ほら吹きフェイジョア
世はなべてこともなし、という語句がぴたりとはまりこむような青空がひさしぶりに広がった日曜日のこと、私は洗濯物を干すという作業に朝からいそしんでいた。なんせ数日続いた雨のせいで、汚れ物がたまりにたまって見るだけでうんざりするほどだったのだ。そんなわけで週末恒例の朝寝もあきらめて、洗濯機をフル回転させていたのだが、それもやっと終わり、最後の靴下を洗濯ばさみでとめたところで、階下から声がした。
「桃さーん」
ふたたび窓から身を乗り出して外を覗くと、西原さんがこちらを見上げて、散歩に行きませんか?とのんきなことをやけに嬉しげに言った。
その隣、アパートの門灯の横で、彼の飼い猫の八つ橋が前足を揃えて座ったまま、ゆらりと尻尾を振ってみせた。
まず初めにお断りしておくと、西原さんというのは、私の隣人である。それ以上でもそれ以下でもない。
たしかに彼の愛猫を預かることはあるし、そのお礼として彼が持ってくるお菓子を受け取るし、ときどきはそれと合う飲み物を出して二人でつまむことはないとはいえないから、最近は茶飲み友達程度には親しくなったようにみえても仕方ないことなのかもしれないが、私は断固としてここに宣言する。それは、不可抗力のせいであり、あくまで外見上の話である、と。
どちらかといえば、私と西原さんとは『友達』というより『知人』である。もっと正確にいうならば、多少聞こえは悪いが、彼は私の観察対象、である。
尋常ではない甘味好き、という点からして私の好奇心をくすぐるには十分だったが、それ以上に、自分のことを大真面目に宇宙人であると言うにいたっては、もう目が離せなくなっても仕方ないではないか。しかも、彼の飼っている猫も、その名前と巨大なサイズ以外にも、どうも普通の猫とは色々と違う奇妙なところがあるようなのである。
はっきりいえば、西原さん(そして彼の猫)は、変、なのだ。それも、ものすごく。
そんなわけで、友人というには、私は西原さんのことをあまりにも知らないのである。そして、正直なところ、この謎が多すぎる隣人を友達と呼ぶのは、ちょっと……躊躇しなくもない。
そこまで考えて、私は隣を歩いている西原さんに尋ねた。アパートから2、3ブロック歩いた地点である。
「どこに行くんですか?」
「秘密です」
西原さんは、ひょろひょろ、という擬音語が似合う歩き方をしながら答えた。猫連れだからそんなに遠くには行かないだろうと思っていたのだが、西原さんがひょろ長い手足を交互に出しているのとは対照的に、その肩の上で八つ橋は襟巻きのように体を伸ばしていた。自分では歩かずに、飼い主を乗り物代わりに使ったりするから太るんじゃないかと思ったが、私は口には出さなかった。
「でもすぐ着きますよ、ここを曲がって……はい、到着」
と言われたそこは、何の変哲もない住宅街の真ん中のように見えたので、私は思わずあたりを見回した。西原さんは、そんな私には構わずに、一軒の家の玄関へと近づいていく。おそるおそる後ろについていくと、彼はインターホンではなくて、その下に生えている木に手を伸ばした。具体的には、その木に咲いている、長くて赤いおしべと柔らかそうなピンクの花びらの、なんだか南国っぽい花に。
そして、「すみません」と謝罪したかと思うと、私があっけにとられている間に、その花から花びらをちぎりとった。
「はい」
さも当然のように手渡されて、私は花びらと西原さんの顔を交互に見る羽目になった。
何がしたいのだろうこのひとは、と思わず八つ橋に助けを求めそうになったが、猫も興味津々といった表情で西原さんの次の挙動を見守っている。私が仕方なく路上で花びらを持っている横で、西原さんはもう一回謝りながら花を取った。そして今度はそれを自分の口の中に突っ込んだ。
「食べた!?」
「はい、おいしいですよ」
これはフェイジョアという木で、本当は実を食べるんですが、花もおいしいです。
にこにこしながら、西原さんは言った。
「前に、六花亭のマルセイバターサンドを食べているときに、雪みたいなお菓子が食べたいっていうお話をされていたでしょう。で、ああいうお菓子はまだ見つからないんですが、名前つながりで、花はどうかなと思って。八つ橋がフェイジョアの木がここにあるって教えてくれたので、花が咲いたら食べてもらいたいと思って。桃さんに」
そんな話をしたことすら忘れていた。思わず返答につまった私には構わずに、西原さんは滔々と語りはじめる。
「はなびら餅でもいいかな、と思ったんですけど。あのお菓子、ご存知ですか?」
正確には、菱葩餅っていいまして、ごぼうと白味噌餡をピンク色のお餅で包んで、その上から円形の求肥か白いお餅を二つに折って半円形に包んだお正月の和菓子です。うっすらと下のお餅の色が透けて見えて、すごくきれいなんですよ。僕はあれを見るたびに貝の剥き身を連想してしまうのですが、本当は宮中のおせち料理を簡略化して配っているうちにあの形になったらしいですね。ごぼうは鮎の塩漬け、白味噌餡はお雑煮の代わりなんだそうです。でも僕としては、元の食べ物より、はなびら餅を貰うほうが嬉しいです。
「西原さん」
私は彼の菓子談義をさえぎって言った。
「ありがとうございます。あの、でも、これって」
ドロボウじゃないですか。
たかが花と言っても、明らかに他人のものなのだ。花泥棒に罪はないというが、それは美しさに惹かれて盗った場合であって、食料としてはカウントされないと思われる。
ささやくと、西原さんは愕然としたように目を見開いた。考えていなかったらしい。なぜか肩に乗ったままの八つ橋が、とてもわかりやすく目を逸らした。
「……そううわ痛!」
西原さんは口をぱくぱくとさせてから何かを言おうとしたが、それは八つ橋が爪を閃かせたことで中止となった。痛みに飛び上がって、次にかがみこんだ彼の首元あたりから、八つ橋の唸り声が聞こえてくる。
ようやく振り返った西原さんは、珍しく困った顔をして言った。
「実はこの家は八つ橋のものなんです」
あまりにも無理がある。
私の表情に気がついたのか、八つ橋がまたもやぐるぐる、と唸った。西原さんの表情の困惑度がさらに上がる。めずらしいこともあるものである。
「といいますか、えー昔は悪い巨人が住んでいたんですが、ネズミに変身した際に、八つ橋がやっつけまして……」
「巨人!? この家普通サイズなんですが、っていうか『長靴をはいた猫』!?」
私は思わず突っ込んだ。いったい何がしたいのかわからないほどひどい出来の嘘を吐かれて、こちらも動転していたのである。
西原さんは八つ橋とちらりと目を見交わして、また八つ橋が喉を鳴らすのに耳を傾けた。
「いや実は、ここは八つ橋のセカンドホームなんです。八つ橋の卓越したネズミ捕りの才能に惚れこんだ奥様がですね、いたれりつくせり、なかなか離してくれなくて……ですから僕達は乗り込んでいって穏便に話し合いを……」
「『オゥオゥ奥さん、ウチの猫に手ェ出すなんて覚悟はできてるんだろうな』って?」
「いやそこまでは」
そりゃそうだろう、そこまでやったら美人局で恐喝である。
「でも、八つ橋の飼い主は西原さんなんですから、本来は、猫の面倒をみてもらっていることに対してお礼をする側なんじゃないですか?」
「……そうですよね……」
どうしよう、ちょっと楽しくなってきた。
八つ橋が今度はごろごろという音を立てる。西原さんは、なんだかだんだん困惑というよりは、悲愴という言葉が似合いそうな表情となってきていた。めずらしいことも、あるものである。
「『でも今ちょっとお金がなくて払えないんです』と言ったら、『それじゃあ仕方ないニャー』と……」
「ニャー!?」
「猫好きの方なんです」
すべての猫好きが語尾にニャーと付けるようになったら、世の中が大混乱に陥ると思ったが、私は言わないでおくことにした。
きっとその場合、犬好きの語尾は『~ワン』である。
「八つ橋はちょうどネズミに悩まされていた、こちらの奥様に召し上げられてしまいます。もし返してほしければ、八つ橋と同じ目方の金を持ってくるように、と」
それは重そうだ。
証明するかのように西原さんは噂の飼い猫を乗せたままの肩を落とした。八つ橋は自分につけられた価値に満足しているらしい、目を細めると、口だけ開けて音もなく鳴いた。
「散々頼み込んで、僕と八つ橋は一週間の猶予をもらいます。でも、その間、ネズミが一匹目撃されるたびに返済金額が1000万円プラスされるニャー、という契約書に泣く泣くサインを」
「いっせんまん! 高いですよ!」
付け加えるとするならば、ニャーは譲れないらしい。
「嫌いなものをがまんする、ということに値段をつけるとすれば、まだ安いくらいかもしれません」
やけに深刻な顔をして西原さんは語った。
「しかもネズミはその名の通り、ネズミ算式に増えるので大変です」
「そこらへんシビアですね」
「そうなんです。そんな勢いで増える借金に対抗するには、道は一つしかありません。ギャンブルです。僕と八つ橋はまっすぐラスベガスを目指します」
「ラスベガス!」
ずいぶんスケールの大きい話になってきたものである。
「ええ。世界最大の娯楽街。砂漠のただ中にぽつんとある享楽の地。そこに僕と八つ橋は一攫千金を目論んで乗り込み、大勝をおさめます。カードを引けばポーカーの手札は必ずロイヤルストレートフラッシュ、スロットマシーンのバーに飛び乗れば7が三つ並ぶ、カジノのオーナー達が血眼でイカサマを見破ろうとしますが、何の証拠は見つけられません。それも当然、すべては八つ橋の幸福を呼ぶ招き猫としての才能にかかっていたのですから。猫と東洋人の男のコンビは瞬く間にブラックリストに載りつつも、借金返済を着々とこなしていたのですが、」
八つ橋にネズミ捕り以外の才能があることが明らかになったにもかかわらず、どうやらハッピーエンドは遠いらしい。それにしても西原さん、語り口調がだいぶスムーズになってきている。
「最後の最後にルーレットに賭けたのが悪かった。ほら、あれって玉を転がすでしょう。あれに、本能を押さえ切れなかった八つ橋が飛びついてしまい、賭けは目茶苦茶に。八つ橋はそのへん可愛いふりなんてできませんから、止めに入ったディーラーや警備員相手に大激闘……」
『シュレック2』に出てくる長靴をはいた猫なら、媚を売ってなんとか切り抜けそうではある。あれは何回見ても騙されるたぐいの可愛さだと思う。八つ橋には、確かに無理そうだが。
「そんなことで僕達は、営業妨害をしたということで、これまで勝ったお金を全部取り上げられた挙句、放り出されます」
「あの砂漠に!」
「そうです、水の一滴もなく。どんどん衰弱して、横たわって空を見上げながら、最後に思い出すのは……桃さんに」
何と続けるつもりだ。
ここまで荒唐無稽一辺倒だった話のクライマックスに自分の名前が出てきたものだから、私は固唾を飲んだ。
「淹れてもらったお茶で、はなびら餅食べたかったニャー、と」
「ここまでひっぱっておいて花より団子オチ!?」
しかもまさかのバッドエンドである。
それなのに語尾がニャー。
というか、結局何の解決にもなっていないことに気付いてほしい。
やってられん、という雰囲気を雄弁に漂わせて、くあ、と八つ橋が顔半分ほどの大口を開けてあくびをした。その気持ちは私もわからないでもない。
「あの、でも、桃さんはまだ食べる前ですから無罪……」
言いかけた西原さんを、私はさえぎった。
「いえ、私も食べます」
私は、言うが早いか、ぱくりと、話の間ずっと指先だけで持っていた花びらを口に含んだ。
……ところで、咀嚼しながらやっと気がついたのだが、目の前の車庫は空っぽだった。
車もないし、これだけ長い間、家の前に立ち尽くしていても、中に人のいる気配はなかったということは、きっと住人は、ひさしぶりに晴れた週末に出かけているのだろう。
それなのに、よくもまあ、花一つで大騒ぎをしたものである。自分がきっかけを作ったことは棚にあげて、私は呆れた。花を取って食べてしまったことには変わりはないのだが。
すみません、と心の中で詫びてから、もうひとつ、好き勝手な設定を作ってしまったことに対して、すみません、と付け加える。特に、語尾がニャーというのは、もしも本当に猫好きだとしてもいただけないだろう。
「おいしかったです」
食べ終わって報告すると、「それはよかったです」と言う西原さんと、彼の肩の上の八つ橋が揃って目を細めた。確かにものすごく、変な一人と一匹なのだが、口に出した本人さえ忘れているようなことをおぼえていてくれて、そのために何かしてくれる。
たとえそのやり方がちょっと常識から外れているとしても、存在自体に謎が多くても。
ただの知人でいるにはもったいないかもしれない、のかもしれない。こんなこと考えてどうなることでもないし、空は青いし、世はなべてこともないし、なるようにしかならないものだけれど。知人を飛び越えて、窃盗の共犯者になってしまったことだし。
「お礼というにはなんですが、帰ったらお茶はいかがですか?」
とりあえず訊いてみると、バウムクーヘンがあります!という声と、本当の猫の鳴き声の二重奏で返事があった。
思わず笑うと、花の、優しくほろりとした食感と、ほのかに甘酸っぱい味が舌先にまだ残っているような気がした。