7話 潜入
暁の海でアキトたちと別れてから数日後。私とクライブは、海の王国アクエリスの首都、アクアマリーナに潜入していた。父が愛し、青い海と白い街並みが太陽の下で輝いていた美しい都。だが、バルバロスが簒奪して以来、その輝きは厚い雲に覆われたかのように失われ、重苦しく淀んだ空気が街全体を支配していた。
粗末なフードで顔を隠し、人ごみに紛れて街を歩けば、道の辻々にはバルバロス軍の厳つい兵士たちが目を光らせている。すれ違う市民たちは彼らの視線を恐れるように俯き、足早に家路を急ぐ。市場ですら、かつての賑わいは嘘のように消え失せ、囁き合うような声と、疑心暗鬼の視線だけが交錯していた。噂では密告も横行しており、昨日の友が今日の敵になりかねない恐怖が、人々の心を蝕んでいる。
「父が愛したこの都を……バルバロスは、まるで牢獄に変えてしまったようだ」
私は思わず呟き、拳を強く握りしめた。怒りと悲しみが、胸の奥から込み上げてくる。
「……ああ」隣を歩くクライブが、押し殺したような低い声で応じた。「以前は、もっと活気と……人々の笑顔と誇りに満ちた都だった。特に、祭りの時期などは、まるで街全体が歌い踊っているかのようだったな」
彼の碧眼には、単なる憤りだけではない、もっと個人的な痛みの色が滲んでいるように見えた。クライブはかつてバルバロスに仕えていた時期がある。その頃のバルバロスは、少なくともここまで非道ではなかったと聞く。
私たちは、日が暮れると裏路地の安宿に潜み、昼間は商人や物乞いを装って、バルバロスの圧政に関する情報を慎重に集めた。不当な重税、終わりなき強制労働、そして逆らう者への容赦ない見せしめのような処刑。聞くに堪えない話ばかりが、次から次へと私たちの耳に入ってきた。
ある日の夕暮れ、少しでも情報を得るために入った場末の酒場で、クライブが黒パンと薄いエールを注文した。配給制になったのか、パンは硬く、エールは水で薄めたように味気ない。
「これも、バルバロスの『改革』の成果というわけか」
私が皮肉を込めて言うと、クライブは黙ってパンを一口かじり、ゆっくりと咀嚼した。その時、彼の視線がふと遠くを見つめるように宙を彷徨った。まるで、目の前の現実ではない、別の何かを見ているかのように。
「数年前、まだバルバロスが若き将軍として頭角を現し始めた頃。私は、彼の副官の一人として仕えていました。当時のバルバロスは、確かに野心的ではあったが、その瞳にはアクエリスをより強大な国にするという情熱の炎が宿っていた。彼はカリスマ性に溢れ、その言葉は多くの兵士や若い貴族たちを惹きつけた。私もまた、彼の掲げる理想と、その類稀なる指導力に、一時は純粋な期待を寄せていました。
『クライブ、見てみろ。このアクアマリーナを、世界一の都にするのだ! 力と秩序によって、あらゆる脅威から民を守り、永遠の繁栄をもたらすのだ!』
王宮のバルコニーから首都を見下ろし、そう語るバルバロスの横顔は、自信に満ち溢れていた。その言葉に嘘はないと、当時は信じていた。
だが、いつの頃からか、彼の「力と秩序」は歪み始めた。きっかけは些細なことだったのかもしれない。ある地方領主が、バルバロスの性急な軍備拡大策に異を唱えた。議論の余地はあったはずなのに。バルバロスは、その領主を「反逆の意思あり」と断じ、見せしめのようにその領地を取り上げて。彼の瞳から、かつての情熱の炎が消え、冷酷な光だけが宿るようになったのは、その頃からのように思います。
海賊によって家族を失ったという彼の過去が、海賊のみならず、自らの意に沿わぬ者全てを「悪」と断じる過剰な憎悪へと変わっていった。民の声に耳を傾けることも、側近の諫言を受け入れることも次第になくなり、彼の周囲には追従者ばかりが集まるようになっていった」
私は、その変貌を間近で見ていた。そして、ある決定的な出来事を経て、彼のもとを去る決意をしたのだ。それは、彼がまだ先王の臣下であったにも関わらず、明らかに王権を軽んじる言動を見せ始めた時だった……。
「クライブ?」
私が声をかけると、クライブはハッと我に返ったように瞬きをし、苦い笑みを浮かべた。
「いや……すまない。少し昔のことを思い出していた」
その声には、隠しきれない哀惜と、わずかな自嘲が混じっていた。彼が何を思い出していたのか、私には正確には分からない。だが、バルバロスの変貌が、彼にとっても深い傷となっていることだけは伝わってきた。
「何が……彼をあそこまで変えてしまったんだろうな」
私は呟いた。
クライブはエールを一口飲み、静かに言った。
「力は、人を強くもするが、狂わせもする。特に、歪んだ正義感を抱いた者にとってはな……。今の奴は、もはや俺の知るバルバロスではない」
その言葉の重みが、酒場の喧騒の中で妙に際立って聞こえた。
その後も情報収集を続ける中で、私たちは一つの不穏な噂を耳にする。バルバロスが、王宮の地下深くで何か「恐ろしい兵器」を開発しているというのだ。それは「星の力」を利用したものだとも、一度発動すればアクアマリーナの広範囲を焼き尽くすとも囁かれていたが、詳細はまるで掴めない。
「星の力を使った兵器……まさか、『星の心臓』を悪用するつもりか?」
クライブの言葉に、私は息を呑んだ。『星の心臓』はアクエリスの至宝であり、本来は海と民を守るための聖なる力のはず。それを兵器に転用するなど、断じて許されることではない。バルバロスの狂気が、ついにそこまで達したというのか。
「まだ確証はない。だが、もし本当なら、一刻の猶予もないぞ」
私は拳を強く握りしめた。バルバロスの暴虐を止めるため、そして『星の心臓』を守るため、私たちはこの危険な賭けに勝たなければならない。まずは、この圧政に立ち向かう勇気を持つ者を見つけ出し、声を上げることだ。アクアマリーナのどこかに、まだ希望の火種は残っているはずだと信じて。クライブの過去の苦悩も、私たちの決意をさらに固くするだけだった。




