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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

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短編集

雨の残響、君の鼓動

作者:

 雨の音が、窓ガラスを細かく叩いている。

 私はベッドの端に腰掛けたまま、膝の上で指を絡ませてはほどいていた。

 部屋の中は薄暗くて、エアコンの低い唸りだけが空気を震わせている。

 時計の針はもうすぐ午後二時を指すのに、カーテンはまだ半分以上閉まったままだった。


 隣の部屋から、かすかにピアノの音が漏れてくる。

 しぐれが弾いている。

 彼女が鍵盤に触れるたび、低い音と高い音が混じり合って、私の胸の奥まで届く。

 あの指先が白と黒の間を滑る様子を、私は何度も想像したことがある。実際に見たことはほとんどないのに。


「……また、弾いてる」


 独り言みたいに呟いて、私は立ち上がった。素足でフローリングを踏むと、ひんやりした感触が足の裏に広がる。ドアノブに手をかけた瞬間、なぜか心臓が少しだけ速くなった。


 廊下に出ると、音がはっきりした。

 ショパンのノクターン。何番かはわからないけど、しぐれが一番よく弾くやつだ。

 ゆっくりと、でもどこか切なげに音が伸びては消える。


 私は壁に背中を預けて、目を閉じた。

 この距離でも、彼女の存在が空気ごと私を包んでくる気がする。


 足音を殺してドアの前まで近づく。少しだけ開いた隙間から、部屋の中の空気が流れ出してきた。

 甘いフローラル系の香水と、木の匂いが混ざった、あの独特の匂い。しぐれの匂い。


 中を覗くと、彼女は背を向けて座っていた。

 長い黒髪が肩から背中へ滑り落ちていて、白いシャツの襟元から覗く首筋がやけに白く見える。

 指が鍵盤を離れるたび、細い手首が小さく揺れる。

 その動き一つ一つが、まるで私に何かを囁いているみたいで。


 弾き終わり。長い余韻。

 しぐれは両手を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。

 私も息を止めて見つめていた。静寂が長く続いたあと、彼女が小さく息を吐くのが聞こえた。


「……綾、いるんでしょ」


 背中を向けたまま、静かな声で言われた。

 心臓が跳ねた。見つかっていた。いつからだろう。最初から。たぶん。


「…うん」


 自分でも驚くほど小さな声しか出なかった。


 しぐれはゆっくり振り向いた。少し乱れた前髪が目にかかっていて、それを指で払う仕草が妙に大人びて見える。

 目が合うと、彼女の唇がほんの少しだけ弧を描いた。


「雨、嫌い?」


「…別に」


「嘘。顔に出てるよ」


 彼女は椅子から立ち上がって、私のほうへ近づいてきた。

 一歩、また一歩。距離が縮まるたびに、空気が重くなる。甘くて、苦くて、熱い。


 最後に残った数十センチのところで、しぐれは立ち止まった。


「ねえ、綾」


 名前を呼ばれるだけで、喉が詰まる。


「こっち向いて。ちゃんと」


 意地でも目を逸らしたくなかったのに、結局逸らしてしまった。頬が熱い。耳まで熱い。

 細い指が私の顎に触れた。冷たいのに、触れた場所だけが燃えるみたいに熱くなる。


「…ずるいよ、しぐれ」


 声が震えた。


「何が?」


「そんな目で見るの」


「どんな目?」


「…知ってるくせに」


 しぐれは小さく笑った。息が私の唇にかかる距離まで、顔が近づいてくる。


「知ってるよ。だから、もっと見せて」


 その言葉で、私の中の何かがほどけた。雨音が遠くなる。

 唇が触れる寸前で、私は目を閉じた。もう、逃げられない。

 でも、その瞬間は訪れなかった。


 しぐれの息が、私の頬を撫でるように掠めて、ゆっくり離れていく。

 代わりに、柔らかい指先がまぶたに触れた。そっと、優しく、閉じた目を覆うみたいに。


「…まだ、だめ」


 囁きが耳に落ちる。甘くて、少し意地悪な響き。私は目を開けようとしたけど、指が離れない。

 そのまま、彼女の体温がすぐ近くに残っているのを感じながら、息を潜めた。


「綾のそういう顔、好きだけど」


 しぐれの声が、少し低くなる。


「でも、急にあげちゃうと……私、満足できなくなるかも」


 指がゆっくりと、まぶたから頬へ、頬から顎へ滑り落ちる。その軌跡が熱を持って、私の肌をなぞっていく。

 やっと指が離れたとき、私は思わず息を吐いた。肺の中の空気が、熱くて重い。


 しぐれは一歩下がって、私をまっすぐ見つめていた。

 窓から差し込む薄い光が、彼女の黒髪に細い銀の線を引いている。

 濡れたような瞳が、静かに私を捕らえる。


「雨、止まないね」


 彼女はそう言って、窓辺の方へ視線を移した。

 外はまだ灰色で、ガラスに水滴が無数に張り付いて、景色を歪ませている。


「このまま、ずっとここにいようか」


 しぐれが小さく笑う。


「綾が逃げないなら」


「……逃げないよ」


 声が掠れた。自分でもびっくりするくらい、素直な言葉だった。

 しぐれの目が細くなる。嬉しそうで、でもどこか危うい表情。

 彼女はもう一度、私のそばに寄ってきた。

 今度は背後から、ゆっくり腕が回ってくる。

 細い腕が私の腰を抱き、胸が背中に密着した。

 心臓の音が、背中越しに伝わってくる気がして、息の仕方がわからなくなる。


「綾の匂い、好き」


 耳元で囁かれる。吐息が首筋にかかって、ぞくりと背筋が震えた。


「雨の匂いと混ざって、もっと好きになる」


 しぐれの指が、私のシャツの裾をそっと摘む。

 布越しに、指先の冷たさが伝わってくる。


「…しぐれ」


 名前を呼ぶと、彼女の腕に力がこもった。


「ん?」


「…もっと、近くにいて」


 自分からそんな言葉が出るなんて思ってなかった。

 言ってしまった瞬間、胸の奥が熱くなって、視界が滲みそうになる。

 しぐれは小さく息を飲む音を立てて、私を強く抱きしめた。


「…ずるい」


 今度は彼女の声が震えていた。


「そんなこと言われたら、離せなくなるよ」


 私は振り向けないまま、ただ頷いた。見られたら、たぶん、だめになる。

 それでも、しぐれの腕の中にいることだけは、離したくなかった。


 彼女の息が首筋に落ちて、温かさがじわりと広がる。髪が触れて、くすぐったい。心臓がうるさい。


「綾」


 呼ばれて、私はやっと振り向いた。


 しぐれの顔がすぐそこにあって、瞳が潤んでいる。

 雨の湿気で少しだけ乱れた前髪。彼女の指が、私の唇にそっと触れた。

 なぞるみたいに、確かめるみたいに。


「ここ、柔らかいね」


 囁き声が、耳じゃなく胸に落ちた。

 私は言葉を失って、ただ見つめ返すしかない。


 しぐれの顔が、ゆっくり近づく。

 今度は、止められない。


 唇が触れた瞬間、世界が静かになった。

 柔らかくて、温かくて、ほんの少しだけ震えている。

 彼女の唇が離れそうになって、また戻ってくる。浅く、確かめて、もう一度。


 しぐれの腕が背中を抱き寄せて、私はそこに吸い込まれるみたいに身を預けた。

 雨音がまだ鳴っているのに、遠い。聞こえるのは、息と、鼓動と、唇が触れる小さな音だけ。

 離れたとき、しぐれは額を私の額にそっとつけた。息が少し荒くて、でも目は真剣だった。


「……好き」


 小さな声なのに、逃げ場がないくらいはっきりしてる。

 胸が痛いくらいに熱くなった。言葉が追いつかない。涙が勝手にこぼれた。


「私も……」


 声が震えて、続きがうまく出ない。

 でも、しぐれはわかってくれたみたいで、ほんの少しだけ笑った。


 彼女の指が私の頬をなぞって、涙をすくう。

 そして、もう一度だけ、短く、優しく唇を落とした。


「泣かないで」


 囁きが柔らかい。


「雨が止まないうちは、ずっとここにいてあげるから」


 しぐれは私の手を引いて、ベッドのほうへ導いた。

 二人で横になって、私は彼女の胸に顔を埋める。心臓の音が直接伝わってきて、変に安心してしまう。


「このまま、寝ちゃおうか」


 彼女の指が私の髪を梳く。ゆっくり、優しく、何度も。


「うん……」


 目を閉じると、フローラルと雨と、しぐれ自身の匂いが混ざって、私を包んだ。

 雨はいつか止む。でも今は、止まなくていい。


 外の雨音が子守唄みたいに響く中、私はしぐれの腕の中で、静かに息を吐いた。


 しぐれの事が好き


 それだけを胸の中で繰り返しながら、私たちはそのまま眠りについた。

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