尼子の忍び 鉢屋外伝 其の肆
尼子の忍び 鉢屋外伝
古代出雲神話編
比婆山
伯大川の上流へと進むと、陰陽竹が繁る比婆山が見えてくる。
比婆山の不動の滝の周りは、紅葉で木々が色づき、水しぶきで涼やかな世界が広がっていた。
川のせせらぎを聞きながら、柱状節理の玄武岩を眺めていると、太古の時の流れへと誘われる。
柱状節理とは、溶岩が冷えて固まる時に体積が縮み、規則正しい五角形や六角形の柱状の割れ目の節理ができる地質構造のことである。
比婆山は日本最古の歴史書である古事記に記された最初の山であり、国生みの神の伊邪那美命が埋葬された由緒ある山で御陵だと伝えられている。
伊邪那美命は、日本神話に登場する国生みと神生みを行った根源の女神、伊邪那は誘、美は女性を表す言葉、誘う女を意味する。
夫の伊邪那岐命は誘う男を意味し、共に万物を生み出す元となった夫婦で、天津神から命じられ、天沼矛で海原をかき回す。
最初に淡路島、次に隠岐の島、日本の島々(大八洲国)や、天照大御神を初めとする多くの神々を生み出した。
伊邪那美命は、火の神の軻遇突智(迦具土神)を生んだ際の大火傷がもとで亡くなる。亡骸は、根の国にある出雲、伯伎(伯耆)の境の比婆山に葬られた。
日本神話に、根と呼ばれる国が登場する。根の国と繋がる黄泉と呼ばれる国は、根の国からは死後の世界とされ、汚れや死者が集まる暗く不浄な場所とされた。
黄泉と呼ばれる元となったのは、春秋左氏伝や史記などに地下世界を意味する漢語からの借用で、古代の日本人が冥界を「よみ」と呼んでおり、それに漢語の黄泉を当てたものといわれる。
伊邪那美命は、死後、黄泉国に去った自分に逢いにやってきた伊邪那岐命に腐敗した死体を見られたことに恥をかかされたと怒り、恐怖で逃げる伊邪那岐命を千五百の黄泉軍に追わせ、最後は自ら追いかける。
しかし、黄泉国と葦原中国(地上の国)の間の黄泉路において葦原中国と繋がっている黄泉比良坂で、伊邪那美命に対して伊邪那岐命が千人引きの大岩で道を塞いだ。
伊邪那美命は、閉ざされた大岩の向う側の夫に向かって叫ぶ。
「愛しい人よ、こんな酷いことをするなら、私は一日に千の人を殺す。」
伊邪那岐命は伊邪那美命に答える。
「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて、一日に千五百の子を産ませよう。」
そして伊邪那美命と伊邪那岐命は離縁する。伊邪那美命は、死者の世界である黄泉の国の住人の黄泉大神となった。
黄泉の国から帰還した伊邪那岐命は、筑紫の国の日向に降り立つ。筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、鼻を濯いだ時に須佐之男命が産まれた。
三貴子の天照大御神、月読命、須佐之男命の統治の領域は、天照大御神が高天原、月読命が高天原、滄海原、夜の食国、須佐之男命が夜の食国、海原、天下を治めることになる。
須佐之男命は、それを断り、母の伊邪那美命のいる根の国に行きたいと願い出る。向う前に姉の天照大御神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大御神は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対した。
須佐之男命は疑いを解く為に天照大御神と誓約を行う。誓約は吉凶や正しさを占う行為で、天の安河を挟んで行われた。互いの持ち物の十拳剣や勾玉を交換し、それを水で清めて噛み砕き、息吹から神々の宗像三女神や五男神を生み出し、邪心がないことを証明して根の国に向かった。
斐伊川の源流となる鳥髪山(船通山)へ降った須佐之男命は、その地を荒らしていた巨大な怪物の八岐大蛇への生贄にされそうになっていた美しい娘の稲田姫命と出会う。
美しい娘を間にして、老夫婦の足名椎命と手名椎命
が泣いていた。須佐之男命は、稲田姫命との結婚を条件に八岐大蛇退治を請け負う。
十束剣で八岐大蛇を退治すると尾から天叢雲剣が出てきたので、須佐之男命は天叢雲剣を天照御大神に献上する。それは、後に三種の神器の一つとなった。
須佐之男命の六世の孫にあたる大国主大神は、少名毘古那神らと共に豊葦原の瑞穂国を造り、天照大御神からの命により、地上の支配権を譲る。その後は目に見える現実の世界の顕事ではなく、目に見えない世界の幽世を治め、魂や縁や結びつき、運命を司る神として、杵築大社に祀られることとなった。
古代出雲の神話は、目に見える現世と目に見えない神々や祖先の領域である幽世が深く結びつき、日本神話の根幹を成す聖なる世界観の基盤となっている。
久米神社
比婆山の山頂には、古くから山を守ってきた久米神社がある。久米神社は、出雲国風土記や十世紀に編纂された法令の施行細則の延喜式に記されている古い神社である。
伊邪那美命を祭神とする上の宮の奥宮があり、麓には下の宮の里宮がある。古くより豪族の崇拝が篤く、尼子氏から手厚い保護を受けてきた。
月山富田城の裏鬼門と東方守護の祭神として、崇敬は殊に篤く、社殿、随神門、神殿は悉く手入れされ、五坊、鐘楼が整い隆盛を極めた。
山頂付近には、男竹に女性的な笹のついた陰陽竹が分布している。真竹に似た茎に笹のような大きい葉をつけている。伊邪那美命が出産の際、比婆山に登り、手に持っていた杖を地中に立てたところ、根を出し葉を広げ陰陽竹になったと言われる。
比婆山より、更に伯大川の上流へ進むと、尼子十砦の一つ高尾城が築かれている。 主郭は山頂にあり、周囲を切岸加工して一段高くなっている。西側に堀切があり、その先に小さな段が付く。
主郭から南へ伸びた尾根には、堀切で区画された曲輪が連なる。主郭の南下に二重堀切があり、その先に北端部が櫓台状になった曲輪、更に堀切、曲輪、堀切と続き、南端は北の堀切に面した部分を高土塁として削り残した平段となっている。
主郭から北東へ続く尾根には、南側に高土塁を設けた曲輪が続いているが、この部分は防御の為のものではなく、武器や兵站を運ぶ馬隊の駐屯地であった。
城主の高尾右馬允は、兵糧が困窮する月山富田城に、伯州伯耆の日野、備後、備中から武器や兵站を馬隊で、比婆山の清水掻参道を経由して、山陵伝いの尼子道で輸送していた。
尼子道は、尼子氏の軍事作戦における兵糧と物資の輸送や軍勢の進軍と撤退の為に整備され、各地の峠に残っている。
伯大川の上流は実りの秋を迎え、稲刈りされた棚田が広がっていた。その上流の野山では古くから野たたらが盛んに行われている。
高尾城の高尾一族は、伯大川沿いの野山で野たたらの操業を行う武士であった。野たたらは、高尾城が築城される戦国時代以前から始まり、採砂場、野たたら場、鍛冶屋が川沿いに点在していた。粗悪ながら、十分戦える刀剣を一族は独自に備えていたのである。
伯耆尾高城の杉原盛重率いる毛利軍が安田要害山城への侵行で落城したことは、高尾右馬允に伝わっていた。
高尾右馬允は、率いる軍と比婆山の久米神社へ戦勝祈願の参拝に向かっていた。奥宮に到着し、暫くの間、駐屯していると、月山富田城より比婆山に繋がる山陵伝いの尼子道を通り鉢屋衆若頭安長と他二名がやって来る。
高尾右馬允は安長を労う。
「ようこそ、比婆山へ、御苦労様。古来より、この地を守る我が一族、鉢屋衆を歓迎する。」
安長は礼を述べる。
「高尾様、初めて御前に進みます。これは、鉢屋衆が若頭、この安長、ならびに我が手下の一座に御座います。富田の地より、命を帯びて参上いたしました。労いの言葉、感謝致します。」
高尾右馬允は安長に笑みを見せ話し出す。
「根の国を守りし、我ら尼子軍は、神軍なり。伊邪那美命より御加護があろう。共に神殿に参ろうぞ。」
安長は礼をして軍と共に参拝に向かった。
久米神社奥宮の宮司は、尼子軍を迎え入れ、厳かに祝詞を述べ、戦勝祈願を行った。
高尾右馬允は呟く。
「残された兵糧補給路の尼子道を、我が高尾城、そして高守山城、最前線の亀游山城の伯大川城砦で守り抜かねばならん。」
安長は頷いた。
戦勝祈願を済ませた高尾右馬允は、軍を率いて鉢屋衆と共に、毛利軍と最前線で対峙する伯大川中流域にある亀游山城に向かった。
亀游山城は、母里と呼ばれる地区にあり、尼子十砦の一つである。城主の剛将和田源右衛門は二百五十名の精鋭で城砦を構え、伯大川の戦いでは杉原盛重率いる毛利軍の攻撃から城を守った。城は伯大川に突き出した亀の形をした低丘陵に築かれている。
伝承によると、平景清の家臣である石見国の小幡権太夫実家が、承安二年の秋、平松(島根県大田市大代町付近)の地で白い光を放つものが飛び、家臣を向かわせたところ、白羽の矢が見つかり、これを吉兆として城を築いたとされる。
亀游山城には、高守山城の立原幸隆率いる軍と安田要害山城の残兵が駐屯していた。
高尾右馬允の援軍が亀游山城に到着すると、和田源右衛門と家臣達は喜んで迎えた。
「高尾殿、此度の戦の援軍、大変に忝い。」
和田源右衛門は駐屯する立原幸隆の軍へ高尾氏を案内する。立原幸隆も喜び話し出す。
「伯大川城砦の剛将が集った。共々に勇んで戦おう。」
高尾右馬允は皆に久米神社での戦勝祈願を告げる。
「尼子軍の勝利を祈念した。我が軍は、根の国を守る軍なり。伊邪那美命の御加護があろう。」
亀游山城の尼子軍は、士気が高まった。
鉢屋衆の安長は、亀游山城で治療していた妹の沙和を
見舞う。沙和は伯大川の戦いで体調を崩していた。
「沙和、大丈夫か?よく、頑張ったな…」
「お兄ちゃん、わざわざ見舞ってくれて有り難う。」
沙和は久しぶりの兄との再会を喜んだ。
安木郷
尼子十砦は二つの地域に分けられる。
月山富田城の西麓を流れる富田川沿い。
神庭横山城 (富田川河口)
勝山城 (富田川下流)
三笠山城 (冨田川中流)
寺山城 (冨田川中流)
富田川より東方を流れる伯大川沿い。
十神山城 (安来港)
赤崎山城 (中海)
安田要害山城(出雲伯耆国境)
亀遊山城 (伯大川中流)
高守山城 (伯大川中流)
高尾城 (伯大川上流)
二つの川は、月山富田城を挟むように流れている。全体的には東方と南東部を占める位置に城砦は築かれている。尼子氏は敵の侵入経路が中海を伝った日本海側や、隣国の伯耆国及び、南東方向にあたる美作国からの攻めを意識していた。
更に、二つの川に挟まれたところを流れる山国川の上流域に築かれた城砦がある。川手要害山城、甲山城、田中要害山城、正福寺裏城である。
川手要害山城のある地域は、平安時代末期から鎌倉時代において、本補地頭として承久の乱の前から存在していた地頭の摂関家の一つの近衛家領の荘園があった。
その後、承久の乱が勃発した後、朝廷側が敗北した為、鎌倉幕府は西国を中心に約三千カ所の没収地を手に入れた。幕府が朝廷側から没収した土地へ、東国の御家人などを新たに新補地頭として派遣した。
新たに任命された地頭として佐々木氏の一族である佐々木四郎左衛門尉が、恩賞地として荘園百四十町余りを賜る。やがて荘園は、出雲吉田氏が土着して勢力を持ち尼子氏に仕え、吉田荘と呼ばれるようになる。
その他の荘園で、伯大川下流の宇賀荘は新補地頭として因幡左衛門大夫が賜った後、室町時代以降、その地に創建された雲樹寺に土地が寄進され寺社による支配となる。
安来荘は出雲国風土記に、安木郷という名称で記されている。須佐之男命が出雲国内を巡行し、国土の果てともいえるこの地にやって来たとき、須佐之男命が述べた言葉がある。
「吾が御心は安平けくなりぬ」
私の心は穏やかになり落ち着いた
安来の語源とされている。
今からおよそ千三百年前、安木郷は出雲国の東部の意宇郡に属していたが、その後、平安時代に能義郡となる。
平安時代から鎌倉時代にかけて荘園化が進み、安木庄と呼ばれ、後に安来庄となる。
安木庄地頭職を関東下知状で松田備前守九郎有忠に任じられた。松田九郎有忠は、鎌倉時代の仕来たりに従い、領地の地名を苗名として、安木九郎有忠となり、新補地頭として安木九郎有忠の子息が賜る。
十神山城を拠点に活動していたが、応仁の乱で山名氏に組した安木氏が、尼子清定に対抗した為、尼子氏に攻められ落城し、安木氏が追われてからは、尼子氏が安来荘を支配する所となる。
忍びの秘術
亀游山城の近くに毛利軍の陣城(向城)の豊岡城がある。豊岡城は、もともと尼子氏の城砦の一つであった。毛利軍が亀遊山城を攻めた際に、毛利方の手に渡り城を改修して陣城として使用していた。
伯大川の戦いで残存する毛利軍がいる豊岡城は、蛇喰川沿いの丘陵南端に築かれた山城である。川に沿って南北に伸びる古墳の丘陵を利用しながら、大きく南北に分かれた曲輪、土塁、空堀、二重堀切によって構築され、三つの郭からなる。
尼子軍は豊岡城奪還と残存する毛利軍を撃退する為、先ずは鉢屋衆の忍びが豊岡城を偵察して攻略を模索することにした。
豊岡城を偵察するのは安長を含む三名であった。忍びが命懸けの潜入任務を遂行する上で、恐怖や緊張を解し、的確な判断を下す為に欠かせない秘術がある。
息長という忍びの呼吸法は、短く息を吸い、時間を掛けて弱く細く吐き出す呼吸法である。
印を組む九字護身法は、臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前と唱えながら、それぞれに対応した印を結び、恐怖や緊張を解した。
息長と九字護身法の組み合わせで、安長ら忍び三名は心身を極限まで集中させ精神統一を図る。
夜になった母里。雲の切れ目からは月の光が差し込み、穏やかな秋風と共に虫の音が聞こえていた。安長ら忍び三名は亀游山城を出て豊岡城の偵察に向かった。
安長は呟く。
「見張りは手薄のようだな…、城郭まで行けそうだ。」
静まり返った闇の中で安長は、豊岡城の見張りの少ない曲輪に潜入し、兵の人数と配置、土塁、堀の状況を把握する。
その時であった。南の夜空から白く光る飛翔体が轟音と共に現れ、曲輪に落下して激突した。激しい爆音と爆風が起こる。
毛利軍の兵士は、皆恐れ慄き、豊岡城から飛び出した。曲輪に激突した物体は、光り輝き熱と煙を出している。遠くから見ていた安長は、近付いて物体を確認すると、それは隕石であった。
石からは湯気が上がる。湯気は、次第に女の姿に見え始める。安長は、何故か、伊邪那美命だと思った。湯気は、次に男の姿に見え、安長は不思議に須佐之男命だと感じた。須佐之男命の姿の湯気から声がする。
「根の国を頼む…」
安長は、しっかりと聞き取った。
翌朝、豊岡城には毛利軍が居なくなっていた。恐れをなし安田要害山に撤退していた。
母里は静かな朝を迎える。
古墳の丘陵に爽やかな風が吹いていた。




