外十四話 初老の男
ダンジョンもとい糸目隆司宅をあとにした一行は、ワゴン車で別の街へと向かっていた。
「……まさか金澤さんが残るなんてな」
「まあ瑠璃ですからー」
車に乗っているのは、羽根、糸目明日香、向井の三人である。金澤瑠衣は「本当に隆司様がいるなら女優なんてやめてここに残るわ!」と言い出し、本当に辞職して残留したのである。
「これで明日の朝刊の一面は決まったな。大変なことになった。大ニュースだ」
「冒険者としての実力もありますしー、あそこで十分な生活は送れるんじゃないですねー」
「それはそうだろうが、女優だぞ? それもトップクラスだ。一人の男のために随分と思い切った事をする……」
「私はむしろ、瑠衣って随分とまともだったのだなー感心しましたよー」
「は?」
眉をひそめる羽根に、明日香は髪をくりくりと弄りながら答える。
「だって今までは兄さんがこの世界にいない可能性があったから、女優を辞めなかったって事でもあるのでしょー? 理性が残ったいたんだなーと感心しましたよー」
「それは随分と……アレだな。ハードルが低いというか……」
「瑠衣に普通のハードル用意しちゃだめですよー。破壊されますのでー」
後部座席では向井が自身の銃、試作ガビエルの手入れを行っている。二人の会話に混ざるつもりは無いようであった。
「大変なことと言えばー、羽根もこれから大変なんじゃないですかー? 兄さんの戸籍関連とかー。法規レベルでの対処が必要でしょー? そもそも交渉自体前例のないことでしょうしー」
「……まあ、俺はあくまで現場だからな。その辺りで苦しむのは俺ではない」
「あー……、なるほどー。高木ですかー」
「既に連絡はしたんだが……とても胃の痛そうな声をしていた」
よほど辛そうであったのか、羽根は苦い顔をした。
「なるほど面倒ごとは全部丸投げですかー」
明日香の追い打ち。
「違う! そういうつもりではなかった! ……が、そのような形になった事は否めない……まずここに来ている時点で……ああ、次あったときは良い酒を贈ろう……」
二割三分で、いや駄目か、と唸る羽根の横で、明日香も高木に何かを贈った方が良いかと考える。
(今回の原因大体私か私の身内ですしー、ちょっと迷惑かけすぎましたかねー?)
二人が考え込み、カチャカチャという手入れの音が後部座席から聞こえるだけの車内。
何か音楽でもかけようか、と羽根が前方のオーディオに手をかけたとき、突然明日香が叫んだ。
「羽根! 前!」
「っ!?」
ワゴン車の前方、明らかな自動車道に突然立ち塞がった人影があった。一瞬の間に羽根はモンスターでないと判断し、急ブレーキをかける。
ブレーキの軋む音。タイヤが道路で削れる音。
羽根のハンドルを持つ手は硬直し、明日香はシートベルトに掴まるようにぎゅっと身を丸める。
向井は手入れをしながら前の座席に足をかけ、膝を車の内側に軽く曲げて衝撃に備える姿勢をとった。
幸いにもまだ距離があり、エアバッグが作動することもなくワゴン車は止まった。
羽根は荒々しく扉を開けて怒鳴る。
「馬鹿野郎! 貴様今死ぬところだったぞ!!」
「ひっ、すみません!」
怒声に、人影は怯えたような様子で尻もちをついた。
「その……道を聞きたくて……」
「──」
羽根は頭を抱えるようにして黙り込む。落ち着いてから、冷静に諭した。
「フゥ………それなら、例えば手を上げて歩道で待っているとか、まあ推奨はできませんがヒッチハイクとか、色々とやり方はあるでしょうに……」
「なるほど! その手がありましたか!」
羽根はまた頭を抱えたくなった。髭を蓄えた初老の男性である。見たところ顔の彫りが深く、転移当時の外国人観光客か、異世界人だと推測される。だが外国人は言わずもがな、異世界人であってもこの国の常識、特に自動車周りの慣習は大抵心得ているものだ。ここまで物知らずな人間を、羽根は初めて見た。
(失礼ながら、呆けているのではあるまいな……)
呆けるほどの年には見えないが、早い人がいることも確かだ。だがどちらにせよ、それを前提として対応するのは失礼であるように思われたため、羽根は真摯に対応する。
「それに、ここは交通量が少ないわけでもない。歩行者が全くいないわけでもなし、民家もそこら中にあるでしょう。まず車よりも先に、人に尋ねるのが良いでしょうね。全く、私の部署が違っていればどうなったことか……」
「なるほどなるほど……いやいやすみません。慣れなくて」
羽根の差し出した手をとり、初老の男は立ち上がった。
「お察しのようですが、私は異世界人でしてな。日本の文化というのもになれておらんのです」
「しかし、転移してからもう一年は経っていますよ? これまでどう過ごされていたので? どこかの民家に匿われていたりしたんです?」
「まあ、そのような所です……」
初老の男は答えを濁す。まあ、他人の知られたくない事情に深くつけ入る必要はない、と羽根もそれに関する問答をやめた。
「それで、道を聞きたいと言っていましたね。どこへ行きたいのですか?」
「えっと……コウチに行きたいのですが」
「コウチ……? ここはもう高知県ですが、もしかして高知市のことですか?」
「それは街ですかね」
「まあ、街といえば街ですね」
「であればおそらくそこでしょう。ハラマイ? 橋というものがある街なのですが」
「……もしかしてはりまや橋ですか」
「あ、それですそれです。そこに行きたいのですよ」
本当にものを知らぬ人なのだな、と羽根は嘆息した。もし匿われていたとすればその民家は過保護も過保護だが、そんな人を一人で歩かせるなど、逆に危険極まりない。
羽根としては、道を教えてはいどうぞ、というわけには行かないのである。途中でまた道が分からなくなり、また同じような方法で自らの命を危うくする恐れがある。あるいはそうでなくともこの常識の無さだ。何かしらの事件に巻き込まれる可能性もあった。
「我々もちょうど高知市に行くのですよ。座席も一人分空いていますし、良ければ乗っていきますか」
「お、良いのですか?」
「ここで巡り合ったのも縁ですよ」
(街に着いたら交番に引き渡そう)
真摯な態度は表面だけであった。
後部座席の扉を開け、向井の反対側に初老の男を座らせる。
「シートベルト、つけてくださいね」
「はて? シートベルト?」
首をかしげる初老の男。向井は後ろにある黒いベルトを掴み、強引に引っ張って男に見せた。
「いいか、これだ。さっきも役に立った命綱だ。絶対にこれを付けろよ。この金具をここに差し込めば、それでいい」
「ほうほう、興味深いですな……これはどういう仕組みで──」
ドン、と向井が車内を蹴った。緊張感のある沈黙が流れる。
「ゴタゴタ言わずさっさと付けろ。お前みたいな野郎がいるから交通事故が絶えないんだ。人が死ねば無知は言い訳にならない」
「……」
「無知なお前は、俺の言葉に、ただ頷け。死にたくなきゃ、誰も殺したくなきゃな」
「……分かりました」
今度はおとなしく、男はベルトを巻いた。羽根は少しスッとして嘆息する。と、軽く後方から座席越しに衝撃が来た。向井が蹴ったのである。
(……部下に汚れ仕事をやらせてしまったな)
自嘲し、羽根は慎重にアクセルを踏んだ。
初老の男は流れる景色を絶えず目で追っていたが、体を乗り出し窓に張り付くようなことはしなかった。向井が横目で睨んでいたからである。時々ちらりと向井を見ては、逃げるように視線を戻すと言うことを繰り返していた。
傍から見れば向井は、そんな初老の男の態度に苛ついているようだが、羽根は銃の手入れが出来ないからだな……と何となく予想をつけ、呆れていた。
「そういえば、別にもう一つ道を知りたい場所がありまして……いえ、行きたいわけではないのですが。……よろしいでしょうか」
最後の「よろしいでしょうか」は確実に横の向井に向けてのものであった。向井は沈黙をもってそれに答える。
「……どこですかー?」
気怠げに、明日香は聞いた。
「『ローガードー』という……ええっと、発音を正確には覚えていないのですが、文字の意味は覚えているのですよ。えーっと、『ドラゴン』に『川』、最後に『穴』でしたかな……」
異世界翻訳の性質である。固有名詞はそのままとなるが、分割して意味を伝えるように異世界の言葉で喋れば、日本語として通じるのである。
「ドラゴン川穴……?」
「もしかして『龍河洞』ですかねー? 鍾乳洞のー」
頭の中で混乱している羽根をよそに、明日香は答える。
「おー。確かそんな感じの名前でした。近くにありますか」
「まあ近くですねー」
「そこまでの道筋は?」
カーナビの地図で調べようと羽根は左手を伸ばすが、その前に明日香が答えた。
「今来ている道を戻って、途中で右に曲がるんですよー。結構蛇行してますし登るのでー、徒歩は少し大変ですがねー」
「なるほど右ですか……となればリビルツはどこへ……」
「カーナビより早いとは……流石『地図』の能力だ」
「いや普通にここ私の地元なのですがー……」
「ほう、『マップ』とは貴女の能力ですかな?」
初老の男がぱっと顔を上げて聞いてくる。明日香は少し答えに詰まった。
「まあ、そうですねー」
「どのような能力なのでしょう」
「地図を頭の中で見れる感じですねー」
「それはそれは、戦争で役に立ちそうです」
今度は明日香だけではなく、車内に沈黙が降りた。
「……どうされましたかな?」
「すみませんが」
羽根はバックミラーで男を見ながら言う。
「貴方は未だに異世界にいるつもりなのでしょうが、ここは日本なのです。もう少し考えてから発言してください」
「ふむ……不思議なものですな」
ふぅ、と羽根は強く息を吐いてから、意図的にアクセルを緩めた。