思いこみレーズンバターサンド
「桃さん、八つ橋は元気ですか?」
ドアを開けた途端、お隣の西原さんが勢いこんで訊ねた。
八つ橋といっても、京都の銘菓の話ではない。彼の愛猫である。
なかなか珍しい名前だとは思うのだが、出会ってから一週間ほどで、その狸と見まがうほど巨大、かつ無愛想な茶色の猫を笑顔満開の彼が抱いてあらわれた時、私は思わず納得した。
それはまあなぜかというと、猫のなかには耳がぺこりと折れまがっている種類がいるのだが、八つ橋はそれだった。
まるい顔に大きめの逆三角形の耳が二つ。その様子がどうしてもあれに似ている。薄い正方形の皮を半分の三角形に折って、粒あんを挟んだあのお菓子に。
「お昼寝してますよ」
答えつつ、西原さんが提げている紙袋をすばやくチェックする。
彼が家を空ける間の猫の世話をするかわりに、行った先のおみやげをもらうというのが私たちの間に自然とできたルールなのだ。
この前は伊勢の赤福で、その前は確か沖縄のちんすこうだった。
おかげで、私もだいぶ日本各地の銘菓通になってきたかもしれない。
「ええと、こんにちは。いつもお世話になってます」
「いえいえ私の方こそ八つ橋には相手をしてもらってます」
やっと挨拶というものを思い出したらしく、細長い身体を折り曲げるようにして彼はお辞儀をした。銀縁眼鏡の奥では、ただでさえ細い垂れ目が、笑っているせいで糸のようになっている。
ひょんなことから知り合ったこの隣人に、私はなみなみならぬ興味を抱いていた。
断じて、誓っていうが、恋愛関係の話ではまったくない。ただひたすら、観察材料としてだけである。
というわけで、お茶でもいかがですか、とそこで私が訊ねる。西原さんは常に遠慮のかけらもなくうなずく。それも今では、しきたりのようなものだ。
やかんに水を汲んで、火にかけてからおみやげを開けた。その間、西原さんは八つ橋との久しぶりの逢瀬を楽しんでいる。
といえば聞こえはいいが、どうやら愛情は一方通行で、飼い主が心底迷惑そうにしている猫を心底楽しそうに撫でまわしているだけだ。
「今回は北海道におでかけだったんですか?」
「はい!!」
西原さんは嬉々として答えた。この人は何をしていても楽しそうな雰囲気なのだが、まあそれはこの際おいておく。
「東北を少しまわって、通りかかった福島でゆべしを買って、仙台でずんだ餅を食べて。山形ではのし梅をはずすわけにはいきませんし、南部煎餅は押しも押されぬ岩手名物ですしね。あ、あと青森で久慈良餅を食べてから、北海道まで行って。でも北海道には残念ながらあんまりいられなかったんですけど、とりあえず一応は帯広まで行って。それで行ったならそれを買わなきゃと思いまして。 お好きでしたでしょうか?」
たったの一泊二日で東北と北海道をそんなにまわれるものだろうか、と疑問に思うが、いつもといえばいつものことなので、つっこまないでおく。
今回は六花亭のマルセイバターサンドだった。銀色の包み紙に古風な文字が印刷された赤いラベルが目立つ。
「食べたことないですけど、おいしいんですね」
これは質問ではなく確認だった。
いつも頭のねじを落としながら歩いているような西原さんだが、お菓子の評価、それのみについては信頼している。
「モチロンです!」
包み紙がちょっと面白いでしょう。それ、依田さんが十勝で最初に作ったマルセイバタのまねっこなんですよ。1974年に出来たお菓子なんですけど、昔と変わらない味で……っていい意味でのことですけど。中のクリームが秘訣だと思うんですよね。ホワイトチョコとバターなんてすごくしつこそうに聞えますけど、それがそうじゃないんです。 でも溶けちゃうので冷蔵庫に入れるの忘れないでくださいね? そうそう六花亭ってわざわざ自分のとこ専用に小麦粉をつくるんですけど知ってました?
立て板に水の勢いの言葉を聞き流しつつ、ポットとカップを温める。彼は一度お菓子について語りはじめると、自分が満足するまでやめようとはしない。
どうやら乳製品がたっぷり入っているらしいからミルクティはやめよう。となるとダージリンかセイロンか。
戸棚の前で少し考えてから、結局、買ったばかりのセイロンティー(ディンブラ産)にした。
紅茶をいれる準備をしていると、おみやげの能書きを終え、そして八つ橋に愛想をつかされたらしい西原さんが、それぞれに一個ずつお菓子を出して、冷蔵庫に残りをしまってくれる。
おいしい紅茶を入れるコツ、というのは結構色々とあるが、そのうちの一つは、ポットにお湯を入れる時、少し高めの位置から勢いよく注ぐことだ。
二人でテーブルに頬杖をついて、砂時計の水色の砂が落ちるのを見ながら、私は出会ってからずっと気になっていたことをずばりと聞いてみた。
「西原さんは何のお仕事をなさってるんですか?」
「当ててみてください」
いたって真面目に彼が言う。
というわけで茶葉を蒸らす間、私はこれまで考えたことを、頭の中でもう一度並べ直してみた。
日本各地にしょっちゅう出歩いているところを見ると自由業だろうか。しかし、ほとんどの平日に、スーツをかちっと着込んで結構朝早くから出ていくのをみると、そうとは思えない。
だが、いつも出掛けて買い込んでくるあの各地の銘菓の量はなんなのだ。
家にいる時でもこの人は、近所のコンビニで山のようにお菓子を買ってくる。
ただの甘いもの好きとしても、あの量をこなすのはちょっと辛いんじゃなかろうか。
「ヒントはですね、甘いものがないと生きていけません」
……チョウチョやアリじゃあるまいし。
ポットをスプーンでひとまぜしてから、茶葉を漉しながらカップに注ぐ。
きれいな色が出た、と心の中で自画自賛してみる。
「製菓会社におつとめですか?」
考えた末に出てきたのはこんな答えだった。
ライバル会社の製品を食べくらべているとか、新製品の開発をしようとしているとか、そういう理由だったら、まだ、少しだけ理解できるような気がする。
しかし、もしあれだけ糖分とカロリーの消費をしているのにこの体型だとしたらサギだ。ダイエットに奔走する女性の敵だ。
「ぶっぶーはずれでーす」
高らかに宣言してから、彼は突然声をひそめた。
「実はですね、桃さんを信用して言っちゃいますけどね」
「言いたくないなら言わなくてもいいですよ」
「それはそうですが言いたいので言わせてください」
「はあ」
「僕はね宇宙人なんです」
「ほう」
「英語で言うとエイリアンです」
英語の方が何となく凶悪な感じがするのはなぜなのか。
しかも当初の質問からかなりずれた答えである。
私は何も言わずにバターサンドを口に運んだ。おいしい。
さくさくした歯触りのクッキーもおいしいが、特に挟まれたクリームがこたえらえない。ラム酒の香りがほのかにするバターにはレーズンの酸味がきいている。それでいて、まったりとやみつきになりそうな甘さだった。
「……あの、六花亭は、お嫌い、でしたか?」
しばらくだまって味わっていると、西原さんがおそるおそると言った様子で聞いた。しかし訊ねるべきはそこではないような気がしなくもない。
「とってもおいしいですよ? どうしてですか?」
「あの、紙袋を見られた時、心拍音がちょっと……じゃなくて。ええとこんな顔をされたので」
こーんな、と言いながら彼は思いっきり顔をしかめてみせた。鼻にひっかかった眼鏡がずれている。
そこまであからさまだったろうか。げに食べものの恨みというのはおそろしい、と私は他人事のように思った。
「ああそれは、なんというか……私の逆恨みとでもいいますか」
「どうしたんですか? お菓子に何か不純物が入ってたとか!? そうなんだったら許しておけませんが!!」
「いえ、そんなたいそうなものじゃないです」
私はあわてて否定した。許しておけないというのは、具体的にはよくわからないが穏やかではない。
「ちいさいころに六花亭というお菓子のお店があるということを、はじめて聞いた時にですね、想像力が暴走しまして」
六花というのが雪の異名だとはなぜか知っていたので、雪の結晶のようなお菓子を売っているのだと信じこんだのだった。何年もたった今でも思い出せるくらい、はっきりとした想像である。
てのひら半分くらいの大きさで、ひんやりとしている。色は透明がかった白。結晶そのもののように繊細で、口に入れると優しい甘さがほろりと溶ける。
その後、そんなお菓子が存在しないと知って、なんだか裏切られたような気がしたのだ。勝手に思い込んでおいて、裏切られるも何もないものだけれど。
たとえてみるならば、『E.T.』 のビデオのパッケージを見て、かの異星人の皺くちゃさ加減に恐れをなし、かなりの長い間ホラー映画だと信じていたことに似ているかもしれない。
ちなみに私はあの映画を初めて観た際、あのエンディングにぼろぼろ泣かされた。自慢ではないけれど涙腺は弱い。
「おいしそうなお菓子ですね」
私の説明を聞いて、西原さんが目を輝かせた。
そういえば、ここで目尻を下げてお菓子を食べている隣人も自称宇宙人だ。
「……そうでしょう」
「今度そういうお菓子を見つけたら、桃さんにもかならず買ってきますね」
約束します、と何回もうなずきながら彼が紅茶を飲み干す。
そうは言われても、私の頭の中にしか存在していないのなのだが。……いやだがしかし、この西原さんならいつか見つけてくるかもしれない。
「楽しみにしてますね」
とりあえず宇宙人宣言を頭のなかから追いだして、お茶のおかわりどうですか、と私は訊いた。
窓辺で八つ橋が大きな口を開けてあくびをした。