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ひき分けオレオクッキー

 午後二時二十一分。

 私は機嫌が悪かった。

 八つ橋の機嫌も悪かった。

 ここで、私だけではなく、この標準サイズをはるかに超した猫の感情を推定ではなく断定するのは、この二週間というもの私と八つ橋が同居しているからである。私にとっては隣人にあたり、八つ橋にとっては飼い主となる西原さんは、なんと一ヶ月の間海外研修があるとかで、このところずっと留守である。すさまじい悪戦苦闘の後にこの猫をケージに入れることに成功し、それを見物していた私に手渡して頼み込んだかと思うと待たせてあったタクシーに飛び込み、成田空港から情けない声で電話してきて、八つ橋に言い訳と謝罪を繰り返したあげく。

 しかし今まで八つ橋の武勇伝は色々と飼い主から耳にしていたが、実際に見るのは、あれがはじめてだった。

 見事なものだった。キックもパンチも。いつものゆったりした動きが嘘のように、すべての技が急所に炸裂し、そして軽やかに相手を避ける。蝶のように舞い、蜂のように刺すとは、まさにあのような動きをいうのだろう。アントニオ猪木氏がそこに居たら、即座にスカウトしただろうと私は思う。といっても、まあ相手は猫なわけだが。

 それにしても、海外研修というのは将来有望な優秀な若手に受けさせるものではないのだろうか。この形容詞を西原さんに当てはめると、若手、というもの以外はどうも怪しいように思える。別にけなしているわけではなく、出張に行っては、喜々として地元の銘菓を買ってくる彼が、どうも仕事というものに熱心だと思えないからだ。しかも彼は自分のことを宇宙人だと大真面目に言うのである。そんな奇人に毎月給料をくれるというだけでもすごい会社だと思っていたが、実は彼は有能だったのだろうか。

 いや、そんな、まさか。

 私はどんどん離れていく思考を引き戻した。

 とにかくそんなわけで八つ橋と私は同居するようになったのだが、結構な時間を共に過ごせば、ツーカーとまではいわないまでも、相手の感情が結構わかるようになるものである。

 そんなわけで、私は断言する。八つ橋は非常に機嫌が悪い。

 もちろん、合コンなるものに数合わせとして引っ張り出され、結果として寝不足の私の機嫌もよろしくない。

 格好つけて言ってみるなら、お互いの不機嫌さが相手をいらだたせ、さらにそれが感情を逆なでする、今の私たちはまったくもって不愉快な気分がだらだら下降していく二重螺旋に囚われている。


 そんなわけで、午後二時三十五分。私はまずカフェオレを大きなマグになみなみ一杯作ってみた。これはマグにインスタントコーヒーと砂糖を入れ、沸騰直前まで温めたミルクを注いで、よくかき混ぜるというだけの簡単なものなのだが、機嫌が悪いときには砂糖を多めにいれるのがコツといえばコツかもしれない。けれどそれを飲んでみても、気分が上昇する様子がさっぱりないので、次にクッキーを焼くことにした。

 せっかく現状を描写するために格好つけて難しい言葉を使ってみても、打開策がこれだというのはなにか情けないし、いっそ西原さんに毒されているような気がするが、こんな時に深く物事を考えてはいけない。

 クッキーで作るのが楽しいものといえば、アイスボックスクッキーだと思う。二色の生地を作って、うずまき模様や市松模様にしたりするもので、慣れてくると金太郎飴のように顔の模様にしたり、色々凝ったことができるらしい。そこまでは私にはまだ無理だし、材料も暗記しているわけでもないので、私はレシピを探しに台所に行った。


 戻ってきたら、八つ橋が私のカフェオレを飲み干したところだった。


 私だってまだ二口くらいしか飲んでいなかったというのに、いつも両手で抱え込むようにして飲むマグは空になっていて、横で八つ橋が口の周りについたカフェオレを舐めている最中だったから間違いない。私は怒るよりも唖然として、見つけたレシピを手に台所に退却した。

 午後二時四十八分。まずバターと卵を冷蔵庫から取り出す。バターは必要な分だけとって、室温でやわらかくしておく。小麦粉など全部取り出して、計量に取り掛かったところで電話が鳴った。


 しかし粉だらけの手で取ったら、切れていた。


 私の堪忍袋の緒も、じきにそんな風にぷっつりいくのではないかと台所に帰った私は考えた。というのは、例の巨大猫が、せっかくやわらかくしたバターを食べてしまったからだ。バターを入れておいたボールは、言葉通りの意味で、舐めたようにピカピカだった。そして、私の足音に気付いて逃走をはかった八つ橋は、その隣の粉類を入れた大きいほうのボールに見事はまりこんだのだった。


 午後三時一分。私は無言で、猫の首ねっこを掴むと、外に出て毛皮から粉をはらった。そのまま外に置き去りにしようと思ったのだが、敵もさるもの、ドアを開けた瞬間、私の足の間から部屋に駆け込んで、テレビと壁の間にもぐってしまった。

 仕方なく私は粉を捨てて、ボールを二つとも洗い直した。

 そうしてもう一度、バターを出して粉を計りなおし、今度は邪魔も入らなかったのでそのまま生地をプレーンとココアの二色とも作るのに成功したところで、また電話が鳴った。

「はい」

 声に必要以上にドスが効いているという自覚はあった。

「……桃姉、わたし、棗だけど」

 さっき携帯でかけたら電波が悪くて切れたんだけど、機嫌わるいならまたかけるわ。と妹は一瞬言葉につまった後、どんどん早口になりながら言った。

「ごめん、だいじょうぶ、どうしたの?」

 私は眉間をマッサージしながら座って時計を見た。午後三時十七分だった。

「今度そっちに行くから泊めてもらえるかどうか聞きたかったんだけど」

 でもなにがあったん? ご機嫌ななめみたいだねえ、と棗はあっけらかんと聞いた。

 最初は私の剣幕におびえたものの、自分に矛先が向かないと知るや、好奇心が抑えられなくなったらしい。猫をも殺すなんとやら、が大洞家のなかでも一番強いのは、この一歳下の妹だと思う。反対に彼女によれば、私の好奇心は中途半端でよくわからない、らしい。とにかく、突き詰められるところはとことん突き詰めるのが棗だ。

 とにかく、ぶちまける相手が出来て私もうれしかったので、椅子に深々と座りなおした。

「昨日、数合わせに合コンにひっぱりだされて」

「まだそんなもんがあったんだねえ。廃れた風習かと思ってた」

「それで私以外は盛り上がり、途中でうまく帰れなくて、ものすごく遅くなり、そのうちの一人がいらんというのに送っていくといって聞かず、帰ってきてみたら八つ橋が外で待っていて、そうだ御飯やるの忘れてたスマンと思ったら突然その男に飛びかかり、パンチをお見舞いしたので彼は帰っていき」

「ちょっと待って、八つ橋って、あの隣の人の猫?」

「そう」

「はあ。続けてください」

「ただ普通に帰ればいいものを、腹部を強打されたせいか吐いたので私は未明に階段を掃除です」

「へえ」

「そして家にやっとのことで入ってみたら、八つ橋が荒れまくったのかトイレットペーパーが部屋中に散乱」

「それはひどいね」

「ということはありませんでしたが」

「……桃姉、まじめにやってください」

「八つ橋が窓を開けて外に出たらしいのね? だから寝ようとしたら、そこから蚊が入っていたらしく、一騎打ちのためにぜんぜん寝られなくて、死闘の果てにやっと奴を討ち果たしてさあ寝ようとうとうとしたところを八つ橋に飛び乗られて目が覚めて、私一回目が覚めたら眠れないんだけど!」

「うん知ってる」

「でもそれより許せないのは、仕方ないから録画しておいた『ゴッドファーザー』を見ようとしたら、最後の部分だけ切れていてね! あのトマト採りの場面がない『ゴッドファーザー』なんて、印籠が出てこない水戸黄門か、餡の入っていないアンパンみたいなもんじゃない!?」

「よくわかんないけど……餡が入っていないアンパンって単なるパンじゃないの?」

「それで悔しがっていたら、八つ橋がこっちを見てほくそえんでるから、もう腹が立って腹が立って!」

「チェシャ猫っすか」

「私はあれは八つ橋が腹いせに録画を止めたんだと思うのよ。でも世の中やっちゃあいけないことってあると思うのよ!!」

 まくしたててから私は深呼吸をした。落ち着いて、どうどう、と棗。私は馬ではないのだが。

「ビデオは考えすぎだと思うけど、でも桃姉のはなしを聞くだけで、面白い猫だねえ八つ橋って。会ってみたいなあ」

「…………ほほう」

 妹の能天気な発言に、私は地を這う声で返事をした。

「会ってみたいと言うなら会わせてあげようじゃありませんか。ねえ」

 言いかけて、私はまた時計を見た。午後三時三十二分。

「今だったら、まだ明日着の宅急便も間に合う時刻。箱に詰めたうえ、料金着払いでそちらに送りつけてやりたいと思いますが異存はございませんね。ございませんか。それは重畳。お武家様に二言はありゃあしませんね、へい、承りやした」

「ちょっと待ったー!!」

「まいどありー」

 妹が焦った声で叫ぶのを、にやりと笑って私は会話を打ち切った。

 もちろん本気で送るつもりはなかったが、今頃棗が慌てているかと思うと、ちょっと、いや、かなり面白い。あとでフォローの電話なりしてやらねばなるまい。

 そんなことを考えながら、台所に戻って、私は今度こそ、ぷつり、と何かが切れる音を聞いた。


 クッキーの生地が二色とも、なくなっていた。


 そして、さすがに満腹になったのか、床に横たわっていた八つ橋のしっぽを踏んでしまったらしく、ぎゃあ、という声とともに、くるぶしをいやというほど引っ掻かれた。

 私は、首ねっこをひっ掴むと、笑顔で猫を吊るし上げた。

「調子に乗られすぎじゃあございませんか、八つ橋さん」

 ことさら丁寧な口調で、私は言うと、近くにあったキャンバス地の買い物袋に問答無用で猫をつっこんだ。私がいつも使っているスーパーが、最近ビニール袋を減らす運動を最近始め、微力ながら私も参加しているのである。ちなみに自分の袋を持っていくと、ポイントも溜まる。

 そのままぐるぐると紐でくくって、手ごろな大きさの箱に詰める。ガムテープで蓋を留めたそれと鍵とお財布を持って、私は近所のコンビニへ向かった。午後三時四十八分。自転車を飛ばせば、午後四時までに着く。ということは明日着の宅急便の出荷に間に合うはずだった。生もの指定にするなら、それを逃すわけにはいかなかった。


 午後五時二分。私はやっとのことでアパートに帰ってきた。

 たいしたことをしたわけではなく、汗だくになりながらも荷物を発送し、その足でスーパーに向かうとオレオクッキーを一袋買っただけなのだが、夏の日は長く、特に西日はきびしい。せっかくスーパーで涼んだというのに、また汗がふきだしてくる。スーパーから出たとたん、オレオの袋を開けてしまって、それをばりばり食べながら自転車を押した。行儀悪いとはわかっているのだが、今日はいろいろあって何も食べていなかったし、疲労困憊したし、人っ子ひとりいない道だったので許してほしい。

 ちょうど最後の一個になって、さすがの私も甘さに飽きてきたところで、アパートの階段とそこに座っている猫が見えてきた。逆三角形の耳が垂れた、茶色の、大きい猫が。

 私は自転車を止めて、思わずまじまじと八つ橋を眺めた。にゃあ、としおらしい声で猫は鳴いて、私の足に体をすり寄せてきた……かと思うと、座って片方の前足を突き出した。犬でいうなら、お手の格好である。しかし八つ橋の表情といえば、堂々としていて、どちらかというと、相手の健闘を祝うライバルのような、そんな爽やかなものだった。

 つまりは握手ということか。

 私はしゃがんで、右手で八つ橋の前足をとると、上下に軽く振ってみた。ついでに最後のオレオクッキーを左手で差し出してみると、前足を下ろして、のどを鳴らしながら優雅なしぐさで口で受け取り、あっという間に食べてしまった。

 とりあえず、これは、ふたりとも機嫌を直して停戦した、ということでいいのだろうと思う。私と八つ橋は、連れ立って階段を上ると部屋に戻った。それから『ゴッドファーザー2』を一緒に床に寝そべって観賞した。


 西原さんが帰国するまで、あと半月ある。

 それまでどうにか上手くやっていけそうだった。



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