ヒカリのそばで 桐壷編
小学生の時、私はある2人の人間に出会った。
とても綺麗な人達だった。
一方は男の人で、顔は整っているし、細身なのにしっかりとした体つき。スポーツでもやっているのかな?と思えるほどの人だ。
もう1人は女の人。男の人の奥さんであると、左手の薬指から推測した。綺麗な人で、髪は長く、後ろで1つに纏めたものを背中に流している。
すれ違っただけという訳ではなく、父方の親戚の集まりがあった際に出会った2人なのだが、私はその2人に―――特に女性の方に運命を感じた。
その女性は私の生活の中でよく見る顔で、顔を洗っている時やトイレに行った時、お洋服を買う時などで鏡に写る私の顔にそっくりだったのだ。
私は小学生、彼女は成人しているとはいえ、見間違えようがないようなほどそっくりな顔に私も彼女もビックリしてしまった。
瓜二つ。
あるいはドッペルゲンガーなのか。
世界には自分と同じような顔をした人が3人ほどいるという話を聞いた事がある。
また、ドッペルゲンガーなら会ってしまったら死んでしまうとか。
とりあえず一番に思った事を私は聞いてしまった。
「もしかして私のお姉さんだったりしますか?」
………。
一瞬の静寂の後、周りから笑い声が発せられた。
お盆という事で父方の親戚の家に集まっていたのだが、子供の私からしたら退屈で、年の近い親戚はおらず暇を持て余していた矢先のことだ。
周りの人間もあまりのそっくり差に気になっていたのだろう。
こちらに意識を多少向けていたのか、みんな私の言葉に同時に笑ったように思う。
比較的大きく古い家に笑いが溢れた。
「ふふふ、ごめんね。私1人っ子だから、こんなに可愛い妹はいないわ」
優しく微笑む彼女の顔はとても澄んでいて、こんな人になれればと思ってしまった。
そんなどうでもいい事を考えていたら、彼女の後ろからドサッと音がした。
私も彼女も、隣に立っている旦那さん?も様子を見る。
「お母さん。お腹すいた」
彼女の後ろに小さな男の子、推定3歳がお母さんと呼ばれた彼女に抱きついた音だった。
お母さんという言葉に自分の母親の事を想像してみたが、お母さんより若いなぁと思った。
「光流。それより見て見て。お母さんにそっくりなお姉ちゃんだよ」
光流と呼ばれた男の子を抱き上げるという事はできないのか、しゃがんでから男の子を自分の前に誘導して私の顔を確認させる。
「こ、こんにちは~」
とりあえず笑顔を作って手を振る。
「お母、さん?」
さすがに動揺もするのだろう。
推定年齢3歳の男の子からすれば、顔がそっくりな自分のお母さんが出てきたら私でも動揺してしまうだろう。というか今普通に動揺している。
男の子は不安な表情でお母さんの顔を確認してから、私の顔を確認している。
可愛い。
「ふふふ、似てるよね。お母さんも会って驚いちゃった」
「えっと~、私はお母さんではないですよ」
クラスでする自己紹介のようにはっきりと言う。
「兵藤ひなたです。君は?」
目の前にいる男の子はお母さんの後ろに隠れながら、恥ずかしそうにしながらも名前を言う。
「在原光流です」
「光流君ですか。いい名前ですね!」
なんかクラスの人気者とか中心メンバーにいそうな名前だ。
「ひなたちゃんは小学生?」
光流君のお母さんの質問、お互いしゃがんでいるので少し近いなぁ、綺麗だなぁと思いながら応える。
「はい!今小学3年生です!」
「よかったら光流と遊んであげてくれる?」
「はい!光流君一緒に遊ぼう」
小さい体躯の男の子に手を伸ばす。
光流君は躊躇いながらもその手を掴んでくれた。
それが嬉しくて、私は光流君と遊んだ。
それなりに長い時間、お昼を済ませていたので2時頃から日が傾きだした4時頃までの2時間くらい。
子供にしては長いのか短いのか分らないくらいの時間だ。
2人での鬼ごっこだったりかくれんぼだったり。
遊び疲れて、2人で光流君の両親のところに戻った。
先程まで会っていた光流君のお母さんが倒れた。
救急車が来た事を知らされ、私と光流君は車で病院へ向かった。
病院ではすでに、名前も知らない光流君のお母さんは亡くなった。
6年が経って、私は光流君とお父さんの桐弥さんの家に入り浸っていた。
罪悪感という訳ではないのだが、光流君のお母さんが倒れた時、亡くなった時に光流君が傍にいられなかったのは私のせいである。
桐弥さんも光流君も元気がなくなってしまって少しでも力になりたかった。
お邪魔をするという訳ではないのだが家事の手伝いや光流君の勉強の手伝い、遊んであげたいと思ったのだ。
初めて訪れた時はとても驚いた。
広い庭、3階建てにしてもそもそも大きい家、玄関の扉前には柵もある。
中学生になった私は制服のまま在原家にいた。
「お邪魔しま~す」
勝手知ったる家。もはや自分の家のように入っていき、靴を脱ぐ。
「こんにちは。光流君」
玄関を通り過ぎて、リビングに行くと光流君がいるのがいつもの光景だった。
彼は私が来るのを見越してリビングでテレビを見ている。
「姉さんは学校の友達とかと遊ばね~の?」
「え?遊んでますよ、みこっちゃんとは小学校からの親友です!」
ここで言うみこっちゃんというのは私の友人の佐野美琴ちゃんです。
「でも、ほぼ毎日うちにいるじゃん。土日も朝から夜までいるしさ。中学ってそんなんで浮くんじゃないの?」
う、浮いてないよ。美琴しか友達いないとか、小学生の耳に綺麗じゃない世界なんて見せないよ!
「大丈夫です!コミュニケーションには自信ありますから!」
みこっちゃんのフォローがコミュニケーションの要なのです。
「ふ~ん」
「光流君こそ、この間の友達のえっと~」
「惟輝?アイツ面倒臭いんだよ。いちいち細かいところ指摘したりさぁ」
「でも、家にまで友達呼んだの初めてじゃないですか?」
「……相手してやってるんだよ。アイツなんかいっつも一人でいるし、頭も運動神経もそんな悪い方じゃないから遊んでやってるんだよ」
素直じゃないなぁ。
今時の子供というのはそういうものなのだろうか。
私が小学生の頃は好きな子や気に入っている子に対して正直になれなかったり、変にちょっかいを出したりする子が多かったように思う。
リビングのソファ横に学校指定の紺の鞄を置いて、光流君の隣に座る。
「学校の宿題出してください。一緒に終わらせちゃいましょう!」
「後でいいよ~。一人で解けるし、俺が勉強で詰まる訳ないじゃん」
「ダメですよ!宿題をさっさと終わらせてからの方が気兼ねなく遊べますから!」
正直な話、私も夏休みの宿題はできるだけやりたくないのですけど、光流君の為を思えば先に終わらせるという大人風に諭すのは必然です。
「光流君頭いいですから、そんなに時間をかけずに終わらせられますよ」
「まぁな~」
上機嫌になった光流君はもともと宿題をやるつもりだったのかソファの上に置いてある紺のランドセルから教科書とノートを取り出す。
「そういやさ。保護者参観のプリント貰ったんだけど姉さん来る?」
「私保護者じゃないですよ!?」
「冗談だってっば。父さんもどうせ来れないだろうから、不参加だな」
そう言って光流君は筆箱を漁るが、小学3年生の筆箱の中にボールペンは無いだろう。
リビングに置いてあるメモ帳横のスタンドからボールペンと判子を取ってきてから勝手にプリントに書き込んでいく。
在原桐弥 欠席
そして捺印してしまう。
「ダメですよ!しっかりと在原さんに聞かないと」
急いで光流君からプリントを取り上げて、プリントを確認してみます。
「父さんが一度でもこういうのに来たこと無いんだからいいよ。忙しいんだし」
在原さんはとても忙しい。
中学生という事でしっかりと理解している訳ではないですが、すごい大きな企業の偉い人だという話のようです。
「今日も忙しくて帰ってくるの遅くなるってさ」
「お仕事ですからね。そればっかりは仕方がないですけど、もしかしたらこの日は開けてくれるかもしれませんよ」
「時間があるなら休んでればいいんだよ」
その言葉からお父さん思いな息子という印象がより強まります。
お母さんがお亡くなりになってから、お父さんと2人で暮してきて、やはり互いに思い合ってはいるのだろう。
「それよりさっさと宿題しちまおうぜ」
光流君と宿題を終えて、2人でゲームをしているとご年配のお手伝いさんがやってきた。
在原さんが雇っている方のようで、仕事で忙しい在原さんの代わりに家事をやっている。
手慣れたお手伝いさんの動きはまさにプロと言わんばかりで、何度かお仕事中と分ってはいたものの、教えてもらったりしていた。
中学に入ってからもあまり料理をした経験がない。
たまには私にも何か作れないかと思って、お手伝いさんの手を煩わせるのを承知でお願いしやってみたのだが、やはりお邪魔をするばっかりで、光流君の勉強と遊び相手になるくらいに留めている。
外も暗くなり、お手伝いさんが作ってくれたお夕飯を一緒に食べる。
在原家に入り浸るようになってから私の分も作ってくれるようになった。初めはお断りしていたのだが、在原さんにも諭されてここで食べている。
料理を終えたお手伝いさんはそのまま帰宅をして、残ったのは私と光流君だけだった。
7時。
ご飯を一緒に食べるものの、それでもまだ在原さんは帰って来ない。
忙しいというのは分かってはいるものの、彼が9時を超えずに帰って来たのを見た事がない。
光流君は9時になると、急に糸が切れたように眠ってしまうので在原さんとの接点は朝食時だけなのだろう。
私は光流君が眠った後、在原さんが帰ってきてから帰宅するようにしている。
遅いからという理由で車でお疲れな在原さんに送ってもらっているというのも申し訳ないのだが、正直そのほんの少しの在原さんとの時間を楽しみにしている自分がいる。
というのも、こんな自己満足な謝罪のつもりで続けている日課のほんの少しだけ下心があったりする。
私は在原さんが好きなのである。
何度かなんとなく良くない事のように感じていたので、避けていた思いなのだが、どうも好きになっている様なのだ。
在原さんは無口で、あまりお喋りが好き、という風ではなさそうではあるのだが、いろんな事を気遣ってくれる。
未成年だからとか、様々な理由があるのだろうが、人付き合いが決して得意には見えない在原さんが気遣ってくれるというモノにドキドキしたりしてしまっている。
いつも喋る機会があるのは帰ってきて私を来るまで送ってくれる30分くらいの時間だけなのだが、それでも私はその時間を大切にしている。
8時45分。
光流君はお風呂に入り、そろそろウトウトし始めている。
小学生はそれなりに元気であるが故に疲れが早いのだろうか、光流君は他の男の子達よりも体力はある方ではあるが、9時には眠ってしまう。
私では光流君を彼の部屋のベッドには運ぶ事ができないので、眠る前にはベッドには入っていてほしい。
「光流君そろそろ自分のお部屋に行った方がいいんじゃないですか?」
「まだだいじょーぶ」
瞼が重くなってきているのだろうか薄目程度になっている。
彼は在原さん―――お父さんが帰ってくるまで起きているという事をしたい訳ではなさそうだが、いつもできるだけ起きていようと頑張っている。
心の中ではやはり、お父さんを大切に思っているのだろう。
「おきてる、おきてる」
こっくりこっくりと船を漕いでいる姿はとても可愛らしく、睡魔に必死に耐えているようだ。
これは頑張って運ぶ事になりそうであると決意した辺りで、車の音が聞こえてきた。
いつも聞いている音のせいか、その音だけで運転手とこの家の車である事が分ってしまっている。
「光流君、お父さんが帰ってきましたよ」
揺すってみるもどうやら彼は夢の世界に連れて行かれてしまったらしい。
時計を確認すると9時になっている。
なんとも正確な寝方であろうか。
光流君の体は私の方に倒れて私の腕の中で眠ってしまった。
可愛い。
ガチャ
扉が開く音が聞こえてから、少しして靴を脱いでいる音が聞こえてくる。
少ししてからリビングと玄関とを繋ぐ扉が開かれる。
着崩したスーツの男性。背は高く髪は短い。
光流君と同じように整った顔をしているその男性はゆっくりと私に近づいてくる。
「またここで寝ちゃったか」
光流君の頭を撫でる彼の手つきは優しく、大切な物を扱うように触る。
私が抱いている光流君を後ろからお姫様抱っこのように持ち上げる。
「いつもありがとう。少し待っててね」
「あ、はい」
優しく声を掛けられて、緊張してしまった。
毎日の事なのに、いつもの事なのに、在原さんの前では普通ではいられなくなる。
階段を上っていく彼の姿はとても男らしい。
在原さんをリビングのソファで待っているとゆっくりと階段を下りてきた。
「送って行くよ」
「あ、はい」
帰り支度を済ませて、在原家を出る。
在原さんが先程まで乗っていた、そしていつも乗っている車に乗せてもらう。
銀色の美しい形をしたその車、詳しい訳ではないのだが見るからに高そうである。
「失礼します」
何度となく乗っている車なのだが何も言わずに乗るのは気が引けてしまう。
助手席側に乗り、運転手側に乗った在原さんの姿を確認する。
「本当にいつもありがとう」
「いえいえ!こちらこそいつも遅くまでお邪魔して、その上送ってもらっちゃってますし!」
シートベルトをしながらも少し大きな声で反応してしまった。
「光流がああやって明るい子に育ったのは兵藤さんのお陰なのは間違いないよ。片親だと何かと行き届かない」
「在原さんはお忙しいですから仕方ありません。あ、あと今度の土曜日に光流君の保護者参観があるみたいなんですけど、光流君プリント勝手にサインしてたみたいですから、確認してあげてください」
「うん、わかった」
優しい彼は、たぶん行けなかったとしたら謝るのだろう。
申し訳なさそうに。
彼の表情はどうしてこんなに辛そうなのだろう。
私はもしかしたら彼の幸せそうな顔を、笑顔を見た事が無いのではないだろうか。
いつも困らせて、自己満足な謝罪の気持ちで彼に迷惑をかけてしまっているのではないだろうか。
私がしたいのはそんな事では無い。
私がしたかったのは、この残された2人の家族に幸せになってもらいたい。
笑顔になって、幸せそうに笑ってほしい。
通り過ぎるネオンよりも在原さんが気になって、どうにかしたいという気持ちでいっぱいになる。
私にできる事はないのだろうか。
「送ってくださってありがとうございます」
「こちらこそ遅くまでありがとう。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
結局あまり話す事はできなかった。
在原さんを幸せにしたい。在原さんの奥さんは多分それができた唯一の人間だったのだろう。
私もそんな人間になりたい。
朝、自分でセットした目覚ましの音で起きる。
家での生活の少ない私の日課は目を覚まし、支度をし、朝食を食べて、出掛ける。
それだけ。
あとは帰ってきて、お風呂に入って、歯を磨いて、寝る。
それだけ。
私の両親は2人とも健在で、お父さんは忙しく仕事仕事に追われる毎日で、お母さんは専業主婦として生活している。
私は家での生活をあまりしていない。
両親との思い出も正直あまりない。
それに加えて休日も在原家に入り浸ってしまっている。
朝の挨拶と夜、家に帰ってきてからの短い会話。
それ以外に両親と話した記憶があまりない。
良くない事のように思うのだが、私は今の生活を変える事はできない。
「おはよう」
既に制服に着替えた私は自分の家のリビングにて朝食を食べる。
トーストとベーコンエッグ、オレンジジュースというどこからどうみても完璧な朝食。
私がこの家で食べる唯一の食事。
お母さんは毎日お弁当を作ってくれて、私が在原家に通うのも困り顔で認めてくれている。
お父さんもお母さんと一緒で、口には出さないまでも了承してくれている。
親不孝な娘である。
両親や自分の誕生日くらいしか家には寄り付かないというのは。
それでも私は在原家に通う。
「行ってきます」
私が通っているのは近くの公立中学で小学校からのメンバーの半分以上が通っている中学だ。
家から近い、在原家とも近いからという理由なのだが、昨今クラスメイトの間ではそろそろ受験というワードが囁かれている。
中学3年の春、受験を経験した事のない私からしたら少し早いのでは?と感じてしまうこの時期。
在原家に入り浸り、勉強は主に光流君のお勉強を見るという事に専念し、自分の勉強は正直サボりがちになっている。
成績も平均をギリギリ保っているので正直高校受験が心配でならない。
家を出て、住宅街を歩いて数分もせずにそんな事を考えているあたり学生のようであるが、かなり深刻であることは間違いない。
「……勉強か」
得意ではない。
小学校では得意だった算数も数学に進化した途端ついていけなくなってきているし、英語は苦手中の苦手だった。眠くなってしまう。
国語、理科、社会系科目でなんとか点を稼いでいるといった状態である。
「塾なんて行ってる暇ないから、しっかりと勉強しなきゃなぁ」
車の通りは少なくなってきて、同じ制服を着ている人間が増えてきた気がする。
ピンク色の花びらは散り、緑一色になっている桜の木。
段々と強くなってきている陽射しが15歳の肌を焼く。
夏前だと言っても温暖化とかっていう現象で気温は上がり続けている。
首筋や額に少しだけ汗をかきそうなくらいだ。
見えてきた中学校は公立中学にしては少々大きめで、都心から離れているという事が大きいのだろう。
私の事を知っている生徒はそれなりにいる。近くの小学校から上がってきた事もあり、顔見知りばかりなのだが、放課後になればすぐに在原家に通っていたのであまりクラスの人間と遊んだ記憶も無い。
それどころか数名の顔と名前を覚えずに1年が過ぎてしまった事だってある。
私の人生って在原家無しには語れないレベルになっているのではないだろうか。
校庭を行き交う生徒達と同じく下駄箱に向かい、靴を履きかえる。
校内ですら朝という気だるげなワードを無視して喧騒が見える。
「ふじ」
肩を叩かれ、あまり気に入ってはいないあだ名に反応する。
「おはよう、みこっちゃん」
サラサラとした黒髪をショートカットにしている。特徴はあまりないものの、目つきが少し鋭い感じが特徴なのかもしれない。
私は男の子ではないのだがみこっちゃんは凄い良い匂いがするので、話すときはクンクンと嗅いでしまう。
憧れているあの人もそういえばいい匂いがしたなぁ。
「みこっちゃん、そのあだ名やめようよ。せめて名前から取ろうよ」
「いいじゃない。好きよ藤の花」
お花には詳しくないのだが、私の苗字の兵藤の『藤』から取ったのだ。なにもそんな中途半端なところから取らなくてもいいのに。
結構おかしなセンスを持っているというのは小学生の頃から知っていたのだが、やはりそれはいつになっても健在のようだ。
「宿題はやったの?」
「うん、12時までにはなんとか終わったからそれからぐで~ってしちゃったよ」
「そう」
靴を履きかえてゆっくりと会談を上りながらの階段。
朝のこの時間は大抵みこっちゃんは教室で本を読んでいることが多いのだが、今日は寝坊でもしてしまったのだろうか?
「みこっちゃんは今日寝坊?」
「……私に言ってるの?」
「ごめんなさい」
いつでも自分に厳しいみこっちゃんが寝坊とは考えられない。とすると……。
「さっき職員室に寄ってたのよ。進路相談ってやつね」
「お~」
「学校側としてはやっぱり上を目指せる人間には無理矢理にでも良い所に行かせたいらしいわね。そういうのって高校から大学進学に向けてのものだけだと思ってた」
まるで他人事のように語る。
客観的に自分を見るという事は私にはできないのでみこっちゃんはさすがである。
「私も勉強しないといけないよ~」
「自分のことができていないのに人の世話してる暇なんて藤にはないでしょ」
「そうは言ってもさ~」
どうしてもやりたい事があるのだから、それを譲る気はない。
「自分の事ができてからやりな」
階段を上りきり、自分たちの教室に向かう。
どこにでもいる生徒たちはチャイムが鳴るまで教室に入って落ち着こうという事はない。
並んで教室に入ると30組ほどの椅子と机、教卓と黒板が見える。
窓の外には先ほども何度か見えていた、緑色に染まっている桜の樹が見える。
校庭側に窓があるので先ほど通ってきた場所がわかる。
チャイムが鳴るまであと少しの時間しか無いがそれでも校庭をゆっくりと歩いている人間もいれば全力とも言えるスピードで走っている人間もいる。
私の席はそんな窓際にある。
すぐ後ろの席に座った
「みこっちゃんは将来何になりたいの?」
「公務員」
「こうむいん?」
あまり頭は良くない方なので『こうむいん』という言葉から銀行などで働いている人だと思った。
「国とか地方の役職みたいなのとかかな。警察官とかもそれに含まれてる」
「警察官になるの?」
「警察よりは動物園の飼育員かな。たしかアレも公務員だったから」
「みこっちゃん猫いっぱい飼ってたもんね。動物園か~」
「5匹ね。親猫がたくさん産んじゃって結構大変だったけど」
猫か~。いいなぁ。
自分の家にペットなりがいるという状況というのは憧れる。
友人の何人かに聞いてみるとやはり世話だったり、躾だったり、犬に至っては散歩などもしなくてはいけないので大変であると語っている人が数多くいる。
そしてその数と同じくらいその動物を愛している人は数多くいる。
「まぁ、私はペットを飼っている暇はなさそうだなぁ」
やらなければいけない事があるのだから。
「ふじも将来どうするのかくらいは決めとかないとね」
「うん……」
話していると予鈴が鳴り響き、辺りが急に忙しなく動きはじめる。
私たちも会話を終えて先生を待つ。
授業が終わり、私はその足で自宅に戻っていた。
いつもであれば在原家に向かい、光流君の宿題と遊びに付き合う予定なのだが、母親からお呼び出しが掛かったのだ。
『親戚の子を2、3日預かる事になったので今日は家に帰って来なさい』
そんな文面がお昼休みにメールで届いたので、光流君の携帯(小学生で携帯電話を持っていると知った時は驚きました)と在原さんの携帯にそれぞれメールを打っておき、家に帰ることにした。
お父さんは仕事で、お母さんは家に居るので私が戻る必要はあまりないのではないかと思うのだが、どうも親戚の子は私の事を気に入っているようで、招集がかかったようだ。
いつもと同じ通学路。朝、登校する時に通る道は私にはあまり目にする機会の無い道になっていた。
今年に入って何度目になるだろうここを通って帰るのは。
普段在原家へと直行する形になるので学校から自宅への道の景色は見慣れなかった。
別の角度から見る世界というのは全然違うモノなのだなと私は痛切に感じた。
家に帰りつくと、玄関には子供サイズの靴が置かれていた。
「ただいま~」
玄関で革靴を脱いで、リビングに行くとそこにはやはり3歳児の女の子がいた。
「おかえり」
「おかえりなさぁい」
小さな、若い声。普段は聞く事が無い様な若さだ。
「ひさしぶり、ゆかりちゃん」
親戚といっても従妹ほどの近さでは無いのだが、それなりに何度か交流のある子で、彼女が生まれてから何度か親戚の集まりがあると遊んでいた。
母方の方の親戚だったと思うので在原さん達との繋がりはない。
「ひなちゃん、あそぼ~」
おそらく1メートルないくらいの身長の女の子。
制服の袖をグイグイと引っ張るゆかりちゃんの顔を見た後、疲れきっている母の顔を見ると、状況は飲み込めた。
「ゆかりちゃん、ちょっとだけ待っててもらっていいですか。制服だと遊べないから着替えてきちゃいますから」
制服での予測不可能な活動は躊躇われるので、比較的動きやすい格好の方が良いだろう。
3歳児に了解を得てから、2階にある自分の部屋に行く。
中学生女子と比べると物が少ない感じのする部屋。
子供の頃から使っている部屋で、壁紙などは無地であり、机は小学生の頃から使っていた物である。
机横にカバンを提げてから、クローゼットを開けて中にある小ダンスを漁る。
テーマは『動きやすい格好』
ゆかりちゃんは正直大人しめとは言い難い。
最悪外に出掛ける事も考えなくてはいけない事も考えると大変である。
「世の中のお母さんは大変なんだろうなぁ」
とりあえずいつもと同じくジーンズ系の短パンと大きめな明るい灰色のトレーナーを着る。
行くとしてもせいぜい近くの公園くらいだろう。
在原家に行くにしても最近はあまりだが、一時期は凄く服装に気を配っていた様に思う。
制服を脱いで、できるだけ急ぎ目で服を着替えていく。
頭の上からズボッとトレーナーを被って袖を通す。若干の静電気で髪形が乱れた様な感じがする。
机の上に置いてある四角形の卓上ミラーで多少髪形を直してから部屋を出る。
階下が騒がしいので階段を降りるスピードを上げる。
疲れ切った母の顔が見えた。
家に到着したのが4時前で今現在町中に響いている悲しくなるようなメロディは5時を知らせる為のモノだ。
1時間ほど公園でゆかりちゃんと遊んだ事による疲労感はとんでもないモノだった。
母は到着早々保護者という体で近くのベンチで私とゆかりちゃんを眺めていたのだが、私はというと砂場で山を作りトンネルを開通させたり、一緒に滑り台を延々滑っては上りを往復したり、ジャングルジムに上り始めたゆかりちゃんをハラハラしながら見守ったりしていた。
傾いたお日様はオレンジ色に輝き、空は段々と茜色に染まっていく。
「ゆかりちゃん。そろそろお家に帰りましょうか。暗くなって来ちゃいましたよ」
すぐ近くにいるゆかりちゃんに声をかける。
「え~、もっとあそぶ~」
年下の子の扱いは光流君で実践して、それなりに慣れてきたつもりでいたのだが、光流君はもしかしたら大人しい方なのかもしれない。
「でも、もう暗いですし、ゆかりちゃんもお腹空いて来たんじゃないですか?」
「うん」
一瞬お腹の方を確認した様子が見て取れたのでこのままイケる!
「じゃあ、お姉ちゃんと一緒にお家に帰ってご飯食べましょう!」
「うん!」
パッと出してきた小さな手を見て、「可愛い!」と叫びたくなってしまった。
軽く握ってあげるとギュッと返してくる。
一瞬光流君と初めて出会った頃がよぎったような感じがした。
やはり小さい子というのは可愛いモノだなぁ。
ゆかりちゃんはどうやら家庭問題に直面しているらしく、親戚兼友人である母が一時的に預かる事になったというのが簡単な説明であった。
難しい話はあまり聞いてはいないのだが、それなりに理由があるのだろう。
『子供』という枠から外れていない中学生という身分では流石に両親もその説明はしないようである。
私は特に気にした風でもなくゆかりちゃんと遊んであげる。
その間私の日課であるところの在原家に赴くという事ができないのが残念でならない。
私自身お邪魔している身なのでゆかりちゃんを連れて遊びに行くなんてもっての外だ。
おそらくあの一家、光流君と在原さんは嫌な顔一つせずに許してくれるのだろうが。
ゆかりちゃんを預かっている数日は在原家へは行けなくなる。
その事を先程送ったメールの後に2人に送った。
光流君からは多少不満を言われてしまったが、裏を返せば必要としてくれているというのを感じて結構顔が綻んでしまった。
逆に在原さんからは大人の対応をされてしまった事で少し残念だったりする。
携帯電話を片手に項垂れたり、一喜一憂する様はまるで最近の若者みたいだなぁと意味の分らない実感はしました。
それから数日、悪夢のような否、天使による悪魔の所業かと思えるような日々が始まった。
3歳児の体力に中学3年生でもある私が負ける事はない。筈だったのだが、無尽蔵にも思えるゆかりちゃんの体力は私を圧倒している。
お部屋でおままごと、お人形さんで遊ぶとは程遠く、男の子さながらに外での遊びが好きなようで、連日外で走り回ったりボールで遊んだり、まるで子犬のようでもある。
そして5日くらいが過ぎた日曜日のお昼、ゆかりちゃんは突然本来の自宅に帰宅する事になった。
多少どころではなく惜しまれた別れに、少し嬉しく思ってしまい、「またおいで」と軽い気持ちで言ってしまった。
……嘘ではないけれど、お手柔らかにしてほしいなぁと思った。
ゆかりちゃんのお迎えに来たゆかりちゃんのお母さんは何故かとても疲れきった顔をしており、ゆかりちゃんはそんなお母さんに手を引かれていった。
そんな彼女を見届けた後、私はその足で在原家を目指す。
通り過ぎた嵐の後だとより一層静けさが気になってしまうが、私は久しぶりに在原家に行きたかった。
日曜日なら在原さんもいるだろうし、少しお話がしたいと思った。
やはり土曜日、在原さんは忙しく保護者参観には来られなかったようだ。
光流君もそれはわかっていたし、照れ隠しとかではなくて来なかった事はなんとも思っていないようだ。
「こんにちは」
インターホンを鳴らして、最初に出た言葉。今までやってきた事の1つで、慣れたモノだったが相手によってやはり対応は変わってしまう。
『兵藤さん?すぐ開けるから、ちょっと待っててね』
在原さんの優しい声。
ほんの10秒足らずでその大きな家の玄関はガチャという音共に開く。
1週間のうちで在原さんが出迎えてくれる日曜日。
疲れが吹き飛んだ。
在原さんの要望で偶にはと外で食事に行く事になった。
最初は遠慮していたのだが、在原さんと光流君の経っての希望で連れて行かれる事になった。
さすがに悪いと感じていたので、結構本気でお断りしていたのだが、光流君の押しの強さと在原さんのご厚意に甘えてしまった。
普段家族とあまり外で食事等という事はしていないが、それでごく稀に行くお店よりもどう考えても高そうなレストランに連れて来られた私。
全体的に暗めな灯りと落ち着いた雰囲気のお店。
周りを見回してもカップルだったりが多く。みんなそれなりの身なりで来ている。
子連れな在原さんと子供な私達。
かなり浮いているのではないかと少し周りの目が気になって仕方が無い。
店員さんに導かれたテーブルにはお皿とナプキン、フォーク3本にナイフ2本にスプーン1本。
たまに映画とかでよく見る高そうなお店感しかないない。
光流君と私、光流君の正面の席に在原さんが座る。
「兵藤さん、苦手な食べ物とかはなかったよね」
「えっ、あ、大丈夫です」
「じゃあ、適当にコースで頼んじゃうね」
もはや話があまり入って来ない。
自分の子供では無い中学生をこんな高そうなお店に連れてきてもよかったんですか!?と問いただしたくなるようだ。
「姉さん、飲み物何にする?」
「えっと、ウーロン茶で」
「俺、コーラにしよっかな。ほい、父さん」
「じゃあ、注文しちゃうね」
……一瞬、値段の所を見てしまったような気がしたのだが、気のせいだよね。飲み物一杯が八百円もするなんて。
頭がこんがらがってしまっている。
「あの、本当によかったんですか?こんな高そうなお店……」
「大丈夫だよ。ちゃんとお財布を忘れずに持ってきてるから、気にせず食べて」
車で来ているという事もあり、在原さんも私と同じくウーロン茶を注文していた。
少し在原さんがお酒を飲むとどうなるのかが気になったのだが、仕方が無い。
先に運ばれてきた飲み物で乾杯をして、お話をする。
基本的には私や光流君の話を在原さんが聞き役に徹するのが常だ。
学校の話をして、先程まで預かっていたゆかりちゃんの話をして、また学校の話。
「そういえば、兵藤さんは今年受験じゃないのかい?」
「うっ……。そう、です」
かなり耳の痛い話なのだが、聞かれたからには答えなくてはいけない。
「一応、僕も大人だから聞いておかないとだからね。勉強は進んでる?」
「とりあえず、近場の高校の資料とか集めてみてはいるんですけど、一番近いのが隣駅の進学校みたいなんですよね。結構倍率高くて」
「そっか。あそこ確か校舎を修繕したって言ってたからね。その所為かもしれないね」
「そうなんですか。勉強の方も平均くらいなので……、塾とか通った方がいいんですかね?」
「塾に通ったからといって絶対合格できるという訳ではないよ。個人個人によって勉強法が変わるからね。僕なんかは昔塾に通っていたけど、多人数だと集中が切れちゃったりね」
「あ、分ります!周りが気になっちゃうんですよね」
在原さんの昔の話を聞けたのはこれが初めてで、テンションが上がってしまいそうだった。
「勉強の話はいいよ~。別の話しようぜ」
「ああ、ごめんなさい光流君」
話に入れない光流君をちょっとだけ忘れてしまったのは事実だ。
私も上手な聞き役になれるようにならなくては!
「じゃあ、光流君は学校で何かあった?」
「何かって、う~ん」
「光流、学校で告白された話でもしたらどうだい?」
「ちょっ!?」
「光流君告白されたんですか!?」
小学生で告白とか……、3年生ですよ!今の若い子たちは進んでいるんですね。
光流君は在原さんの方を恨めしそうに睨んでいます。
私は光流君に向き直り聞いてみます。
「で、なんて返したんですか!?」
おそらく目がキラキラしていた事だろう。
あまり友人のいない私もそういう恋愛方面のお話というのはしてみたかったです。みこっちゃんなんかは恋愛にさほど興味が無さそうでそういう事はできませんでしたし。
「普通に断ったよ。別にそいつの事好きだった訳でもないし」
「え~もったいない。どんな子だったんですか?」
「……どこにでもいるクラスの女子。あんま喋ったことないからよく知らない」
「そうなんですか。もったいないですね」
人生で告白されるなんて経験はそんなに多くはないだろう。光流君は顔立ちも整ってて、勉強もできる、運動も得意のようだからおそらくクラスの人気者になっている事だろう。
「光流君はどういう子が好みなんですか?クラスに好きな子とかいるんじゃないですか?」
「……姉さん、結構突っ込んでくるね」
「そりゃ、女の子はこういう恋バナは大好きな生き物ですから!」
両手を握りこぶしにしてアピールします。
女の子がそういう生き物であると分ってもらう機会は逃しません。
「お、俺はいいよ。姉さんこそどうなんだよ。彼氏とか」
少し照れたような顔をしていた所から察するに誰かしら好きな人がいるのは間違いない様です。追々調べていきます。
「私はあんまりですね。美人でもなければ頭もいい訳ではないですから。というかピンチな部類です」
恋愛に興味はあるとはいえ、自分には今のところ無縁な物として思っていました。
クラスでも格好いいなぁと思う男子はいませんし、告白された事もありません。
今いる2人がある意味、私の中での好きになるであろう男性のハードルを上げている気がしてなりませんが……。
「とにかく!色恋している暇はないのです!」
「じゃあ、今度僕が勉強見てあげようか?」
「へ!?いやいや、在原さんお忙しいのにお手を煩わせる訳にはいきませんよ!」
急な申し入れ。それ自体は嬉しいのだが、お世話になり過ぎている自覚はあるのです。流石に勉強まで見てもらったら罰が当たります。
「普段、光流の勉強を見てもらったりしてるからね。そのぐらいはさせてもらえると嬉しいな」
「光流君のは私が教えられるモノだけですし、それに光流君自体、頭が良いのでそれほど教える程のモノもないという事で……」
「……迷惑なら断ってくれていいよ。僕が兵藤さんに感謝しているというのを何かで返したいだけなんだ。僕のできる事と言っても、話を聞いたりこうして食事に連れてったりくらいしかできないからね。しっかりと普段のお礼としてしたいだけだよ」
優しく微笑みながら喋る在原さんは暗い店内でもはっきりとその表情が見てとれて、私はそんな在原さんの言葉をただ聞いていた。
「まぁ、日曜日くらいしか空いた時間がないから悪いけど、どうかな?」
「あ、えっと」
少しだけ見蕩れてしまった。
在原さんの言葉に私は少し照れながらも小さく「よろしくお願いします」と答えた。
その後、料理が運ばれてきて、ナプキンを敷くのはなんとなく知っていたのですが、フォークとナイフをどっちから使えばいいか分らず、光流君に教えられ、在原さんが少し笑ったのが恥ずかしかったです。
夕食というかディナーとでも言えばいいのか、ディナーは終わり、在原さんに家の前まで送ってもらった。
すっかり暗くなってしまった景色に住宅街の街灯。
車から降りて、運転席に座っている在原さんは窓を開けてくれる。
後部座席では満腹中枢に刺激されて睡魔に敗北してしまった光流君がいる。
いつも送ってもらっているこの場所でまた、少しだけお話。
「今日は本当に御馳走様でした」
「こっちらこそ。ごめんね今度はもう少し普通なところを考えておくよ」
食べ慣れない物が多く、また巧にフォークとナイフを使えこなせていなかった為、食事の最中は結構真剣に料理と格闘していた。
「せっかくだからうんと御馳走しようと思ったんだけど、疲れちゃったよね」
「あはは、正直お魚とかはまぁ、大変でしたね。でも、どのお料理も今まで食べたことないってくらいとってもおいしかったです!」
「それはよかった。それじゃあ、来週から勉強を見るから一式持っておいで」
「あ、はい。よろしくお願いします」
頭を下げる。
何かをしたい、と思っているのに逆に色々とされ過ぎで本末転倒である。
どうにかこの在原さんのお世話になりっぱなしライフから脱却しなければ。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
窓を上げないまま、車を操作してゆっくりと去っていく車。
ブォォォという音がドンドンと遠ざかっていく。
なに効果だっけ。
それから毎週日曜日は勉強の日になった。
光流君は構ってもらえないと言って拗ねてしまい、日曜日はよく友達の家に行くようになってしまった。
幼馴染?の所だと言っていたが、女の子の家だろうか……?
最初の内は在原さんと2人っきりになってしまったという焦りがあったのだが、集中してしまうとそれほど気にならなくなってきた。
在原さんは教えるのがそれなりに上手で、1体1というのもあるのだうが分りやすく教えてくれる。
中学になって進化した数学と突然現れた英語に苦しめられていたのにも関わらず、教えてもらうとそれなりに解ける、というか分る。
ただ、漫画やドラマの如くちょっとやっただけでググんと伸びる訳でもないのでそれなりにやっていかなければいけない。
もう一月くらい経ったかなぁ。
「休憩にしようか。お茶入れるよ」
少しだけぼんやりと外を眺めていると、在原さんが声を掛けてくれた。
「ありがとうございます」
本来なら女子力というモノを発揮しなければいけない場面なのだろうがそれは初日に論破されてしまったので大人しくしている。
曰く、少しでも休憩して、次の問題をやろうと。
気遣ってくれているんでしょうが、その優しさが微妙にトゲを感じます。
在原さんは紅茶党というのか、紅茶に並々ならぬ拘りがおありの様で、人に振る舞うのも好きなようです。
紅茶の温度や茶葉など色々試行錯誤してくれているのでしょうが、すみません。正直わかりません。
家に帰ってお家のパソコンで幾つか調べては見たのですが、ダージリン、アッサム、オレンジペコ、アールグレイ……。
どの茶葉はいつごろ、レモンやミルク、ストレートなど様々な種類があって覚えきれませんでした。
なので休憩時間を使って色々飲ませてもらっているという感じです。
ヤカンでお湯を沸かしている在原さんは、何度かヤカンの蓋を持ち上げて中身を確認しています。
温度が分るのか、何度かしていると急に火を止めて(IHコンロというやつです)、空のカップにお湯をそのまま注いでいます。
その後またポットに結構な勢いでお湯を入れて、待っています。
凄い真剣な顔で紅茶を入れているのですが、毎回何を目指しているのでしょうか。
そんな様子を毎度の如く観察していると紅茶が出された。
「はい」
私の目の前に置かれた温かい紅茶。そして温められたミルクとスティックの砂糖。
いい香りを醸し出しているその紅茶にはミルクと砂糖を入れるべきなのだろう。
以前はレモンが添えられていたりしたので、基本的に出されたものを入れれば正解であるという事までは察せるようにはなった。
「ミルクティーですか?」
「うん、アッサムっていう濃い目の茶葉なんだよ。チャイにしてみようかと思ったんだけど気にいったらやってみようかなって」
アッサムは何となく聞いた事があるけれど、ちゃい?ってなんだろう。
疑問符を浮かべながらもミルクと砂糖を入れて飲んでみる。
紅茶の茶色―――紅い水面にミルクを入れていく。
沈んでから広がり、少し螺旋を描きはじめる。
そこにスティックの砂糖を入れる。入れた所が埋没するように上から下へ周囲のクリーム色になった紅茶が落下する。
添えられたオシャレなティースプーンでかき混ぜて一口飲んでみる。
「おいしい」
毎回同じ感想しか言えない自分が腹立たしい。
普段ティーパックやペットボトルでしか飲まない私からすれば表現しようのない味である。
なんか、おいしいのだ。
「そう。兵藤さんはミルクティーの方が好きなのかな。この前のは少し酸っぱそうにしてたからね」
「そ、そんな事は……。でも、こっちすごい飲みやすいし、結構好きな感じです」
「6年くらい来てもらってるのにようやく好みを知ったっていうのもちょっとおかしなものだね」
紅茶を飲む私を見て、在原さんも紅茶を飲んでいる。
「そっか、もう6年か……」
遠い眼差し。
今、私が見ている景色と在原さんが見ている景色は時間とかが噛み合っていない事は分っていた。
しかし、私にはその世界を共有する事ができない。
私の知らない世界を夢想する在原さんの事を何一つとして理解する事ができない。
私はそれが少し、いやかなり寂しかった。
キッチンに立っていたかもしれない綺麗な女性。窓の外にある庭で洗濯物を干していたかもしれない女性。部屋に掃除機をかけたり、一緒に食事をしていたかもしれない女性。
私は何の関係も無い人間だ。
在原さんの奥さんは亡くなってしまった。
それに関して私はただ聞いただけの存在。
在原さんの奥さんと喋ったのなんてほんの数言程度で、彼女からしたら小さい子供がいる程度の認識だったのだろう。
この家に入り浸るようになって6年。
飾られた写真を見た。
在原さんが出会ってから光流君が3歳になって、奥さんが死んでしまうまでの数枚の写真。
とても綺麗で、お淑やかそうで、優しそうで、そして私に似ていた。
もしかしたら在原さんや光流君にはただ辛いだけの存在なのではないだろうか。
奥さんが生きていて、一緒に暮らしていたかもしれない世界を当てつけのように見せている悪魔なのではないだろうか。
もしかしたら、私は……。
家の前にまた車を付けてもらって、車から降りる。
また、今日も遅くまで居ついてしまった。
「在原さん。来週、予定があって来れないかもしれないんです。すみません」
嘘をつく。
「うん、わかった。じゃあ来週はお休みだね。また親戚の子が来るのかい?」
「いえ、そう言う訳じゃないんですけど……」
嘘をついた。
「大丈夫、深くは聞かないよ。それじゃまた。おやすみ」
「……おやすみなさい」
今までのように送ってもらって、今までのように挨拶をし、今までのように見送ったのだが、私は初めて嘘をついてしまった。
先程考えていた私がいない方がという考えが私を蝕んでいた。
どうしてそんな風に考えてしまったのだろう。
悪循環なネガティブスパイラル。
最初はあまり来ない方がいいのかもしれない程度の考えだったのに、今ではどうして生きているのだろう程度まで来てしまっている。
在原さん達はたぶん私が行く事に嫌な顔1つしないだろう。
それでも、2人が―――あるいは片方でも辛い顔をしようものなら、私はいない方がいいという事ではないだろうか。
家に入り、今日もいつも通り寝る。
夏になった。
というか夏服になりました。
薄手の制服を身にまとい、この制服ともこの夏で終わりなんだなと考えると感慨深いものです。
騒がしい蝉も焼きつくす太陽の前に倒れて寝込んでいればいいのに。
学校への道すがら、暑い五月蠅いの地獄でした。
そして夏服になってもそれほど涼しく感じられないので、インナーなども脱ぎたいという誘惑がありますが、さすがに下着を見られるかもしれないという危機感の方が勝ちました。
男子はそんな苦労微塵も無いんでしょうね。不公平です。
首筋や額に汗をかきながら学校に向かいます。
息も絶え絶えというか、どうして学校に行かなければいけないのだろうと学校を、ひいては太陽さえも憎たらしく思えます。
学校に到着すると既に学校に到着しているみこっちゃんを見かけます。
「みこっちゃん、おはよう」
「おはよ、ふじ」
「だからそのあだ名やめようよ」
「それよりも、すごい汗ね」
話を逸らしましたよ。
私はカバンから午後の体育の為の予防策として用意したタオルを取り出します。
「大丈夫。これで拭くから」
如何なる事に対しても備えている女子と言うモノです。
「タオル持ってくるのはいいけど、せっかく近いんだからもっと早く、暑くなる前に来ればそんな滝のように汗をかく必要もなかったのに」
「滝まではいかないよ」
止めどなくかいてはいる。さすがに室内に入ってすぐ汗が止まる訳はなかった。
「みこっちゃんはいつ来たの?」
「私は暑いの嫌だから7時には来て、本読んでたよ」
「え~」
確かにこの学校自体は朝の7時には開いている、という話は何度か聞いた事があるのだが、7時に来ている生徒がいるとは思わなかった。
「暑いのが嫌で?」
「そう、暑さから全力で逃げる為に、5時には起きて支度して来てる」
どれだけみこっちゃんは暑いのが嫌いなのだろうか。
「6時頃ならまだそこまで暑くはないから、それまでに学校に入れば汗をかかなくて済むわよ」
本気過ぎる。
「それより、どうするの?日曜日。用事、風邪、用事、用事さすがの在原さんにだって、そろそろバレてる頃じゃない?」
「バレてるかな?」
「がっつり避けてるってのは伝わってるわよ」
「そんなつもりはなかったんだよ~」
嘘ではない。
日曜日の勉強会はすでに1ヶ月も行っていないのである。
この前のマイナス思考はそれなりに根深く、平日はお邪魔しているので顔を合わせるたびいたたまれない気持ちになってしまう。
できるだけ影を薄くしようとするとそれなりな行動になってしまう。
避けたいのではなく、考えを纏める時間が欲しいのだが、一向に纏らない。
どうしていいのか分らず、どうしたいのかさえ分からなくなってきてしまっている。
在原さんについて考えるだけで頭がグルグルしてきます。
「人間は考える葦である、なんて言った人がいるけど、考えるだけ無駄だよ。ちょっとやそっと考えただけで何かが劇的に変わると思っているなら考えなくても変わっただろうし、考えても考えても分らない事は考える必要はないよ」
「え?考えて分るなら考えなくて、考えて分らないと、え?」
「とりあえず行動してごらん。避けてた訳でもないんでしょ。向こうが完全に避けられてると思っているのは間違いないんだから」
「うっ」
分りやすい部分だけで指摘してもらった事で多少意味がわかった。
つまり、当たって砕けろってことですね!
「わかりました!兵藤ひなた、砕けてきます!」
「その前に授業は受けてね」
在原家日曜日を挟んだ今日月曜日、光流君との遊びの中では大した事は聞けなかった。
日曜日は家に居つかなくなってしまった事で、私が来ていない事を聞いていないのかもしれない。
「姉さんなんかソワソワしてない?」
「そんなことはないです!」
なぜ分かったんだろう。
普段と何の変りもないように過ごしているというのに、最近の小学生は侮れません。
少し訝しむような視線を躱しつつ、いつも通り過ごします。
その後は光流君といつも通り、勉強したり遊んだりをしていつも通り過ごしていました。
いつも通りなら9時頃には帰ってくる筈なのだが、10時になっても帰って来ない。
光流君はとっくに寝てしまい、私もどんどんと眠くなってきてしまっていた。
家人のいないリビングで勝手にテレビを付けたりなんて度胸の無い私はする事も出来ず、ただ教科書と睨めっこしながら時計のカチカチという音を聞いていた。
10時半、そろそろ流石に帰らないとマズイ時間帯になってきたので、リビングに備え付けられているメモ帳を1枚拝借して書き置きを残しておく。
『在原さんへ、お仕事お疲れ様です。今度日曜日の事に関してだったり色々お話したい事があるのでお時間頂けると嬉しいです。ひなた』
そんな内容の書き置きをしておく。
私は自分の荷物を持って、リビングを去り、玄関を出ようとしたところで気がついた。
「これって、鍵掛けられないのでは?」
………。
さすがに入り浸っているからといって鍵は持っていません!
入る時は光流君、出る時は在原さんがこれまでいらっしゃいました。
なんと6年間通っていながら初のハプニングです。
リビングに戻り、対策を考えます。
つまり密室を作ればいいのです。あまり読んだことのないミステリー小説の記憶を掘り返し、私がトレースしようとしているのは探偵ではなく犯人の方というのは珍妙です。
でも、前にテレビで針と糸とかで扉を出た後で施錠する、みたいなトリックやっていた気がします。
どうやるんだったかな。先程書いた置き手紙ではなく、新しいメモ帳を1枚とり、テーブルへ。
簡単な在原家の図を書いて行き、脱出できそうな場所を探します。
扉の構造上かなり難しいです。高級そうな家ですからおそらくセキュリティも凄い筈です。
扉の淵は小細工できないようにしている筈ですし、ピッキングも確か一番セキュリティ能力の高いという窪みがいっぱいあるディンプルキーというのを使っていた筈です。
むぅ、なかなかに強敵です。
推理物の犯人さん達は一体何をどんな思考をすれば極限状態の中で密室を作りだせるんでしょう。
まず逃走経路の確認ですが、やはり玄関が一番ですよね。窓からとか失礼にもほどがあります。
でも最悪2階の窓から飛び降りれば施錠出来なくてもセキュリティ的にはあまり問題無い気がします。
たしか8メートルくらいの高さからなら、当たり所が悪くなければ人は死なないとかって誰かが話していた気がします。
さすがに痛い思いはしたく無いですが、この際仕方ありません。
「なにやってるの?」
「密室の作り方です」
話しかけてきた在原さんにそのまま返す。
「自由研究?」
「いえいえ、在原さんが遅いみたいなので、鍵無しでしっかりと施錠できるか考えていました。あれ!?おかえりなさい……」
「ああ、ただいま」
いつの間にか帰ってきていた在原さんの姿に驚いてしまった。
「ごめんね。遅れちゃって、遅いから、すぐ送っちゃうよ」
「あ、はい」
私はカバンを手に取り、先に玄関に向かってしまった在原さんを追った。
車内という密室はそれなりに緊張感があった。
さすがに毎日曜日ごとに避ける様な事をしていた事は謝らなければいけない。
意を決して、私はエンジン音の中話しかける。
「それにしても密室を作ろうとするなんて思わなかったよ」
「あ、あれはやはり、安全上どうにかしなくてはと思いまして。外側からピッキングっていう手もあったんですけど、あれって鍵壊れちゃうとか聞いた事あったり、やった事ないので自身も無かったですし」
「知らない人が家の前通ったら完全に空き巣に見えるしね」
笑いながら言ってくる在原さんの言葉に改めて自分の思考回路が変であると実感させられる。
「他には、どういうのを思いついたの?」
なおも訊ねてくる在原さんの言葉に答えるように返す。
もういいです。どうせ変わった人間だと思われているのは前から知っています。
「何かのミステリーみたいに針と紐とかで外に出て中から鍵をかけるとかって言うのはあったと思うんですけど、結局やり方がわからなかったので断念して、2階の窓から飛び降りようかと思ってました」
「とびッ!?……間に合ってよかったぁ」
「さすがにやりませんよ!?」
死なないにしても折れちゃったりしたら嫌ですよ!
「兵藤さんはたまに突飛な行動に出ちゃうイメージが強いから、あと1時間遅かったら最終的に実行していたように思うよ」
……なんだかんんだ自分でもやりそうな気がします。
話題が終わってしまい、少しだけ沈黙が流れた。
「……日曜日すみませんでした」
「ん?いや、用事なら仕方が無いよ」
「いえ、その日曜日に限って色々用事だったり風邪だったりで、実はですね、その……」
「ああ、やっぱりそうだったのか。さすがに変だな~とは思ってたんだよね。大丈夫だよ気にしてないから」
やはり思い当たる節があった感じなんですね。
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「いえ、その自分に問題があっただけなので、在原さんはお気を悪くしたかなと」
「そんなことはないよ。まぁ、兵藤さんがいなくて家の中が少し静かに感じたくらいかな」
「そうなんですか?」
「兵藤さんが来ない日は大体静かな日になっちゃうね。いつだかの親戚さんが来てた時も光流と2人で兵藤さんの話をしていたよ」
「私ですか!?」
運転中の在原さんを助手席側から見る。正面を向いている在原さんは淡々と語る。
「勝手な気持ちかもしれないけど、光流なんかは本当にお姉さんのように思っている。家族みたいに。その兵藤さんがいないとなるとやっぱり寂しかったりしちゃうんだよ」
「じゃ、じゃあ日曜日とか、他の日も行ってもいいんですか?」
「もちろん。来てほしいなんて僕から頼むなんておこがましい事はできないけど、来てくれると嬉しいよ」
「嬉しい……」
「ん?うん嬉しいよ」
在原さんの言葉はとても優しくて、胸に閊えていたモノがなくなったのを実感した。
在原さんは嬉しいという言葉を使った。
私はまた行きたいと思った。
また今までのように在原家にお邪魔したいと思っている。
在原さんはそれを許してくれて、私が悩んでいた迷惑ではないか、辛い思いをさせているのではないかという不安を払ってくれた。
何度目か既に覚えていないが家に到着し、車を降りる。
家の前で車の窓を開けて挨拶をしてくれる在原さんを見て、私は言ってしまった。
「在原さん、私はあなたの事が好きです。あなたとすっと一緒にいたいです」
告白をしていた。
季節は巡り、月日が経ち、私は高校生になっていた。
中学生の時に在原さんに勉強を教えてもらっている時に感じた憧れの様なもの。
その後、無事高校に進学してからも光流君に勉強を教えたりしていて、私は教師になりたいと思った。
誰かに何かを教える事ができる。
そしてそれが結果に繋がり、報告に来てくれる事がとても嬉しかった。
私は高校でも在原さんに勉強を習い、光流君は私が見ていた。
教え子の教え子みたいな関係になっているがそれは私としては確たる関係が築けたようでとても嬉しかった。
在原さんはアレから少しだけ私に対してよそよそしい態度を取るようになってしまった。
流石に中学生女子からの告白にはかなり動揺したのだろう。
在原さんからは一言「ありがとう」という言葉を貰ったきりで、それからはその話題は一度も上る事はなかった。
年上の立派な成人男性に対してそんなガツガツ行く事ができない私はそれとなく反応を伺うようにしているのだが、在原さんの態度は変わらない。
「姉さんそれ夏服?」
光流君は今まで通り普通に話しかけてくれる。
小学4年生の彼はまだ、幼さが残る。
「そうですよ!6月からはコレになります」
中学からブレザーではあったものの、それまでの公立校と違って、私立の高校は制服にお金が掛かっている気がします。
ブラウスの色もほんのりピンクっぽく、今は上から白色のベスト、中学まではリボンを付けていたのですが、ネクタイをするようになりました。
ネクタイが上手く既に入学から2ヵ月が経ちますが、未だにネクタイが結べないので、朝はお父さんの手を借りています。
「どうですか?どうですか?」
スカートをホンの少しだけたくし上げて、全身見せます。
4月にも同じ事をした気がしますけど関係ありません。
新しい制服は大抵見せびらかして感想を聞いてみたいものです。
「い、いいと思うよ」
少し照れながら光流君は言ってくれて、とても嬉しくなりました。
光流君もさすがに女の子に服装の感想を言うのはあまり経験していない様なのでここはもしかしたら使えるモテテクを伝授したいと思います。
「光流君、しっかりと見てから言ってくれないと自身が無くなっちゃいます。どうですか?」
正直、いたずら心に火がついたと言った方が本当です。
なんですかこの可愛い生き物は!?
照れながらも渋々こっちを見て、多少頬が赤くなっているのが私でもわかります。
「……と思う」
「もう一度お願いします」
ほんの少ししか聞こえなかったのでもう一度聞いてしまいます。
「いいと思うよッ!」
少し大きめに言われたその感想がとっても嬉しくてお礼をいいます。
「ありがとうございます」
服装を褒められるというのはやはり、いいものです。
ただやはり、着る人によって変わる服装という事で、できるだけ似合うよう普段から心がけなければいけません。
最近夏場になってきたからいいですけど、高校生になって体重が少し気になり始めてきたお年頃です。
低カロリーな物というかお菓子は控えなければいけません。
ですが、そんな乙女の心を未だ知らない小学生男児とお家の中で遊んでいるとどうしてもお菓子とか甘い物が絡んできます。
今も光流君は先程の照れが残っているのかキッチンの方からジュースやお菓子類を取ってきています。
心遣いは嬉しいのですが、やはり気になってしまいます。
かと言って、素直にダイエットしているとは言えないお年頃なのです。
「姉さんどうしたの?」
「い、いえ大丈夫です」
新しい制服のお披露目をしてからのお食事。大丈夫だとは思いますが、スカートのホックを外さなきゃいけない事態にはならないようにしないといけない。
「そういえばさ、今度旅行に行かない?」
「旅行?」
「別荘だか持ってるんだけど、夏休みに3人で行かない?」
「別荘があるんですか?」
一体どれだけのお金持ちなのだろうか在原家。
「父さんとは毎年行ってるんだけどさ、姉さんも行こうよ」
「そうですね。後で予定とか確認してみますね」
在原さんに。
さすがに小学生からの泊まりのお誘いというのは不安である。
在原さんに旅行の件を聞いて、それから考えるという体で行きたいと思います。
旅行自体はとっても嬉しく、実の親とのお出かけ自体あまりなく、たまに旅行という事はしたかなという程度です。
本当に親不孝な娘ですよね。
「父さんにはまだ話してないよ。今思いついたから」
「大丈夫なんですかそれ……」
行き当たりばったりというかなんというか。
お誘い自体は嬉しいので行きたいと思いますが。
大変な事になりました。
一大事とかそういう話しではありません。
光流君と遊んでいたら、ネクタイの片方を引っ張ってしまい。結び目を思いっきり固くしてしまいました。
その結果戻す事が困難になり、ネクタイを外さざるを得ない形になって、今現在ノーネクタイです。
制服のネクタイ。
付けていない人はいるでしょうが、急にそんな社会への反抗みたいな格好つけたいお年頃みたいに思われたくはないです。
お父さんがやっていたように結んでみますがなんか形が不格好になってしまいます。
そんな四苦八苦しながら夜の8時頃。
さすがになんとかしないと在原さんが帰ってきてしまう。
なんかこうグルングルンしてるんですよね。結ぶ時。
「ただいま」
そして玄関の方で扉が開いた音と今日に限って帰りがとても早い知らせ。
私が仕方なしに諦めてネクタイをテーブルに置いて、玄関の方を向きます。
玄関とリビングの扉が開いて、在原さんがいらっしゃいます。
「おかえりなさい」
「ただいま」
挨拶のように普通に会話をする。
告白してもあれから普段とそんなに変わらない日常。
「それが夏服?」
「はい、結構可愛いデザインですよね。私立の学校ってなんかオシャレなの多いです」
立ち上がって在原さんに制服を見えるようにする。
後ろの方もチラチラ見せて感想を求める。
「そうだね。最近じゃ聞かないけど制服が可愛いからとかオシャレだからこの学校に行くとかって言う人も結構いたんじゃないかな。あと基本的にその学校の歩く宣伝広告みたいな面が強いんだと思う」
「な、なるほど」
学校の宣伝、なるほどオリジナリティある可愛い制服目的で入ってくる人もいるんですね。
「でも、悪いことしてたら一発であそこの生徒は素行が悪いって噂が立っちゃいませんか?」
「たぶん制服で悪い事をしようとする生徒っていうのはいないんじゃないかな。制服って言うだけで一種の身分証明書みたなモノだから。学生といえど警戒しているんじゃないかな」
在原さんの物の考え方に圧倒されてしまいます。
なるほど結構いろいろあるんですね。
私は在原さんに制服の感想を聞けていない事を忘れて、在原さんの自論というか考え方を聞いていました。
「ん?ネクタイは付けないの?」
「あ~……」
私の後ろにあるネクタイを見つけて不思議に思ったのか聞いてくる在原さん。
「実はまだ、ネクタイ結べないんですよね……。いつもお父さんにお願いしていたので」
頑張ってはみたんですけど、難しいです。
「ちょっといいかい」
在原さんはカバンを置いてから、テーブルに置いてある私のネクタイを取り、私の正面に立って、私の首にネクタイを引っかける。
え!?これって普通主に結婚してる夫婦がお見送りする時にやるシチュエーションなのでは!?
少し戸惑いながらも、在原さんの行動を見ていると、首に掛けただけで離れてしまう。
そして少し離れてから、在原さんは自分のネクタイの結び目に指を引っかけて引っ張ります。
……な、なんでしょう。もう一回見たいです。
在原さんは緩めた結び目から手を話してそのままネクタイを外してしまいます。
「兵藤さん、ゆっくりやるから見ててね」
「あ、はい」
「左に太い方、右に細い方。太い方を前にするように交差して重なったところを左手で押さえて、そのまま細い方を中心に一周、指ごとね。それでその後太い方を後ろから上に出して、指のある部分に入れて引っ張ればできるよ」
目の前で行われる実演。
なんだかお父さんみたいにグルングルンしていないように思えます。
えっと、太い方を左にして……。
「うん、一周してから後ろ側に持ってきて、上から出して、指の所に通す。うん、そんな感じ」
教えてくれながらだったので意外とできましたが、なぜか簡単にできました。
「これは比較的簡単な結び方なんだよ。たぶん兵藤さんがやっていた結び方は難しからね」
結び方にも色々あるものですね。
私は今やった事を復習する為に一度ネクタイを外してから、復唱しながらやり直す。
左が太くて、交差させて、押さえて、回して、出して、入れる。
「うん。できてるね。前と後ろのバランスは何度かやっていればそのうち覚えると思うよ」
「なんか、今までやってたのってもっとこうグルングルンしてた気がします」
「正式なというか、お堅い感じのものだよ。制服のネクタイならこれで十分だと思うよ」
「なるほど。ありがとうございます」
お礼を言って改めて制服をしっかりと着こなします。
ベストの下にネクタイを入れて、整えます。
「すごく似合ってるよ」
「へ!?」
制服に関しての感想がタイムラグで言われる。
さきほど聞いた時は自分の中では何を言われても大丈夫なように心構えをしていたのに、突発的に言われると驚いてしまう。
「どうしたの?」
「い、いえ、ありがとうございます……」
「あ、父さんおかえり」
お手洗いに行っていた光流君が戻ってきて、挨拶をする。
「うん、ただいま」
「今年も行くよね?姉さんも一緒に行けないかな?」
「ん?ああ、僕は構わないけど、急に考えたのか」
「うん」
あっけらかんと言い放った光流君の言葉は真っ直ぐで私たちはなにも言えない。
「予定とか確認してみないと頷けないよ。毎年お盆とかですか?行ってるのは」
「そうだね。その位しかお休みが取れないから」
「お盆……」
「さすがに兵藤さんもお家で何かあるのかな」
「そう、ですね」
お盆というとおそらく在原さんの奥さんのお墓参りに行くのではないかと勘繰ってしまう。
それなのに赤の他人である私が行ってもいいのだろうか。
いや、本来親子水入らずで行くべき場所に私がいて言い訳はない。
何日かしてから、お断りをしよう。
「両親に聞いてみます」
さすがに何度か説得というかお誘いはされたのだが、行くという選択肢にはたどり着くことはなく、そのままその話は流れました。
お盆終わりに2人からはお土産を貰いました。
そんな何の進展もないまま高校生活は終わりを告げて、大学生になってしまった。
世の中の常識というものでは、高校生や中学生に大人は手を出してはいけない。
そんな暗黙のルールの様なモノがあったようだが、大学生になった今、私に怖いモノはない。
在原さんが気に入ってくれるような女性になりたい。
その一心で、在原家に飾ってある奥さんの写真を見て、清楚な、優雅な、お淑やかな雰囲気を出せるように試行錯誤している。
大学生になってそろそろ落ち着いた人間になる、というのが一番の目標だった。
大学は教育学部がある大学、今までと違って電車を乗り継いだりして行く場所だったので少しだけ遠くなってしまった。
昔から一緒にいた、みこっちゃんとも大学は別々になってしまったので本当の意味で1人になってしまった。
キャンパスライフの初日は友人ができるかどうか不安だったのだが、それなりに仲の良い人間というのはどこにでもいるようで、その人達と過ごしている。
教育学部の教育学科。
比較的得意だった国語科目の中学生の先生を目指す事に決めた私。
教師というのは倍率が高いようで、教員試験を受けたりと色々やらないといけない。
全国でも倍率8倍という結構なもので、教職浪人しつつ試験をクリアさせるのが多いという話だ。
そんな大学生活2年目。
大学生活にも慣れてきて、一番サボりやすくなる頃らしいです。
私の当面の目標は教師になる事と、在原さんから返事を貰う事です。
「姉さん。合コンとかしないの?」
「な、なんですか急に」
いきなり光流君(中学2年生)が合コンなどと言うから驚いてしまった。
いつも通り、ここは在原家リビング。
最近はアルバイトで塾の講師をするようになって、以前みたく毎日のように通えなくなってしまいました。
それでもこうして数日に1度在原家にやってきているのです。
「合コンですか?誘われたりはしましたけど、お酒もまだ飲めませんし、あまりああいう雰囲気苦手なんですよね」
去年一度だけ飲み会なるモノに誘われて、ソフトドリンクだけを隅っこで飲んでいたのだが、大学生というのは1年生であっても決して18歳だけではない。
その中の何人かが、やはり成人していて、悪酔いをしてしまった。
成人しているのに……、というある種大人への羨望が強かったがために当時は愕然としてしまった。
在原さんも酔っぱらうとどうなるのだろう。
「光流君は合コンに興味があるんですか?」
「そうだなぁ。1回くらいは経験してみてもいい気がするなぁ」
「というか、光流君確か年上の彼女ができたとか言っていませんでしたか?愛想尽かされちゃいますよ」
中学生にして彼女持ちな光流君。たしか高校生の方と付き合っていると言っていた様に思います。
「この前色々あって別れちゃった」
「そうなんですか……」
彼の女性関係はそれなりに凄そうです。
とても中学2年生の恋愛とは思えないです。
「そういう姉さんこそ、そろそろ彼氏作らないとマズくない?前に聞いた時は気にしなかったけど、20で彼氏いたことないのはかなり……」
「かなりってなんですか!?かなりって!」
むむむ……、光流君は年下なのに上から言ってきます。
確かに恋愛経験からしたら、私は光流君の足元にも及ばない人間です。光流君はこれまでにも何人かと付き合っていたりとしているかもしれませんが、私は年上です。
少し甘く見られないようにしないといけません。
「私は大人な恋愛をしているんです。光流君のように綺麗な女性とあらば誰でもいいみたいな事はしていません」
「ほ~、じゃあその大人な恋愛で俺をギャフンと言わせられるように頑張ってね」
そう言って光流君はリビングを出ていってしまう。
「どうも、最近光流君の意地が悪くなってきている気がします。反抗期でしょうか」
そして光流君の言葉を思い返し、在原さんと付き合う事ができたら、光流君はギャフンと言うだけでは済まなくなりそうだなと考えてしまいました。
高校生になってから、少しずつではありますが料理を覚え始めました。
やはり料理ができるというのは意外と女性として必須科目ではないかと思い、自分の家で多少覚えていきました。
今では危なげなく幾つかの料理を難なくこなせる女性に進化しました。
そこで、在原家ではお料理をする機会をもらいました。
大学が終わって、時間がある日は私が来て、料理をするという流れができました。
本当なら毎日のように振舞いたいと思うのですが、アルバイトとレパートリーの問題が解決できてはいません。
それなりに経験を積んできたので3人分の食事を作って行き、光流君と私で食べて、夜遅くに帰ってくる在原さんのは温めて食べてもらうという事になりました。
今日も今日とて料理をするチャンス。
形から入るタイプの私は自分のカバンから黄色のエプロンを取り出して準備します。
男の人が喜ぶ唐揚げにしようかと思います。
下ごしらえした取りのモモ肉を使って作りたいと思います。
料理をしている最中、光流君は自分の部屋には行かず、リビングでテレビを見ている事が多くなりました。
流石に料理中に遊ぶ事はできないですし、勉強の方は一通りこなしてしまいました。
「何か面白い番組やっていますか?」
「全然。最近の番組って視聴率が落ちてるのが納得できる程度に面白くない」
そんな事を言っている光流君が見ているのは、ニュース。
地方の方で起きた火災に関するニュースをただ見ている。
ジュウウウウウウッというお肉を油で揚げる音が木霊する。
ニュースに関して話題を振ってみようにも、そこから上手く繋げる事はできそうもない。
沈黙。
調理を終えて、お皿にそれなりに盛り付けてから、リビング中央にあるテーブルに並べる。まな板や使った道具を洗い、片付けてから、私たちは夕食にした。
「いただきます」
その言葉と同時に食べ始める。
前までは主に光流君が学校で遭った事などを話してくれていたので話題に事欠かなかったのだが、最近はお互いに成長したのか静かな時間が多くなったような気がする。
無理に話題を出さないとそのまま何も喋らないまま時間が過ぎていきそうですらあった。
「学校の方どうですか?何か面白い事とかあったりしましたか?」
私の質問に対して、唐揚げを咀嚼していた光流君は口にある分を飲みこんでから答える。
「う~ん、これといってないかな」
「そうですか」
あまり話題がありません。
私も大学生活は正直憧れのキャンパスライフという程では無く、勉強勉強という感じです。
なにかしら面白いお話があればいいのですが。
「そういえば、最近父さんの秘書さんがよく家まで書類届けに来たりするようになってきたかな」
「え」
光流君が何気なく言ったであろうその言葉は私の胸に深く突き刺さった。
「この人父さん狙いなのかなぁとか、父さんも再婚とかすんのかなぁとか考えさせられる感じだったかな」
「そんなにですか」
「まぁ、母さんの事があったにせよ、再婚しちゃいけない訳じゃないしね。それに結構美人だったし」
「美人……」
奥さんを亡くされて11年は過ぎていますから再婚してもおかしくは無いでしょうし、世間一般から見たら在原さんはかなりの優良物件に見えます。
それに秘書さんであれば在原さんの事をそれなりに熟知していると思いますし、まず何より美人さんであるとなれば、傍から見たらすごい絵になるカップルになると思います。
比べて私はまだ大学生であり、容姿も亡くなった奥さんに似ているという点以外特徴の無い人間です。
なんだか落ち込みます。
「再婚するにしても、アレくらいの美人じゃないと義母さんなんて呼びたくないね」
「……光流君は在原さんの結婚は乗り気なんですか?」
「悪いことしてる訳じゃないんだからいいんじゃない?高校生とか中学生に手出されるくらいなら再婚してもらいたいね」
なんとなく耳が痛いような心が痛いような……。
中学生の頃に告白しちゃってるんだよなぁ。
未だに返事をもらえないという生殺しにあっているけれど、確かに当時の私と在原さんが付き合ったら犯罪にしかならない。
……大学生ってどうなんだろ?
私は頭の中で色々と考えながら食事をしていく。
中学生になり、夜更かしできるようになった光流君は在原さんが帰ってくるまで起きていられるようになっていた。
小学校の6年生で夜更かししていたのだけれど、さすがに小学生ではよくないと在原さんに諭されていた。
怒る姿を一度も見た事が無いなぁ、とどうでもいい事に思いを巡らせたが、中学2年生ともなると気にならなくなった。
9時を過ぎても起きていられる光流君はそれまで以上に在原さんとの時間ができたという事だろうか。
「ただいま」
9時過ぎの夜、在原さんはいつものように帰ってきた。
私は在原さんが帰ってきてすぐ送ってもらう事になっているのでいつも料理の感想は次回に回されます。
つまり今日はこの前作った生姜焼きの感想を聞く事になりそうです。
「それじゃあ、光流君おやすみなさい」
「おやすみ」
スウェット姿の彼は家までは来ません。
私はいつもの如く支度をして在原さんの車に乗ります。
「在原さん」
車に乗ろうと助手席側の扉を開けたところに聞こえたその声は私は聞いた事がありませんでした。
声のした方を見てみるとパンツスーツを華麗に着こなしている女性が、自らが運転していたのであろう車から出てきていました。
少し長い髪を後ろで纏めて邪魔にならないようにしている女性、相手を見透かすような釣り上った目。
ふんわりというようなどこかお嬢さま然としていた在原さんの奥さんとは全然別なイメージを印象に受けた辺りで、この人が先程光流君が言っていた人間だと分った。
「弘美さん?どうしたの?」
在原さんも運転席に乗ろうとしていたところだったので、少し驚いた表情で彼女に近づいて行く。
「明日までの書類だったのでお渡しに、一通り目を通してサインをお願いします」
「ああ、すみません。わざわざありがとうございます」
ひろみ、と呼ばれている女性は何度か私の方を訝しんでいながらも仕事の話をしている。
私はそんな在原さんと弘美さんのやり取りを傍から見ている。
他にもいくつか話しているので、横から口を挟む事ができないでいると、それに気付いた在原さんが声をかけてくれる。
「兵藤さん、車に乗っててくれるかい?すぐ済むから」
「あ、はい」
中途半端に開けていた扉を開けて中に乗り込む。
扉を閉めてしまうと外の音は聞こえない。
もしかしたら聞かれたくない話をしているのかもしれない、または単に仕事の話だからなのかもしれない。
仕事の話であるという勝手な判断をしてから、在原さんのお話が終わるのを待つ。
身振り手振りでなんとなく私の話題をしているような感じがする。
弘美さんは私の事を見て、喋り、在原さんも私の方を何度か見て説明するように喋る。
なんだろう……。
やがて話は終わったのか、弘美さんは自分の車に戻ろうとして、一度こちらに頭を下げる。
私も見えるか分からないが返事をするように頭を下げる。
そして在原さんの車の運転席側の扉が開いた。
「ごめんね。長々と」
「お仕事のお話ですか?」
「うん。それと彼女、湖貴弘美さんと言って、僕の秘書をしてもらっている人なんだけど、その人が少し兵藤さんが気になったみたいだったから説明してたんだよ」
「そうなんですか」
「結構優秀な人でね。いつも助けられてばかりだよ」
シートベルトをして、車のエンジンを掛けて発車する。
在原さんが言っている事は恐らく嘘は含まれてはいない、というのは分る。
そして、在原さんが思っているように、なんの気なしに弘美さんは私を気にした訳ではないというのがわかった。少しキツイ眼差しは恐らく敵意である。
在原さんの気持ちは分らないが、弘美さん自身は在原さんの事を想っているのではないだろうか。
そんな事を考えている間にあっという間に車は私の家についてしまい、何も聞けないまま、車を降りて、いつも通り挨拶をして別れてしまった。
大学の違うみこっちゃんに連絡を取り、相談に乗ってもらおうと誘った。
動物園の飼育員では生活できないと思い、獣医というかなりの難関に挑むと言って奨学金で獣医学部に入り、勉強している。
本来狭き門として有名な獣医学部はそんなほいほい入れるものではなく、費用もそれなりにかかってしまう。
それでもみこっちゃんはそこで頑張っている。
そんなみこっちゃんに対して一方的に呼び出して相談に乗ってもらうなんて言うのは虫が良すぎる。
だが、他に相談できるような相手はいない。
みこっちゃんは相談したい事があると言っただけで、その日の午後に時間を作ってくれた。
「たまたま空いてたからね。明日だったら断ってたよ」
そんな風に憎まれ口を叩くが、もしかしたら明日お願いしても空けてくれたんじゃないかと思う。
「それで?相談っていうのはまた在原さんって人?」
「うん……」
「いいよ。聞いてあげる。話してごらん」
私は教師を目指している。なので自分の中では順序立てて説明しているつもりである。
それを聞いてみこっちゃんは―――
「ヤキモチなんじゃないの?」
と、一言だけ述べた。
「どう考えてもその美人と在原さんの事を邪推してってか、何かしらの関係があるんじゃないかって思ってるんでしょ?」
「それは、わかってるよ。なんか改めて言われると何やってんだろ私……」
「ホントにね。それで、じゃあわからない事はなに?在原さんが好きです、もしかしたら女の影がって所まで来て、ふじはどうしたいの?」
「どうしよう……」
ちょっとこうやって考えると泣けてくる。
みこっちゃんは溜め息を吐く。
「また中学の時みたく、砕ける訳にもいかないんだよ。たぶん結果は変わらないよ」
「そうだよね」
そう、今でも覚えている。
ありがとう、というただその言葉は感謝の言葉である筈なのに、とても辛かった。
「まぁ、ふじが暴走しないのであれば、まずは本人に聞いてみればいいと思うよ。どういう関係かとか」
「……変に思われたりしないかな?」
「一回告ってるんだから大丈夫だと思うよ」
みこっちゃんの言う通り、暴走しては行けない。
まずは聞いてみる。うん。
いつもと同じように送ってもらいながらの帰り道。車に揺られながら、私は先程の光流君の言葉を思い出し、口にする。
「在原さんは再婚されるんですか?」
私の言葉は狭い車内と言う事もあり、しっかりと伝わったと思う。
在原さんは少しだけ眉をひそめる。
暗い夜道をライトが照らし、それを見つめながら運転をしている在原さんは少ししてから言葉を紡ぐ。
「再婚は考えてはいないよ」
その言葉の真意はわからない。
アドバイス通り、暴走しないようにと心の中で唱えながらも、それでも私は質問し続けた。
「弘美さんとお付き合いをしてるんですか?」
「……恋人にならないかとは言われたね」
「断ったんですか?」
「尋問みたいだな。……断ったよ」
表情を崩して言った在原さん。少しだけ笑みを浮かべる。
「じゃあ、あの時の答えをください」
沈黙。
あの時とはあの時だ。
5年間耐えてきた。
返事が欲しくて、あの時の告白の返事。
在原さんは何も言わず、ただ車を走らせる。
通り過ぎていく灯りなど気にせず、私は隣に座る在原さんを見続ける。
在原さんの答えを聞く為に。
何も聞く事ができないまま私の家についてしまった。
5年前もこんな感じだった。
在原さんが車に乗っていて、私は意を決して言った言葉の返事をただ立ち尽くしながらも待ち続ける。
私が聞きたかったその言葉を返してほしい。
あの頃とは歳も違う。
子供だったあの頃とは違う。
そして、在原さんの事が好きだった気持ちはどんどんと増していくばかりで、私は在原さんの事ばかり考えている。
嫌だなと思ってしまった。
在原さんが他の女の人に取られてしまう事が。
そんな嫉妬をしてしまっている自分が。
「在原さん、私は在原さんの事が大好きで大好きで大好きなんです」
いつもお世話になっていて。
いつも優しくしてくれて。
スーツ姿カッコイイです。
在原さんが入れてくれる紅茶美味しいです。
疲れているのに送ってもらって嬉しいです。
在原さんに勉強を教えてもらったから良い高校や大学に進めました。
勉強を教える楽しさを教えてもらって、私の夢になりました。
こんなに色々な言葉が頭の中には出てくるのに、伝えたい事はまだまだあるのに、私はこの言葉でしか今の気持ちを在原さんに伝える事ができない。
私は正面から、在原さんをもう一度見て、言う。
「好きです」
在原さんは、何かを考えてから車を降りる。
エンジンを切ってから扉を開けて、降りる。
正面に立たれて、少しだけ気押される。2回目だというのに、足はガクガクするし、手汗も凄い気がする。
とても長い時間が経過している気がする。
頭は冷静なのに顔は暑い。
いつまで待ち続けるんだろうと思い始めていると、在原さんは口を開いた。
「……ありがとう」
5年前と同じその言葉に私は愕然とする。
成功するなんて思っていた訳ではないけれど、それでもこうしてフラレてみると、さっぱりした様な気持になる。
目から涙は出てるけど。
「そうッ、でッ、すか」
涙を流すとどうしてこう、呼吸ができなくなるのだろう。
苦しい。
在原さんにこんな姿を見せたかった訳じゃないんだけど。
「兵藤さん、続き言ってみてもいいかな」
「へ?」
「僕と付き合ってもらえるかな」
それは聞き逃してしまえるようなさり気ないモノで、呼吸困難になっている私からすれば幻聴だったようにも思える。
「えッグ、在原ッ、ざんッ、いばの……」
「ちょっと落ち着いてからにしようか、兵藤さん。はい」
ハンカチを手渡されて、私はそれで顔を隠す。
とりあえず過呼吸気味なので浅く息をします。
少し時間を開けてから私は在原さんに向き直る。
「まぁ、お恥ずかしい話なんだけど、中学生の時にも告白をされた時、あの時は大人としてしっかりと断ったつもりでいたんだよ」
語りだした在原さんの言葉にただ耳を傾ける。
「小さい頃から見てきたし、恋愛感情に発展はしないと思った。兵藤さんの僕に対する気持ちも歳上への憧れだと思っていたから。歳の近い恋人でも作って、忘れた方がいいと思っていたんだよ。そう思っていたら段々と綺麗になっていくし、料理も作ってくれるようになってきて、本当に兵藤さんから目が離せなくてね」
思い出すように語る在原さん。
「失礼な話、君をあの人に重ねていた部分も確かにあったし、もしかしたら兵藤さんを気にし始めたキッカケはあの人に似ているからなんじゃないかと思ったよ。でも、あの人を失って、僕や光流は君という人間に励まされた。ずっと笑顔にしてくれて感謝してる。僕は兵藤さんという人間が好きなんだよ。一生懸命で、いつも元気をくれる、そんな兵藤さんが」
「在原さん」
あの頃からずっと避けられていた。
それは私の気持ちが迷惑とかそういう類のモノだと思っていたから。
「こんな歳の、いい大人が何を言っているんだと思われるかもしれないけど、僕も兵藤さんの事が好きだ」
こんな事があっていいのでしょうか。
私がただただ想っていた在原さんと両想いだったとか。
これから付き合えるという事は彼氏彼女とか恋人とかっていう括りに入る事になるのです。
夢が叶うとかそういう事じゃなく、なんかもう、いいんですかね?
幸せすぎてなんか実感が無いです。
付き合うってどういう事なんでしょう。
一緒に買い物とか食事とかでしょうか。
でも、在原さんは忙しいですし、日曜日だけ一緒に過ごしたりとか良いんですかね。
フラれたと思って泣き腫らしたり、逆に予想外の告白をされたりでもう、なんか目がルンルンになってしまっています。
布団に入ったのは良いんですが、どうにも眠れる気がしません。
在原さんと付き合える―――いえ、すでに付き合っているんですよね!
段々と脳内の私が五月蠅くて体が寝てくれなくなってきています。
一夜が明けて、朝起きてから思った事は1つ。
「夢だった気がする」
胡蝶の夢というものがあって、確か蝶になる夢を見たお坊さんが蝶になる夢を見たのか、今が蝶の見ている夢なのかというモノだ。
告白される夢を見ていたのか、告白された後の夢を見ているのか。
いや、なんか違う気がする。
朝は弱いので考えが纏りません。
とりあえず大学生らしくゆっくりと起床します。
ベッドから出てみると机の上で充電している愛用の携帯電話がなにやら通知をお知らせしてくれている。
メールが1件。
『おはようございます』
“いつも”とは違う物。
在原さんとのメールは何かしらの用件がある時だけで、挨拶をする為だけにメールをするという事はこれまでした事は無かった。
大学生になって高校時代より2時間は遅い時間に起きている昨今、現在の時間は9時30分である。
着信は1時間前でおそらくすでに在原さんはお仕事をしている頃だろう。
悲しいかなお仕事の妨害になるようなメールは送れない。
なのでこの眠気を飛ばしてくれたメールの返信はお昼時を狙うしかない。
付き合うとは何をすればいいのか、それ自体に憧れた事はあまりなかった。
ただ、在原さんに私の気持ちを伝えたくて、私がどう思っているのかを知ってほしいという身勝手な物だった。
でも今日のこのメールを見た時、嬉しさとかが急に爆発したみたいになった。
大学に行く支度をしながら何度か携帯電話でそのメールを見返して、ニヤニヤしてしまう自分がそこにはいた。
大学生活を謳歌している人間達。
大学での講義を真面目に聞いている人と、せっかく入った大学にも関わらず私生活を優先する人。
悪いという訳でもないし、後悔しない選択ができればそれでいい。
課題をこなし、アルバイトをして、遊ぶというどこにでもいるような大学生活をしている私。
教育学部の勉強はそれなりに大変で、色々な事を学ばなければならない。
卒業までに取らなければいけない単位数も他学部などに比べて少し多く、実習などもある事からかなり忙しい。
そして、私の日課でもある日曜日は在原さんと過ごす事ができる日というのはそれなりにキツイ大学生活の癒しになっていた。
水族館や映画、ドライブにも私を連れていってくれるようになり、またお家で過ごす日も美味しい紅茶を丁寧に入れてくれる。
騒がしい場所などを避けたり、食事に連れていってくれるのだが、在原さんは全てにおいて私がお金を出す事をさせなかった。
デートであって貢いでもらいたいという訳ではない。
在原さんは僕はもう社会人だから当たり前の事と言って、お金を受け取ってくれる事がなく、いつもいつも少しだけ申し訳ない気持ちになってしまう。
折角のアルバイト代も平日の食費や携帯電話、多少の衣類程度にしか使い道が無い。
年齢差があるというのも今まで憧れに近い感情だったからよかったのだが、そういうフェアな関係になるのは大変なものであるとわかった。
雨の日に外のお出かけできない日、ある意味こういう日はなにか奢ってもらうなどという事は無いので気兼ねなく過ごせる。
「はい、ミルクティー」
目の前に温かいミルクティーが置かれる。
以前の飲み比べで私はミルクティーの方が好みであると分った為、一貫して入れてくれるのはミルクティーになった。
そのミルクティーも色々毎回変えているようで、多少匂いが分ってきたような気がする程度になってきた。
温かい紅茶を、いつの間にか用意されていた私専用カップで出された。
「いただきます」
紅茶を飲んで、まったりと過ごすというのもそれなりに雰囲気があると思う。
光流君は相変わらず、女の子と付き合っては別れという事をしていたり、数少ない男友達の惟輝君?の所に入り浸っているようだ。
日曜日はもっぱらお出かけする事が多く、雨の日であろうと関係なく出掛けてしまう。
さすがに私と在原さんの事はまだ伝えてはいない。
本人も在原さんが誰と付き合おうと気にしないというような事を以前述べていたので心配はないと思うのだが、私が伝えられないのは他にも理由がある。
「美味しいです」
毎回同じ事を言う事しかできないが、在原さんはそれでも嬉しそうに笑ってくれる。
好きな人との休日の過ごし方としては悪くないと思っている。
しかし、在原さんとは未だ手を繋いだ事も無い。
在原さんの中では気を使ってくれているのだと思うのだが、デートとして水族館に行った時も触れてはいない。
大切にされているのだろうが、できれば私は彼と手を繋いで一緒に水族館を回ったりという事もしてみたかったなぁと少し残念だった。
私達の関係は既に咎められるようなものではなくなっている。
……かと言って実際に手を繋ぐという事はできない。
「元気が無いけどどうかした?」
「そんな事ないですよ。なんだか落ち着くなぁってなっちゃって」
そうなのだ。べつに不満がある訳ではない。
ゆっくり、自分達のペースで進めばいいのだ。
でも、少しだけ。
手を伸ばして在原さんの手に触れる。
「ん?どうしたの?」
「えーっと、手大きいなぁって思って」
「男女差だよ。やっぱり女性よりは少し大きいかな」
私の右手と在原さんの左手。
鏡に写したように手の平と手の平を合わせる。
指が私の指よりも長い。
当たり前の事だが、男性方が長い事はわかっている。
ただの口実だ。
でも、それだけでも何か伝わる気がする。
私がそうやって手に触れたことで、少しの沈黙。
在原さん右手が伸びてきて私の左手を優しく包む。
優しそうな眼で真っ直ぐに向けられる視線。
吸い込まれるように近づいて行って。
いつの間にか比べていた手が恋人繋ぎのようになっていた。
私は少しだけ、彼の真っ直ぐな視線から逸れようとするけれど、少しだけ我慢。
すぐ目の前にある彼の顔。
私は―――
ガチャ
私の後ろから聞こえた突然の物音。
私と在原さんは驚いて、手を離して音の方を確かめる。
ずぶ濡れになった光流君がそこには立っていた。
驚きの視線を向けられる。
何も言わない光流君に私は取り繕った声で話しかける。
「あ、あれ。光流君。傘、持って行かなかったの?」
光流君は何も言わない。
私は立ち上がり、洗面所に行ってタオルを取って戻ってくる。
光流君の頭にタオルをかけてワシャワシャと拭いてあげる。
その間、何も言わない光流君はじっと在原さんの顔を見ている。
ずぶ濡れだった光流君は、無言で自分の部屋に着替えを取りに行き、お風呂に入ってしまった。
残された私たちは雨の音なのかシャワーの音なのか分らなくなりそうな水音を聞いていた。
重い空気が部屋を満たす。
謎の罪悪感が胸の中にある。
光流君は私にとっては弟みたいに思っていた。
在原さんの息子で私がこの家に通い始めたキッカケでもある男の子。
光流君と在原さんを幸せにしたい。笑顔にしたいと願って、私にできうる事をいくらでもしようと考えた。
逆に迷惑をかけた事も一度や二度ではないだろう。
それでも私が両親以外で大切にしたいと思える数少ない人である。
それなのに、さっきの光流君の顔が忘れられない。
あの時、光流君の顔を見てから、まるで今まで悪い事をしていたかのように思ってしまった。
私がしてきた事は全部間違いなのかもしれないと思ってしまった。
「大丈夫だよ。光流にはこれからしっかりと伝えよう」
「……はい」
正直、在原さんの言葉が頭に入って来なかった。
私はどうしたんだろう。
お風呂から上がった光流君はスウェット姿でテーブルについた。
シャンプーの香りが漂う中、私と在原さんは口をつぐんでいたが、在原さんは口を開いた。
「光流。兵藤さんと付き合う事にしたから」
在原さんの言葉。少し光流君の顔を窺いながらのような言葉。
「……結婚するって事?」
ようやく聞けた光流君の言葉はとても答え難いものだった。
今私たちは付き合うという事で分りあえている。
「まだ、わからない。でも、ゆくゆくは結婚してほしいと願っているよ」
「在原さん……」
少しその言葉が嬉しくて隣にいる在原さんを見てしまう。
「……そう。話はコレで終わりだろ。もう部屋に戻るよ」
「光流君」
立ち上がり、部屋を出ていこうとした光流君に私は声をかける。
「なに?」
扉前で振り向かない光流君。
私はそれでも一言彼に聞きたかった。
「喜んでくれますか?」
光流君に聞きたかった。
私は在原さんだけじゃない。光流君にも幸せに、笑顔になってほしいと願った。
だから私は、光流君が祝福してくれないのであれば―――
「さぁ、いいんじゃない?」
「ありがとうございます、光流君」
素っ気ない返事でも、私はとても嬉しかった。
光流君はそんな私の言葉を聞いた後すぐ自分の部屋に戻ってしまった。
彼なりに祝福してくれているのではという安直な思考に達し、隣にいる在原さんに笑顔を向ける。
「オッケーみたいですね!」
「うん、そうだね」
在原さんも笑ってくれる。そして、在原さんはすぐ真面目な顔をする。
「さっきは光流にああ言った手前、今言っておきたい事があるんだ」
「……はい」
「今はまだ、大学生だしそういう考えをした事が無いかもしれないし、変に焦りたくなかったから、言いだせなかったんだけど、結婚の事少し考えておいてほしい。正式なプロポーズは今できないから保留にしておいてほしい」
「わかりました」
大学2年生。誕生日前の19歳のある日、私は生まれて初めてオーケーをするであろうプロポーズ(仮)をされました。
大学4年の春、段々と就職活動とか、夏の教員採用試験対策をしっかりとしなくてはいけない。
毎年倍率の高いこの試験、一発合格という事が稀である物だが、目指すは一発合格である。
光流君はこの前めでたく高校生になり、より格好良く見えるようになってきた。
近場ということもあり、私が通っていた進学校にお友達と一緒に通っているそうです。
そういえばこの間、光流君が我が家に遊びに来た際、丁度泊まりに来ていたゆかりちゃんが光流君をとても気に入っているのを知って可愛いなぁと思ってしまいました。
ゆかりちゃんとはちょうど一回り違うので今は10歳になったようです。
光流君も妹ができたみたいで嬉しいという事を言っていたのですが、おそらくゆかりちゃん好きと光流君の好きは別種のモノだと思います。罪作りな人ですね光流君は。
私はその後も在原さんとの交際を続けており、大学生活と共に満喫しています。
「光流君勉強大丈夫ですか?」
珍しく在原さんがお仕事の人とお出かけしてしまっている日曜日の午前。
せっかくなのだからと思って、光流君に勉強を教えてあげようと思ってきました。
「いや、授業まだ始まったばっかだしどの程度かわかんないけど、そこまで困ってないよ」
勉強が得意な人というのは勉強の教えがいが無い、という人がいますが、まったく違います。
むしろ勉強ができるなら次の分野、更にその次の分野を教えていきたくなるものです。
「じゃあ、じゃあコレやりましょうコレ」
この前買ってきた問題集をプリントにしてきたモノだ。
テスト形式で分らなかった問題を解説して行く感じでやって行こうと思います。
光流君が習った範囲を大分越えた物だと思うのでこれなら教える事ができそうです。
「べつにいいけど」
特に拒否したりせず、光流君は私からプリントを受け取って問題を解きはじめる。
国語は基本的に難しいのは現代文よりやはり古文や漢文などで詰る場合が多い。
活用形や言葉の意味を理解していればそれなりに解けない訳ではないのだが、ある意味英語のように単語を理解しないといけない辺りが嫌われる要因となっている。
逆にそれさえ覚えてしまえばそれなりに点数を取る事ができる。
「そういえばさ、姉さんは父さんとどこまで行ってるの?」
「へ?」
「恋人としてさ。結婚の話しとかも前聞いたし、そういう事くらいはしてるんかなって」
突然の質問と光流君の考察。
なんて返すのがいいのか私にはわからない。
「えっと、まぁ、在原さんとはうん、普通にお付き合いさせてもらってます」
「だからどこまでって話さ。未だにお互い名字で呼んでるし、正直どうなんだろうって思ってるんだよ」
「今までその呼び方だったから急に変えるのが難しくて……。そんなことより、ちゃんと解いてください」
段々と恥ずかしくなって来そうで、話題を逸らせようとプリントの方に集中させる。
「姉さんも段々大人になってきて多少結婚って言葉に重みが出てきてるんじゃないの?言っておくけど、父さんとは結構な年齢差だよ」
「わかってますよ。でも私が在原さんを好きだと自覚したのは今の光流君よりも下の頃です。その時は何の気なしに言ってしまった言葉がここまで重いモノだとは思っていませんでした」
好きという言葉は重い。
中学生が自分の思いの丈を相手にぶつけるようなモノではないのではないか。
相手に対して真剣になる。
相手を誰よりも思いやる。
相手を本当に好きになる。
自分自身が決心する言葉でもあるのだと思う。
この人が好きであると思いこむのではなく、それを再認識する為の言葉。
この見解は間違っているのかもしれない。
私は好きという言葉を大切にしたい。
「私は、在原さんが好きですよ」
在原さんへの思いを光流君に分ってもらう。
それは難しいのかもしれない。
それでもいつか、私がどこまで在原さんの事を好きでいるのかを分ってくれる日が来たら嬉しいな。
「ふ~ん、できたよ」
私の話を聞いている間もプリントはやっていて、全問埋めてから私に渡してくる。
一瞬不機嫌そうに見えたけど、人のそう言う話しは飽きてしまうよね。
プリントを受け取ると赤いボールペンで確認する。
9割方の正解を見て、本当に光流君は頭がいいなぁと、まるで自分の事のように嬉しくなってしまう。
間違えた所も全くわからないという訳ではなく、間違えやすそうな少し捻ったような問題が多く、その辺りをしっかりと教えれば満点も取れそうだ。
「姉さん」
「なんですか?」
光流君の顔を見るとキスをされた。
「!?」
突然のことで頭が回らない。
目の前には見慣れた顔の男の子。
唇に彼の感触を感じて、すぐに引き剥がす。
「光流君……」
自分の唇に触れながら、光流君の真意を探る。
どうして、光流君はそんなことをしてきたのかがわからない。
「……初めて会った時、覚えてる?」
「それは……」
覚えている。
お母さんにくっついていた小さい頃の光流君。
初めて会って、一緒に遊んだ。
その後とても悲しいことがあったけれど。
光流君との出会いを忘れるわけがない。
「母さんとそっくりで驚いて、すぐに姉さんが好きになってたよ。姉さんがいてくれたから俺も父さんも助かってた」
それは在原さんと同じ言葉。
「だから、たぶん父さんが姉さんに惹かれたのもそれが大きいんだろ。俺も同じだよ。姉さんが好きだから、今こうしてるんだよ」
「光流君、彼女いっぱいいます。それに私は在原さんの恋人です」
「6つ差って下の人間からすると結構なハンデなんだぜ。それにやっぱり自分の気持ちが表に出てるなんていうのは恥ずかしいんだよ。だから彼女作って、誤魔化してたってのが大きい」
「そんな……」
「前にキスしようとしているのを見て、色んな感情が出た。なんかドス黒いのが腹ん中に溜まってる感じがして、たまらなかった」
真剣な表情で語る光流君。
光流君の顔がまともに見れなくて、目を逸らしてしまう。
「俺にしなよ。父さんといくつ差があると思ってるの?喋ってても、デートしてても気を張ってる関係なんて疲れるだけだろ。俺とは何の気兼ねもなく話したり、こうして二人きりでいられるだろ」
「……勝手なことを言わないでください。私は、在原さんの事を想っています。それは光流君よりもその想いは大きいと思います」
絞り出す。自分の想いを。光流君の想いは私には届かないことを私は教えてあげないといけない。
無駄なんだと、私は在原さんが好きであると。
「姉さんは俺の事嫌いなのか?眼中に無い、ただの弟なのか?」
少し傷ついた、苦しそうな顔で言ってくる光流君。
私は在原さんの恋人として拒絶しなければならない。
「そうですよ。光流君は弟で、私は在原さんの恋人なんです。光流君の気持ちに応えることは私にはできないです」
拒絶。
私は光流君を拒絶した。
これでいいのだ。
私は、在原さんの恋人で、彼を悲しませる事はしない。そして、私も光流君が好きだから。
それからは沈黙が続いた。
無理矢理キスをした後、なにかをされるという事もなかった。
ただ重い空気の中、どうしていいかわからないという感じに勉強をしていた。
もう、光流君とは一線を引かなければならない。
それから、私は段々と在原家に顔を出さなくなっていった。
平日の光流君しかいない日、私は顔を出さなくなった。
アルバイトのある日や学校行事のある日は問題ないのだが、やはり人を避けなければいけないというのは抵抗がある。
それでも、光流君への想いは私の胸の中で眠らせなければいけない。
その為にも私はあの家に、在原さんの為以外に近づいてはいけないのだ。
みこっちゃんに連絡を入れて、私は平日の空いてしまった時間を潰す為みこっちゃんを呼び出す。。
「それで、今回はどうしたっていうの?」
「ん~。どう説明していいのかわからないや」
春も終わり頃で、未だ少し涼しさが残る時期に呼び出してしまった。
喫茶店に入り、話をし始めた私たちだが、主に今回の話は私の相談である。
「……それでキスされちゃったと」
「うん」
在原さんに相談するわけにも行かず、私の相談相手はやはりみこっちゃんしかいないのだ。
「なんか前にもその在原さんだっけ?その人に告る前とか避けたりしてたよね」
「今回は光流君だもん。光流君を拒否しなきゃいけないけど、やっぱりそれで避けた方がいいのか分からないし」
「それを相談されてもねぇ。結局ふじがどうしたいかじゃない?」
「私は在原さんの恋人だから……」
「いや恋人だとか今はいいとして、ふじはどう思ってるの?その光流とかっていう子は好きなの?嫌いなの?」
「……嫌いじゃないよ。今まで弟みたいに思ってたし、頼られたりして嬉しかった。少し意地悪になった時は反抗期かな?って思って心配したし、料理も美味しく食べてくれて」
今までの思い出。
そう、決して嫌いになれない相手。
キスされたから嫌いになったりなんてできない。
告白されたからといって嫌いになれない。
弟みたいに思っていた光流君の成長を、たぶん在原さん以上に見てきた。
ずっと男の子だったのにいつの間にか男の人みたいになってた。
「でも、弟だから。私にとっては光流君は弟なんだよ」
いつも一緒にいたけど、それは在原さんも同じ。
私は在原さんの恋人。
「……ふじがそう思うならそうなんだろうね。私は当事者じゃないからわからないけど、ふじの味方のつもり。だから間違えないでとしか言えない」
「……間違う?」
意味深な、なにかを暗示するような発言。
みこっちゃんは私の理解者であり親友だと思っている。そしてだからこそみこっちゃんの言葉は時として重く的を射ていることを知っている。
「怖いよ、みこっちゃん」
「親友を悪い道に行かないようにフォローするのが、私の役目だからね」
格好いいなぁ。
みこっちゃんはいつも私の味方になってくれる。
あまり遊んだことはないし、在原家の事以外、あまり関わってこなかった人間だ。
だから、友達も少ない。
でも、みこっちゃんは在原さんや光流君の事を相談できる唯一の友達だ。
嫌な顔一つせず、聞いてくれる。
「……私ね、私は在原さんの恋人だよ」
だから正面から私が思っている事を告げる。
「答えは出てるんじゃないの?」
みこっちゃんとの相談を終えて、帰路に着いた。
日が落ち始めた5時、私は家について勉強をしている。
何度か在原さんからメールをもらって、平日にあまり寄り付かなくなった事を聞かれた。
教員採用試験が近づいているからと伝えてあるが、その言い訳もどこまで持つかわからない。
いずれバレるかもしれない嘘を吐かなければならない。
光流君の気持ちをなかった事にするには時間をかけなければいけない。
在原さんも光流君も傷つけてしまう事だ。
だから、光流君に会うことはできない。
授業もない。
アルバイトもない。
今日の予定は何もない。
家でそれこそ試験に向けて勉強していればそれでいいのだ。
参考書を開き、机に向うも頭にはなにも入ってこない。
シャープペンをクルクルと回しながら、窓の外、夕焼け色の空を見る。
大学生になって、空を眺めている時間が増えてきた気がする。
ピンポーン
家のインターホンが鳴った。
今現在お母さんは買い物に出てしまっていて、家には私一人。
自分の部屋のある2階から1階に下りて、インターホンに出る。
生まれてから住んでいる家のインターホンは数年前に取り換えて当時の最新式になっている。
画面に映し出されたのは私のよく知る人物で、今最も顔を合わせたくない人物だった。
「はい」
多少逡巡しながらも出ることにする。
『姉さん』
いつも聞く、私を呼ぶ時の言葉。
私はその声を聞いて、どうしようか迷う。
「……待っててください」
一方的に通信を切って玄関に向かう。
玄関まで少し急ぎめに駈けて行き、サンダルに履き替え、扉の施錠を外していく。
扉を開けると、そこにいる見知った顔の男の人を家に入れる。
「どうぞ」
そう言って招き入れる。
弟なのだ。
それに対してなにも迷うことなどない。
「お邪魔します」
彼はゆっくりとした歩みで私の家に入っていく。
私は彼が入ったのを確認してから扉を閉めて、施錠した。
在原さんに触発されて、極々一般的な紅茶の入れ方を覚え、在原さん一押しの茶葉をいくつか紹介されたものを家で入れて飲んでいる。
それを今、光流君と私の分を入れている。
リビングのソファに座っている光流君。
私の家に来たのはそれほど久しぶりではないし、二人っきりになるのに今更抵抗は無い筈なのに、今は少し居心地が悪い。
学校帰りなのか、彼は制服を着て、学校指定のカバンを持ってやってきた。
お湯を沸かし、茶葉を十分蒸らしてから入れた紅茶をトレイに乗せて、リビングにいる光流君のもとに持っていく。
「それで、なにか要件があったんじゃないですか?」
少しだけキツく言ってしまった瞬間に胸に突き刺さる罪悪感。
今までと同じように心掛けてはいるものの、今までと同じように話すことができないでいる。
「この前の事はごめん。裏切るみたいになって」
「それは、もういいですよ。さすがに時間はかかりますけど、忘れます」
「俺は忘れない」
真っ直ぐとこちらを見る光流君。
その瞳には確かに私が移っている。
「光流君……」
光流君の言葉は、私への想いを打ち明けてくれているだけなのに、どうしてこうも私の心を傷つけるのだろう。
光流君が悪い訳ではない。
光流君の言葉はとても嬉しい筈なのに、今では私を傷つける刃になってしまっている。
「俺がした事は強引だったし、姉さんを傷つけたことも十分わかってる。それでも、姉さんにキスしたことは絶対に忘れない」
「ダメですよ。私は光流君とは付き合えないし、付き合おうなんて思ってないんですよ。光流君が辛くなるだけです」
「……じゃあ、教えてくれよ。俺はどうしたらいい?」
辛そうな顔が見たいんじゃない。
私がさせたかったのは彼のこんな顔じゃない。
光流君の辛そうな顔を見るだけで、光流君の辛そうな声を聞くだけで、こんなにも苦しいのはどうしてなんだろう。
「……忘れてください。全部」
感情を捨てて、ただただ何も考えないで、目の前にいる光流君―――男の人を拒絶しなければ。
先ほどみこっちゃんと話している時に結論は出ている。
私はできるだけ頭をクリアに何も思い浮かべない。
「私は、あなたが―――」
苦しくない。
辛くない。
痛くない。
真っ直ぐ伝える。
「嫌いです」
どれだけの時間が経ったのだろう。
光流君は何も言わなくなり、俯いてしまった彼の顔は見る事ができない。
私は立ち上がり、彼に向って冷たく言う。
「そろそろ帰ってください」
しっかりと聞こえる声で言った。
彼はノロノロと、倒れそうになりながらも、立ち上がる。
家に来た時に持っていたカバンを忘れずないように、しかし一度掴もうとしてその持ち手は光流君の手から逃れてしまい、掴み直す。
フラフラとした足取りは重く、今にも倒れてしまいそうな危うさがある。
私は何もしない。
ここで何かしてしまったら、ダメなのだ。
扉を開けて玄関で自身の靴を履く。
玄関の施錠を外して、すべて自力で彼はこの家を出ていく。
「……ずっと今が続けばいいと心から思った」
扉から出て、扉が閉まるまでに映る彼の姿を見守る。
ガチャン
扉が音を立ててしまった瞬間、涙が溢れた。
「……ごめんなさい」
ぽつりと一度呟いた。
まだ近くにいるかもしれない光流君には決して聞こえない声で言った。
だが、その声は私には確かに聞こえていて、たった一言を口にしただけで、私の目から涙が止まらなくなってしまった。
「ごめッ、んなさッ、いッ!ごめッ、さいッ!ごめぇッ!、ひっぐ、ごめッさいッ!」
ただただ涙が出て、止まらなくて。
私は膝を折って、体を丸めるように泣くしかなくて。
光流君を傷つける気なんかなかったのに。
ただただ、苦しくて、光流君はもっと苦しい筈なのに、私も苦しくて。
過呼吸で息ができない。
胸の苦しみが、泣いたのが原因ならいいのに。
ずっとずっとこの場から動けない私は、買い物から帰ってきたお母さんに見つかってしまった。
………。
理由を聞かれても何も言えなかった。
お父さんもお母さんも私の事を心配してくれているのに、何も言えないでいる私がとても情けなくて許せなかった。
私が傷つけたのに。
なにも悪くない光流君を私自身の為に傷付けたというのに。
その事に私は傷付いてしまった。
そんな資格、無いのに。
お父さんもお母さんもどうしてこの状況になったのか分らず、在原さんに相談をしようとしていた。
それだけはなんとしても止めた。
在原さんは関わらせてはいけない。
2人はその事にどれだけ違和感を覚えたかわからない。
泣き続けた私が、在原さんにだけは伝えないでほしいと懇願した事に対して何も思わない筈が無いのに。
それでも私は在原さんには聞かれたくなかったのだ。
日曜日に会うのだから。
泣いている訳にはいかない。
少しでも気付かれてはいけない。
どんな些細な事も、私は貫かなければいけないのだ。
日曜日、在原さんと会う。
デートみたいに外で待ち合わせをしようと。
よく晴れた日で、映画を観に行こうという事になった。
デートはよく行く。
お互いにあまり人の多いところなどは苦手な事もあり、適当な所でお互いに誘いやすいのが映画である。
2人で映画を見る際によく行く、近場の映画館は新しく、駅から近い割に地元民しかあまり使わない。
そもそもその駅事態が、映画館以外にわざわざ訪れる理由になる場所が無い為、いつも空いている。
洋画を2人でゆっくりと観賞してから、近くのレストランで昼食を取る。
映画自体は恋愛モノを主軸にした少しコメディが入っている様なもので、面白かったといえる作品だった。
オシャレなレストランで、店員さんもどことなく品がある感じがする。
内装もモダンな雰囲気で落ち着いて話ができそうである。
運ばれてきた料理に舌鼓を打ちつつ、私は映画について面白かった所などを伝えていると、在原さんが一言。
「兵藤さん、何かあった?」
「え……?」
「いや、勘違いかもしれないしと思ってたんだけど、なんとなく無理してる感じがしたから」
急に鋭敏になるこの感じ。
妙に鮮明になる視界と静かになる世界。
「そ、そんなことないですよ。少し映画の余韻に浸ってるだけですから」
在原さんは私の事を理解してくれている。
だからなのか、少しの違和感でも気付いてくれたんだと思う。
だが、在原さんの言葉はまだ続いていた。
「そうか……。最近光流の方も元気が無くってね。理由を聞いても話してはくれないんだ」
「!?」
あれから在原家には訪れていない。
どうしているのかと思ってはいたが……。
「何日か前に遅くに学校から帰ってきた辺りから様子が変でね。何を聞いても喋らないしでね。正直今日は兵藤さんに相談しようと思っていたんだよ」
光流君のお父さんとして、在原さんは在原さんなりに光流君を大切にしている。
「そしたら兵藤さんも元気が無いように見えたから、困っていてね。でもよかったよ勘違いだったみたいで」
でも、在原さんの優しさはこんな風に突き刺さるのかとわかった。
「原因がわからないから、対処のしようも無いんだ。学校にはしばらく行ってないしね」
光流君の思いを拒絶したから。
「学校から帰ってきた所だったみたいだから、もしかしたら学校かと思って、光流の友達に聞いてみたんだけど、そうでもないらしい」
学校帰りに私の家に来たから。
「もしかしたら兵藤さんなら何か知っているんじゃないかと思って、あるいは兵藤さんなら光流を元気づけられるんじゃないかって思ってね」
私が元凶である。
私の在原さんの想いが光流君を傷付けた。
光流君の私への想いが彼自身を傷付けた。
私の言葉は光流君の心を抉ったのだろう。
傷付いているのに、傷付けたのに平気な顔で会いになんて行けない。
どうしていいのかさえわからない。
私が在原さんと別れて、光流君と付き合えば光流君は元気になるのだろうか。
違う。
それは逆に在原さんを傷付ける。
私が好きなのは在原さんだ。嘘の感情で光流君に顔向けする事こそ、私には絶対にできる筈が無い。
どうして、こんなことになったんだろう。
「光流の事、どうか頼めないかな?」
真剣な表情の在原さん。
「……ごめんなさい。光流君の事、心配です。できることならどうにかしてあげたいんですけど、私、教員採用試験があるんです。今日からしばらく会う事ができない事を伝えないとと思って今日はデートにお誘いしたんです」
「そっか。とても難しくて、大変だって言ってたね。じゃあ、無理は言えないね」
「ホントにごめんなさい。時間を作って、光流君を励ます努力はしてみます」
「ううん、いいんだよ。本来ならもう高校生だ。そろそろ誰かの手を借りずに自立すべきなのだろう」
下手ないい訳だ。
在原さんも少し声のトーンが落ちた気がする。
まさか断られるとは思っても見なかったんだろう。
事情が事情だけに在原さんが気を使わなければいけない事になってしまっている。そしてそれを誘発させている私が本当に許せない。
最近は重い話ばかりだ。
そのどれもに自分がいるのにどうしてこうも上手くいかないのだろう。
「大丈夫。教員採用試験が終わる9月?には決着が着くようになんとかしてみるから、兵藤さんは気にせず勉強に励んでくれればいいから」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。それより、この後寄りたいお店があるんだ。そこに寄ってもいいかな?」
「……はい」
いっそ非難される方が良かったのかもしれない。
それから9月の試験まで、私は在原さんにも光流君にも会うことはなかった。
教員採用試験を受けて、それなりの出来栄えだったと思う事で、現実逃避に近い感覚になり、約1ヶ月後の発表まで待つ事になった。
多くの教師を目指している全国の大学生がそうであるように、ただ願うばかりのこの時間は拷問のようでもあると思っている。
まるで死刑囚の如く、暗い面持ちで待たなければいけないのだが、私にとっては他にも暗くなってしまう事はある。
あれから一度も会っていない2人の男性。
それでも、この数ヶ月何度も考えて結論が出たように思える。
それをそろそろ光流君に伝えるべきだと思う。
大学からの帰り道、およそ春から行かないようにしている在原家。
1時間ほど寄り道をしてから、在原家に向かう。
私の人生で通わなくなる時が来るとは思ってもいなかったし、足取りが重くなるのはとても久しぶりだ。
平日。
在原さんが仕事でいる事は無い。
そんな日を狙ったのは純粋に光流君に会いたいが為である。
会って、話をしなければいけない。
玄関まで行って、私はインターホンを鳴らす。
以前、高校生くらいの時にもらった合鍵は使わない。
家の中には何の音もしない。
もう一度インターホンを鳴らす。
………。
『はい』
電子音のように聞こえてきたのは光流君の言葉だ。
「私です。ひなたです」
『………』
無言でぷつッという音がしてから少しして、在原家の玄関の扉が開いていくのが見えた。
少し痩せたかな。
見た瞬間にそう感じてしまった。
光流君は決して太っている訳ではない。中肉中背でどちらかというと引き締まった体をしていたのに、今では見る影もない程痩せ細ってしまっている。
あれから多少持ち直したのか、目は虚ろにはなってはいなかった。
光流君は私を見て、驚きもなく、小さく「どうぞ」と言って、家に招いてくれた。
私は昔と同じく、今までと同じように勝手知ったる家という風に入っていく。
「お邪魔します」
玄関で靴を脱いで、私は在原家に堂々と入った。
リビングに行くとそれなりに部屋が散らかっていた。
綺麗に整えられた部屋。
私が家事をやり始める大学生より前までは家事はお手伝いさんがやっていた筈で、2人がそこまで綺麗に片付けをしているとは考えられなかった。
「紅茶でいいよね?」
「あ、私がやります」
リビングと繋がっているキッチンでお茶の支度をしようとしていた光流君に断りを入れて変わってもらった。
このキッチンに立つのも久しぶりである。
「お茶入れながら、話しちゃっていいですか?」
お湯を沸かしながら、私は話しかける。
「いいよ」
リビングのテーブルについている光流君はこちらを見ずに答えてくれた。
作業を進めつつ、話す。
「やっぱり、私は在原さんの恋人です。光流君とはお付き合いできません」
ここに来るまでどうやって伝えようか考えて、最終的にストレートに言うしか思いつかず、考えた言葉を彼に話す。
「私は在原さんと光流君の為にこの家に来て、奥さんお母さんの死から立ち直って、笑顔になってほしかったんです。その頃から在原さんには惹かれていて、大学1年の頃には付き合える事になって本当に嬉しかったんです」
カップっとポットを温める。
「それが今年の春にあんな事があって、光流君を傷付けて、その事に傷付いてる自分がいて、光流君が傷付いた事で傷付いている在原さんを見て、それでも傷付いてる自分がいたんです。なんて酷い人間だろうって自分が嫌になりました」
「あれは、俺が全面的に悪いってのはもうわかってるよ。ただ、今でも後悔はしてないよ」
ポットのお湯を捨てて、茶葉を入れてから少し勢いを付けて熱いお湯を注ぎます。
「私が好きと言ってくれた事に対して困惑しました。本当に困ってたんですよ」
少し笑ってしまう。
「弟だと思っていた光流君から告白され、それを無理矢理にでも拒絶して、あの後なんて酷い事をしたんだろうって、ずっと泣きながら謝っていました」
「そう」
ジャンピングしているのが見えたので少し蒸らせます。
「在原さんにも心配されて情けないですよね。私は本来傷付けた側の人間なのに」
「姉さんは自分を卑下しすぎだ。ひな姉がどれだけ魅力的かは俺が、……俺達が良く分ってる」
「ふふ、ありがとうございます」
カップに均等に2杯入れて終わりです。
「光流君の事、大好きです。誰よりも一緒にいたし、初めて会った時から仲良くて、制服も格好良く着こなせて、私が見た男の子の中で誰よりも格好いいですし、頭も良くて、運動もできる。こんな彼氏いたら友達に自慢し放題です」
「はは、そこまで言うなら俺を選んでくれてもいいのにさ」
私はトレイに紅茶を2杯乗せて光流君の所に持って行く。
そして、右手でトレイを支えてテーブルに左手で紅茶を置く。
光流君に見えるように、私はわざわざ慣れない左手で紅茶を零さないように置く。
「!?」
光流君が気付いたので私はトレイを横に置き、改めて光流君に“それ”を見せる。
「私は在原さんと結婚するんです」
先程、光流君がいるであろうこの在原家を目指そうと大学を出ようとした矢先の事だ。
採用試験の日程を調べていたのであろう在原さんに誘われて、以前中学生の頃に一度だけ誘われたレストランでプロポーズをされたのだ。
突然の事に私も驚きが隠せませんでした。
光流君との事をどうするか、それで頭いっぱいだったのです。
でも、以前から私は在原さんのプロポーズに応えるつもりでいました。
オーケーをするとどうやら貸し切りにしていたお店の中にロマンチックな音楽が流れて、在原さんは初めて私の前で、大人のような対応ではなく、まるで子供のように喜んでくれました。
その表情を見て、ああ、私の願っていた事は全部叶ったんだと思いました。
もう、自分が最初小さいながらも考えて考えて、一生懸命考えた、2人を笑顔にするという目標が達成されたんだと思いました。
ひとしきり喜んだあと、すぐに我に返ったのか落ち着いて恥ずかしがってました。
流石に唐突であったと謝られて、家まで送ってもらって、在原さんは少しだけ出掛けてくると言っていました。
予定があると呼び出された時に言っていたのですぐに帰してくれましたよ。
以上でこの左手については終わります。
「なんだよ、それ……」
「指輪ですよ。女の子としての30までには結婚するという強迫観念には悩まされなさそうです」
「そうじゃなくて」
イライラとした光流君、声を通して伝わってきます。
「さっきまで父さんと結婚するとかなんとか言って、俺の事褒め出したりして期待持たせて、それで実は正式にプロポーズされてたとか、意味がわからねーよッ!」
「それでも、私は結婚しようと思っています。それが、私の願いですから」
「そうじゃなくて、いい加減答えてくれよ!いつも、結婚しなきゃいけないとか、まるで自分に言い聞かせてるみたいだ」
「私は在原さんを……」
「父さんの事が好きなら、なんでプロポーズされてすぐ俺の所になんて来れるんだよッ!俺の事なんて放って父さんの所にいればよかったのに」
怒声にもなりそうな勢いで詰問する光流君の言葉。
「俺はあの頃の、ガキままの頃の俺じゃない。俺を見てくれよ、ひな姉」
私の手を握ってきた光流君。私は抵抗する事ができない。
「光流君……」
どうして、時間というのは経つのだろう。
一緒に過ごした時間の分だけ私の中には大切なモノがあり過ぎる。その大切なモノのほとんどに光流君がいるなんて。
「俺は姉さんが好きなんだ」
私は在原さんと結婚する。
「俺を選んではくれないのか……」
「だって、私はあの人を幸せにしたい」
光流君を拒否して、在原さんを選んだ事は違わない。
「父さんはが見ているのは姉さんじゃない。母さんだよ」
「……そんな事ないですよ。在原さんは私を好きだと言ってくれて、奥さんとは違うって言ってくれました」
強く言えない。
どんなに在原さんが真摯にそれを違うと言っても、私は結局疑ってしまうし、光流君は信じていない。
それだけ奥さんの事を想っている、私に酷似した奥さんを。
でも、だからこそ在原さんは在原さん自身の中で違うと判断したからこそ私にプロポーズしてくれたんじゃないかと思います。
「姉さんを、本当に姉さんの事だけを想っているのは、俺だよ」
「……そう、かもしれないですね」
光流君は私にキスをしてきて、私は……。
抵抗しなかった。
………。
「プロポーズ、断れないのか」
「……私は、プロポーズを受けたし、断るつもりもないですよ」
「でも、今ならまだ別に結婚してないんだから」
「婚姻届を出したから結婚したなんて、私は思いたくないです。プロポーズされて受けたら結婚なんだと思います。人への想いを告白して、それに応える。素敵だと思いませんか?」
私は帰る支度をしながら話している。
「光流君とはただの弟に戻ろう。夢は醒めなきゃいけないんだよ」
「どうしてだよッ、姉さんは、俺の事が―――」
「これは裏切りです。もしかしたら誰にも、在原さんにもバレないかもしれない。でも、私自身が知っています。私が目撃者で当事者なんです」
光流君の顔は悲しそうで、私はそれを見ているしかできない。
どうして、こんなに辛いんだろう。
「姉さんは悪くないよ、もともとは俺がやったことが原因なんだから」
「いいえ、光流君だけが悪いんじゃない。私も……」
在原さんの幸せは私との結婚が不可欠で、私は二人を幸せにしたかった。
私は玄関で靴を履いて、振り返る。
光流君が見送りに来ている。
「そういえば、前に言ってましたよね。ぎゃふんと言わせてみろって。ぎゃふんってなりましたか?」
あれは大学1年生の時だったかな。
「……ぎゃふんじゃ済まないくらいだろ。これ」
「じゃあ、私の勝ちですね」
私は笑ってから、光流君にキスをした。
離れてから挨拶をする。
「これで本当に最後です。ありがとうございました」
私は在原家を後にした。
採用試験は残念ながら不合格でだった。
大学を卒業後すぐにニートになってしまったという落胆はあったのですが、不幸中の幸いというべきか、卒業後すぐに私の名前は兵藤から在原に変わり、お腹には子供ができていたのだ。
子供ができていたのはかなり驚いていたし、在原さんも喜んでくれた。
出産は7月か8月で、おそらく教師になっていたら出産だったりで大変だったかもしれない。
わざわざ取った教員免許を無駄にしているみたいで情けないのですが、卒業した頃にはお腹は多少膨らんできていて、卒業式には隠すのに苦労してしまった。
在原さんは喜んだり、謝罪してくれたりしてくれて、本当に結婚してよかったと思えた。
光流君とはあれから口を利かなくなって、在原さんがいる前でくらいしか話さなくなっていった。
気を使ってか、少し離れたマンションの一室に移り住むようにまでなってしまってからは本当に話していない。
「ありがとう、みこっちゃん」
妊娠していることが分かってから、みこっちゃんはちょくちょく連絡をくれるようになった。大学時代はあまり接点を持てなかったのでとても嬉しい。
喫茶店で紅茶を飲みながらの談笑。
「専門は動物だけどね。まぁ、哺乳類ならそんなに変わらないよ。たぶん」
世話をしてくれるだけでもとても感謝なのだけれど。
「結構大きくなってきたね」
「うん……」
膨らんでいるお腹を触る。
「光流君は?」
「私の妊娠が分かって、二人で結婚することを教えたあたりから一人暮らし始めちゃって、それからはあんまり」
「本人は相変わらず何人かと付き合ってたりしてるみたいで、立ち直ったのかはわからない」
最後の記憶はあのキス。
それを思い出すだけで私は苦しくなるというのに、光流君は大丈夫なのだろうか。
もし少しでも苦しいと思ってくれていたら少しは私も救われるかもしれない。
「既婚者に対して聞くのは悪いけど、いつから、光流君の方に気持ちが行ってたの?」
「……最近だよ」
光流君の事を思い出すのは辛い。
でも、辛かった思い出は無いと思いたい。
「中学の時に在原さんに断られた経験談でも話してあげれば?好きな人にフラれた先輩でしょ」
そんなのは参考にはならないよ。もしかしたら、あの時よりも辛いかもしれないんだから。
私たちはこれから別々に生きて行かなきゃいけないから。
もうあの頃みたいに、無邪気には顔を合わせることもできない。
顔を合わせるだけでも、声を聞くだけでも、辛いから。




