妃、命を拾う。
フッと、目が覚める。
――なんだ夢だったのか。
薄暗い洞窟の中、エルザは額に手をあてて、ため息を一つついた。
「なんとまあ、懐かしい夢よ」
あれから、幾百年かが過ぎた。
魔王の妃となった彼女にとっては、たった幾百年前の夢。
「ルシフェル……」
愛しき、王の名。
しかし、その名の持ち主は、もう亡い。
魔王ルシフェルは、今から3年前。勇者と魔導師の二人によって、殺された。
エルザはルシフェルと揃いの、艶やかな角をなぞった。
ルシフェルは人間との対立を望まぬ、異端の王だった。エルザと出逢う、ずっと前から。
それなのに人間ときたら、姿形や文化が違うだけで、勝手に恐れたあげく、排除を選んだ。
エルザとて元は人間。そのような結末の物語を多く知っているし、ルシフェルと出逢わなければ、同じ道を辿っていたかもしれない。
だがしかし、知ってしまった。出逢ってしまった。ルシフェルという優しき魔王に。
「憎みきれぬことが、こんなにも辛いとは思ってもみなかった」
それも、ルシフェルの言葉あってこその感情。
『エルザ。どうか…人間を憎むな。同じ世に在るのだから、きっと、共存する術があるはずなのだ。どこかに……』
『ふむ…エルザ、我は…ここまでのようだ。…すまぬ。なに?悔やみ事?あるぞ、一つだけ。嗚呼…悔やむべきは、お前との子を成せなかったことだ。…連れ添って幾百年。我は幸せで仕方がなかったぞ、エルザ…。では、な…森の仲間を…頼んだ。ハハ…泣くでない。笑え…笑っておくれ。我はな、本当に…エルザ、エルザよ、幸せであった…また、来世にて逢おうぞ、愛しき、我のエルザ……』
一字一句、余すことなく心に刻んだ、最期の告白と約束。
息も絶え絶えであった筈なのに、最後の最後まで魔力を振り絞って、エルザを愛し、エルザの為だけに最期の時を使った。
世を去る間際の、口づけは酷く甘く優しく、切なかった。
最期の最期まで、彼は穏やかに微笑み、その黄昏色の瞳にエルザを写し続けた。
それを、エルザは昨日のことのように思い出しては、涙を流した。
『妃サマ…』
「平気じゃ…。わたくしは、平気じゃ。それより、森の様子はどうじゃ?」
眷属の魔物たちが、エルザを心配そうに見上げる。
ルシフェルが残していった、宝物の欠片。
皆、様々な姿をしている。蛇を象った者。犬や狼を象った者。形を持たぬ者――。
彼らを見渡して、エルザは言う。
「万が一、人が迷い込んではことじゃ。もしも、結界が破れておったら、わたくしに報告しておくれ」
『承知…』
『了解デス』
『デハ、我ラガ妃サマ。行ッテ参リマス』
「うむ…。気をつけるのだぞ」
眷属たちは一斉に洞窟を飛び出した。目の前に広がる魔物の森へ向けて。
「元気なことだの…」
エルザは洞窟の奥へと戻り、白木で作られた揺り椅子に腰掛けて、オルゴールの蓋を開けた。
優しい旋律が、洞窟に溢れる。
どちらもルシフェルからの贈り物だ。
ついでに言えば、今纏っている、この立派な紅いドレスもだ。
エルザがルシフェルと出逢った頃は、まだ少女と呼べる年齢だった。しかし、今の見かけは美しい二十代ぐらいの女性の姿だ。
けれど、ルシフェルの死のショックからか、やつれてしまい、少々老けて見える。
たった3年、されど3年。心に負った傷は、確実にエルザを蝕んでいた。
オルゴールの心地良い旋律に身をまかせて、瞳を再び閉じようとした瞬間、泣き声が聞こえた。
「何事じゃ!」
洞窟の入り口に、ルシフェルとエルザの血を混ぜて創りだした、上級眷属のエルシオンの姿があった。
巨大な漆黒の狼の姿で、入り口に佇んでいる。
その口元にはカゴがくわえられている。
泣き声はそのカゴの中から聞こえる。
「マスター」
「エルシオン。それは…」
「森の端にありました。他に男が二人いましたが、すでに事切れていました。刺青から人攫い集団【バンキッシュ】の一員だとわかりました」
「つまり、そのカゴの中には…」
「さらわれた子とみられる者が…一人」
エルザはカゴの中を見る。
まだ小さな、赤ん坊と呼べるくらいの者が、泣いていた。
そっと取り出して、胸に抱いて、あやす。
オルゴールの音色もあったおかげか、すぐに泣き止んだ。そして穏やかに眠り始める。
その顔はとても愛らしく、まるで天使のようだった。
エルザは穏やかに微笑み、再び揺り椅子に座った。エルシオンもそれにつづき、足下に丸くなった。
「エルシオン。この子の名は?」
「わかりません」
「親は?」
「わかりません」
「ならば、親が見つかるまで、わたくしがこの子を育てようかの」
「よい考えかと…。このまま見殺しにするのも、後味が悪いでしょうし……」
「そうか。そう思うか。」
「はい。マスター」
「…ならば、この子に名を与えなければならぬな。お前の名は、そう…“ルシファー”じゃ」
赤ん坊は、いつの間にか起きて、キャッキャッとはしゃいだ。
エルザに向けて、その小さな腕を精一杯のばして、笑う。
「わたくしの王の名、“ルシフェル”からとったのだぞ?気に入ったか?ルシファー…」
ルシファーの手をかまいながら、フワリと微笑む姿は、母性愛に満ち溢れている。
エルシオンは内心ホッとした。最近のエルザは衰弱しきり、魔力も弱まり、死にかけていた。
眷属たちも見ていられない程にやつれ、弱っていた。
しかし、ルシファーを抱き上げたとたん、再び力強い魔力が彼女から湧き上がってくるのを感じた。
王の最愛の妃の命の危機は去った。
この赤ん坊――ルシファーのおかげで。
しかし、エルシオンは何か引っかかるものを覚えていた。
ルシファーの魂に、何か、嫌なものを感じたのだ。
けれど、その正体が全くわからない。
エルシオンはしばらく難しげな顔で考えたが、エルザの久方ぶりの笑顔を見て、考えるのをやめて、エルザの髪と揃いの紅い瞳を閉じて眠りについた。
ルシファーに向けて紡がれる、子守歌に耳を傾けながら……――。