17.マッチの行方2
「すき」
調子の外れた声で言う。ケミィは慌てて口を押さえた。
ヒリンは注意せず、深々とため息をつく。ケミィの気持ちはよく理解できた。
「何もかも、嘘だった。贅沢な暮らしがしたいのも、誰でもいいというのも、マッチしたいことも」
労力、時間、期待。ヒリンの費やした全てが無駄だった。
ワトナの嗚咽を思い出す。
『慕う相手と結ばれたい』
彼女がヒリンに近付いた目的は、それだけだった。
キレシオ子爵との出会いは通知所。所長室を訪ねた子爵に道案内を請われ、ワトナはそれに応じた。
交わした言葉は5つもないという。しかし、ワトナは子爵に心を奪われた。
曰く、生活が貧しければ貧しいほど、女性は軽んじられる。それが常識だったワトナにとって、男性の、しかも貴族から丁寧に話しかけられ、礼まで言われるのは、天地が回るほどの衝撃だった。
彼の隣に立ちたい。けれど平民の自分では、前に出る資格も権利も無い。
想いを捨てたワトナの耳に入ったのは、農家の娘が侯爵家の跡取りに見初められ、婚約していた令嬢を廃し結ばれたという話。
踏み付け、消えた筈の願いは、容易くワトナの胸に蘇った。
「王都とはいえ、男爵以下にまで話が流れているなんて…」
「寝物語にまでなってるそうよ」
顔に叩いたリホホの粉を涙と鼻水で糊のように顔中に貼り付けながら、ワトナは話し続けた。
ヒリンの元には半信半疑で足を運んだこと。
貴族を慕っていると知られれば、即座に断られるか笑われ追い出されると思い、嘘をついたこと。
ヒリンから金銭を要求されず驚いたこと。
意味のわからない礼節、作法に、必死にしがみついたこと。
家族や友人達から、滑稽だと酷く笑われていること。
彼の前に立つことを許され、彼から令嬢のように扱われ、褒められ、心の底から嬉しかったこと。
彼の側にいられる夢を見たこと。
彼の妻を見て、本当の淑女を知って、全てが崩れたこと。
一度でも夢を見た自分が、愚かで、惨めで、醜く思えて、仕方がないこと。
泣き明かしたワトナは別室で眠っている。平民が貴族を騙し利用するなんて、王国から追い出されても不思議ではない凶行だ。
あの泣きようを見た後では、届ける気にもならない。寧ろ切っ掛けを与えたのは、偶然とはいえ自分自身。
ヒリンは脱力し、椅子に頭を預けた。
「お嬢様。このような時に申し訳ございませんが、ご確認いただきたい物が」
「何?明日ではいけない物?」
ケミィが差し出したのは、あまり見慣れない紙だった。色が付いているのは新しい流行なのか、それにしても毛羽立っていて、ヒリンとしては気分が良くない。
摘み上げ、流し読みする。煙っていた胸が一瞬止まった。
「…本物?」
「はい。家紋を確認致しました」
差出人は男爵家。宛先はヒリン・ラチアーバン。
そして要件は、ワトナについて。
長々と書かれているが、つまり、後継がワトナを見初めたらしい。
ヒリンは手紙を握り潰した。見上げた天井は、やはり見慣れたものだ。ワトナは見慣れない、手の届かないもの。
届かない筈だったもの。
「……想いって、凄いのね」
ワトナの望むマッチではない。しかし、望まなければ間違いなく結ばれなかった縁。
「そうですね。お嬢様が、『明日』を使われるほどですから」
ケミィの笑顔にヒリンは瞬きする。
「………あ」
父が知ったら、今度こそ外出を止められるかもしれない。
もう一度手紙を潰し、机に放り投げた。




