19.笑顔
「お嬢様。そろそろ本邸に戻られてもよいのでは」
「お従兄様が本邸にいらっしゃる内は嫌」
「まったく…」
呆れを隠さずケミィが呟く。聞こえない体を装い、ヒリンはコップを傾けた。
ワトナの件が落ち着いた今、ヒリンが別邸に留まる理由はない。しかし本邸に戻らないのは、ラチアーバン家を継ぐ従兄が滞在していると聞いたからだ。
名目は父に領地経営を教わること。しかしこの時期に来たということは、間違いなくそれだけではない。
「誰にも小指は差し出さないわ。来ている手紙にもそうお返事したから、問題なくてよ」
「……あのお手紙全てにですか?」
「ええ」
ケミィは額を押さえた。礼節に欠いた行動だと、ヒリンも理解はしている。
「ヒサユリがそろそろ芽吹く。どう考えても、そういうことでしょう」
「若継様は、お嬢様のことをお思いなのです」
ランの葉が落ち、ヒサユリが芽吹き始めるこの時期。
寒さが柔らぎ風も暖かくなるためか、他の時期と比べ集まりが増えてくる。そこには良縁を求めての会も多く、従兄はそれを狙って来たようにしか思えなかった。
国の一字を持つ現侯爵の実娘。とうに他家へ嫁いでいる筈のそれが、いつまでも侯爵の名を手放さない現状は、確かに煩わしいだろうけれど。
父や母を丸め込んだか、意見を押して強行したか。従兄は何が何でも、ヒリンを追い出したいらしい。
「心の底から思ってくださるなら、きちんと口に出していただきたいわね」
「言わなくてもいいだろう」
初めて聞く声がヒリンに返す。
同時に近くの椅子が動き、男が腰を上げた。男の正面には知人らしい女が座っている。
「次はヒサユリが咲く頃に」
「お待ちください、まだ」
手を伸ばし、力無い声で男を引き留めようとする。
男はそれに気付いてか、背中を見せると足早に店の入り口まで歩いていった。
残された女は机に肘を付き、酷く重々しい息を吐き出している。
ヒリンとケミィは顔を見合わせた。ケミィが頭を横に振る。
「…またお会いできて光栄ですわ」
「…、……あ、ご、ご機嫌よう。ヒリン様」
ケミィの無言の静止を無視し、ヒリンは近付く。後ろでケミィが悪態をつく声が聞こえた。
女は腰を上げ、ヒリンへ微笑む。ワトナはまだ身に付けていない、貴族には必須の表情の作法だ。
ユーシュ・ヘリアンの笑顔は美しく、穏やかで、作法の手本と言われれば納得のもの。
先の集まりには決して無かった翳りと共に、色濃く浮かべていた。




