18.お礼
想像よりも広い場所だった。数え切れない量の紙が壁を覆っている。
その内の一つを剥がしているワトナは、元の粗末な服を着ていた。しかし髪や肌、何より振る舞いはヒリンが教えたままで、周りを歩く平民が皆ワトナに視線を向けている。
「あら、大罪人がお元気そうね」
「……わざわざ、来なくても」
ヒリンへ振り向き、ワトナは口を曲げる。小指には細く装飾も乏しいが、確かに指輪が嵌められていた。
身分を押しやり、慣習を捨て去り、ワトナは『男爵家夫人』という有り得ないマッチングを果たした。側女ならば前例もあるだろうが、正式に夫人として認められた例は恐らくない。
表上男爵は『身分に囚われず内面の美しさを見出した』と一定の評価を得ているらしい。
だが、当然批判的な意見の方が多い。叔母であるシレーナの話では、スランの件に続き未熟な紳士はマッチの感覚さえ未発達だと酷く揶揄されていたらしい。
「…いいの?」
ワトナの手は止まらない。新しい紙を取り出すと、空いた場所に海苔を塗った。
「良いも何も、あたしの身に余るほどの幸運です。掴まない手はないでしょう」
平民ならば、誰もがそう言う。
貴族でも、家格が上の家から申し出があれば、余程問題が無い限り両手を上げて受け入れる。
ヒリンは自身の小指を僅かに摩った。
「貴女が、言い出せないなら。私から」
「大丈夫」
震えの無い、はっきりした声が耳を刺す。
ワトナは皺一つなく紙を飾った。貴族としてははしたない、歯を見せた笑顔を浮かべる。
「あたしの夢は、叶ったの。叶う筈のない夢が。…だから、大丈夫です」
次の紙を取り出す。
ヒリンも見覚えのある、毛羽立っていない紙だ。
「お礼です。綺麗に貼ってあげますよ」
『マッチング実績あり』と追記された掲示。
ヒリンは意識して口角を上げ、肩をすくめた。
「仕事なのだから、当然でしょう」




