けるのね」

 空のカップを口に当てて、綾音は冷めた声で言う。

「忌々しい」

 そう呻く綾音の首には、糸が絡まっていた。天井に張り付いた四つの繭が、綾音の言葉に呼応するように揺れる。煌太は体をもぞもぞと動かし、仰向けになって起き上がった。

「……何で、俺には障らないんだ」

「だってあなたがほしいの」

 煌太の言葉に、綾音はにっこりと笑った。

「あなたが。お人形でも可愛い子供でもなく、あなたがほしい。あなたなら私を分かってくれるでしょう? お人形は私と同じ傷を持っているだけ。それを隠して笑えるつよい人。そんな人はわたしをわかってくれないの」

 綾音は煌太の前にしゃがみ、その頬に手を当てた。陶器のように冷たい指先に、煌太は身を震わせる。

「人を操って、繭に入れて、何をしたいんだ」

「……わたしはね」

 綾音は煌太の頭を抱き寄せる。耳元に綾音の息がかかり、髪が擦れる音がした。

「ほしいものがあるの。お人形と、子供と、あなたがいれば、それができるの」

 ささやくような声に、煌太は唾を飲む。綾音は唇を舐めると、煌太の耳たぶに歯を当てた。煌太はぎゅっと目をつぶる。

「追い返した」

 そう、上から声が割り込んだ。綾音は素早く、戻ってきた慧を振り返る。

「痛え!」

 一瞬、耳を噛み千切られたかと思った。血が滲んでいるのではと思って確認しようにも、手が動かない。煌太は苦々しく顔を歪め、慧を振り返った。

「そう。じゃあ待っていて。力が回復したらあなたの分の繭を作ってあげるから」

「………………」

 慧は無表情のまま、煌太の隣に座った。抱えた膝を指で叩き、唇の間から細く息を吐く。煌太がその横顔を見上げると、ぎろりと目だけで煌太を睨んだ。

「ひえっ」

 垂れ下がった前髪の間からは、やはり深紅の瞳が覗いている。慧は視線を前へと戻し、目を閉じた。

 綾音は椅子に座り、足を組んだ。天井の繭が蠢き、がさがさと中で何かが動く音がする。

「……あーぶくたったーにえたったー」

 綾音が歌い始め、それに合わせて繭の揺れが大きくなった。

「にえたかどうだかたべてみよ」

 繭が破れた。

 ずるりと、天井から陰陽師が一人落ちてくる。糸に引っかかり、背中から着地し、そのまま仰向けになって目を見開いた。開かれた口は魚のようにぱくぱくと動くのみで、息の音すら聞こえない。

「……まだにえない」

 天井から、糸の塊が落ちてくる。それは、落下した陰陽師を包みこんで再び繭となった。陰陽師の顔が見えなくなる寸前、その顔から苦痛が消えていることに煌太は気付く。

「はあ。存外完全な洗浄って時間がかかるのね。一般人を先にすればよかった。陰陽師は心が強くていけないわ」

 綾音は慧を横目で見遣る、慧はうっすらと目を開き、また膝を指先で叩いた。

「そうイライラしないで。繭は一度にそんなにたくさん作れないの。いいじゃない。すこーし待てば、あなたの大切な人達が夢の中で待っていてくれるわ」

「…………来る」

 慧は顔を上げ、頭を壁に当てた。

「必ず、また」

「……また、彼らが来るってこと? 策もなしに?」

「………………」

 慧は視線を綾音から逸らす。綾音は唇を曲げた。

「あなたの意見を聞きたいわ。アンダーシティ支部、サムライ課、課長補佐。あなたならこの巣をどう切り崩す?」

「……前例がない」

 慧はまた俯き加減になり、目を閉じた。煌太はそんな慧と綾音を交互に見て、意を決したように口を開く。

「桃井さん」

「なぁに?」

「便所行きたい。さっきから大分やばい」

「………………」

 綾音はじっとりと煌太を見下ろした後、深い溜息をついた。

 手首だけは糸で縛られたまま、煌太は拘束を解かれる。見張り役の慧に、腰のベルトを掴まれている。目を盗もうにも振り払おうにも、慧と武器がない状態でやりあえるとは思わなかった。まして、煌太は両手首を糸で結ばれており、慧の腰には抜かれていない小太刀がある。廊下へ出たとき、そこに慧の弓があったことも確認している。弦こそ張られていなかったが、愛用の得物がすぐそばにある以上、迂闊なことはできそうもなかった。

「……どうする」

 呻くように煌太は言う。

 外にサムライが来ていたとしても、綾音には人質がいる。自分はもちろん、慧や陰陽師達もそのまま人質にされるだろう。まともに動けるのがゲンブ一人の現状で、下手に刺激をすればどうなるか分からない。だが、あまり悠長にしていれば、綾音は完全なマジモノになってしまう。今でこそまだ言葉が通じるようだが、肉体が変質するのは時間の問題かもしれない。マジモノは、依代を持つ呪いと人間、そして土くれが寄り集まった姿だ。綾音には依代も土くれもないが、綾音自身が依代になっているのだとすれば、マガツカミに綾音の人格が喰らいつくされるのに、さほどの時間はかからないだろう。

 状況が好転する糸口は見えない。だが時間は過ぎていく。せめて人質さえいなければ、最悪綾音は討伐されても――――

 煌太は首を横に振る。よぎった弱気な考えに、吐き気がした。

「助けるんだ」

 縛られたままの手を洗い、鏡の中の自分を睨みつける。

「今、桃井さんを助けられるのは、俺だけじゃないか」

 鏡の中の自分は、情けないほどに青い顔をしていた。引き結んだ唇は震えていて、決意したはずの瞳は揺れている。怖くて仕方がない。逃げたい。そんな顔だった。

「……考えろ」

 鏡に額を当てて、自分を叱咤する。

「考えろ、考えろ、考えろ……何か……」

「煌太君」

「へっ?」

 顔を上げた瞬間、煌太の視界が暗転した。



 ホテルを見上げて、燈瑞は腰に手を当てた。隣では、威斯が落ち着かない表情で爪を噛んでいる。

「【ムラクモ】さん。狙撃手の配置、完了しました。浄化弾装填も済みです」

「護送用車両、待機しています。結界の準備も……合図があれば、いつでも。しかし現状、我々陰陽師にできるのはここまでです」

「了解した」

 燈瑞は煙草を咥え、予備の眼帯で右目を隠す。ひやりとしたいつも通りの感触に、我知らず目尻を緩めていた。まっすぐに立ち上った紫煙は、霖之助が駆け寄ってきたことで掻き消える。

「何を待っているんですか?」

「機が熟すのを」

「でも、あんまり時間は……」

「分かっている」

 燈瑞は指先で霖之助の額を小突く。

「あいたっ」

「敵は三階にいる。下からでは窓は見えるがよじ登れない。内側から行けば当然、敵が待ち構えているだろう。そして人質……突入にもタイミングと方法というものがある」

 燈瑞の目が、三階の窓から屋上へと向いた。

「……あの、【ムラクモ】さん?」

 その様子を見ていた威斯が、顔を引きつらせる。

「今何考えてます? まさか」

 燈瑞の視線を追って屋上を見上げ、威斯はひくっと笑った。

「恐らくそのまさかだ。聡明な自分を恨むんだな」

「嫌っすよ俺」

「出来ないのか」

「出来ますけど!」

「ならやれ」

 煙草を携帯灰皿に入れて、燈瑞は煙を吐き出す。

「敵を惑わすならば、情報をできる限り増やすしかない。選択肢は全てやる。……正面突破では時間がかかりすぎる場合もある」

「珍しいっすね。正面以外を選ぶなんて」

「軍師がそう言ったんだ、従うしかないだろう」

 燈瑞は苦笑を威斯に返した。

「俺は作戦を立てるのが下手だから任せた。ならば、相手の指示を信用して従うのが、任せた俺の責任だ。移動するぞ」

「はい」

「住良木は動きがあるまで待機しておけ」

「はい」

 燈瑞は、拳銃の残弾数を確認する。威斯と燈瑞が、ホテルの隣のビルへと向かった。霖之助は拳を握り、三階の窓を見上げる。

「……綾音」

 カーテンで遮られた向こう側で、何かがゆらりと動くのが見えた。



 煌太を引き摺って、慧が戻ってきた。ぐったりとしている煌太に、綾音は顔をしかめる。

「何をしたの」

「逃げようとした」

 慧は煌太を、ドアの横に放り投げた。煌太は、ずり落ちたヘッドバンドで目元が隠され、口は力なく半開きになっている。

「まさか殺していないでしょうね」

「加減くらいできる」

「……そう。じゃあさっきの話の続きをしましょう。この状況で、サムライはどう動く?」

 慧は煌太の前の床に座り、胡坐をかいた。頬杖をついて反対の手は床に降ろし、指先で床の絨毯を叩いている。

「連中は、ミズチの時と同じ対応を取るだろう。結界で囲んで持久戦。こちらがジリ貧になるのを待つ。この部屋の裏の戸は塞がれていて、入り口はここ一つ。階段も二つ。どう足掻いても誰かとは会う」

「そうね」

「持久戦になれば利はこちらにある」

「ええ」

 慧は立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。

「まして人質がいるこの状況、外の連中は動けないだろう。物理攻撃は人質を巻き込む。こちらの戦力はサムライが二人とあなた。……内通でもなければ崩されることはない」

「そうね。それに内通者なんかありえない」

 綾音は満足そうに笑った。綾音の背後で、隠れたままでゲンブが唇を噛む。

「……ところで」

 慧は綾音の隣まで近付き、ポケットから抜いた手を目元まで持ち上げた。


「カラーコンタクトって知ってるかい、綾音さん」


 慧の掌には、黒い球が一つ、握られていた。

「……え?」

 綾音が、完全に虚を突かれた顔になる。その足元に向かって、慧は球を叩きつけた。かっ、と白い光が弾けたかと思えば、甲高い音が部屋を貫いて行く。

「ゲンブっ!」

 ヘッドバンドを押さえたまま、煌太が叫んだ。即座に、ゲンブは煌太に向かって走る。

「拘束解いてくれ。一旦出る……っとわあっ!」

 慧が、煌太の顔の両脇に手をついた。そのままゲンブと煌太を壁に押し付け、自分の体との間に挟み込む。

「高杉さ……」

 直後、束になった糸が、煌太の頭上に突き刺さる。

「……逃がさない……!」

 目を閉じたままで、綾音が呻いた。

「外へなんて出さない! どうして、どうしてあなたが正気なのよ、高杉慧!」

 糸が蜘蛛の巣のようにへばりつき、ドアを塞ぐ。慧は煌太に覆いかぶさったまま、小さく笑いを漏らした。

「確かに、僕にも後悔はある。でも、亡くした人達と幸せな夢を見るのは、過去から目を逸らすことだ」

 糸が、慧の左手を貫く。

「……それは、今の否定なんだよ、僕の場合はね」

 ぎしり、と左腕を軋ませながら、慧は綾音を振り返った。既にゲンブは煌太の拘束を解いている。慧は煌太の膝を指先で叩いた。サムライならば誰もが知っている、軍用信号での指示。その内容に、煌太は思わず慧を見上げた。

『武器を取れ』

 慧の視線の先には、体を折っている綾音がいる。

「……駄目だ」

 煌太はふらりと立ち上がる。

「それ以上は駄目だ、桃井さん……戻れなくなる」

「……いま、さらっ……」

 綾音は、喉をせり上がってきたものをそのまま吐き出す。床の上を覆う糸を、鮮血が染めた。煌太は青い顔になり、たたらを踏む。

 窓が砕け散ったのは、次の瞬間だった。



 強化ガラスに向かって弾丸を三発。ヒビの入ったガラスは、燈瑞の蹴りで容易く砕けた。屋上から飛び降りた勢いそのままで、燈瑞は現場の部屋に飛び込んでくる。

「つっ……高杉さん、煌太!」

 燈瑞のすぐ後を、威斯が追ってきた。綾音の視線が窓へと向いた隙に、慧は煌太の肩を掴んでドアへと向かう。

「ウタえ、急急如律令!」

 燈瑞は、ベルトに挟んでいた布を放り投げながら叫んだ。陰陽師が浄化の術を仕込んだ布は、燈瑞の文言で起動する。青白い光が綾音を、糸を焼いた。

「きゃあああああああああああっ!」

 ドアが蹴り開けられて、煌太の襟首を慧が捕まえる。落下してきた陰陽師達の繭を廊下に蹴り出して、威斯は廊下にいの一番に飛び出した。

「!」

 銀色の刃が振り下ろされて、威斯はそれを刀の鞘で受ける。

「……よぉ、随分な挨拶だな真夜ちゃぁぁん!」

 無表情の真夜を見上げて、威斯は刀の鞘を額に当てる。頬を伝う冷や汗をごまかすように笑って、力尽くで真夜を押し戻した。

「煌太! 一度退くぞ、救護が最優先だ!」

 慧に引っ張られ、燈瑞にそう怒鳴られる。

「――――嫌っす」

 それでも、煌太は両足をその場で踏ん張った。

「このっ……煌太君! 分かってるだろう、彼女はマジモノだ! こちらは被害者が四人、手が足りない!」

「それでも!」

 慧の言っていることが正しいなど、百も承知だ。

「ここで俺が退いたら駄目なんだ!」

 四人の被害者、こちらの手は五人。威斯は真夜に阻まれ、慧は手負い。ゲンブの能力は未知数だが、この混戦の状況で戦力に数えられるかどうか。自分が第一に動かなければいけないのは分かっている。

 だが。綾音の心に楔を打ったのは恐らく自分だ。綾音のもとにやってきたのも自分だ。

 結果がどうなろうと、綾音を助けたいと思ったのも、自分だ。

「……うん」

 俯いたままで、綾音は小さく呟いた。髪の間から、武器を構える煌太が見える。その黒い瞳は、この場でただ一人、真っ直ぐに綾音を見つめていた。マジモノではなく、綾音を。

「その気持ちだけで、お腹いっぱいだよ」

 さよならを。綾音はゆっくりと左手を持ち上げる。

「――――間に合った!」

 その手を、霖之助が掴んだ。

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