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ぼくの幸せな一生

作者: 歩芽川ゆい



 僕はチワワと呼ばれる犬の種類のオス、現在18歳。もう目も良く見えないし、耳も聞こえない。歩くのは大丈夫だけど、前よりは動きが遅くなってきた。



 僕は8歳までたくさんの仲間と一緒に暮らしていたんだ。チワワだけではなく、もっふもふのポメラニアンやスピッツ、胴の長いダックス、くるくる巻き毛のプードルとか、大きな柴犬とか、コーギーとか。みんな毎日、わんわんキャンキャンとそれなりに楽しく暮らしていた。


 そこには毎日僕たちの部屋を、掃除してご飯をくれる人間たちが何人もいた。ご飯を食べたらお外に出されて、その間に部屋を綺麗にしてくれている。全部の掃除が終わるとまたご飯をくれる。水ももちろん新しくしてもらう。ご飯もいっぱい食べられるし、遊んでもくれるし、たまにはおやつももらえるし、お隣の犬たちとおしゃべりしながら毎日を過ごしていた。


 たくさんの犬がいれば、意地悪な子も、仲の良い子も、可愛い子もいる。


 お外に出る時は、人間たちが喧嘩をしない仲間を、4~5匹まとめて出してくれる。みんなお外に出ると駆けまわったり、ゆっくりと体を伸ばしたり、追いかけっこしたりとしばらく遊んでいると、名前を呼ばれるので戻るのだ。中にはなかなか戻らない子もいるけれど。


 僕は女の子には一番人気と言ってもいいくらいにモテたけど、代わりにオスには生意気な、と言われて、お外に出されたときに上に乗られたりしていた。僕はお外があまり好きではなくて、動かなかったからかもしれない。僕が抵抗しないので、喧嘩にはならない。ついでに背中のかゆい所に相手の手が乗るので、掻いてもらうのにちょうどいいのだ。


 そんな僕を抱き上げ、今日も首の後ろが舐められてビショビショだと笑いながら温かいタオルで拭いてくれる女の人がいた。その人は他の人よりも少しだけみんなにやさしくて、おやつも多めにくれる人だった。僕が5歳の時にその人が来始めて、そして僕が9歳になった時の事だ。



 どうにもおなかが痛くてご飯が食べらない。何日も食べられなくて、でもおなかが空きすぎてようやく少しだけ食べる、という毎日が続いていた。食事をくれる人たちもあれこれと食事内容を変えて出してくれるけど、そうじゃない。おなかが痛くて食べられないんだ。


 水さえも飲めない。飲むとおなかが痛いから。


 そんな毎日を過ごしていれば、当然体に力が入らなくなってくる。僕ももう結構な歳だから、そろそろ眠る時期なのかもしれない。そういう犬たちを何匹も見送った。


 諦めていたその時、その人が自分の家に連れて行ってくれたのだ。


 初めて連れていかれた、他の犬が一匹もいない家。恐ろしいまでに静かだ。それに今までのように僕一人の部屋もない。でも犬のにおいはあちこちにあった。そしてその女性には見えていないけれど、ポメラニアンが2匹、その家には居たのだ。


 彼らは体が透けていた。会話は出来るけど、触ったりすることは僕もできない。前の所にもいたけれどあまり気にしたことはなかったな、と思いながら、僕は聞いてみた。


「君たちは誰? なんで君たちをあの人は無視するの?」


 側にいるのに知らん顔されるなんて悲しすぎる。僕もそうなるのだろうかと思って聞いてみた。すると彼らはこう、答えた。


『僕たちはここの犬だよ。でも僕たちはもう人間には見えないんだ。だからあの人が無視しているわけじゃないよ』

「なんで見えないの?」

『体がないからね。それでも時々、あの人は僕たちに話しかけてくれるよ。それでいいんだよ』


 僕にはよくわからないけど、彼らはそう言って笑っていた。そして、僕の部屋がないという初めての生活が始まった。


 いつも寝るのには問題がない部屋 ──ケージというそうだ── に一匹ずつ入っていたけれど(大きい犬はお外で広い部屋だったし、部屋の中でも大きい子たちは囲ってある大部屋に入っていた)、それが全くない。歩きたい放題に歩ける。僕は触られるのはあまり好きではないのだけど、ここでは僕しかいないから寂しいし、静かすぎて怖いからあの人にくっついていることにした。


 僕はケージの代わりに”ベッド”を貰った。ケージと同じくらいの大きさで、でも上とか横のかこいはなくて、丸く囲われていて、ふかふかの毛布が何枚も入っている。前の家でもタオルというものを入れてくれていたから、それに乗っているとちょっとふわっとしてたけど、ここの毛布はびっくりするほど柔らかくて、ちょっと体が疲れるほどだ。


 ごはんも食べたことがないようなものだ出てきた。美味しくて、おなかが痛いのも忘れて、久しぶりにたっぷり食べた。あの人も喜んでくれた。それが僕は嬉しくて、あの人の膝に乗ってずっと背中を撫でてもらった。触ってもらうって気持ちいいかもしれない。ああ、ここの家に来てよかった、心からそう思った。


 その夜、凄い腹痛に襲われて、貰ったベッドから出て唸っていたら、あの人が急いでお外に出してくれた。外は好きじゃないけどそれどころじゃない。おなか痛ーいと叫びながら力んだら、物凄い勢いでお尻から噴き出した。何度も何度もおなかが痛くなって、そのたびにお外にも行ったし、外に行くのが間に合わい時もあって、部屋の中でここでと言われたシートにも出た。


 さらにせっかく食べたのに、口からも全部吐いてしまい、僕はぐったりとしてしまった。やっぱり食べられなかった。いつもと同じ腹痛だ。ここのご飯でもダメだった。僕は悲しくて、静まり返った部屋が静かすぎて怖くて、柔らかいベッドで丸くなって耐えた。

 

 次の日にお医者さんというところに連れていかれた。おなかが痛いのにあちこち知らない人に触られ、背中に痛い注射というものをされた。こんなに痛い事をするなんて! おなかも痛いし! こんなところに来るんじゃなかった! と腹を立てたのだけど、家に付いた時にはおなかの痛みは消えていた。 


 痛かったけど凄い。お医者さんというのは凄い! と僕は感動した。これなら痛くなっても怖くない! 美味しいものいっぱい食べられる! と思ったのだが、あの人は「食べすぎないようにしないとね」とか言って、その日の食事はちょびっとしかくれなかった。


 美味しかったけど全然たりなくて、もっとちょうだいとお願いしたけれどくれなかった。


 広い所に連れて来てくれたし、美味しいものもくれるし、良い人だと思ったけどちょっと、違ったみたいだ。でも膝にも乗せてくれるし、ずっと触ってもらえる。触ってもらえるのがこんなに気持ちいいとは思わなかった。

 全部が全部良い場所なんてないのかもしれないけれど、今までよりは良い場所なのだ。我慢しよう。そう思った。


 思ったのだけど、そこからがまた酷かった。おなかは空いているのに食べると吐くし、下すし、おなかは痛いしで全然食べられない。病院へ行った日は大丈夫だけど、次の日にはもうダメだ。食べてなくても下してしまう。

 せっかくあの人のベッドに乗せてもらえるようになったのに、布団を汚してしまうからとベッド下の僕のベッドに戻されてしまった。仕方がないと思うけど、それがとても悲しい。


 お医者さんには何度か行ったけど、全然変わらない。注射は痛いからもう嫌だと言ったら、それからは水みたいな苦いお薬というのを、無理やり飲まされることになった。でもそれを飲んでもおなかは痛いままだ。


 今まではおなかが痛くても一人で我慢していたから、あの人にくっついていられる、それだけでも良いかと思って、いつも空腹だけど痛いおなかを持て余してすごしていた。


 この家に来たのは暑い季節が終わった後で、寒い冬は暖かい布団と湯たんぽというのを貰って過ごした。


 相変わらずおなかは痛い。でも毎日ではなくて、痛くなくてご飯をもりもり食べられる日、少しだけ食べられる日、痛くて全然ダメな日、というのが順番に来るようになった。あの人も分かっていて、今日はダメな日だねベッド下で寝る日、大丈夫な日にはベッドに載せてくれるようになった。


 僕は一人で広い所で寝るのが怖いので、あの人にくっついて寝るようになった。ちょうどふとんというものの中は薄暗くてあったかくて、とても安心できた。大好きな場所となった。


 あの人の布団の中は、部屋が寒くてもぬっくぬくだった。僕一人で寝る時も温かいけど、ふとんに潜れないので一緒に寝るよりは寒い、気がする。だから一緒に寝られるときはとてもうれしかった。


 ああ、これが幸せというのかな。


 だんだんと寒くなくなって、お外に花がたくさん咲き始めた頃、あの人と一緒に桜という花を観に行った。


 きれいだねとあの人は言うけれど、きれいというのが何なのかよくわからない。桜自体は前にいたところにもあったけど別に何とも思った事はない。ただ一緒に居られるのは嬉しいし、また来年も見ようね、と言われて、ずっと一緒に居られるんだと思って、何よりそれがうれしかった。


 前の家には時々連れていかれた。あの人が他の犬の世話が終わると必ず一緒に帰ったけれど、最初はおなかが痛い犬なんていらないから置いて行かれるのか? と悲しくなったものだ。


 そのうちに静かな家に慣れすぎて、わんわんとうるさいみんなといるのが苦痛になった。そうしたらそれに気が付いてくれたあの人が、もう連れていかなくなったので、寂しい反面、ホッともした。

 その分おうちで、あの人とは違う女の人と過ごすことになる。おなかが痛いから放っておいてほしいのに何かと近づいてきて無理やり抱き上げたりするから、その人は好きじゃない。

 しかもお庭に出されて放っておかれる。まあそのおばさんがくると僕が逃げ回っているのだけど。あの人は何度もその人に、お外に出さなくていいと言ってくれるのだけど、家の中にいるとその人が寄ってきて嫌だから、まだお外の方がいいかもしれない。だから広いお庭を毎日歩き回っていた。


 そして暑い季節になったけど、この家は涼しかった。相変わらずおなかは痛いしご飯も食べられないけど、痛くない時間はぐっすり寝られるようになった。あの人も家にいる時は寝ている時間が多い。くっついていると冷たくて気持ちいいので、がっつりくっついて寝ているのだけど、それをあの人も喜んでいるようだ。


 そして少し、暑いのが収まってきた頃、あの人がそろそろ1年記念だね、と言った頃。

 僕のおなかの痛みはいきなり消えた。

 食べても吐かないし、下しもしない。おなかが痛くないから寝る時も本当にぐっすりと寝られるし、目が覚めたらおなかが空いていていっぱい食べられる。


 今まで飲むとおなかが痛くなった水も、飲んでも大丈夫になった。あの人は水分を取らなくちゃだめだと、ご飯のお水を多くしてくれたから、あまり喉も乾かなかったけど。


 それももう心配ない。どれだけ食べても飲んでも大丈夫になった。なんでだか知らないけど、もしかしたらお医者さんのおかげかもしれないけれど、ともかく僕は元気になった。


 毎日ベッドであの人と一緒に寝られるし、庭で一緒に遊んでもらえるのも嬉しい。


 僕は前の家にはほとんど行かなくなったけど、代わりにあちらから仲間が時々来るようになった。たいがい2~3日、長くても1週間程度で帰ってしまう。


 僕はずっとみんなと一緒の生活をしていたから、たった一人でこの家にいるのは少し寂しかった。あの人達に見えないポメは時々居るけれど。


 そうそう、彼らから時折、この家での生活の仕方を教えてもらっている。トイレはシートでする事、外に出たらそこでする事。あの人はやさしいけど怒らすと怖いとか。逆に膝に乗ると喜ばれるとか、くっついているだけでも喜ぶとか。


 おかげで「教えてないのによくトイレできるね」と褒められている。彼らには、次の犬が来たら僕が教えるように言われている。


 彼らは見えないだけでベッドであの人と一緒に寝ていたり、座っている後ろにくっついていたりする。僕にもそうすると良いと教えてもらったが、僕は膝のほうが良いし、ベッドでは布団の上よりも布団の中で、腕枕して抱きしめてもらうほうが良い。好きにすると良いよとも言ってもらっているから、そうしている。


***


 あの人が2年記念だと言った後に、あちらでの仲間だった女の子のポメがこの家にやってきた。僕よりは年下だけど、彼女も8歳だ。これからずっと一緒に居るよと言われたので、見えない彼らに教わった事を、一緒に彼女に教えてあげた。


 ポメはあの人によるトリミングしてもらっている。あちらでもいろんな人にトリミングをしてもらっていた彼女は、なによりあの人が触ってくれるのが嬉しいと喜んでいる。僕は毛が長くならないから、ブラシとお風呂だけでいいそうだ。羨ましいなと見ていたら、少し僕の毛も整えてくれた。嬉しい。


 この家に来た時に二人とも洗われた。僕はその後、おなかが痛かったから治るまではお風呂に入っていなかった。治ってから時々入れてもらっている。なかなか気持ちいいものだ。


 新しく来たポメも、もっさもさだからと毛を切ってもらってから、お風呂に入っていた。気持ちよかった? と聞いたら。疲れたわ……と答えた。まあ長い時間やってたものね。おかしいな、僕は洗うのも乾かすのも、すぐに終わるんだけど。


 彼女も、僕が来たばかりの時みたいに、最初はベッド下の犬ベッドで寝ていた。人といるなんて生まれて初めてだから、あの人がちょっとでも動くと夜中でも飛び起きる。元の家はいっぱいいるからいつでも音がしている。だから誰かが動いたぐらいでは気にもしないけど、ここは静かすぎるから少しの音でも気が付いてしまうのだ。


 僕もそうだったけど、今はもう僕は起きたりしない。寝返りされたって平気だ。あの人は夜遅くまで起きていて、時々そっと部屋を出ていくけど、僕はもうそのくらいでは起きない。戻ってきてくれるのを知っているから。彼女もそのうち、起きなくなるだろう。そして慣れたらベッドの上に乗せてもらえるんだ。まあベッドはベッドで、あの人が寝返りを打つと動くから最初は目が覚めてしまうんだけどね。


 さらにリビングには二つのベッドを用意してもらっているが、僕たちは一緒に入っていることが多い。暑い季節は彼女にあっちに行ってと彼女に言われるけれど、僕はくっついているのが好きだし、なによりポメのもふもふは、あの人だけでなく僕も好きなのだ。


 あの人が「仕事」に行っている時は二人でそこで待っている。戻ってくると、二人でいる僕たちを見て、あの人は可愛いと笑って撫でてくれる。何よりそれが嬉しい。


 ちなみに僕たちは名前もちゃんとある。前の家から呼ばれていた名前でずっと呼ばれている。ポメはポメコちゃん、という名前なのだ。


 僕はおなかの痛いのが治ってもあまりご飯を食べたいとは思わなかったのだけど、彼女が来てからは食べるようになった。だって僕の分まで食べてしまうのだもの。それに彼女は美味しい美味しいと言いながら食べるから、僕のと味が違うのかもしれないと思って、二人分、お皿は並んでいるけれど、彼女のを食べてみた。


 うん、なんか、美味しい気がする。彼女がずるいというから、そのまま食べられないうちにと食べてしまった。彼女はブツブツ言いながらも僕の分と出してもらっているのを食べて、やっぱり美味しいと喜んでいる。


 あの人は僕たちがどちらを食べても、食べてくれればいいと喜んでくれる。そして僕は膝やおなかの上に乗り、彼女はあの人にくっついて。


 僕たちは、新しい幸せを毎日味わっていた。


 前が幸せでなかった、という事ではない。あれはあれで楽しかった。僕は女の子たちにモテたから、一緒に居る時は凄く楽しかったし、周りの犬たちとも、他愛のない話をしていた。ちょっとうるさかったり、時々他のオスとにらみ合いもしたけれど、それなりに楽しかった。


 でも今は、ずっとあの人にくっついて触ってもらい、時々飛び切り美味しいご飯を貰い、抱きしめてもらうという新しい幸せを味わっている。ポメも来て寂しくも無くなった。


 こういう幸せもあるんだ。あそこにいた他の子たちも、味わえたらいいのに。


 そう思っていたら、あの人が「あの子たちも新しいおうちに行っているよ」と教えてくれた。全員ではないけれど、それぞれ僕たちと同じように旅立っているらしい。あの人も嬉しそうに話してくれるし、僕たちも嬉しい。僕の娘も、ポメの娘も、あの人の知り合いの家にいるそうだ。きっと楽しく暮らしているだろう。


 そうしてしばらくして、僕の娘に会う事が出来た。娘も今のおうちで楽しく暮らしていると言っていた。前の大勢の時も面白かったけど、人の近くで暮らすのも楽しいね、と娘も笑顔だった。


 毎年春になると、あの人が桜を観に行こうと近くに散歩に行く。それを何度繰り返しただろうか。毎年必ず、来年も見ようねと約束をしている。今年も観に行くことが出来た。きれいというのは相変わらずわからないけれど、毎年の約束は相変わらず嬉しい。


 でも僕はもう、目が良く見えない。


 いつの間にかあの人の姿もよくは見えなくなってしまった。声も聞こえにくい。それでもあの人の手が僕の背中を撫でてくれる感触は変わらない。


 毎年寒くなると、僕に洋服を作ってくれるのも変わらない。今年の新作ができたよ、と着せてもらうのが楽しみなのだが、それがどんな感じなのか、僕には見ることが出来なくなってきた。

 でもポメが教えてくれる。だから見えなくても問題はない。ちょっと寂しいけど。

 ごはんは相変わらず美味しいし、毎日も楽しい。ポメにくっついて顔をうずめるともっふもふで楽しい。僕の体の毛は薄くなってしまったけれど。


 でもあの人は僕をやさしくなでてくれるからそれでいい。




***


 桜を見るのも9回目になった。もう僕は桜も見えないし、自分で歩くのも大変になってきた。あの人が抱き上げて連れて行ってくれて、においを感じる事で、今年も桜を見たんだなと確認している。来年の桜も見ようね、というあの人の言葉に、僕は頷いた。


 来年もその次も。一緒に見たいよ。


 最近は眠くて眠くて、あの人が家にいる時はあの人にくっついて。居ないときはポメにくっついて寝ている。ポメは僕を邪魔にする時もあるけれど、あの人はいつでも撫でてくれる。


 もっと顔も見たいけれど、声も聴きたいけれど。両方叶わないけれど、でも背中を撫でてくれる手が、かわいいねと言っていた時の撫で方だから、今もそう言ってくれているのだろう。


 それにあの人の声は聞こえなくてもポメが教えてくれる。


 一人じゃなくて良かった。こうして教えてももらえるし、同じところにいたから、前にいた時の話もできる。意地悪なプードルがいた、とか、乱暴なあねさんコーギーがいたとか。女王様みたいなダックスがいたとか。

 そして ふふふ、あの時も楽しかったね、と笑いあう。そして、今はさらに楽しくて幸せだね、と笑いあう。



**


 家に来て10年記念のお祝いをした今年、僕はもう、一人ではご飯も食べられなくなってきた。あの人が食べやすそうなご飯を作ってくれて、口に入れてくれる。ポメがそれを見てずるいと言っていた。ふふん。良いだろう? と自慢することにしている。一度あの人がポメにも食べさせていた。でも彼女はびっくりしたらしくてすぐに逃げ出していた。それに苦笑してあの人は僕にご飯を食べさせてくれた。伝わって嬉しい。


 もう大きな塊は飲み込めないけれど、あの人は僕が食べられる大きさに作ってくれて、口に入れてくれる。

 分量も食べられなくなったけれど、それでも食事は楽しみだ。もういいというと、そこから二口くらいは食べさせられるけど、それ以上は無理には食べさせようとしないのも助かる。


 僕の言葉をあの人は喋れないし、僕もあの人の言葉をしゃべれないけど、毎日一緒に居るから、気持ちは伝わっている。


 それをとても嬉しいと思う。



***


 その年の冬、あの人ともう一人の人が出かけた時、僕は倒れてしまった。体がこわばって言う事をきかない。部屋には暖かい風が吹いているけれど、動けない僕はどんどん寒くなっていく。ポメが周りをうろうろしてくれているけれど、どうにもできない。早く帰ってきてと二人で願っていると、しばらくしてあの人が帰ってきてくれて、倒れている僕を見てすぐに助け起こしてくれた。


 でも僕は寒くて寒くて全く動けない。あの人は大丈夫だよといってすぐに温めてくれた。お医者さんにも行って、痛いはずの注射を打ってもらったけれど、何も感じなかった。体も動かなかった。


 次の日になっても、僕は一人では起き上がれないし、歩けなくなっていた。


 僕はほとんど寝ているだけになった。たまに動きたくて身じろぎすると、あの人はすぐにトイレだとかお水が飲みたいとか気が付いてくれる。お仕事先にも一緒に連れて行ってくれて、僕はあの人が忙しく働いているのを、ベッドの中から見守っていた。


 倒れてから、しばらく会っていなかった、あの人には見えないポメたちが現れるようになった。側にいてくれて、あの人の背中を一緒に見ながら、思い残すことがないように、たくさん甘えるんだよと言ってもらった。どういう意味かは分からないけれど、僕は頷いた。



***


 倒れてから何日かしたら、もうご飯も水も、体が受け付けなくなった。


 食べるとおなかが痛くなって、下してしまう。まるでこの家に来たばかりの頃のように。あの頃と違うのは、食べなければ痛くないし、食べなくてもおなかが空かない事だ。寝てばかりいるからだろうか。


 あの人は困った顔をしながらも、無理はしなくていいよ、と言って、僕をやさしくなでてくれる。ついでに口の端から水を流し込んでくるけど。少しだけは飲めるけど、ほとんど零してしまう。


 ポメが心配そうに僕を見ながら、ご飯を食べている。美味しいよ、君も食べる? と僕に言ってくるけれど、もう僕はおなかもすかないし、食べたいとも思わない。だから全部君が食べて、と伝えた。これからはご飯全部が君のものだから、好きなだけ食べて、と。


 そして、次の子が来たら、君がこの家に住む注意点を教えるんだよと伝えた。彼女はとまどいながらもうん、とうなずいてくれた。透けて見える彼らもうなずいている。



***



 僕はあの人の膝で、ゆっくりと息をした。そしてあの人に言った。


 この家に来てうれしかったよ。毎日抱きしめて寝てくれてありがとう。くっついて寝ていると時折暑いとどけられたけど、それでもくっつく僕を、笑って撫でてくれてありがとう。うれしかったよ。

 新しい生活を味わわせてくれて。おなかの痛いのを取ってくれて。美味しいご飯を毎日くれて。楽しかったよ。


 僕は本当に、幸せだったよ。『幸せ』を教えてくれてありがとう。僕がいなくなったら、ポメと、他の子を幸せにしてあげてね。


 次の桜を一緒に見る約束を守れなくてごめんね。


 声にもなっていないし、体も動かないけれど、そう話しかけていたらあの人がどうしたの? と僕を覗き込んだ。


 不思議な事に見えないはずの目が、久しぶりにあの人の顔をしっかりと映してくれた。そして、僕をやさしく優しく撫でて、ぼくの顔に頬を擦りつけながら言ってくれた。


 「うちに来てくれてありがとう。毎日を楽しい時間にしてくれてありがとう。あなたが幸せだったなら嬉しいな。また、桜を見ようね」


 いつもは聞こえにくいあの人の声が、はっきりと聞こえた。


 僕は嬉しくてにっこり笑った。また顔が見られた。声が聞こえた。そして僕と同じことを考えていてくれた。



 そして何度も何度も僕の名前を呼んでくれる。

 僕も何度も呼んだ。大好きな、大好きなあの人の名前を。


 ゆっくりと撫でる手の感覚を味わいながら、僕は幸せな気持ちで目を閉じた。




***


 寒い冬が終わって、桜が咲いた。


 あの人はポメと桜を見ている。僕も近くにいるのだけど、あの人はもう、僕を見ることはない。透けているポメたちと並んで、こんなに近くにいるのだけど。


 見えにくかった目は、今やはっきりと見えているし、声も聞こえている。体も軽くていくらでも走れる。だけど、あの人は僕たちを見ることが出来ないという。そういうものなのだからとポメたちに教わって入るけれど、やっぱり寂しい。


 ねえ、僕はここに居るよ。今年も一緒に桜を見ているよ。そうあの人の背中ににささやいた時だった。


 あの人が振り返った。


「そこにいるのかな? こっちにおいで。一緒に桜を見よう」


 広げてくれた腕の中に、僕たちは飛び込んだ。





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