備考欄
「これは、どういうこと?」
大判の写真を前に穏やかな口調で尋ねてくるその人を前にして、あたしは言葉を失ったまま固まっていた。
どどど、どうしよう。
笑顔なのに冷えきったその空気を前に怯えている、というのもあるだろう。
でも、なによりも大きかったのは「やってしまった」という後悔だった。
「説明、できないようなこと?」
静かな問いかけの中にかすかな揺れが見える。
あたしは小さくうなずいた。
「守秘義務が」
それは嘘じゃない。
嘘ばかりついてきたあたしだけど、それは本当だった。
あたしには、守らなければならない秘密がある。
「つまり、仕事の?」
視線に射抜かれながら、あたしはなおも頷いた。
「小さな会社の事務職って、言ってなかった?」
またしても、うなずく。
「小さな会社、か」
男性はテーブルの上にそっと肘をつき、左右の手の指を組み合わせてその上に額を乗せた。あたしからは彼の頭だけが見えて、表情が全く見えなくなる。
「業種だけ、聞いてもいいかな? それはきっと守秘義務の範囲ではないでしょう?」
もうすでに見当はついているのだろうけど、確かめるように問われた。
答えないわけにはいかないだろう。
「探偵事務所です」
蚊の鳴くような声でそう答えると、低くて長いため息が聞こえた。
何かに耐えるみたいな音。
「探偵、か。雇い主は、聞くまでもないな」
「あの、加藤さ……」
「菜耶ちゃん」
加藤さんがあたしの言葉を遮ったのは、これが初めてだった。
「これまでのことは、全部仕組まれてた? 僕らの出会いも、全部」
「あのっ」
喉が詰まって、うまく声が出なかった。
出会いが仕組まれたものではなかったと、どうして言えようか。
依頼が無ければあたしは加藤さんと出会うことなどなかったのだろうに。
「否定、しないの?」
加藤さんの声はどこまでも穏やかだった。
<優しすぎる人>
備考欄に書きなぐったあの言葉を思い出して、私の心臓がぎゅっと縮まった。
そう、あれは1年以上も前のこと。
あの日あたしはいつも通り、勤め先である小さな探偵事務所でお茶を淹れていた。
高校卒業後に数年間フリーターをして、それからやっと見つけた正社員の働き口がその小さな探偵事務所だった。探偵なんてかっこいいじゃん、とシャーロック・ホームズを思い浮かべながら入ったそこは、もっとずっと泥臭い仕事の溢れる場所だった。
「まぁ、たいていワケありだからな」
所長の言葉通り、探偵事務所にやってくるのはワケありの人ばかり。
そしてその「ワケ」はどれも深刻なものばかり。
人生がかかっている人も少なくなくて、あたしはいつだってその話の重さに心をやられそうになっていた。
その上おっちょこちょいな性格が災いして、就職から3年経っても探偵としてひよっ子にすらなれず、ひたすら雑用をこなす日々を過ごしていた。
そんなところに舞い込んだ一つの依頼。
それが、ご主人を尾行してほしいと言う、とある奥様からの依頼だった。
「菜耶、お前やってみるか。暇だろう」
別にあたしに期待してくれたとか適任だと思ったとか、そろそろ仕事を与えてやろうと思ってくれたとかそんな理由じゃない。そのとき、あたし以外の人はみんなテンテコマイに忙しくて、尾行につけるのがあたししかいなかったのだ。
でも初めて与えられたマトモな仕事だったから、あたしは気合たっぷりにそれを引き受け、奥様との打ち合わせに臨んだ。
「主人を尾行して、浮気のしっぽをつかんで欲しいんです」
奥さまはそう言った。
そうか、浮気か。
探偵事務所にいるとすっかり聞きなれてしまうその単語に軽くうなずき、質問事項のペーパーに沿って定型質問を投げかける。
――ご主人のご職業は
――役職は
――浮気を疑われた理由は
「ありません」
は? 思わずそう聞き返しそうになったのを、今でもよく覚えている。
「浮気でなくてもいいんです。離婚の理由になる何らかの弱みさえ見つけてくだされば」
その言葉に脳みそが活動を停止した。
「なんなら、あなたが主人を誘惑してくださってもかまいません。お若いし、そこそこおキレイだし」
どこから突っ込んでいいのか、わからなかった。
そこそこって何だコラぁ。お世辞でも結構って言っとけやぁ。とか、
誘惑って何じゃそりゃぁ、こちとら別れさせ屋じゃねぇぞこらぁ。とか、
弱みって何だそれぇ、そんな抽象的な依頼受けれるかぁ、とか。
あれこれ浮かびすぎてどれから言おうか迷っていると、奥様は言った。
「別れさせ屋は雇ってみたけど全然なびかなかったのよね。主人のタイプじゃなかったのかも」
雇ったことあるんかいぃ。
「あのつまり、ご主人が浮気をされているという疑いを持ってその調査を依頼しにきたわけでは…」
「ありません」
じゃ来んな、と言いたくなったが、そこは喉の奥底に押し込めた。
小さな探偵事務所、一人のお客さんがどれだけ大切か、あたしはちゃんとわかってる。
「それはつまりそのぅ……」
「私が別れたいんです。でも、こちらから言い出すとあれこれ面倒でしょう?」
その後色々と話してわかったことは、とどのつまり自分から離婚を申し出ると慰謝料とかもらえなそうなのが困る、ということらしかった。
奥さまには愛する人がいて、その人と一緒になるためにご主人とは別れたい。
しかしご主人はたぶん素直に別れてはくれないだろう。
愛人がいると言えば別れてくれるかもしれないが、それでは自分に不利な離婚になってしまう。
そこでご主人の弱みを探り出すべく、探偵に依頼にやってきた。
まぁ、よくも、いけしゃあしゃあと。
そう思いながらにっこりして「承りました」と言って、あたしの尾行は始まった。
そう、言わずもがな、その調査対象者が、今目の前にいる加藤さん。
頭を下げたままこちらを見ようともしないその人を、私はたぶん2ヶ月くらい毎日毎日尾行した。
そうしてわかったことは、浮気なんてしていないってこと。
それどころか、本当に――
電車の中で泣いている赤ん坊を見れば変な顔をしてあやし、
重い荷物を持った老人を見ればさっと手を差し伸べ、
足を怪我したひとを見つけるや否や立ち上がって座席を譲り、
バスの中ではバンザイをする。
そんな人だった。
毎日、毎日。
遠くから、近くから、車から。
観察しているだけでこちらの気持ちまで優しくなるような、そんな人だった。
だからあたしは調査報告書の備考欄に書いたのだ。
<優しすぎる人>、と
いつまでたっても望むような成果の上がらないあたしの調査に奥様は随分ヤキモキしている様子だったし、あたしもあたしでこの調査が嫌になっていたある日、あたしはつい、飛び出してしまった。
会社帰りの加藤さんについて歩いていたとき、目の前で女性が倒れたのだ。
もちろん加藤さんはすぐに駆け寄って女性の意識を確認していて。
それをほおっておくことなんてできなくて、あたしは飛び出した。高校時代に受けた救命救急の講座の内容を必死に思い出しながら、救急車を呼んだりAEDを取りに走ったり。
無我夢中でできる限りのことをして、救急車を見送った。
サイレンが遠ざかっていく中、あたしと加藤さんは並んで立っていて。
加藤さんがふう、と一つ息を吐き出した。
「無事だと、いいですね」
話しかけられたことに驚いて、あたしは目を見張った。
「そ、そうですね」
「君も疲れたでしょう、大丈夫?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
調査対象者にバッチリ顔を見られてしまった。
心配そうにあたしの顔を覗き込むその表情に、あたしはうっかりドキドキしそうになって、逃げるようにその場を去った。
その後、あたしはすぐに担当を外れた。
「お前、顔バレなんてバカじゃねぇのか」
所長には叱られたけど、あたしは内心ほっとしていた。
もう会わなくて済む。
あの奥様にも、対象者にも。
奥様は最後まで好きになれなかった。
だって、あんなに優しい人を、傷つけているから。
あたしの仕事は先輩のベテラン探偵に引き継がれたけれど、その先輩も結局奥様の満足するような結果を出すことはなかった。
といっても、担当を交代してすぐに調査が打ち切られたから、先輩が尾行をしていた期間はたった数日だったけれど。
調査打ち切りの理由は、依頼者と連絡が取れなくなったから。
どうやら奥様がしびれを切らして駆け落ちをしたらしいという噂を耳にしたのは、いつのことだったか。
あたしの毎日はまたお茶汲みだけで過ぎて行って、ああもうこの仕事やめようかなぁなんて思っていたある日のこと。
「あ、君は」
声を掛けられた。
加藤さんだった。
「あの日の」
加藤さんは目尻を皺くちゃにして、嬉しそうに笑った。
あたしはちっとも嬉しくなかった。
だって、胸が痛いから。
「よかった、話せたらいいなと思っていたんです。少し、いいかな?」
敬語とタメ語の混ざった不思議な口調。
「はい」
気づいたらそう答えていた。
あの日あたしたちが必死に応急処置をした人は、助かったのだという。
加藤さんのお知り合いが病院で働いている関係で聞くことができたのだとか。
「よかった」
あたしが言うと、加藤さんは大きくうなずいた。
「ほんとうに」
加藤さんはあの日とちっとも変わらない様子だった。
でも、あたしは知ってる。
知らなくていいはずのことを知っている。
奥さん、いなくなっちゃったんでしょう?
つらく、ないのかな。
穏やかな表情の中にはきっとあたしなんかには想像もつかないくらいたくさんの気持ちを抱えているんだろうと思った。
あの時、頭の中でうるさいくらいに警報音が鳴っていた。
ダメだ、今すぐ逃げろって。
それは加藤さんからじゃなく、揺れ動くあたしの気持ちから。
だけどあたしはたぶん、どうしようもないくらい惹かれていたのだ。
毎日尾行して知った、加藤さんの優しさに。
依頼人だった元奥様が「つまらない」と表現した、彼の純粋さに。
気が付いたら彼はあたしのことを「菜耶ちゃん」と呼ぶようになって、あたしは彼を「加藤さん」と呼ぶようになった。
本当に、ただの、ただの、お友達。
ときどき会って、他愛もない話をしながら食事を楽しんで。
何度もやめなくちゃと思った。
加藤さんと会うのも、仕事も。
でも、加藤さんに会いたかった。
加藤さんとおいしいものを食べに行くために、お金がほしかった。
加藤さんはいつもあたしにごちそうしてくれようとしたけど、あたしはしつこく食い下がっていつも少しだけ出させてもらっていた。
そうしないと、本当に自分のことを嫌いになりそうだったから。
調査の終了か打ち切りがあったらすぐに処分しなくちゃならない対象者の写真を、あたしはどうしてもシュレッダーにかけることができずに机に保管していた。
そうやってずるずる、あたしはすべての問題を先延ばしにしてきた。
そして今日。
どうしてだかカバンに紛れ込んだその写真を、加藤さんに見つかってしまった。
ツケが回ったのだ。
先延ばしにしていたツケが。
そう思ったら、不思議と納得できた。
そっか、仕方ないのか。
「菜耶ちゃん」
呼びかけられて、あたしは加藤さんを見つめた。
加藤さんもゆっくりと顔を上げる。
「菜耶ちゃんというその名前は、本当なの?」
数か月間で、加藤さんの口調からはすっかり敬語が抜けていた。
ああ。
そうだよね。
これだけたくさんの嘘をつかれたら。
そんな風に思ってしまうよね。
ただでさえ彼の心には、元奥様のときに味わった苦い苦い思いがあるというのに。
あたしはうなずかなかった。
そこでうなずいて全部説明して、そうしたらきっと加藤さんは許してくれるような気がした。
許してはくれるけど、でも、二度と会ってはくれないだろう。
それだったらあたしは、許されない方がずっと気が楽だ。
うなずかないでいると、加藤さんはゆっくりと立ち上がった。
「君の名前は? なんて言っても、教えてくれるはず、ないか。君は依頼されてここにいるの? 何のために? もうとっくに離婚が成立したのに?」
あたしはじっと加藤さんを見つめた。
もうきっと二度と会えないその人の、顔を忘れてしまわないように。
「答えられないか。守秘義務があるもんね」
加藤さんは静かにそう言った。
「菜耶ちゃん、じゃないのかもしれないけど。でも、僕の知ってる君は菜耶ちゃんだから、菜耶ちゃんでいいかな。菜耶ちゃん、ありがとう」
なんで、お礼なんて。
何度も何度も名前を呼ばれて、おかしくなりそうだった。
加藤さんが呼んでくれる優しい響きが、あたしは本当に好きだった。
「僕はね、菜耶ちゃんの存在に本当に癒されていたから。それがたとえ嘘だったとしても」
ごめんなさい。
心の中で、叫び声をあげた。
許してください。
お腹の底で、そんな声が響いた。
でもあたしの口は噤まれたまま。
加藤さんはゆっくりと立ち上がって、本当にゆっくりと去って行った。
追いかけてほしいのかなって思うくらいにゆっくりと。
終わってしまった、何もかも。
その晩あたしは、家で一人で泣き喚いた。
枕が水でひたひたになるくらい泣いた。
そして翌日、あたしは仕事を辞めた。
別に引き留められもしなかった。
ただ、「仕事やめても守秘義務は残るからな」という念押しを受けただけだった。
守秘義務。
そんなの破っちゃって、あのとき全部説明していれば、もしかしたら。
都合のいい妄想が浮かんできて、あたしはぶるぶると首を振った。
とりあえず、ハローワークだ。
ゼータクなんてしなくてもすぐに底をつきそうな貯金残高にため息をつきながら、就職活動をした。
それは本当に、一生懸命。
あたしには特技と呼べるものなんて何もなかったから、訓練みたいなのも受けてみたりして。
そしてようやく、小さな会社の事務職に就けた。
自分の名前が入った名刺をもらった時は、なんだかとっても嬉しかった。
萩野 菜耶
誇らしげに並んだその文字を見つめてあたしは笑った。
菜耶ちゃん。
そんな声が聞こえた気がした。
「菜耶ちゃん」
え?
顔を上げると、加藤さんが立っていた。
「やっぱり、菜耶ちゃん」
「え? 加藤さん……」
スーツ姿の加藤さんはまるで仕事中って感じの姿で、あたしのデスクの前に立っている。
「菜耶ちゃんは、僕の勤務先を知っているでしょう?」
加藤さんの、勤務先。
印刷会社。
「その名刺、作ったのは僕のとこの会社なんだ。本当に偶然、その名前を見つけて。もしかしてって」
言葉にならなかった。
不意打ちで。
「菜耶ちゃん、本名だったんだね」
今さらどうしようもなくて、あたしはうなずいた。
「あれからいろんなことを考えたんだけどね、菜耶ちゃんはきっと、僕の前に現れる予定なんかじゃなかったんでしょう」
静かな響き。
わかってるんだよ、って言いたげな。
「ずっとほったらかしだった家の整理をしたんだ。そうしたらね、妻が置いていった荷物の中に、調査報告書を見つけた。ダンボールごと捨ててしまうはずだった荷物を、どうしてだか偶然、開けたんだよね。そうしたら一番うえにあった」
あたしが作った、あまり成果の上がっていない報告書。
「笑っちゃったよ。来る日も来る日も、菜耶ちゃんの見てる僕はいいことばかりしてて」
だって加藤さんは本当に。
「道端に落ちてた10円玉をネコババしたこととか、つかまってたらひどい揺れのときにちぎれちゃった吊革をそっとポケットに入れたこととかは、書かれてなかった」
そんなの知らなかった。
あたしは本当に、尾行という仕事に向いていなかったのだろう。
「優しすぎるのは僕じゃなくて菜耶ちゃんだよ」
ああ、あの備考欄を。
「どうしたら会えるのかなって、思ってたんだ。連絡もつかなくなってしまって。調査報告書のどこにも社名は書かれていなかったし」
だめだ、あたし、泣きそう。
「そしたら名刺の注文の中に菜耶ちゃんと同じ名前をみつけたんだ。小さな会社の事務職の名刺をね。菜耶ちゃんが言ってたとおり」
「あ、それは偶然で」
「そうたよね。僕が調査報告書を見つけたのも偶然だし、菜耶ちゃんが小さな会社の事務職になったのも、その会社が僕のとこの会社に名刺の発注をしたのも、偶然だよね。でも、こんな偶然があるんだから」
加藤さんは優しい声で言った。
「きっとあんな偶然もあるよね」
「え?」
「僕らが出会ったのは偶然だよね? 菜耶ちゃん」
違う。
あたしは首を振った。
違う、あれは。
ちっとも偶然なんかじゃない。
「あれは必然だったんです。あたしにとって」
あたしが言うと、加藤さんはほほ笑んだ。
「それは、いい意味だよね」
うなずくと加藤さんが何度も何度も言った。
「菜耶ちゃん、菜耶ちゃん、菜耶ちゃん」
備考欄のその言葉がぴったりの声で。