行き違いカステラ
実は私は、大抵のことは努力すればできる、という楽天的かつ体育会系思考の持ち主なのだが、そんな私にも不可能かつ非常に苦手なものがある。それはこの世の中の何人かにとっては、ウィンクをする、とか、あくびをしたら涙が出る、というくらい簡単かつ自然なことかもしれない。それで生計を立てている人も大勢いるくらいである。そんなわけだから、ここでそれを明かすと、なんだそんなことか、と思われる方も居られるかもしれない。
ところが私には、いくら逆立ちしても、タップダンスをしても、雨の中で歌って踊っても出来るようになるものではないのだ。とにかく私には、それに対しての才能というものが生まれつき欠けているとしか思えない。
それは、恋愛相談、である。
若輩者の私が言うのもおこがましいが、恋愛というのは非常に個人的な体験であって、他人にアドバイスを受けたからといって事態が好転することはまれだ。特に、私のような経験の少ない者に訊いたとしたら尚更である。
「桃姉、聞いてる!?」
などとつらつらと考えていたことを洗いざらいぶちまけられたらどんなにいいだろう、と思いつつ、私はうんうんといい加減にうなずいた。
それから、電話の向こうの相手に私の動作は見えないことを思い出して、口に出して言い直した。
「聞いてる、聞いてます、棗」
「聞いてなかったんだね」
桃姉がわたしの名前を呼ぶときはごまかそうとしている証拠、と妹はなかなかうがったことを言って、ため息をついた。図星を突かれて私は押し黙る。
この年の近い妹とは趣味もほどほどに近いし、気も合うのだが、どうしても相容れないことがある。
一言でいってしまえば、棗は惚れっぽいのだ。
その恋愛遍歴は、十数年前の桜満開のある日に保育園に入園したときから始まり、それからというもの浮名を流した回数は数知れない。彼女が新しい相手を見つけるたびに、これは誰からの遺伝なのだろうと恋愛事に疎い家族全員で首をひねり、責任を先祖に押し付けあったものである。
「いい? 昨日わたしが桃姉のところに電話したらね?」
「私じゃない誰かが出たのね?」
「そう、それで『ああ、すみません。間違えました』って!」
「言って切られた、と」
そんな棗が好きになる相手は、バラエティ豊かと言ってしまえば聞こえは良いが、外見から性格までピンキリの様々なタイプだった。
しかし、そんな彼らにも一つだけ共通点がある。
「だれなの桃姉、あの人! すごい好みだったんだけど!!」
それは、声、である。
鼓膜に伝わる空気の振動。耳から進入して電気信号に変換され、張り巡らされたニューロンを駆け抜け、脳内に伝導されるそれこそが、彼女にとっての絶対的な判断基準なのだ。
「低めで、ちょっと煙がかっているというか……触るだけで切れそうなナイフみたいな、危険な感じがもうたまらないっていうか! 背筋がぞくぞくしました隊長! あの声に名前を囁いてもらえるんだったら、いくら貢いでもかまわない!」
もう恋する乙女モードに突入して夢見がちの声で語る妹に、私はうめいた。
「隊長ってだれ……」
「ツッコミどころはそこじゃない! っていうか相手の素性を隠してるんだったら桃姉と言えども容赦はしませんよ? 先に生まれてきてごめんなさい、という気分にさせちゃいますよ!?」
今回はいつもにもまして強烈である。ちょっと落ち着いてほしい。大体、私はもう十分ほど前から血が繋がっていてごめんなさい、という心境に達している。
「後から生まれてきたらこんな目には合わなかったのかしら……」
「何言ってるの、柚が相手だったら幼い頃からの恥ずかしい話をすべて校内女子トイレに写真付きで張り出してやるわよ! もちろんそれぞれの個室に!! 携帯の番号付きで!!!」
思わず洩れた呟きには律儀に答えが返ってきた。私は二歳下の弟に深く深く同情した。
「間違い電話だと思います裁判長」
「…………ファイナルアンサー?」
「イエスイエス」
これ以上なく真摯に返事してから、私は提案した。
「……そんなに気になるなら掛け直せば?」
「家から掛けたからリダイヤルできないの! どうしよう!?」
ああ、と私は納得した。実家の電話は古き良きダイヤル式黒電話である。
しかし、どうしようと言われても困る。ただの恋愛相談も満足に出来ないというのに、これは相手さえわからない、いってみれば片思いの究極といったものである。
というか、これほどではないといえ、もう何回も同じようなことを繰り返してきたのである。彼女もいい加減、私に相談を持ちかけるのをあきらめてもいい頃ではないだろうか。
やっぱり桃姉にあんな男の人と知り合いになるような甲斐性はないよね、でも事実は小説より奇なりって言うし、などと失礼なことを言いつのる棗を遮るように、ピンポーンとのんきな音がした。
ここまで急な来客に感謝したくなったことはついぞない。自分でこっそりインターホンを鳴らしにいこうかと思案していた私にとってはまさに福音だった。
「棗! なつめごめんだれかきたみたいだからまたこんどね!」
折角のチャンスを逃さないように早口でまくしたてて受話器を下ろすと、私はドアに急いで向かった。
「桃さん、八つ橋は元気ですか?」
ドアを開けた途端、お隣の西原さんが勢いこんで訊ねた。
なんだか覚えのあるシチュエーションに私は数度瞬きした。
「お昼寝してますよ」
久しぶりに見た彼は、少し日焼けしたようだった。暑いのだろう、脱いだ背広がいくつかの紙袋と一緒に腕に掛けてある。
あーとか、うーとか、意味不明の音声を出してから西原さんはおそるおそる聞いた。
「どっ、どっ、どうでした僕の留守中。ちゃ、ちゃ、ちゃんと行儀よくしてましたか八つ橋」
三拍子で噛んでいる。
玄関で立ちっぱなしというのもなんなので、私は彼に中に入るよう促しつつ首を傾げた。
私の隣人西原さんは、自称宇宙人である。
本当かどうかは知らないが、浮世離れをしたところがあるのは事実だ。何せ趣味が銘菓収集、毎日の食事はコンビニかスーパーのスナック菓子、見ているこっちが胸焼けするほどの甘味好きである。とどのつまりが飼い猫の名前が八つ橋。ネーミングセンスも尋常ではない。ひょんなことから彼と知り合いになった私は、次々起こる怪奇現象を観察しがてら、彼が家にいない時は八つ橋の面倒をみていたのだが。
やはり、ペットは飼い主に似るというべきか。
「いや……非常に……興味深かった、です……」
「は!?」
西原さんはちょっと蒼ざめた。それから、私を上から下までしげしげと眺めた。
「……ご無事そうでなによりです」
万感のこもった、という声音はこういうときに使われるのだと思われる。私が思わず聞き返そうとした丁度その時、タイミング良く話題の主が現れた。いつもはつれなくても、さすがに一ヶ月ぶりに会うと嬉しいようだ。茶色の巨大猫は、飼い主の脚に体をこすりつけながらぐるぐるとまわった。
「あっそうでした、お土産です」
あたふたと渡された紙袋には、チョコレートを筆頭にスナック菓子が一杯詰められていた。パッケージに日本ではめったにお目にかかれない原色がふんだんに使われている。そういえば、今回の長期出張先は外国だったのだった。
「いかがでしたか、アメリカは」
「甘かったです。お菓子が日本の数倍くらい強烈に」
このずれた返答もひさしぶりだ、と私は思った。しかしこんなに一人では食べられない。大学に持っていって友人と分けよう、と礼を言いつつ受け取ると、もう一つ紙袋が差し出された。
「こっちは今日買ったんですが」
こちらは文明堂のカステラだった。
「空港で見かけてがまんできなくなって……ご存知でしたか、これってお土産で一、二を争う人気商品なんですよ。餡子も使われてないし、外国の方にも食べやすいんでしょうね。何せ元がスペインの焼き菓子ですから。向こうでは最もおいしいお菓子のひとつに数えられているビスコチョというものが原型です。日本には長崎に宣教師と共にもたらされたのが最初で、カスティーリャ地方にちなんで、カステーラと」
水を得た魚のように話しはじめる彼をそのままにして、私は紙袋の中を覗いた。甘い匂いがするような気がする。時刻はちょうど三時をまわったところで、賞味期限のことも気になる。
「……お茶でもいれましょうか」
「はい!」
西原さんは遠慮のかけらもなく、いい返事をした。それを微笑ましいと感じてしまうところ、私も大概毒されているようである。
「文明堂といえば、『カステラ一番、電話は二番』の宣伝のところですよね」
「日本橋文明堂はそうですね」
長崎にも横浜にも文明堂はあるんですよ、と膝にのせた八つ橋の喉をくすぐりながら、西原さんはまじめな顔で言った。
「日本橋の方のあれは、どのお店でも、番号がいつも0002で終わることから来てるんですよ。昔は『赤坂局の2番!』ってよく掛けたものです」
「あのコマーシャルで踊っているのは何の動物ですか?」
私は前から気になっていたことを訊いた。手をつないでラインダンスを披露する白いあれらは猫なのか熊なのかそれ以外なのか、一体なんなのだ。
「僕はミケリャゴナーかと思っているのですが」
なにものだミケリャゴナー。
『それ以外』という選択だとしても、あんまりな答えである。
沸騰させたお湯を湯冷ましに入れつつ、どこから追及すればいいのか思案していたら、目の前で八つ橋が突然体を反転させて、西原さんの手にがぶりと噛みついた。あれは痛い。
「おわあ!」
不意を打たれた彼は、すごい勢いで手を引くと、そのまま机の上を指差した。
「そ、そう、前から思っていたのですが、桃さんは、お茶の鞄とかは使われないんですか?」
「お茶の鞄?」
「そうです、おちゃのかば……」
もう一度言葉にしかけてから、西原さんは言い直した。
「ティーバッグ」
……直訳にもほどがある。
急須とお茶碗にお湯を注ぐ手を止めずにいると、西原さんは言い訳をしはじめた。
「ほら、あの、第一言語というんですか、母国語? 僕にとっては英語がそれなんですが、それでひさしぶりにそればっかり話していたら影響されてしまったみたいで」
「はあ」
「地球で一番使われている言語ということで、やはりそれから学んだんですが、英語が話されている国に居住する気にはなれなくてですね、いろいろ考慮した結果、八つ橋が日本の餡が一番好きだと。特につぶ餡」
「ほう」
「やっぱり食べ物が合うところが一番ですから。英語が特技ということであれば、職探しも楽になりますし」
ずっと西原さんを雇う会社の気が知れない、と思っていたが、少しだけその訳がわかったような気がする。英語に堪能でも、仕事に有能かどうかは知らないが。
とりあえず、英語の課題で分からないところがあったら質問しよう、と心にメモして、私は温まった急須のお湯を捨てた。茶葉を適当に量って入れる。カステラには紅茶もコーヒーも合いそうな気がするが、今日は玉露にしてみた。
「チョコレートがおいしいベルギーも捨てがたかったんですが。特に兄はチョコレート党ですので、最後まで強硬に反対したのですが押し切られました」
西原さん絶好調である。ひとつの謎が解けたと思ったら倍返しになった気がする。私はもうどこから切り返したらいいのかさえもわからない。
「……お兄さん、いらっしゃったんですね」
急須に湯冷ましのお湯を注いで蓋をして、しばらく考えてから、そう言ってみた。玉露は、お湯を50度くらいまで冷ましてから淹れるとおいしい。
「はい。今はパティシエをしています」
パティシエ。ということはお菓子職人で合っているのだろうか。もしも西原さんの甘いもの好きが家系的なものだとしたら、ぴったりの職業である。
がさがさと包装紙を取って菓子箱を開ける西原さんの口調は、一転深刻になった。
「ところがある年のことでした。それまで我慢していた兄が『たまにでいい。鼻血が出るほどチョコレートが食べたい』とぽろりと零したことから、血で血を洗う諍いに」
「鼻血出る前に気持ち悪くなりませんか普通。っていうか大の大人がチョコレート山ほど食べたからって鼻血が出るものなんですか」
それぞれのお茶碗にお茶を注ぎ終わって、少し気が抜けた私は変なところに突っ込みを入れてしまった。ひさしぶりの会話は、テンポがいつも以上にずれている気がする。とにかく、西原兄弟はそろって甘いもの好きという認識は外れてはいないらしい。
「それを試したかったんだそうです。男のロマンだとか」
差し出したお茶碗を丁寧に受け取ってから、西原さんは真剣に答えた。代わりに、私はカステラの載った小皿を受け取る。
「大喧嘩は、お互い近しい相手だということが災いしたのでしょう。最後には、何から何まで気に入らない。靴下のはき方も気に入らなければ、牛乳の注ぎ方まで気に入らない。顔を合わせれば罵詈雑言だけでなく血しぶきが宙に舞いました。掃除も大変です」
暴力沙汰とはおだやかでない。話を聞くだに苛烈な争いである。『ローズ家の戦争』のようなものだろうか。あちらは夫妻間だったが、こちらは息子と誰だったっけ、と考えて、私はフォークを持ち上げる手をちょっと止めた。西原さんは話し続けている。
「そんなわけで、入籍を機にとうとう兄は家を出ることになりました。捨て台詞は『子供が生まれたらチョコと名づけてやる!』でした」
チョコ。ちょこ。猪口。
ちよこ、だったら、女の子の名前として通用するかもしれないが、男の子だったらどうするのだろう。めずらしく答えは聞く前にやってきた。
「男の子だったらカカオだそうです」
カカオ。かかお。嬶男。
一気に脳内で変換してしまって私はむせた。
西原次郎左衛門も粒餡入り生八つ橋もすごいと思っていたが、これはもっとすごい。すごいというよりむごい。
どうやら西原家にネーミングセンスというものは皆無どころか大赤字とみえる。
「だいじょうぶですか!?」
喉につまったカステラをお茶で飲み下している私に、西原さんは慌てふためいて声をかけた。
その言葉はお兄さんの頭かいずれ生まれてくる甥ごさんのために取っておかれたほうが良くないですか甥ごさん物心ついたらきっと泣きますよいや姪ごさんでもカタカナでチョコだったら泣くかもしれませんが、とひねくれた考えが窒息寸前の脳裏を光速でよぎる。
とはいえ、人の家庭の事情に口を差しはさむべきではない。うちだって姉弟そろって、実の生る植物から名づけられているのである。漢字変換されなければ、カカオだって同じ穴の狢ではないか。
「大丈夫です。お、おいしいですねカステラ」
苦しい言い訳かと思ったが、西原さんはあっさりとごまかされた。
嘘を言っているわけではない。カステラはしっとりとしていながら、口の中に入れると溶けてしまうかというぐらいきめが細かい。後に残るのはふわりとした蜂蜜の香りだけだ。
「おいしいですよね。当初、兄はそこまで餡が好きなわけではありませんでしたし、八つ橋は洋風のものがあまり好きではなかったのですが、二人ともカステラでようやく折り合いまして」
安心したように笑うと、西原さんはカステラの箱に一緒に入っていたどら焼きを取り出した。包装をぴりぴりと剥いて八つ橋に差し出す。
「といっても、八つ橋はやっぱりこの三笠山のほうが好物でしたが。ねえ、もう仲直りしませんか?」
後半部分は飼い猫へのものだ。いつもは我関せず、という態度をつらぬく八つ橋であるが、今日に限ってまだ飼い主の膝に座っている。
「別に一緒のものを食べなくてもいいんですよ。どっちも謝らなくても構わないし。でもお互いちょっと我慢してもいいんじゃないですか? 迷惑かけたり甘えたり、家族ってそんなもんでしょう?」
八つ橋は飼い主の顔をしばらく眺めていたが、首を伸ばしてぱくりと菓子をくわえた。
どら焼きくわえたどら猫だなあ、と私が感心している間に、足音もなく床に下りて、私の背後に向って歩き去ってしまう。お気に入りの窓際にでも移動したのだろう。
こほん、と咳払いをして西原さんもカステラを口に運んだ。
「アメリカに居るときにメールが来まして。義姉が妊娠したそうなんです」
「それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます、僕ももうすぐ叔父さんです」
お菓子のせいだけではない笑顔を浮かべる彼の向こうには、電話が置いてある。
私は、あとで棗に電話を掛け直そうと思った。
恋愛相談は苦手だ。一生得意にはならないだろう。それを妹もわかっていると思う。それでもお互い、歯がゆくてもどうしても話してしまうし、退屈していても聞いてしまうものなのだろう。
家族には、どうしても迷惑をかけたりかけられたり、甘えたり甘えられたりしてしまうものだ。
きっと彼女も私の助言が欲しいわけではなくて、ただ私に話を聞いてほしいのだ。……今回のケースはちょっと異例だが。
そういえば、と西原さんは手を打った。
「お礼を言うのもも忘れていましてすみません! 一ヶ月も八つ橋の面倒を見ていただいて、本当にありがとうございました」
「いえいえ、私も色々と楽しかったです」
「ちょっと太りましたか、八つ橋」
いいもの食べてたんでしょうね、とうらやましげに飼い主は言う。ずっと一緒にいた私には判断できないが、そうなのかもしれない。元からXXLサイズの猫ではあったが。
「そうでしょうか?」
「そうですよ! 太りましたよ八つ橋! いえ、桃さんを責めているわけではまったくないんですが、これからダイエットだなあ、と思うといい気味で!」
私に対してのフォローも交えつつ、西原さんは高らかに宣言した。それから私の背後に視線をやって、そのままの姿勢で固まった。眼鏡越しでも目を大きく見開いたのがわかる。
「なんならお前も喰ってやろうか」
いい声だった。
切れ味の良い刃物のような、腰砕けになる声、というのはまさにこれのことを言うんだろうなあ、と恐怖を感じるよりもまず、私はいっそのどかに感嘆した。
それから、電話をしても棗にはこのことは言わないようにしようと考えた。
これに対してのアドバイスは、いかなる恋愛相談の達人でも、無理なような気がしたのだ。
とりあえず沈黙の中、手だけは慣れた作業を繰り返す。気を張りつめていたのだが、どうやら喰われる様子もない。というかその切り返しはどうなのか。逆ギレというものなのか。
二煎目の準備などを始めているうちになんだか笑いがこみあげてきて、お湯をこぼさないように急須を置かなくてはならなかった。そうしている間にも手が震えて、触れあう陶器がかたかたと鳴る。こらえきれずに吹きだした私を西原さんはきょとんと眺めていたが、笑いは伝染するものである。
心ゆくまで二人で笑ってから、お茶のおかわりいかがですか、と私は訊いた。
いただきます、と西原さんが答えた。