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もうとっくに髪の毛はボタンからはずれているというのに、レオはかわらずに隣にいてくれた。彼は黙ってハンカチを差し出し、私は涙を拭った。
「……ありがとう、助かったわ」
「別にいいさ。なんならこの胸で慰めてあげようか?」
「いらないわよ、調子にのらないで!」
売り言葉に買い言葉で、ついまた憎まれ口を聞いてしまう。完全なる八つ当たりだが、レオを怒鳴りつけている時だけは少し元気が出る。
ああ、私って嫌な奴だわ。
「そうそう。君はそうでなくっちゃね」
彼がわざとこんな口をきいているって、わかってる。だってレオは、本当は優しいから。その目論み通り、叱りつけているうちに涙はすっかり乾いてしまった。
ハンカチを返すと、彼は安心したように微笑んだ後にじっと私をみつめてきた。
「え? どうしたの?」
「……さっきあいつが言ってた事は本当なのか? その、君が俺を……」
すっかり忘れていた出来事を思い出し心臓が跳ねる。もし今目の前に、世界を滅亡させるスイッチがあったら迷わず押していた。危なかった。だけどそんな物騒なものは存在しないので、私は冷汗をかきながら早口でまくし立てるしかない。
「さ、さっきのボリスのたわ言を真に受けないでよ!? 私は全然、貴方の事なんか好きじゃなかったからね!」
「そうじゃなくて、誕生日の一週間前って……まさか、見てたの?」
「え? ああ、ごめんね。たまたまあの日は街に用事があって」
あまり思い出したくない昔話に、さらに早口が加速する。
「そうだよね、年頃の子がそんな場面、目撃されたくなかったよね!? でも、もうずいぶん昔の事だし、全然忘れちゃってたっていうか、いやほんと気にしなくていいから。むしろ、ごめん」
「あれは違うから! その、色々事情があって確かに彼女をデートに誘ったけど、最初から俺は……!」
「え? まさか、行く気もないのに誘ったの? それは最低すぎない?」
「ぐっ……。だからそうなんだけど、そうじゃなくて」
レオはガシガシと頭に手をやり、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「事情があって説明できないけど、違うんだよ!」
「へえ、何が違うっていうの?」
不思議なくらい必死になるレオが面白くて、私はつい彼をもっとからかいたくなってしまった。
「ははあ、さては彼女に振られたのね? だから見返してやりたくて誰かれかまわず声をかけるようになったのかしら。確かに可愛かったものね、当時は王太子妃候補とまで噂されてたし」
「リリアナより可愛いと思った子なんていないよ!」
「はいはい。私にまでそんなお世辞を言えるんだから、あんたって大したものだわ」
よせばいいのに、昔の癖でつい軽口を叩いてしまう。
でもこんな風にポンポンものが言える相手なんて彼しかいない。つまりは私は、いまだに彼に甘えきっているわけだ。
「……はあ、昔の事はもういい。それより、俺じゃ駄目なのか」
「なんのこと?」
ぐっと手を捕まれ、至近距離で真剣な瞳が間近に迫った。
「君一人を愛することが条件で、それ以外は誰でもいいなら俺にしなよ。他の女性なんて見たりしない。一生涯君だけを愛し続けるよ、約束する」
突然見知らぬ男性が現れたような錯覚に捕らわれ、ドキリとする。
(いつの間にか、ずいぶん背が高くなったわ)
出会った頃とは違っているのは当然だ。あれから何年も過ぎて、声変わりして、今では彼を見上げなくてはならないぐらいなのだから。ほんのわずかな時間、懐かしい時代が胸を通り過ぎ、そして消えていった。
「あんたなんか、絶対にお断りよ」
どうせ私をからかっているのだろう。
もしも、万が一にも本気ならもっとお断りだ。
「これまでとっかえひっかえしていた人間を、どう信じろと? とてもじゃないけど信じられないわね。第一、あなたなんかに私は勿体ないわよ。ほーっほほほ!」
私は妙な空気を取り払うように高笑いした。レオは一瞬傷ついたような目をしたが、すぐに口元に不敵な笑みを浮かべた。
「君が俺を信用出来ない気持ちはよくわかるよ、当然だ」
「でしょう?」
キッパリとはねつけると、レオが皮肉気に笑う。
そうだ、これでいい。
私たちはこのままがいい。
「……もう二度と、裏切られたくないのよ」
もう認めよう。お母様が言った通り、私は昔レオが好きだった。ううん、もしかしたら今も。
だからこそボリスに浮気されたのとは全然話が違う。
「よくわかったよ、リリアナ」
「ええ」
私は短く返事した。
長く喋れば、これまでの虚勢が崩れ落ちそうだったから。気まぐれな彼の一時の愛情を真に受けて、本気で愛して、それでもし裏切られたら……私は二度と立ち直れなくなってしまう。
(私には、そんな恋に踏み出す勇気なんかない)
だから私たちはこれでいい。
そう、思っていたのに。
レオはますます私の手を強く握りしめた。
「だったら信じてもらえるまで全力で口説くから」
……。
今のは、聞き間違いよね?
「断る理由が『二度と裏切られたくない』なら、俺自身が嫌いなわけじゃないんだよな?」
「聞き間違いじゃなかった!?」
すぐさまキッパリと「嫌いだ」と返すべきなのだろう。だけどこんなに間近に金色の瞳に見つめられながら、思ってもいない嘘などつけるはずがない。二の句が継げずにいると、レオは私の手の甲に口づけを落とした。
「なっ……!! 何を考えててるのよ、馬鹿!!」
「俺の事が迷惑ならはっきり嫌いだって言えよ。じゃないと俺、いつまでも初恋を諦められない」
「は、初恋って……」
いきなりそんなことを言われたって理解できない。
だったらこれまでのことは一体なんだったの?
私はとにかくもう、傷つきたくないのに!!
「これまでの態度も全部謝る。君が婚約したことをどうしても心から祝福できなくて、つい茶化した態度ばかりとったり、自暴自棄になってた。でも今度こそ後悔したくないから、勇気をださせて」
私の後ずさった一歩を埋めるように。
レオは本気で距離を縮めようとしてくる。
(これ以上は私……私……絶対、無理!!)
なにがどう無理なのかわからないけど、この雰囲気は本当によくない。あれほど頑なに閉めたはずの心の扉を、一足飛びに飛び越えて本音を引き出されてしまいそう。
「私、帰る!!」
ここは戦略的撤退しかない。
逃げるわけじゃない、体勢を整えるだけ。踵を返して大急ぎで会場に戻ろう。いや、もう体調が悪いことにしてすぐさま馬車で家に帰ろう。
(お、落ち着くのよリリアナ。大丈夫、いつものように熱いお風呂に入って、お気に入りのハーブティーを飲むの。そうしたらこんな、地面がふわふわしたような気持ちもきっと落ち着くはず……)
ピン、と。
その場を去ろうとした私の後頭部に、今夜はずいぶんと馴染みがある感覚がはしる。
ギギギ、とゆっくり振り向くと。
私の自慢の黒髪は、何故か再び彼の上着のボタンにしっかりと食い込んでいた。
「なっ!? ……どっ……はああっ!?」
「落ち着けって。暴れると千切れる」
なんで、どうして。
一瞬レオがやったのだろうかという考えがよぎったが、すぐにありえないと否定した。そんな怪しげな仕草は一切してなかった。彼は私だけを見つめ、他の事は一切考えていなかった。あの真っすぐな眼差しで……と、そこまで考えたら、無意識にカアッと顔が熱くなった。
「もう、なんで今日に限ってこんなに何度も……!」
少しでも早く解放されたくて、慌てて髪をほどきにかかるが、極度に緊張しているせいか上手く取れない。ぶるぶると震える指先に、ゆっくりと一回り大きな手が重なる。
「急がなくていい」
私はとてもではないが、顔を上げることが出来ない。
彼の瞳がどんな風に私を見ているのか知ってしまったら、きっと二度と後戻りできなくなってしまうから。
「ゆっくりでいいよ。それまでに、俺も伝えたいことがまだたくさんあるから」
頭上から降ってくるレオの声は、今まで聞いたことがないほどに優しく、胸の奥の深い場所に落ちていく。私はただ聞こえないふりを続けながら早くなんとかしなくてはと焦り続ける。
髪がほどけるまで、あとどのくらい?
自分を守るための虚勢を張り続けられる自信はみじんもない。
もしも誰か今この場を通り過ぎたら、私は恥も外聞もなく頼むだろう。
「髪の毛が絡まってほどけません。助けて」と。




