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ふい打ちチョコトリュフ

 一年前のバレンタインデーに何をしていたかおぼえている人間というのは、一体この世に何人いるものだろう。

 私はおぼえている。というより忘れられない、といったほうが正しい。

 なぜかというと、それは私が人生のなかで初めて出来た彼氏に振られ、そして西原さんに初めて出会った日だからである。

 ……ここで補足説明すると、西原さんというのは宇宙人を自称する隣人である。

 甘いものがないと生きていけないと豪語する彼は、言葉通りの意味で三度の飯よりお菓子を愛している。趣味は各地の銘菓収集、家にいるときはコンビニにて期間限定や新作菓子のチェックを欠かさない。奇人ではあるが今のところ別に害はなく、彼を観察するのが私の日課となっている。

 宇宙人かどうかの真偽は明らかではないが、あやしいところを数えれば数限りない。そんな彼と出会ったときのことを、そんなにたやすく忘れることができるだろうか。いやできまい。それが製菓会社の陰謀によってつくられた国民的イベントのある日だったとしたら、なおさらのことである。




 そのとき私は手の中の包みを呆然と見下ろしていた。

 小さいけれど、これにかけた情熱は誰にも負けないと自負している。材料は吟味したし、ラッピングにも時間をかけた。足りないのは渡す相手だけだった。

 それも昨日までは存在していたのだ。私と彼は同じ町出身で、二人ともが別の大学に入ってからは遠距離恋愛を強いられていた。まあ、双方の性格からして長続きするわけがないのは、わかっていた。最後はもう惰性だけしか残っていなくて、どちらが別れを言い出すか、という状況だったのも充分理解してはいるのだ。

 だがしかし。しかし。

 そっけないメール一通で二ヶ月ぶりのデートをキャンセルしざまに、あっさり別れを告げるというのはどうだ。しかもバレンタイン当日に。

 何週間も前からアイデアを練り、昨日は徹夜までして丹精込めて作り上げたチョコトリュフ。私の目の前で食べてほしかった。自分で食べるなんて考えられなかった。これは食べてもらうために作ったものなのだ。私が食べられるわけがない。

 捨てるには多くの時間と費用をこれに費やしすぎていた。もったいなくてそんなことは出来ない。

 悶々と悩み、もうどうしたらいいのか分からなくなっていたところに、彼はやって来たのだった。




「隣に引っ越してきた西原と申します」

 いっそ憎らしいほど軽快に鳴るインターホンに出てみたら、外に立っていたとっぽいスーツの兄ちゃんが笑顔で挨拶した。そういや昨日、引越しトラックが家の前に止まってるなあとは思ったのだ。ずっとチョコ作りにかまけていたので、どの部屋に入居したのかまでは分からなかったが。

 私の部屋は二階の角なので、これから彼、西原さん、が私の唯一の隣人となるわけである。

「大洞 桃です。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 名前を頭にたたきこみながら挨拶を交わす。銀縁眼鏡が妙に似合ったひょろりとした男性だった。ぱっと見には若く見えたが、向かいあってみると思ったより年上かもしれない。

 手渡されたのは、いまどき珍しい引越し蕎麦だった。受け取ろうとした際に、片手がふさがっているのに気付く。何かと思ったら、例の包みを握りしめたままだった。

 その瞬間、私の耳元でささやいたのは悪魔だったにちがいない。

「あの……チョコレート、召し上がります?」

「いいんですか!?」

 子供のように顔を輝かせて、西原さんは私が差し出した包みを両手で押しいただいた。目の前でためらいなくリボンをほどいて、箱を取り出す。

 それにしても初対面の相手から何かをもらったら、普通もっと警戒したりしないだろうか。近頃は子供でも知らない人からは物を受け取らないというのに。 

「手作りですか?」

「ええ一応」

 蓋を開けると、作った私でさえほれぼれするような、つるりとした曲面が美しい茶色の球体が四つ。彼は心から嬉しそうな、とろけるような笑顔で、ぽんっとその内の一つを勢いよく口に放り込んだ。

 いい食べっぷりだ。

 が、しかし。一回咀嚼したとたん、それが非常に微妙な、形容しがたい表情に変わる。

 私はそんな彼の顔をじっと見つめた。

「えっ、ええっと、おいしいですよ……?」

 そんな無理しないでいいのに。と思わず同情してしまうほど、嘘だとバレバレの上ずった声で西原さんは言った。困った顔がどんどん上気して赤くなってきている。

 と思いきや、瞬間的に何かが切り替わったようで、一気に血の気が失われたかと思うと、顔色は真っ青、唇は紫色へと変化した。

 そして赤くなった。

 それから青くなった。

 それからまた赤くなった。

 私は小学校の時の、理科のリトマス紙の実験を思い出した。

 しかし、ここから色の変化は次第にゆるやかになってきていた。オレンジ。黄色。緑、その次は青。それがどんどん濃くなって藍色。そして最後に紫。虹の七色、レインボーカラー。

 「ぅう、うめぼし……!?」

 そこでついに彼の唇から、押し殺したようなつぶやきが漏れた。








 アタリだ。


 




 私は身体の横で手を握りしめた。

 ここまで過激な反応が出るとは予想もしていなかったが、これはまたほれぼれするほどナイスなリアクションだ。元の彼氏ではここまでイイ反応は得られなかったにちがいない。

 四つのトリュフのうち、アタリは一個。

 他は普通だが、それだけは特別に、さまざまな食材とチョコレートが組み合わせてある。

 思いついたのは、映画『ショコラ』を見ていたときだ。謎めいた母娘が、ある保守的な村にやってきてチョコレート屋を開く。そんな彼らが、元気が出る、と客に出すのが唐辛子入りホットチョコレート。意外なそれが隠し味となっておいしいらしいのだ。

 そんなわけでアタリのトリュフは、梅干を核にしてある。映画に対抗するため……もとい消化を促進するために山椒も入れた。食いあわせが心配だったので、正露丸も砕いて入れてある。正露丸のあの独特な匂いを消すために、チョコレートはリッチでダークなものをふんだんに使用した。他にも色々入れたのだが、それは企業秘密だから言えない。

 最後のほうは、どれだけ突拍子もないものを口に入れるまでバレないように混ぜ込めるか、というやや本末転倒の目的になってしまっていたことは、ここだけの秘密である。くさやを混入する方法を思いついたときは、自分のことを天才かもしれないと思った。

 が、いささかやりすぎたかもしれない。

 西原さんの顔は紫を通り越してどす黒くなっていた。ふらりふらりと上体が大きく揺れている。

「だ」

 いじょうぶですか、と声をかけようとしたその瞬間。彼の身体が宙に浮いた。

 揺れすぎてバランスを崩し、手すりを乗り越えてしまったらしい。

「なんて分析している場合じゃないってば!!!?」

 私はあわてて玄関から飛び出すと、西原さんがさきほどまで立っていたところに駆け寄り真下を覗いた。

 自分が調理したものを食べて人が死んでしまった場合、やはりそれは過失致死ということになるのだろうか。故意はなかった。本当になかったのだから、殺人とまではいかないと思う。そして私はプロの料理人というわけではないから、「業務上」過失致死というわけではないだろう。しかも私のチョコレートは引き金となっただけで、直接の死因ではない。とそう思いたい。何はともあれ新しい隣人の生死を確認するのが一番である。

 ああお願いですから生きていて。

 だらだらと冷汗を流しながら見下ろした先では、ちょうど運良く植え込みの上に墜落した西原さんがのろのろと起きあがるところだった。



「お茶を淹れるのはお上手なんですね」

「……ありがとうございます」

 悪気のない言葉が痛い。

「本当に申し訳ありません……」

「いやいやいつも八つ橋にやられてるのに比べればぜんぜん大丈夫です」

「……やつはし?」

「ああ! 猫です。一緒に住んでるんです」

 どんなバイオレンスな猫だ。

 一階に駆けおりた私を待ち受けていたのは、小枝で出来たひっかき傷以外、まったく五体満足無事な西原さんだった。自分が殺人犯にならなかったことを喜ぶ間もなく、「み、みず……」とうめきながら気絶しそうになった彼を、部屋にあげて水を飲ませ、人心地ついたところでジャスミン茶を淹れたところである。

 口の中に残った後味を洗い流すには、強い芳香を持ったこのお茶が一番だ。中国茶は小さい茶碗で何回もゆったり飲むものだから、心を落ち着けるにもいい。

「私も猫大好きなんですよ」

「そうですか、じゃあ今度お目にかけますね」

 面白い名前ですね、そうでしょうか、などと雑談し、さきほどまでの状況を忘れたように、おだやかな雰囲気のなか二人してのんきに笑いあった。

 その一週間後に約束通り私は八つ橋と対面し、この出来事の引け目もあって、西原さんが出張している間、その巨大な猫の面倒を見ることになったりもした。そんなこんなで一年はあっという間に過ぎさったのである。


 しかし、さすがの西原さんといえど、あのチョコレートは忘れられなかったらしい。 




 一年後の二月十四日。

 西原さんは真剣な顔でゆっくりとチョコレートケーキを食べ終わると、フォークを下に置きながら、これ以上ないほどに大きく息を吐きだした。

「どうでした?」

「あーあの、おいしかったんですけど、おいしかったんですが、でもなんか、ものすごく覚悟して、生命保険にも新しく加入して、昨日はもう眠れなくて、ちょっと見納めになるかもしれないなんて思ったので両親に会いに行ったりもして、それで食べて普通においしかったらなんか拍子抜けするっていうか……」

 ……そこまでしてなぜ食べるのかが私にはわからない。

 私は一応、あんなことがあった後でも今年のバレンタインチョコがほしいかどうか聞いたのだ。ほしいと答えたのは西原さん本人である。

 というか西原さんの実家とはどこだろう。両親が住んでいるのは、やはり宇宙なのだろうか。ウールートーラーのははー、などと古い歌が頭の中で鳴りひびく。

「なんだったら、またあれ作りましょうか? レシピもありますし」

「いいえ! いえ結構ですよ!!!」

「そうですか」

 私は軽く笑って受け流すと、鼻歌まじりに空になった茶碗をまた温めた。

 西原さんのことだからホワイトデーを忘れるなんてありえない。お返しが前にももらったロイズの生チョコだったらうれしいなどと勝手なことを思ったが、西原さんの買ってくるお菓子だったら多分どれでもおいしいだろう。

 一ヵ月後が楽しみだった。


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