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華やかな夜会が催されている王宮の、その少し離れた中庭。私と、頭一つ大きな青年が人目を避けて物陰に隠れている。
断っておくが私たちは恋人ではない。むしろ数年前からほぼ口をきいたことがないぐらいの犬猿の仲だ。であるにもかかわらず相手の胸元にぴったりと頭をつけているのは、やんごとない事情からだった。
「レオ、まだなの!? こんな所を人に見られたら大変なのよ!」
「わかってる。少しぐらい我慢してくれ、リリアナ」
どこでどう間違ったのか。
私の髪が彼のボタンにガッチリと絡んで取れなくなっている。
(うう、なんたる不覚……!!)
未婚の男女が暗がりにいるなど、卑猥な間柄を疑われても文句を言えないほどの不祥事。
数々の女性と浮き名を流す、遊び人のレオなら痛くもないだろう。しかし私には貞節を誓った婚約者がいるのだ。発覚するのは非常によろしくない。
「くそ、まいったな。なんでこんな所にいるんだ」
舌打ちしかねないぼやきに、思わず喧嘩腰で反応してしまう。
「この中庭は貴方のものなの? 何様のつもりよ!」
「そういう意味じゃない。はあ……人の気も知らないで」
「ええ、そうでしょうとも。貴方が追いかけまわしている深窓の令嬢たちとは違って、さぞかし可愛げがないでしょうね」
喋れば喋るほど言葉がトゲトゲしくなってしまう。自分を止められなくなってしまうから、彼を見かけたらできるだけ避けるようにしてきた。だけど今は離れるに離れられず、空気はどんどん悪化している。
もはや何も喋らないのが最善だと判断し、それからしばしお互いに無言の時間が続いた。
「駄目だ、とても取れそうにない。いっそ引きちぎって……」
「嫌よ! 一度切った髪は元に戻らないのよ!? 私なんてこの髪ぐらいしか取り柄がないんだから、死守してよ!」
唯一褒められる、豊かで美しい癖のない黒髪。地味な顔立ちで美人とは程遠い私でも、いや、そんな私だからこそ切実なのだ。
「髪ぐらいしか取り柄が無いだって?」
女性関係にだらしないクズだが、顔だけは価値のあるレオがクスリと笑う。
「とんでもないよ、リリアナ。君のように一本気な令嬢なんてそうはいないさ。この間だって哀れな貴族子息を投げ飛ばして、最終的に泣かせてしまったのを知っているよ」
「あ、あれは私の友人に頼まれたからよ!」
政略結婚だろうがなんだろうが、婚約したからには相手だけを見て生きるべきだ。それなのに別に恋人を持つだなんて恥知らずな。
友人の婚約者だったその男を制裁したのは、私の正義感からくるものでもあった。
「いや、感心してるのは本当。こんな細い腕でたいしたもんだ」
「え? そ、そう? だって本当にすごいのよ! 聖女様の本に記載されている体術には、必ずしも腕力はいらないの。体捌きとタイミングを……って、こんな話興味ないわよね」
思わず熱く語りそうになり、ふと冷静になって顔をそむける。
彼はおかしそうにクスリと笑う。だけど不思議と嫌な感じのしない笑いだった。
かつて、とある異世界からきた聖女様がいた。
彼女は特別な知識や見解でもって数々の偉業を成し遂げ、大恋愛の末に当時の王太子殿下と結ばれた。そんな彼女が後に、かつての故郷について記したという著書がある。その内容は理解不能な部分も多く、この世界の常識とはあまりにかけ離れている。
今ではほとんど誰も読むことのない本だが、時折深く感銘を受ける者がいる。そしてなにを隠そう、この私もその一人だった。
「君は相変わらずだね」
「馬鹿にしてるの? 喧嘩なら買うわよ」
「違うさ。でも、あまり自分を過信し過ぎない方がいい」
普段はヘラヘラと軽薄なレオが、いつになく真剣な声色で注意してきた。
「君は正しいと信じることに真っすぐすぎて、いつか転んで大怪我をするんじゃないかと……」
「……まさか、心配してくれてるの?」
「いや。わくわくしてる」
聞くんじゃなかった。
やっぱり、こいつ嫌い。
「だってそうなったら、俺に助けを求めてくれるかもしれないだろ」
「え……?」
高位貴族の中でもめったにいない、珍しい金の瞳。見つめるだけで吸い込まれそうになる、というのはまさに彼のこの瞳のことだろう。太陽の元では明るく煌めくこの金色が、今は暗闇の中で妖しいほど美しく輝いていた。
まるで、私が縋ってくるのを待っているかのように……。
「あんたなんかに助けを求めないわよ、絶対」
自分に言い聞かせるように呟く。
(騙されちゃ駄目、これがいつものレオの手口なんだから)
彼が自分に好意を持っているのだと勘違いした令嬢達の末路は、よく知っている。
「しっ、誰か来る」
遠くの方から足音が聞こえ、二人で木の後に隠れた。狭い影に小さくなっているのだから、お互いの吐息が感じられるぐらい近い。
「もう少し離れなさいよ」
「無理言うなよ。それとも見つかって、俺と噂になる方がいい?」
それだけは御免こうむる。
レオ・ドフナーレク伯爵子息といえば、数々の女性と浮名を流すことで有名な女たらしだった。最初は清楚な侯爵令嬢。次は豊満な体つきが男性の視線をさらっていた伯爵令嬢。それから才女と有名だった子爵令嬢に、庶子だが心優しく可愛らしいと評判だった別の伯爵令嬢……。
最低だけど騎士としては非常に優秀で人望もあり、王太子殿下の覚えもめでたい出世頭。令嬢達は冷たい視線より黄色い歓声をあげている。なんなら遊び慣れていてそこがいいとまで言い出すツワモノまでいる始末。
(ああいやらしい! 汚らわしい!!)
子どもの頃はもっとまともだったのに。どこをどう間違ってこんな人間になってしまったのか、元姉貴分としては非常に腹立たしい。
すっかり女にだらしない軽薄な人間になってしまった幼馴染を寂しく思うが、浮気や愛人が当たり前の貴族世界では、私のような考えの方がずっと異質なのかもしれない。そもそも私がお互いたった一人を愛するという考え方に憧れたのも聖女が書いた本……つまり、別の世界に感銘を受けたからだ。
そんなことを考えているうちに、人影はもうすぐ近くにまで迫っていた。
「ほら、もっとこっちに体を預けて」
(うん? この声は……)
どうやら男女二人組、親密な関係らしく影が一つになるほど寄り添いあっている。
それまでは憎らしいほど落ち着つきはらっていたレオが、ギクリと体を強張らせたのがわかった。
「うふふ、ボリス様ぁ。優しいんですね」
「飲み過ぎて酔っぱらうなんて、可愛いなあ」
(えっ……!?)
ぴったりと寄り添い女性を介抱しているのは、間違いなく私の婚約者のボリスだった。驚いている私の目の前で、二人はますますピッタリとくっつき合う。二人を凝視する私を、レオはばつの悪そうな顔で見下ろしていた。
「えっとリリアナ。その、なんといったらいいかわからないけど……」
「あの女性はずいぶんボリス様にもたれかかって、よほど具合が悪いみたいね?」
レオは目を丸くして固まった。
「……は? いや、あれは……」
「ボリス様も親切ね。あんなにつきっきりで介抱してさしあげるだなんて」
素晴らしい親切心に感心していると、レオは不可解そうに眉を寄せた。そして一瞬ためらってから決意したように口を開いた。
「あれはどう見ても、浮気現場じゃないか?」
「馬鹿ね。誰もが自分と同じだなんて思わないでちょうだい。彼は浮気なんてしないわ、絶対」
「そりゃ、信じたくない気持ちはわかるけど……。クソ、そんなにあんな奴が好きなのか?」
レオが苦い顔をしていると、ボリス様に寄りかかっていた女性がふらりとつまずきそうになった。なんだかちょっとわざとらしい様子だったのは気のせいだろう。
ボリス様は慌てて彼女を抱き寄せ、ますます密着した。
「あらん、ごめんなさぁい。なんだか胸が苦しくて」
「胸が……! そ、それは仕方ないなあ」
なにが仕方ないのかはよくわからないが、なんとなく息が荒い。
「もしかして、ボリス様も具合が良くないのかしら?」
「なんでそうなる」
「まさか疑う気? 彼はそんなことしないわ」
「いや、素直に現実を見ろよ!?」
レオは何故かイライラとした様子だった。
至近距離に不機嫌な人間がいるのはとても不快だ。仕方ない、彼を信じる理由を説明することにした。
「絶対に大丈夫よ。だってほら、約束したもの」
私はドレスの隠しポケットに常に入れてある、一枚の誓約書をそっと開いてみせた。薄暗くて読みにくいのか、彼は眉をしかめながらそれを読んだ。
『 宣誓書
私たちはお互い以外を愛さず、絶対に浮気しないことを誓います。
署名 ボリス・ベンディーク
リリアナ・チェフラ』
それは、婚約前にお互いが署名した宣誓書。
婚約者のボリス様は私一人を愛すると約束してくれている。しかし得意満面に書面を見せる私を、レオは頭痛でもするかのように眉間に皺を寄せながら睨み返してきた。
「…………。で?」
なんと察しの悪い。
本当に、昔からどこまでも手がかかるんだから。
「だからね、私たちの婚約はいわば『誓約婚約』、すでに約束しているのだから浮気なんてするはずがないの。浮気はシロよ」
「君を相変わらずだと言ったことを訂正しよう。成長がない」
「はあっ!?」
思わず大きめの声をあげてしまい、慌てて口をふさぐ。
ドキドキしながらボリス様たちが気がついてないかと様子をうかがうけど、彼らは別の事に夢中でそれどころではなさそうだった。
「む、胸元とか……そんなに締め付けて苦しくないかい」
「うふふ、そうかもぉ」
「はあはあ……少し緩めてあげるよ、金具はどこかな?」
「ああん、くすぐったぁいん~」
(ってあれ? ボリス様、いつのまに二人でベンチに移動しているの?)
それに座っているって言うか、寝そべっているっていうか、ほぼ押し倒してないだろうか。
「貴方ったら悪い人ね。婚約者がいるのでしょう?」
「君がそんなに美しいから悪いのさ。あんな女性らしさのかけらもない、頭の固いリリアナが婚約者でどれだけ窮屈だったことか」
は?
え? あれ???
どういうこと!!!!?
いっちゃんいっちゃんしている二人を、目の前で見せつけられながら呆然としていると、隣のレオが心底気の毒そうな目でちらりと見てきた。
「宣誓書っていったって、強制遂行魔法がかかってるわけでもない。罰則の記述すらない書類なんて無意味だ」
レオの指摘にドキリとした。
そりゃあ私だって、その指摘を考えなかったわけではない。
だけど、約束したのだ。私だけを愛してくれる相手ではないと嫌で、どうしても譲れないことだと正直に話した。ボリス様はそれを了承して頷いてくれた。
「罰則なんかで縛らなくても、お互い合意の上で約束したことだわ。なのにそれを裏切るなんて……そんなこと、そんなこと……」
あ。キスした。
レオが痛ましいものを見る目を向けてきた。
「今なら気がそれてるから、暗闇にまぎれて逃げられそうだけど」
ブチッと。
私の中の何かが、勢いよく切れた。
「逃げる?」
答える私の声は、自分でも知らないくらい低い音が出た。
私もこんなに不機嫌そうな低音がだせるんだな、と頭のどこかで冷静に思った。
「わっ、リリアナ!?」
「ほほほほ! 何故、私が逃げる必要があるのかしら……!」
ガシッとレオの腕を組むと、驚きの声があがった。申し訳ないが髪を守りつつ移動するには、ボタンとの距離を固定するしかないので仕方ない。
まだ絡まって外れない状況のまま、不埒な二人組にズンズンと向かっていった。