誘拐ラングドシャ(後編)
瀟洒な、隠れ家風カフェともいっても通りそうな家のドアを開いてもらって入った真正面に、『それ』は鎮座していた。
白くて、巨大な何か。形は、ちょっといびつなピーナッツというか……私は、探査機の帰還を告げるニュースで何回か画面に映った小惑星を思い出した。そんなものが廊下の突き当たりから、こちらにぎゅうぎゅうとはみ出しているのである。
「変わった……インテリアですねえ」
「いやいやいや、これは家具とかじゃないですから、繭ですから。こらそこもうどうでもいいって顔しない」
西原さんのお兄さんがあわてて顔の前で手を振った。
私は目の前のルネ・マグリットばりにシュールな光景を眺めた。確かに『コクーン』という例もあるように、繭というのは乗っ取り・擬態にならんでポピュラーな宇宙人的展開かもしれないが、もう私としては放っておきたい。
「お恥ずかしいことですが、僕の奥さんがひきこもりになってしまって」
だって繭ってことは中に何か入っているのがふつうではないか。
「困ったことにキッチンが使えない」
「問題はそこか」
私は思わずつっこんだ。
「大問題ですよ。今月末が開店予定なのにどうしたらいいんですか?」
「えー……えー……? 仲直りすればいいんじゃないですか?」
私は適当に言った。適当だったが、答えはこれしかありえないだろう。繭を作り出してそこに籠る奥さんなんぞ私と言葉が通じるかがそもそも怪しい。
「アホですか、それができてたら苦労してません」
西原さんのお兄さんはなぜか上から目線になって眼鏡をきらめかせた、が、私のどんよりした表情に気づいたのか途中から急に低姿勢になった。
「何を言っても押しても引いても叩いても返事がないんですよ。二人の夢だったケーキ屋があと少しで実現するのに! それで思いついたんですが、桃さんみたいに細やかな心遣いができる人じゃないと、僕と奥さんの間のわだかまりはとけないと思うんです。それに僕の奥さんはいま妊娠中で……僕はちきゅ、いや女性の体についてはよくわからないので心配で心配で!」
「すみません私、繊細とはかけ離れた性格なので帰ってもいいですか」
私も家族も知人もそこは間違いなく終身保障してくれる。どちらかといえば体育会系なのだ。
「で、でも、次郎左衛門がいつも美味しいお茶を淹れてくれるとっ……! 時間とか茶葉の量とかきっちりされてるんでしょ!?」
それは自分がおいしいお茶が飲みたいからで、他はなにごとにおいてもずぼらだ。
しかし、自分で言うのもなんだが、体育会系というのはほだされやすいところがある。私は結局話を聞くだけ聞いてみることにした。どうやら奥さんは地球人らしいし。
「奥さんはどんな方なんですか?」
「っ、どんなって言われても、ふつうに、かわいいですわ……っ」
答えながら西原さんのお兄さんは顔を赤らめた。私はすでに心が折れそうだったが、思い当たったことがあったので、もう一つ質問してみることにした。
「個人でお店を開かれるなんてスゴイですね! 今はどんなお気持ちですか?」
「えっ!? えっと、長年の夢が叶って、ふつうに楽しみですけど……」
よくわかった。
つまり西原さんのお兄さんは、妙な褒め言葉は頼みもしないのに立て板に水のごとく吐き出す癖に、本気で「すごい」と思っているものに対して「ふつう」と言ってしまうらしい。なにこのツンデレ殴りたい。
新幹線で寝たとはいえ寝不足が解消されたわけではない私は思わず凶暴な眼つきをしてしまったらしい。西原さんのお兄さんの腰が本気でひけた。
「や、申し訳ない、実は「桃さん、ご無事ですか!?」
ちょうどその時ドアが勢いよく開かれた。まったく同じ声が違う内容を喋っているのが左右から聞こえる。私は、新たに飛び込んできた方の声の主を見た。
どかどかと、いつもの様子からは考えられない荒っぽさで上がってきたのは西原さん(私の隣人の方)だ。茶色の逆三角形の耳のドラ猫が、マフラーよろしく首のまわりに巻きついている。べつに心細く感じていたわけではないが、私は見知った顔にほっとした。
「無事です、無事、無事」
「あああ」
むだに力こぶなど作って元気であることをアピールすると、西原さんは大きく息を吐いて、それからお兄さんに食ってかかった。
「兄さんちょっとなんですか『桃さんを誘拐させて頂いた』って!」
「や、そうしたら、八つ橋も来てくれるかなーって。」
「そりゃ『八つ橋と下記の住所迄ご足労願いたい。さもなくば』とか書いてあったらそうせざるをえませんよ、なんで桃さんまで巻き込むんですか!」
「だって普通に頼んでも来てくれんもん、桃さんには悪いと思ったし嘘もついたけど怪我一つさせてないよ。それよりほらあれ見て、あれ。僕の奥さんinあの繭。八つ橋の仕業」
「なるほどキッチンが使えませんね……じゃなくって! あーもー夫婦喧嘩ならよそで勝手にやってくださいよ、もしかしたら桃さんがきゃとられてるのかと思って心底心配しましたよ!」
西原さんは握っていた紙を振り回して力説した。きゃとられてるってなんだ、キャトルミューティレーションか。私は自問自答した。当てたくもなかったが、たぶん正解だろう。いささか方向はあさってであるが、西原さんは私のことを心配してくれていたらしい。
そして、それは八つ橋も同様だったらしく、お兄さんに向かって言い募る西原さんの肩から私に向かって飛びついてきた。
「わっ、ととっ」
再会の喜びにしては重量感のありすぎる勢いに私は思わずよろめいた。とんっ、と背後にあった繭に背中が当たって、沈む。
そっくりな顔が二つ、驚きの表情を浮かべてこちらを見ているのが、私が繭の中に引きずり込まれる前に見た、最後の光景だった。
繭の中に入ると、和室が広がっていた。
どうやら西原さんのお兄さんは、私を『八つ橋が誘拐された』という話で連れ出し、その私を誘拐したという手紙を西原さんのところに置いてきていたようだ。なんだかんだ言っていたが、結局私は八つ橋をおびきだすための餌だったらしい。というのも、この空間が八つ橋の仕業だからで……。
私は尻餅をついた格好のまま、狭い部屋の中を見回した。形はほとんど正方形。真新しい畳の匂いがする。奥の方に床の間があって、その横に女性が足をくずして座っていた。
八つ橋が、とてとてとその人に近寄っていく。
「やつはっちゃん、おおきに」
女の人はあどけない声を立てると、猫の丸い頭を撫でながら私に親しげに微笑みかけた。
「桃ちゃん? 桃ちゃんって呼んでもええ? はじめまして、西原静香です。夫がご迷惑かけたみたいでごめんなさいねぇ」
私が絶句していると、西原さんのお兄さんいわく「僕の奥さん」であろう静香さんが苦笑した。女の人と言ったが、よく見ると私より若いのかもしれない。ちょっと猫に似た、目尻がきゅっと上がる可愛らしい笑顔をしていて、美人というより美少女といった雰囲気だ。
「いろいろ大変やったでしょう? とりあえずお茶でもどうですか、薄茶になるけど」
静香さんは言いながら立ち上がろうとした。が、さきほどの話にもあったとおり、静香さんは妊婦なのである。しかもお腹の大きさからすると、かなり予定日は近そうだ。私はおそるおそる申し出た。
「あの、もしよければ、私がしますけど」
「あらぁ。じゃあお言葉に甘えましょか」
こうして、私はなぜか繭の中の茶室で、人生で初めて抹茶を点てることになった。
もう何があっても驚くべきではないのかもしれないが、茶室にはもう点てるばかりになった茶道具一式が準備されていたのだ。実はいつか茶道を習ってみたいと思っていた私はわくわくした。そう言うと、茶室にひきこもるだけあって、茶道の心得があるらしい静香さんが横から色々と教えてくれた。
茶杓で棗から目にも鮮やかな緑の粉をすくい、茶碗に入れる。所定の位置に棗と茶杓を戻したら、柄杓でお湯を汲んで、その上から丁寧に注ぐ。そして、ついに茶筅で薄茶を点てることになった。これが意外と重労働で、ついつい猫背気味になる私を静香さんが注意した。
「桃ちゃん、もっと、背筋は、伸ばしてええのよ?」
もっと背筋を伸ばせということですねはい。私は反射的に姿勢を正した。
やんわりとした口調だったが、私はその瞬間、「ぶぶ漬け」という恐怖の逸話が全国に伝わるほどの京女の強さというものを垣間見た気がした。これでは、西原さんのお兄さんに勝ち目がないのも当然である。
さて、抹茶はどうなったかというと、やり方としては間違っているかもしれないが、茶筅を泡だて器の要領で動かすうちに泡がだんだんと立ちはじめた。
「そう、そいで、茶筅を丸ぅく動かして、中心で上に持ち上げはったらええわ」
静香さんの言葉どおりにしてみると、泡が茶碗の中央で盛り上がった。自画自賛だが、雑誌の写真でみるような仕上がりである。
「そうそう、おいしそうやわ」
静香さんはすかさず褒めて、綺麗な所作で私の点てたお茶を飲んだ。これまで私はお茶というのはリラックスするために飲むものだと思っていたのだが、どうやら茶道は違うようだ。何をするにも決まった型がある、ピリッとした空気を楽しむのではなかろうか。
静香さんが飲み終わったので、次は自分の分にチャレンジする。教わったとおりに点てて、今度は飲むときの所作を教わった。熱くて、ほろ苦くて、香り高い液体が胃に落ちると、ちょっと肌寒く感じていたこともあってほっとする。八つ橋は静香さんの隣で喉を鳴らしている。実に平和だが、外で西原さん兄弟は一体なにをしているのだろうか。
私がようやく思い出したところで、静香さんが脚をつついた。
「ぃぎゃっ!」
「ふふふ、桃ちゃんが敬語なしで、『静香ちゃん』って言うてくれるまで攻撃しちゃうわぁ。友達になってぇ攻撃ーぃ」
友達攻撃・はんぱない。京女・容赦ない。私はずるずると静香さんから距離をとった。実はずっと続く正座のせいで両脚の感覚がないほどしびれていたのだ。
「わ、わか、わかった、静香ちゃん!」
「ふふ、桃ちゃん、足、崩してええんよ?」
せっかくなので私はお言葉に甘えることにした。友達になったことだし、失礼ついでに思い切って聞いてみる。
「静香ちゃんは、なんでまたこんなところにひきこもってるの?」
八つ橋のごろごろいう音が途切れる。静香ちゃんは、八つ橋の耳をいじりながらため息をついた。
「まあ聞いてもらうんも恥ずかしぃ話やけど……まず最初は、妊娠してるってわかったときに太郎さんが言わはったことやねぇ」
なんとも恐ろしい話だが、太郎さん(もう静香ちゃんにならって西原さんのお兄さんをこう呼ぶことにする)と静香ちゃんの付き合いは静香ちゃんが押しに押してはじまったものらしい。プロポーズも静香ちゃんからだそうだ。こんなに可愛いのになんでだろうか。
「『それは本当に僕の子供ですか』」
「うわー」
「まぁ『僕が宇宙人だから不安なんです』っていうフォローしてはったけど、それよりどんなハーフが生まれるか楽しみにしてほしかったわぁ」
それもどうかと思ったが、私は次の話が聞きたかったので何も言わないことにした。『シュレック』でのロバとドラゴンとの間にできた子供らは両方の特徴がでていて面白いことになっていたが、そこまでのことにはならないような気がするし。愛があるなら大丈夫な気がするし、たぶん。
ちょうど赤ちゃんが動いたらしい。静香ちゃんは愛おしげにお腹を撫でてから続けた。
「それから子供に変な名前をつけようとしはって」
「あ、それ知ってる」
「考え直してもらやしまへんやろか、ってうちが何回言うても聞いてくれはらへん。でも絶対、あの名前はいややわぁ」
静香さんは憂鬱そうな顔をした。その気持ちはよくわかる。猫の名前からもわかるように、西原兄弟にまともなネーミングセンスというのは皆無なのである。
「あとはつまらんことなんやけど、うち、つわりがひどぅて、一時は甘いものしか食べられんようになって、それだけでも太郎さんの子供だってことの証明になると思うくらいやったわぁ。とくにラングドシャが食べたかったんよ。お抹茶入りの」
ラングドシャというのは、要は薄いクッキーである。とても美味しいのだが、さくさくと軽い歯触りなので何枚でも食べられてしまうところがダイエットの敵だ。
「身内のひいき目もあるけど、太郎さんはお菓子作るのがほんとに上手なんよ。うちは太郎さんのお菓子が世界で一番好きやわぁ」
「さすがパティシエ」
私は西原さんの話の記憶をひっぱりだしてあいづちをうった。ケーキ屋を開店するらしいし、まちがいないだろう。
案の定、静香ちゃんは身を乗り出した。
「そうそう! 洋菓子ならなんでも作らはる。それなのに『ラングドシャは嫌です』なんて言わはるんよ!『「ラングドシャ」ってどういう意味か知ってますか、「猫の舌」ですよ。舌を食べてやるという発想自体は嫌いじゃないですが、僕は八つ橋という忌々しい猫に出会って以来、猫というものがすべからく嫌いです。ですから「猫」と名のつくものを自分の手が作り出すというのは考えるだけで吐き気を催します』って」
「はあ」
「そこで、うちは切れました。うちがこんな風になってしもたのは誰のせいや、と。で、八つ橋に電話してこうなりました」
静香さんは一転して落ち着いた口調で話を終えた。
食べ物の恨みは恐ろしいというのは真実であるが、ちょっと西原さんの周辺は、食べ物関係で騒動が勃発しすぎではないだろうか。大変遺憾ながら私が原因になったのもあるということはこの際棚上げしておく。
そういえば太郎さんは新幹線のなかで八つ橋のことが「ふつうに嫌いだ」と言っていた。直訳すれば「すごく嫌い」ということだ。西原さんも、八つ橋と太郎さんの間には食べ物をめぐる長く深い因縁があると言っていた気がする。
ふつうはそこで猫が嫌いになることはあっても、猫とつくだけで何もかもを毛嫌いとまではいかないと思うのだが、さすがは西原さんと血がつながっているだけあるというべきか太郎さんは徹底している。電話一本でこんな不思議繭を提供したという八つ橋が本当に猫なのかどうかという根本的な問題はあえて考えないことにする。以前、脱皮もしていたし、繭も作れるとなれば、本当は昆虫的な何かでは、いやなんでもない。
私は基本的に面白いことは観察してしまうが、自分が過ごす平凡な日常に愛着があるし、今日中には東京に帰りたいのだ。
そんなわけで私は困ってしまった。犬どころか猫も食わない夫婦喧嘩に介入しない限り、簡単に帰してもらえないような気がする。
太郎さんは確かに大人げないというか、個人的にはちょっと落ち着けラングドシャくらい百枚でも千枚でも焼けばと言ってやりたい気がする。でも静香ちゃんの話だけ聞いて判断するというのもどうかと思うし、彼の人生のポリシー的なものを簡単に曲げろという権利がそもそも私にあるのだろうか。
「ええと、静香ちゃんは、これからどうしたいの?」
「……そらいつかは仲直りしようと思うてたんやけど、こんなに騒ぎが大きゅうなってしまうとかえって出にくいわぁ……」
新しく出来たばかりの友人は招き猫のようなポーズで目元をこすりはじめた。美少女がやるとそんなポーズも可愛い、ではなくて、どうやら恥ずかしいらしい。
私にもなんとなくその気持ちは想像できた。子どものころ、駄々をこねたり怒ったりして、なだめすかしてもらっているうちに思ったよりおおごとになってしまって、引っこみがつかなくなってやめられないときのような、そんな気分なのではないだろうか。
私は口を開けて、すぐに閉じた。ふわん、と甘い匂いが鼻先をかすめたのだ。たっぷりのバターと砂糖が入った生地が焼けている、かぐわしい香り。
「桃ちゃん、ひょっとしてこれはあれかなぁ、『ら』で始まって『しゃ』で終わる……」
「うん、きっと」
そうだよ、と私は言い終えることができなかった。ずっと大人しかった八つ橋が、悠然と立ち上がると、茶室の隅にある小さな扉へと向かったのだ。そして、突然、これまで溜めていたエネルギーを放出するかの勢いで爪とぎを始めた。
八つ橋がバリバリと扉を引っ掻くたびに茶室の存在感がうすれていく。
ああ繭が壊れるのだ、と私は思った。狭所恐怖症だとか中のいごこちが悪かったとかいうわけではないけれど、出られるとわかって本当にうれしかった。
そして、どういう宇宙法則かしらないが、跡形もなく繭が消え去った後に太郎さんと会った静香ちゃんも本当にうれしそうだった。といっても、最初は怒ったふりをしようとしていたのだ。でも、山盛りの抹茶ラングドシャが載った皿を捧げ持ってひざまずいた太郎さんを見て笑ってしまった時点で、ある意味、静香ちゃんの負けだった。
同時に勝ちでもあったけれど。というのは、太郎さんに対してはそれから静香ちゃんと八つ橋のタッグによる教育的指導があったからである。
「やつはっちゃん」
「うわやめろはなせなにを」
「ぞんぶんにやっちゃって」
パチン、と指を鳴らした静香ちゃんを、私も西原さんも止めなかった。焼き立てのラングドシャのご相伴にあずかりながら、礼儀正しく目を背けただけである。お昼時をとっくに過ぎていたので、ラングドシャ以外のケーキも頂いた。たいそう美味であったが、その間も実は太郎さんと八つ橋の戦いは続いている。
しかし、ホラー映画であれば画面に大量の血しぶきが飛び散って見えなくなるようなシーンの被害者に自分の血縁者がなっている状態というのはいかがなものだろうか。阿鼻叫喚がしばらく続いた後で、私は思わず訊いてしまった。
「西原さん、止めなくていいんですか」
「桃さんはどう思いますか? あのダメ兄のせいで一番被害を受けたのは桃さんですから、桃さんがもう許すというとこまで、砕いて、炒って、煮詰めて、かきまぜて、型に流し込んで焼いちゃっていいと思うんですよ、僕は」
「そうやね、桃ちゃんが決めたらええわぁ」
西原さんがこれまでにないぞんざいさで答え、静香さんがにこにことうなずく。そんなわけで、八つ橋にじりじりと牙と爪で追い詰められた太郎さんが、子供の名前を考え直すと誓うまで私はストップをかけなかった。あえて心を鬼にしたのだと言っておく。
あと、西原さんと八つ橋と私が帰るときには、静香ちゃんに並んで太郎さんもちゃんと見送りに来てくれたから、命に別状はなかったと思うとも付け加えておく。
結局、八つ橋と太郎さんは最後まで仲直りをすることはなかったわけだが、もうそれはしかたないのではなかろうか。あるブラックコメディ映画のように、お互いの死をもってしても和解できなかったという例もある。
そんなわけで、せっかく最後の紅葉が見事な季節だったのにまったく観光ができなかったばかりか、誘拐だとかなりすましだとか巨大な繭だとか変なものが色々出てきたわりにあっさり解決した事件はこれで終わった……わけではない。もう少しだけ蛇足がある。
タクシーに乗り込んだ途端に私はまた急激な睡魔に襲われてしまい、気がついたら京都駅に着いていたというひどい有様だった。平安神宮をまた見過ごした。
「京都土産を買ってきてもいいですか」
おそるおそる聞いてくる西原さんに、がくんがくんと揺れながら首を縦に振る。口を開くのも億劫だった。駅の中でようやく座れる椅子を見つけたところなのだ。新幹線の発車までひたすら放っておいてほしかった。
しばらく夢も見ないほどぐっすり寝こけていた私が起きたのは、西原さんが八つ橋(猫ではない方)の箱を隣の席にばんばん積み上げ始めたからだった。
西原さんのお菓子の買い方ときたら、常にお菓子業界ひいては日本経済への立派な貢献であるが、これはちょっと常軌を逸している。私の眠気もいくぶんか醒めた。
「ど、どうしたんですか」
「桃さん、このたびはうちの駄兄が大変なご迷惑をおかけしまして、失礼いたしました」
西原さんはちょうど空いていた向かい側の席に座ると、いささか虚ろな声で言った。
確かに私はこれまで西原さん以上の変人に会ったことがなかったのだが、本日をもってその記録は太郎さんに華麗に塗り替えられたのだった。結婚した静香ちゃんを今さらながらとことん尊敬する。
「いや……お気になさらず」
とはいえ、私はそう言うしかなかった。さきほどの八つ橋の暴行を見たあとでは、いっそ太郎さんが哀れだったのだ。
はー、と西原さんは大きく息をついて、ぼんやりとした目で駅構内を見回した。そのまま何も言わないので、この西原さんはちょっとおかしくないか実はまた太郎さんというオチだったらどうしよう、と私が本気で心配しはじめるにいたって、やっと喋った。
「この国はうまし国ですね、桃さん」
西原さんは噛みしめるように言葉を吐き出した。
「美しと書いて、うましと読むんでしたっけ。本当にすばらしい。最初に来たときに思いました。なんて色々な食材を、さまざまな加工で、季節ごとに楽しむのだろうと」
たとえば生八つ橋の中身には、粒あんとこしあん以外にもイチゴとか栗とかゴマとか、もう僕の想像を超えるくらいにたくさんのものが入っていて。
「だから僕はどうしても日本に住みたかった。でも前にも言いましたけど、兄は猛反対しました。兄は本当にチョコレートが好きで、チョコレートの中で眠って起きて生きていきたいという人なので」
「はあ」
「だから、僕はいろいろやって……八つ橋にも頼みこんで、結局、兄をだますような形でこの国に住むことに成功しました。だから、あんなダメガネな兄ですが、そのことで罪悪感もあるし、僕が不幸せにしちゃったんじゃないかと思うこともあるんです」
西原さんの懺悔を聞きながら、私はまたもやうつらうつらしていた。たいへんに不作法だとは思ったが、文句はできれば朝から私を連れ回した太郎さんに言ってほしい。それに西原さんの懸念の内容がよくわからない。
「だいじょうぶですよ、太郎さんには静香ちゃんがいるから」
私は眠気でろれつがまわらないながらも、わかりきった事実を教えようとした。
わざわざ会ったこともない相手を騙して新幹線に乗せて連れてくるほど大事な相手がいるのだ。そして二人で夢のケーキ屋を開くのがすごく嬉しいと言っていたのだ。幸せ以外のなにものでもないだろう。
「そう思いますか?」
「うん。……うん」
「起きてますか?」
「……うん……?」
「ほんとですか?」
「…………」
「知ってました? 京都タワーっていうのは、プッチンプリンのカップの底のでっぱりみたいなもので、あれが折れると京都全体がプッチンされちゃうんですよ?」
……プッチンって何? と考えていたら肩をそっと揺すられた。
「桃さん、つきましたよ」
目を開けるとよく見覚えのある景色が広がっていた。私は、住めば都のなんとやらの、いとしいわがボロアパートの前に立っていたのである。
私は腕時計を見て、それから西原さんと、西原さんの首という定位置におさまった八つ橋を見た。飼い主と飼い猫がそろって目を泳がせる。こんなことまでしておいて、まだしらばくれるつもりらしい。
もし本当に人生がチョコレートの箱のようなものだとしたら、西原さんと八つ橋との出会いというチョコレートにはよほど変わったものが入っているのだろう。唐辛子+α入りチョコトリュフなんぞを作成した黒歴史がある私であるが、自分がとっくり味わうとなると、やはり珍奇なものよりも、おいしいものの方がいい。
とすれば、この奇妙な隣人たちと仲良くするべきではなかったかもしれない。何せこれまで色々なことに巻き込まれたし、これからも色々と影響がありそうだ。たとえば簡単な例をあげると、明日提出のレポート。覚悟はしていたが、今から初めて提出期限に間に合うか極めてあやしい。
「今日はありがとうございました」
つらつら考えていると、西原さんが細長い身体を折り曲げるようにしてお辞儀をした。顔をあげたとき、銀縁眼鏡の奥で、ただでさえ細い垂れ目が笑っているせいで糸のようになっていた。
「あのですね、これまで桃さんをどこか行く際にお誘いしなかったのは、桃さんの淹れてくださるお茶が一番好きだからです」
八つ橋が同意するように、姿に似合わない可愛い声で、にゃあ、と鳴いた。
「でも前に、雪みたいなお菓子を見つけるって約束したでしょう。あれ、まだ見つかってないんです。今度一緒に探しに出かけませんか」
見つかるまで僕はここにいます。
そして西原さんは、左人差し指で、ちょん、と私の額をさわった。にゃあ、とまた八つ橋が鳴く。
古今東西の甘味の中には、てのひら半分くらいの大きさで、ひんやりとしていて、口に入れると優しい甘さがほろりと溶ける雪の結晶のようなお菓子があるかもしれない。珍奇かつ美味というものだってあるのかもしれない。この想像が正しいのか、私にはわからない、けれど。
「楽しみにしてますね」
私は、西原さんにならって一人と一匹に頭を下げた。
面白い隣人というのは、間違いなく、人生を興味深くするものなのだ。
長い間おつきあいありがとうございました!
次の番外編以外にも別のものを書くこともあるかもしれませんが、ひとまずこれにて完結です。