月の魔法は禍福の縄の如し
孤独な女性が子猫を拾った。
女は猫を愛した。猫もまた。
月の魔法が動き出す。
幸せと苦しみと両方を与えて。
笹原亜里沙 28歳
残業が終わって駅で降りた時には小雨が降っていた。
少し暗いが近道の公園を突っ切ることにした。今日は急いで帰りたい。
コツコツコツと自分の足音が響く。
公園の中ほどに来た時に、ベンチに座っている男がいた。
足音に気付き顔を上げた。中年の男だ。目は合ったが少しだけ目を細め微笑の形をした後、顔を伏せた。
誰もいない公園での男との遭遇ではあったが、悪いものは感じずにホッとして通り過ぎた。
なぜ、あそこに座っていたのだろう?あのベンチは……
いや。今は家路を急いでいたので、それ以上考えるのをやめた。
公園をあと少しで出る頃になって、前から来た若い男の二人組に声を掛けられた。
ジーンズに少し派手なトレーナという、いたって普通の格好だが歩き方や表情から嫌な予感しかしない。男の呼気が酒臭い。
「ねえ。お姉さん。お金、くれないかな?」
「金じゃなくて、一発やらせてくれてもいいよ。まあ、両方もらうつもりだけれどね~」
いやらしくニヤニヤ笑っている。
これが何度か成功したことがあったのだろうか。
都会に溶け込んでしまいそうな普通の若者たちだ。「不良です」という分かりやすいアイコンはないのに、この言いよう。その普通の姿が余計におぞましく感じる。
無言で足早に歩き、男の横を通る時に肩をぶつけて、膝裏を蹴飛ばし一人を転ばした。
「うざいんだよクソガキ。失せろや」
吐き捨てる。
駆け寄って来たもう一人の男には、横にステップを踏んでから膝に蹴りを入れた。多少はダメージがあるだろう。
「この、クソ女」
「この野郎」
テンプレートな罵声を鼻で笑う。憂さ晴らしでもしようか。
ここ何週間もギリギリだったのだ。
叫びたくて泣きたくてたまらなかったのだ。
真面目に仕事をこなし、愛想笑いで会社の人と会話しても、一生懸命に泣きだしそうになるのをこらえていたのだ。
丁度いいや。クソガキぶっ潰してスッキリさせてもらおう。
一分一秒だって早く帰りたい私の邪魔をしたんだ。
償ってもらおう。
「この女、生意気なマネしやがって。ボコボコにしてヤリまくって動画取ってやる」
「一生ネットに晒してやるよ」
「今のうちに「ごめんなさい」しろよ。50万円で許してやるよ。まあ、ヤッてからだけれどな」
良いよな。私が頑張ってこの男らを潰せば胸のすく女が居るってことかな。
そんな女の祈りが私に届いたんだよね。
自分の振るう暴力に対する言い訳をした。
一人は足を振っている。膝が痛むのだろう。
最初に転がした男が飛びかかってきた。
「うるぁっ!」
男が大振りで殴りかかってくる。楽勝。格闘技経験ないじゃん。
殴りかかる右手を避けざまに掴み相手の肘を外側から押した。
ミキャッ!
肘を折る。
「あーーっ!」
膝をつき右腕を抱いて悲鳴を上げる。
ああ、うるさい。うるさい。
男の頭を掴み、膝の甲の骨にたたきつける。
狙うは鼻の中央。頭を抱えすぎると相手の歯が当たって膝が切れるかもしれないしね。
二度、三度、膝を顔に叩き込む。イメージはスイカを膝で割る感じ。
手を離すと男はゴロリと転がった。
後ろを見ると、もう一人の男が立っていたが、動こうとはしなかった。
こっちは膝をやった奴か。
相手が複数いる時は、一人を徹底的に痛めつけた方が良い。すると恐怖が芽生える。
「どうする?」
聞いてやった。
「いや。すんません!」
走って逃げた。血まみれの男を置いて。
「くくっ。うふふっ」
あれ?私笑っている。
「あはは。あははははっ!」
「あはははっ!はああーーーーっ。……と」
ひとしきり笑って、すんと笑う要素が消えた。
私は家に帰らなければならないのに。
走り出す。
小雨の降る中を家に急いだ。
カンカンカンとアパートの階段を昇る。
階段の途中から鍵を持っている。ドアに飛びついて鍵を開ける。
部屋の明かりは付けたまま。
キッチンを抜けて荷物を置いて、ガラス戸を引く。
和室の中央の座布団に骨ばって痩せている猫がこちらを見ている。
「ただいま。虎徹。遅くなってごめんね」
玄関を開ける前から起きていたのであろう白と黒の細い縞のサバトラの雄猫が顔を上げていた。起き上がれずに、頭だけ上げて喉を鳴らしている。
屈みこみ猫を抱き締める。尻尾は短い。ジャパニーズボブテイルだ。
抱き上げることはしない。身体に負担のかかる事はしたくない。お腹に顔をうずめる。
グルグルという音と振動が心地よい。
愛している。愛している。
愛がどんなのか知らないけれど、多分、一番の愛だ。
それが消えてしまいそうになる恐怖に怯えている。
およそ8歳。2歳くらいの時にあの公園で怪我しているのを保護した。
オス同士のケンカか犬に嚙まれたか。顔にも腹にもひどい怪我を負っていた。
懐かないままに無理矢理に家猫にしたが、本当に良かったのだろうか。
今、腎臓の病気で苦しんで死のうとしている。
病気をしないままに、短命の野良猫として生きていくのが幸せだったのか。
猫としての幸せはあったのだろうか。
家に迎えて怪我が治ったと同時に去勢をした。家猫にするのならば必要なことだろう。しかし、猫としては?。
助けを求められたわけではない。小雨の降る夕方に公園のベンチの下にうずくまる彼を見つけてしまったのだ。
身動きできない体を上着で包んで動物病院に向かった。
捕まえた時にシャーッ!と怒ってはいたが、頭ごと上着で包むと大人しくなった。
暴れる体力もなかったのだろう。上着は500円玉くらいの血のシミが出来た。血が止まらなかったのだ。
怪我した猫を抱え病院に着くと、これから家猫にするのか。しなければ、このまま死なせた方が良いと言われた。お金もかかる。家猫になるまでに猫も人もストレスを抱えるだろう。
どうすればよかったのだ。
公園でよく見かける猫だった。
この猫用にキャットフードの小袋を持ち歩いていた。
ベンチに座っていると端ではあるが、同じベンチに座ってくれた。
撫でさせてくれることはなかったが、ベンチに紙を敷いてキャットフードをあげると食べてくれた。
撫でようと手を伸ばすと、食事の最中でも逃げてしまってからは触るのを諦めた。
今、彼は体の自由が利かなくなるなかで、私が触れるのを許してくれている。
私を許してくれているの?
病院では延命は可能だと言われた。延命。延命。
治療ならば、いくらでも通っただろう。しかし、存えるだけの延命だ。断った私は残酷なのだろうか。
もう、何が正しいのか分からない。怪我を治した、あの時から間違えていたのだろうか。
ごめんなさい。
あなたを失いたくなかったの。
今は身体を全部預けてくれるのが嬉しいけれど、元気だったら撫でさせてくれるようになっても、抱っこをさせてくれることはなかった。
日中は窓の横に置いたキャットタワーの一番上に居て外を見ていた。寝る時は部屋の隅の座布団で寝ていた。時折、夜中に目が覚めると、光る瞳と目が合った。熟睡することはなかったのかも知れない。
部屋に居ても、心は野良猫のままだったのかな。
私が触っても嫌じゃない?
聞いても、もちろん答えなんて帰ってこない。
私は虎徹を、正しくは座布団を抱え込むように眠りについた。
翌朝、シワになっているスーツをスチームアイロンで伸ばして急いで会社に向かう。
虎徹を残していくのは心配だ。でも、ペット休暇なんてものはありなどしないのだ。
ついでに、死んだことになってくれそうな親戚もいない。
やはり残業になってしまった。
当たり前に公園を突っ切る。
ベンチに男がいた。昨日と同じ人のようだ。
私を見た時に立ち上がった。
緊張する。大きな男だ。格闘技をかじっていたとしても、やはり男性からの暴力は怖いのだ。怖いからこそ格闘技を学んだのだが。
身長は高め。肩幅も広い。良い体しているな。逃げれるか。走るか。踵の低いパンプスではあるが全力疾走は難しい。
「あの、良いですか?」
男性は40代くらいか。そして意外に柔らかい声と表情で話しかけてきた。
「昨日、あなたを襲おうとした男らが人数を増やして待っています。今は、ここを離れてください」
あのバカ野郎ども。
この人は優しいな。伝えるために私を待ってくれていたのか。
「教えてくださり、ありがとうございます。ちょっと警察へ電話をかけてきます」
と男に礼をして、駅に戻りタクシー乗り場近くの電話ボックスから赤いボタンを押して110番にかける。
「あの、駅のそばの西口公園のコンビニの方の出口の近くで、若い男性が何人もいて腕を引っ張られたり、髪の毛を掴まれたり、ヤラせてくれないなら金を出せって言われて、逃げてきました」
「いえ、怪我は特にないと思います。毛を引っ張られたのも腕を取られたのも痛かったですが、それよりも怖かったです。いやです。名前を知られたくありません。
どこかで彼らの耳に入ったら怖いです。
でも、私以外にも通る女性に絡んでいるようです。捕まえられなくても補導などお願いいたします。ごめんなさい。いえ、これ以上は嫌です。……失礼いたします。シクシク……」
っふう。こんなもんだろう。
さっさとこの場を離れよう。
公園の入り口に戻るとベンチにいた男性が公園から出てきて、心配そうに見ていた。
「ちょっと電話をしてきました。か弱い女性のつもりで」
自分の声が聞こえていたかもしれないので、恥ずかしくなり茶化して言った。
すると男は真面目な顔で
「昨日で強いのはよく分かりましたが、送りますよ」
と言ってきた。
「いえいえ。大丈夫ですよ!」
格好いい人だったので、少々顔が赤くなる自覚もあったが手を振り断るも、彼は真面目な顔で言った。
「あの公園を通って足早に帰っていたのは、早く帰らなければならない理由があったのでしょう。ここで言い合いをしていても終わりません。俺は、貴女に何かあって欲しくないから送ります。折れてください。さあ、帰りましょう」
そうだ。気持ちがすとんと落ちた。
なに顔を赤くしたんだろう。家には虎徹が待っているのに。
「さあ、行きましょうか」
うなだれている私の手を掴んで歩き出した。
公園の中を通らない道。
彼が先導するように、家を知っているように歩いている不思議をその時は思い至らずに、近いうちに死ぬであろう虎徹に思いを馳せていた。
その間、荒っぽい声に遭遇することもなく、家の場所や道を聞かれることもなく、ただ手を引かれていた。
「着きました」
いつの間にかアパートの前に着いていた。
手のぬくもりが消えた。男が握っていた手を離したのだ。
「さあ。待っていますよ」
低く優しい声で諭された。
そうだ。
彼がなぜ私の家を知っているかなんて、今はどうでもいい。
今は。今は。
カンカンカン足音がうるさいが、今は苦情とか聞いてやれない。
カンカンカン。
いつもの動作だ。階段を上がりながら鍵を取り出して……
ふと、振り向いた。
あの男性は居なかった。
なぜ?
誰だったんだろう?
一瞬で振り払い、家のドアを開けた。
「虎徹!」
ああ。生きていてくれた。
神様。神様。神様。
虎徹は顔をこちらに向けて目を開けていた。
そして、頭を上げようとしていた。
「良いんだ。動かないで。無理しないで」
私は虎徹にかがみこんで頭を支えた。真っすぐに私を見詰める瞳は黒々と丸く瞳孔を広げている。虎徹の瞳は黄色で中央に緑色が入っている。
怪我の治療が終わり、家に連れてきた時に黄色だけでなく綺麗なエメラルドグリーンが入っていたのに驚いた。
少しだけ虎徹の顔が動いたと思ったら、冷たい鼻が唇に触れた。
「……ふふ。今のはキスなのかな?私も大好きだよ」
虎徹の鼻にキスを返した。
虎徹はもう頭を上げることも出来ない。
猫の大好きなジェル状のおやつを水で緩くしてスポイトで口の中に流し込んだ。
少ししか飲まずに顔をそむけた。
残っている時間は少ない。
虎徹の座布団を布団の枕元に移動させた。
もっと早くこうすればよかった。そうすればスーツもシワにならずに済んだし、(単に着替えればよかったのだが)無理な姿勢で寝て、朝起きた時に体中痛くならずに済んだのに。
まだ早い時間だが、パジャマに着替えて電気を消して布団に入る。
暗い部屋の中で虎徹と見つめ合う。
身体は痩せてゴツゴツなのに、この瞳の力強さは何だろう。
とても明確な意思を持って私を見詰めている。
こんなに良く見えるのは月が明るいせいか。カーテン越しにもわかる月の存在。
今夜は満月だったか。
月が陰ったか、虎徹が暗闇に覆われたように見えなくなった。
不安に感じ虎徹を求めて手を伸ばした。
指先に異質なものを感じだ。
温かくて大きなもの。
手を握られる。
月の光が戻った。
すぐそこに大きな男が背中を丸めて胡坐をかいていた。片手を伸ばして私の手を握っている。
「えっ?」
ヒヤリと全身を冷たいものが走る。鍵をかけ忘れたか。家の中に、横に来るまで気付かなかったのか。
男の顔に外からの光があたる。
さっき、家の前まで送ってくれた人だった。
家を知られていた時点で、警戒をしなければならなかったのに。
「だれ⁉」
「わからないかい?」
男は私の手を自分の顔に沿わした。手に頬ずりをしているようだ。
手を引こうにも恐怖で体が動かない。こんなことにならないように強くなったはずなのに。
男はかまわずに手を自分の顔に滑らせる。指先が妙なものに触れた。耳。耳の先がVの字に切り取られている。古い傷のようだ。触れても痛そうな気配はない。
「まだ、分らないか?」
膝立ちになり、上に来ていた長袖のシャツを脱いだ。
上半身をはだける。筋肉質な左のわき腹に大きな傷跡がある。
「君がこれを治してくれたんだろう」
月の光が差し込み男の瞳が少し縦に細くなった。そして、瞳孔の周りの光る黄色と奥からにじみ出るような緑色。
その瞳は。
「虎徹」
「そうだよ。亜里沙」
名前を呼ばれて胸がキュウとした。名字だけで呼ばれる人間関係だ。名前を人に呼ばれるのは子供のころだって極端に少なかった。
「虎徹だったの?あなた、動けるの?生きているの?」
「ああ、俺は虎徹だ。君が抱き締めてくれていた虎徹だ。抱き締められるのが、こんなに心地良いのなら、もっと早くに抱かれたかった」
年上の人の姿の虎徹は声が低くてSEXYだ。黒髪に少し混ざる白髪ではあるが、虎徹はサバトラだから若い姿でも、この髪色かも知れない。
そうか、猫の8歳は人だとこれくらいなんだ。
「君にもっと抱き締められたい。君を抱きたい。そう願っていたら、月の魔法が働いてね。猫の命は削られるが、人になることが出来た」
猫又のこと?
命が削られる?
「人として亜里沙を抱きしめたい。抱き締められたい」
たくさんの事が気になっているが、虎徹がするりと布団の中に入ってきたから考えることが出来ない。
「あの、虎徹」
ゆっくりとかぶさってきて抱き締められた。
温かく柔らかく優しい重さ。体重を乗せまいとしてくれている。
ああ。密着する身体と身体。心がほぐれていく。
「ああ」
こちらの意志が流れ込んだかのように同じ言葉を発した。
それから、猫同士ではない深い口づけ。
互いに服を脱がせて再び抱き締め合う。肌と肌が直接触れるのは気持ちの良いものだ。
太ももに妙な物が挟まった。手で退けようとすると、それは人の男性の硬くなったソレだった。
「えっ?」
「ああ。その、人の姿になりたいと願ったのは、去勢されているからさ。
君と抱き合いたいというのは、そういう意味もあったんだよ」
年上の男の顔で少し視線を外して照れている。
なんて、愛おしいのだろう。
「虎徹。大好き」
「俺もだ。ずっと聞いていた。君の後悔も、愛も全部」
そうか、私は年上の男性が好きだったのか。いや、虎徹だからかな。格好よく見える。
肌がしっとりと手になじむ。汗ばんでいるのか。横が短くて前髪が少しだけ長め。筋肉質だから大工さんとかに見えるかも。
初体験ではなかったが、最初のソレは思い出したくもないものだったので、今をカウントしよう。そうしよう。
虎徹の、男の身体を意識して触る。
硬めの髪の毛。堀の深い顔立ちに優しく瞳が光っている。薄く見えるおでこから鼻への傷跡。大き目で厚めの唇は意外に柔らかい。
顔から首に手を添わす。喉に手がいったときに「ぐるるるる」と鳴らした。
「え?どうやって鳴らすの?」
「わからん。でも、鳴る」
猫よりも大きなその音に笑っちゃう。
そうか、人になった猫は喉を鳴らせるのか。
お互いに身体を触りあう。温かい手で体中を撫でられる。ああ。こっちが猫になったみたいだ。
「気持ちいい」
思わず出た言葉に、虎徹が同意する。
「うん。俺も凄く気持ちがいい」
泣きそうになる。嬉しいよ。
虎徹とつながった。
久しぶりだけれど、夢の中のような触れ合いで十分に潤んで痛みではなく圧迫感だけで、それすらも喜びだった。
汗ばんだ腕に抱き締められている。私も汗をかいている。お互いの息が荒い。
でも、満ち足りている。
横抱きで腕に包まれて頭の上に虎徹の顎が乗り、ぐるるるっという低い音と振動がする。
「このまま寝よう」
振動と低い声が伝わる。
「うん」
「お休み。亜里沙」
「おやすみ。こ、て、つ」
私は目を閉じていた。すぐに眠りについた。本当にすぐに寝てしまった。
それまでの緊張が、ほどけたせいで。
眩しい。朝か。
幸せの余韻が身体に残っている。
夢じゃない。
布団が広いな。
手で探る。
手を少し伸ばした胸の前で硬い毛皮を感じた。
がばっと起き上がり、布団を退けた。
そこには、虎徹が死んでいた。
「こ て つ?」
身体に触る。硬い。しごこうちょく。 だ。
虎徹が横になって伸びている姿だった。
ああ。
ああ。
「いやだぁ。虎徹!虎徹!いやーーーっ」
悲鳴が、聞こえる。わたし、のこえか。
声が、ずるずると引き出されるように、止まらない。
どんなに叫んでも、声が、まだまだ、でていく。
わたしのくちから。
「あああああああああああああああーーーーーーっ」
どんだけ叫んだか。
泣きわめいたか。
それとも、いつから黙っていたのか。
虎徹を抱きしめながら、涙が流れるままに揺れていた。
夜になっていた。
月の魔法に、二度目はなかった。
あれから半年後、少しスーツが緩くなったが、淡々と日常をこなしている。
余計に仕事に打ち込み、余計に無口になり、余計に人と距離を置くようになっていた。
この苦しみは誰にも理解できない。
この愛も誰に理解できない。
誰にも理解されたくもない。
話す必要など感じない。私の、心の中だけの「たからもの」であればいい。
話すことで否定されてたまるもんか。
その日も残業で公園を突っ切っていた。
数か月前に、この辺りでたむろしている若者の間で薬が回っているとのことで、一斉に補導、逮捕者が出たそうだ。それ以来、公園内の電灯も多くなり以前の物騒な感じはなくなっていた。
つい虎徹と出会ったベンチを見てしまう。
そこに、子猫が居た。
子猫はベンチの下に隠れていたが、私を見ると長い尻尾を上げて寄ってきた。
白黒の縞模様。サバトラ柄で下あごや腹や足などの下側は白い。毛がぱやっている。長毛の血が入っているのかな?
生後2ケ月くらいか。まだ独り立ちには早い時期だ。母猫を探すも辺りには見当たらない。
私を見上げては、ピャーと鳴く。一生懸命に私に近寄ろうとおぼつかない足取りで歩いてきた。足元に来た。すりついて喉を鳴らしている。
思わず抱き上げる。一層喉を鳴らし、頭をこすりつけている。
目はパッチリ。鼻水もない。猫風邪は引いていないようだ。
「ねえ。虎徹なの?」
虎徹じゃなくてもいい。猫を抱き締められたことが嬉しかった。
会社の人が言っていた。
「猫分が足りていないんじゃない?」
意味が分からずに聞いた。
「なんですか?それ」
「猫と暮らした人は、猫のいない生活では満たされなくなるの。そうするとね、猫の方で、その人に合った猫が派遣されるのよ」
虎徹が死んだときに、体調不良を押して仕事をしている私を心配してくれた人だ。
時々、猫の話をする。
その人も代々保護猫を迎えているそうだ。
「まあ、気にしなくても良いよ。猫好きの間ではそんな話があるってだけ」
そうかもしれない。
猫分が、いや違う。虎徹が、無くなったのだ。
肯定と否定の気持ちが入り混じった。
でも、子猫を抱いた時の湧き上がる感情は、とてつもない幸せだった。
「出会えた」と感じた。
虎徹じゃなくてもいい。
またこの子を迎えよう。
これからの予定を立てる。
まずはコンビニによって子猫の仮住まい用の段ボールを貰う。
それから警察に電話。飼い猫の脱走の可能性もあるから。#9110番だろうか。
ドラッグストアで子猫用のエサに、猫のトイレ砂。水入れと、ごはんの器は虎徹のを使おう。
子猫用のトイレは100円均一の皿洗い用のプラスチックの容器が良い。
明日の、昼休憩で電話をしよう。保健所と動物病院で逃げた猫がいないかの相談に、病院の土曜日の予約。それまでにウンチをしてくれれば、病院に持って行って虫の検査をしてくれる。
子猫だから、4時間おきくらいには食事をとらせたいけれど、仕事だから置きエサになるな。
頭の中で考えながらも、子猫は抱っこをされてグルグルと言っている。人懐っこい子だな。
とりあえず生粋の野良猫じゃあないだろう。考えたくないが捨てられたのだろう。
猫の病院の費用は、使うこともなく貯まっている貯金様がある。
抱っこをしながら歩き出す。逃げようとしない。ずっと抱っこでも嫌がらない。それどころか、腕の中で良い場所を探り当て眠りについている。
コンビニに寄って事情を話すと、店長らしき男性が「ならば、大き目の段ボールが良いですね」と、ティッシュの段ボールをくれた。大きいな。でもこれでトイレも置ける。
ダニやノミがいるかもしれないから、今日のこの服は風呂場で脱いで全部洗濯機に直行だ。洗えるスーツの有難さよ。
服を脱いで、その上に猫を置く。「ちょっと待ってて」と言って、部屋に段ボールとタオルをセット。虫が出ないように段ボールの底はしっかりとテープで貼る。電気ポットもセット。湯たんぽを押し入れから出し、思い出して服を着る。
湯たんぽにお湯を入れてタオルで巻く。OK!
#9110に電話をして、子猫を拾ったこと、だいたいの月齢。キジトラの雄。周りに子猫や親猫、人はいなかったことを告げる。
子猫を迎えに行き段ボールに入れ、多少のジャンプでも登れない事を確認してから買い物に行く。
先に百円均一のお店。キッチンコーナーで皿洗い用の桶、ペットコーナーで犬の齧りようだけれど、布の鳥のぬいぐるみを購入。
その後ドラッグストアで子猫のエサは、ウェットタイプに、仕事に行っている時用のドライタイプ。2カ月ってとこだから離乳食からの固形への過渡期だろう。トイレ砂は細かいの。
重くなった荷物を持って家に帰る。
トイレ砂を入れた容器を段ボールの中に入れる。
お腹は空いているのかな?ウェットタイプを皿に入れ始めた時から、鼻をスンスンとして食べ物を探している。
顔の前に置くと勢いよく食べだした。
「よしよし。お腹空いていたんだねー。明後日病院で診てもらおうね」
誰からも届け出がなければ、私の猫になる。
パウチの半分は食べた。今は十分だろう。
子猫は満足げに顔を前足で洗っている。
口元も綺麗だ。ちゃんと親から教わっているのだな。
上から撫でるとクルクル喉を鳴らす。
「君はどこから来たんだい?」
子猫の喉を鳴らす音だけが小さく鳴っていた。
4時間後にウェットのエサをやり、食べきったところでドライフード湿らせて入れて置く。
就寝中に、もし起きなかったら食べてもらおう。
段ボールを寝ている布団から見える場所に置いて寝る。
夜中に子猫が鳴いていたが、ペチャペチャとエサを食べる音がして静かになった。
湿らせたドライフードも食べ慣れているようだ。良かった。
朝起きて子猫を見るとピャーと鳴き、段ボールの中で立って少しでも近寄ろうとしていた。
トイレの大は健康的で小も出来ている。良かった。良い大をしてくれると母親と離れたストレスも体調を崩すほどではないのだと安心をする。
もちろん淋しくて悲しいから、こんなにも縋り付いてくるのだろうが。
朝ごはんにウェットをあげて、出勤前にドライフードを多めに入れる。水も新しいのに入れ替えた。
会社での休憩時間に保健所と動物病院に連絡を入れ確認をするが、届はないとのこと。そのまま、動物病院に予約を入れる。
「おや笹原さん。機嫌がよいですね」
会社で唯一話す総務の森元さんが声をかけてきた。話すといっても猫の話だけ。そして、これから話すのも猫の話。
「子猫を拾ったんで、保健所と病院に確認をしていました」
「へぇー。どれくらい?どんな柄?」
「2カ月くらいの白の多いサバトラで雄です」
「サバトラに縁があるね。毛皮を着替えずに慌てて来たようだね」
「ああ、そんな話ありますね。まあ、前の猫と重ねてしまうのは分かる気がします」
「前の猫のこと忘れられない?」
少し心配そうにこちらを見ている。森元さんは、こんな顔で見ていてくれたんだ。
「そうですね。まだ半年しかたっていないので。少しだけ、子猫を迎えるのを喜んでいる自分に罪悪感もあります」
「良いんだからね。猫を抱っこして幸せを感じる自分を許しても」
こちらの気持ちを見透かしたかのような言葉を言ってくれた。
「……ありがとうございます」
心から言った。
にっこりと笑って返してくれた。
そして我が家の猫になる。
動物病院では、子猫の寄生虫やダニ、ノミのいない状態、猫風邪をひいてない健康体を見て、私と出会う少し前に遺棄されたのだろうと言われた。
白血病もエイズもない。元気な生後8~9週間との見立てだった。
3ケ月後にワクチンの予約をする。血液検査の結果、ワクチンの注射はしたことがない数値だった。
通常、ここまでの検査では3万円以上かかりそうだが、1万5千円で収めてくれたのは医者の良心だろうな。ありがたい。
家に帰り、病院でシャンプーもしたので段ボールハウスからの卒業だ。
念のため虫がいても部屋に散らばらないように、お風呂場で段ボールを崩し、すぐにゴミ置き場に捨ててきた。段ボール回収は明後日だけれど大目に見てもらいたい。
子猫をトイレに入れて、その場所から部屋全体を探検してもらう。
トイレの近くのエサ置き場。部屋の隅にそって歩いている。窓際にはキャットタワー。柱は爪とぎになっている。タワーの真ん中は箱になっていて、丸い入り口が一つで身を隠すことも出来る。窓際には二つ目の水飲み場。エサの場所とはもう一つ別の場所にも水場を作ってやることにした。
今更だが、エサの近くに水場を置くと汚れていると感じて水を飲む量が少なくなることもあると知った。
本棚の下の段に木箱を置いて、中にバスタオルを敷いたベッドを置いた。これなら隠れることも出来るだろう。
子猫はそれらをひとつずつ臭いをかいで、時には齧って確認している。
一通り部屋の中を見終わったら、座椅子に座っている私の横に来て寝そべった。
どうやら、私を親しいものとして認識をしてくれたようだ。
ありがとう。
体を撫でる。くるるると振動が伝わる。ああ。嬉しいな。幸せだな。
名前は色々考えたが、やっぱり
「君は虎徹だよ」
他の色だったら分からない。別の場所で拾ったなら分からない。
でも、あの場所で少し毛は長くなったけれど、少し白い部分が多くなったけれど、尻尾は長くなったけれど、やっぱりサバトラなら、この名前しか思いつかない。
「君は前の虎徹じゃなくても、別の性格や行動をしても、それでも虎徹だ。よろしくね」
抱き上げて、顔の前まで持ち上げる。そして鼻を付けた。
虎徹は、目を閉じて喉を大きく鳴らしていた。
「今日は機嫌が良いのかしら?」
出社時にエレベーター前で森元さんに声をかけられた。
「多分、良い方です」
「消極的な表現ですが、良かったですね」
二人で笑いあった。
また猫との暮らしが始まった。
それは幸せな日々だった。
足早に帰ると虎徹が待っている。
この虎徹2世はノルウェージャンかメインクーンの血でも混じっているのだろうか。体が大きく、瞳はアーモンド形で黄色の中央に緑色。虎徹の瞳。
申し訳ないが生後6ヶ月を待って去勢手術をした。そのせいもあるのだろうか、どこか子供のような陽気さで、いつも小さな鳴き声がクルルルル~と楽しげだ。
2年が経つとゴージャスな毛並みとなった。嬉しいと上がる尻尾はファサリと揺れている。
仕事が終わるとさっさと帰り、虎徹と遊び、一緒に食事をして、一緒に寝た。
虎徹2世は最初から抱っこが好きで、段ボールハウスから出て来たその日から私の布団に入ってきた。
初代虎徹は撫でさせてくれたけれど、抱っこも一緒に寝るのも嫌がった。
このフレンドリーな性格は猫種よるものだろうか。初代と違う。まだ若い頃に去勢されたのも性格に影響を与えているのかも知れない。
虎徹は布団に入ると、私の腕枕を所望し、顎を乗せると人のようにため息をついて眠りに入る。ああ。幸せな時間だ。
腕の中の虎徹の額の匂いをかぐ。猫の匂いとは、つまりは猫の唾液の匂いではあるのだが、それが臭くないのが猫の好きな所の一つだ。
虎徹が9歳になった時に病気の症状が出た。
なんで?今は猫の寿命は20年なんて当たり前だよ。それなのに、食事だって気を付けていたし、1年に一度は血液検査をしてもらっていて、去年の結果は悪いところはなかったじゃない。
なんで?なんでなの。なんで、私の虎徹はいつも早く死んでしまうの?
エサには気を付けていた。口内炎もない。歯周病もない。
気付いたら水を飲む量が増えて、おしっこの量も増えていた。
トイレが済めばすぐに処理をしていたのだが、臭いが少ないことに気付いた。
念のため病院に連れて行ったら、ステージ2の腎臓病だった。
腎臓病専用のエサを病院から購入したのに、虎徹の身体は急速に衰えていった。
なんで?
まだ腎臓病の初期の段階じゃない。
エサだって給料日に買ったマグロの刺身の一切れの半分を細かくしてあげるだけで、7歳からはシニア用の材料が安心できる少し値段の張るキャットフードと、ジェル状のおやつは日曜日に1本袋だけあげていた。それだけだ。
初代の時よりも、もっと猫の事を調べて健康に長生きさせるはずだったのに。
サバトラは野生の血が濃くて体が強いとも聞いた。なのに、なぜなの。
また、あの悪夢の日々が訪れた。
点滴を打って延命した方が良いのだろうか。お腹に管を付ければ良いのだろうか。
点滴ならば「延命」ではなく「治療」なのではないかと思い打ってはみた。小さな体に大量の水分を入れていく。そこが膨らんでいるのをマッサージして全身に行き渡らせる。痛むのか。小さく唸る。
苦しみを伸ばす行為なだけではないのか。
何よりもなぜ、こんなに進行が早いのだ。
今は水は身体を通り過ぎるだけだ。色のないおしっこをして、後は寝ているだけ。身体はもう骨が分かるほど痩せてしまっている。
お願い。
お願い。
虎徹。また私を一人にしないで。
毎晩泣いていた。
毛の艶が無くなってしまった虎徹を撫でながら。涙は落としてはいけない。だって、しょっぱいのは今の虎徹にとって毒でしかないのだから。
それでも、ひーーーっと細く出る泣き声をこらえることが出来なかった。
傍らに虎徹がいなければ、大声で悲鳴を上げていたかもしれない。
泣きすぎて頭が痛い。
虎徹はぐったりとしている。
それでも仕事に行く準備をしている私はおかしいのだろうか。
いつもの道なので、何も考えなくても体が連れて行ってくれる。
ビルのエレベーター前で肩を引かれた。
引かれるままに振り返ると森元さんがいた。
「なんて顔をしているの?大丈夫?凄く体調悪いんだよね」
「私はどこも悪くない。ただ、猫が死ぬの」
「そう。虎徹ちゃんね。今日は帰りなさい。仕事のできる状態ではないわ。いえ、あなたはきっと仕事が出来てしまうのでしょうけれど、今日は帰りなさい。社には貧血のあなたを出社時に見かけて帰宅を促したと伝えます」
意味が分からずにぼんやりしている私に
「早く帰りなさい。虎徹が待っています!」
強く言われて、踵を返して家に向かった。速足から駆け足になる。何度も転びそうになる。涙で前が見えない。
転んで膝のストッキングが破れてしまう。
それでも家に帰ってきた。いつもより、ずっとずっと早い。
「虎徹!」
窓際の陽だまりの中で、虎徹は寝ていた。
寝ているように見えるだけ?
「こてつ」
自分の出す音すら怖くて足音を忍ばせ小声で呼んだ。
うっすらと瞼を開けた。
胸の嫌な鼓動が収まる。
ああ。虎徹は生きている。
ありがとう。ありがとう。生きていてくれて。
瞼はまた閉じる。でも呼吸で身体が上下に動くのが分かる。
苦しいんだね。
ずっと、虎徹を胡坐の中に入れて撫でながら、何かの歌を歌っていた。
小学生か幼稚園の時に教わった文部省推薦歌のような、ゆったりとした歌を選んで小さな声で歌っていた。
部屋の電気も点けないままで虎徹をゆっくり揺らして何時間も歌っていた。
もう歌詞など歌など思いつかない。適当なメロディーを鼻歌にして無意識で歌っていた。
ぼんやりと部屋に光が射した。
月が出ている。
カーテンが開けっぱなしなので、月が良く見える。
満月かな。月が大きく見える。
腕の中の虎徹の影がゾロリと腕からすべり出た。
「え?」
虎徹の影は濃くなりザワザワと震えながら大きくなった。何か大きい黒いものがある。
月の光が射しこむと黒い影は片膝を立てて座っている裸の男になっていた。
片手を額に当て顔が見えない。
でも、どこか理解していた。
「こてつ?」
声がかすれて語尾が上がった。
手で長めの髪をかき上げると顔がはっきりと見えた。
前の虎徹の時よりも、どこか力強い顔。ああ。長毛の和猫以外の血が入っているようだったからな。だから、顔だちもハーフっぽいんだ。
でも、やっぱり虎徹だ。
ふにゃりと笑ってしまった。
虎徹は私が笑うと素早く近寄り、きつく抱き締める。
ああ、捕まってしまった。
猫とは獣なのだと妙に納得する。
私はヒョウに捕まったウサギかネズミだ。このまま私を食い殺して、そして虎徹が存えてくれてば良いのに。
「ありさ」
「虎徹。虎徹。虎徹!」
安堵でもある。しかし、別れが始まろうとしている。
ならば、少しでも長く、そばに。
虎徹にしがみついた。
固く抱き締められた。余りにもきつい抱擁で、「かふっ」と胸が押され息が押し出された。
苦しくても良い。苦しい方が良い。強く抱き締めて。
口づけの最初は優しく。次第に激しく。
虎徹の唇が頬や首を滑る。髪に顔をうずめ、深く息を吸っていた。私が虎徹のお腹を吸うのと同じだろうか。臭くはないかな。あ。昨日はお風呂に入っていない。
「あの、虎徹。私、お風呂入ってないから、少し待っててくれる?」
「待てない。亜里沙の匂いが好きだ。早くしたい。もっと亜里沙の匂いに包まれたい」
服を脱がされて肩に口づけをされる。
二人とも裸になって抱き合い、二人の手が互いの身体を探り合う。
虎徹の手が足の間に滑り込んだ。
「あっ」
「人はここが気持ちいいんだね」
指が追い詰める。こんなこと、前はしなかったのに。
指は濡れた音を立てる。腰が勝手にあがる。
ああ。ああ。
「んっううっ!」
悲鳴になりかける声を噛む。
「亜里沙。可愛いよ」
肌を密着させて虎徹が入ってきた。
「んーーーっ」
入り口が痛い。嬉しいけれど、やっぱり痛い。
「亜里沙。息をして。大丈夫」
ふうっと息を吐くとずいっと入ってきた。うわっ。お腹の圧迫感が凄い。
「きついね。もしかして、久しぶりなの?」
黄色く光る瞳でまじまじと顔を覗き込む。それって「SEXしてないね」っていう意味?この遠慮なく聞いてくるところが猫なのかな。人間を分かっているんだかいないんだか。居ないというのも癪に障るが本当のことを言う。
「前は虎徹だよ」
ふわりと黄色い瞳の中の瞳孔が広がって丸くなった。ぱちくりと目を見開いている。
ガルルル……
獣の声がした。
「亜里沙。……あ り さ……」
私の頭を抱えて激しく動き出した。
私は何も考えられなくなり、ただ翻弄され、体の中から何かが弾けようとしているのが怖くてしがみ付いて、追い詰められ、追い詰められ、その本人の虎徹に助けを求めて手を伸ばし、縋り付き、硬く抱き締められる。
そして、ゆっくりと、地上に降りた。
はあ。はあ。はあ。うんぐ。はあ。
喉がカラカラになるほど激しい。
虎徹も息が荒い。
虎徹がゆっくりと私を布団に寝かしてくれた。そのまま台所に行き、裸でペットボトルの水と
麦茶と醤油のペットボトルを持ってきた。
裸である羞恥心はないようだ。猫だからか。男だからか。
「これ。喉が渇いただろう。どれか飲めるものがあるか?」
ああ、醬油を持ってくるなんて人の姿をしても虎徹は猫なんだな。
「ありがとう。ガラスのコップがテーブルにあるの。取ってくれる?」
指さす方のコップに気付いて取ってくれた。
起き上がり、麦茶をコップに注ぐ。
「麦茶をもらうね。虎徹はお水を飲んで」
ペットボトルの口を開けて渡した。
虎徹はペットボトルを強く握ってしまい水をこぼしながら、それでも美味しそうに水を飲んだ。それを見て安心して麦茶を飲む。
喉がとても乾いていたのだ。
「ねえ。どれくらい時間が残っているの?」
自分の思ったよりも冷静な声に安心をした。泣いてはいない。冷静に尋ねている。
「前は二日間あった。多分それくらいだと思う」
黄色い瞳を伏せて虎徹が言った。
「そうね。そういえば前回、人の姿で公園のベンチに座っていたね」
黄色の瞳はなぜか潤み、金色に輝いている。
虎徹が強く抱き締めなおして言った。
「どう伝えれば良いのか分からなかった。人の姿になると、人の考え方、基本的な人間の常識が分かっていた。だからこそ、どう言えばいいのか分からずに、一日目を無駄にしてしまった。
でも、人の社会で生きている亜里沙を垣間見れて嬉しかった。同時に、とても大変な思いをして日常を過ごしているんだなって分かった。
……俺との関係を始めても良いのか分からなかった。
俺は猫の性分で、目の前の亜里沙だけを、猫でも死ぬ前の人の姿でも愛し続けるだろう。
でも、亜里沙は?亜里沙は、8年くらい猫を飼った後に死を看取る。その後、また俺を拾っての繰り返しだ。
俺は社会的に亜里沙を守れない。子供も出来ない。亜里沙を母親にさせてやれもしない。
これは、本当に愛なのか?亜里沙はいつまでも家庭も持てないじゃないか。
俺の存在が亜里沙の幸せを奪っている。
亜里沙。これで終わりにしよう。もう、俺を拾わないでくれ。
人間の男を選んでくれ。でないと、亜里沙は人なのに人の間に入れないままだ。
俺の死も看取らなくていい。亜里沙が沢山考えて苦しんでいるのは知っている。
俺は何一つ後悔などしていない。俺の死に亜里沙は責任を負わなくていいんだ。
お願いだ。俺のせいで苦しまないでくれ。
子供の俺を拾っても誰かにやってくれ。お願いだ」
虎徹、泣いているの?
耳に頬に温かい水滴が落ちる。
「私は虎徹を愛したことを後悔していないよ。
虎徹が死ぬときは、いつも苦しい。この苦しみが何度も来るのかと思うと怖くもある」
「ならば、」
「でも、でも、虎徹に会える。
人の姿の虎徹に抱かれるのだと思うと、やっぱり虎徹を探してしまうと思うの。
今回の事で分かった。
虎徹は普通の猫の寿命を半分にして、人の姿になって私を抱くのでしょう。
それは、やっぱり愛だと思うよ。
帰って来るまで、死にそうな虎徹を看取るのは怖かった。苦しかった。
でも、また会えて嬉しい。抱かれて嬉しい。
私は虎徹以外に誰にも抱かれたくない。
どんなに看取るのが苦しくったって、子猫の虎徹を育てるのも、いつもの生活に虎徹が居るのも、私の生活には欠かせないことなんだ。世間での幸せなんかどうでもいい。
良い?虎徹。
私は人間の世間で言われる結婚して家庭持って、子供育てて巣立たせて、夫と老いる。そんな、一般的なものは、もう必要ない。
どんなに淋しくったって、10年待たずに虎徹が私を抱いてくれるのでしょう?
私が老いてSEXできなかったら、抱き締めてくれるんでしょう?
それとも私がお婆ちゃんになったら、もう人の姿にはならない?
それでもいいわね。だって一緒に歳を取ることが出来る」
「君を抱きたい。俺の全てをあげるから」
「もう、もらっているよ」
虎徹は命を削って私に会いに、そして短くした命を生きて死ぬのだ。
残酷な愛なのかもしれない。
「猫は本当に9回の生があるの?」
「9回の生を生きる猫は少ない。だいたい、死んで光の中に入ったら自分が無くなる。自分を覚えていて、同じ場所に産まれ落ちることは、とても強い猫だけだ。
でも、死んだときの場所近くに生れ落ちることが多いから、前の猫の生を生きた魂の欠片は入っていると思う」
「そう。じゃあ毛皮を着替えて戻って来るって嘘でもないのね」
「それが、そのまま出来るのは、俺みたいに強い猫だけだ。
強さは猫としての強さだけじゃなくて魂の強さもある。それがなきゃ、何度も死ぬ苦しみを覚えていることを選べない。死ぬ苦しみを忘れて、前の生も全部忘れて生まれ変わるのが普通の猫だ。
俺は死ぬ恐怖より亜里沙に出会う事を選んだ。
それは強い猫だからだと思っていたけれど、亜里沙を人間の孤独に追いやる悪い猫なのかもしれない。
人の姿では悩む。
でも猫の姿では猫の性の中でしか生きられない。
当たり前にみっともなく亜里沙を求めて鳴くだろう。そして、亜里沙に拾われて安心して幸せに猫の生を生きるのだ。
さっき、亜里沙を抱いた時、抱かれたのは俺だけ。と言ったとき、俺はとてつもなく嬉しく感じた。
それは猫の考えではない。猫は雄も雌もヤレるならばヤレるだけヤル。沢山の雄猫の遺伝子を残せば、過酷な環境でも生き残れる子供が出来るかもしれないからな。
だから、亜里沙を独り占めしたいと願う俺は猫から外れてしまったのかも知れない」
抱き締めている逞しい男は、私を孤独にさせていると泣いている。
孤独ってなんだろう。
人の中に居ても孤独を感じる。これから誰かに合うかもしれないけれど、別に期待もしていない。これだけ私だけを真っすぐに愛してくれている存在は他に知らない。
だって、親の愛だって知らないのだから、人同士の愛を信じる事なんてできない。
友達だっていない。彼氏だって出来たことない。
ああ、そうか、私は人との愛に希望を持っていないんだ。もう、38歳だしな。
その間に2回も抱かれた。ちゃんと愛し合っているSEXをした。それは、きっと幸せなことだ。たとえ人の姿になって抱かれる前に、虎徹の死に近づくのを見守ることしか出来なくても。
私は虎徹を選んだことを後悔しない。
「虎徹。私は、何度でも虎徹を選ぶよ。愛しているから」
私たちは再びキスから始まるSEXをした。何時間も抱き締め、抱かれた。
喉が渇いた。机に向かう。
携帯のlineが来ている。見ると森元さんだった。
「会社では友人の看病で疲労が溜まっていると伝えました。
前から身寄りのない友人の死期が迫っているのを、あなたが一人で看病しているのを相談を受けていたことにしました。
明日は休んでください。その後は土日になるので気持ちも少しは落ち着くでしょう」
森元さんに感謝だ。
明日も人の姿の虎徹と一緒に居られる。その後は、……今は考えないようにしよう。
冷蔵庫からペットボトルの水を持ってきて、キャップを開けて虎徹に渡した。
嬉しそうに水を飲む。
そして、二人で布団に入って抱き合った。
次の日も。
土曜日の朝、虎徹は猫の姿で死んでいた。
こんなにゴワゴワの毛だったっけ?死後硬直は終わったみたいで抱き上げるとぐんにゃりとして、手足をバラバラに投げ出して私の腕の中に納まった。
分かっている。短い間だ。
でも、私は泣くのだな。悲しくて淋しくて泣くのだ。
半年後、公園のベンチで子猫を拾う。
ザバトラの猫。白い手袋をしている。そして、虎徹の黄色の中央に緑色の瞳。
ああ。幸せな日々が始まるのだ。
それは7年間だった。
朝、身体が思うように動かなかった。まだ体中が痛い。
昨日、一昨日と泣き過ぎたから。虎徹の死を看取った。その前の二日間は優しいSEXをした。
昨日、頑張って虎徹を荼毘に付したが、遺灰は歴代の虎徹と同じように合同墓地に入れてもらっている。あれから4人の虎徹に出会った。
互いに確認し合ったからか、虎徹の死は早くなっていた。
私も、もう66歳だからな。虎徹の死が身体に堪えるわ。
定年を過ぎても会社でパートとして働かせてもらっているが、趣味が虎徹しかないので、お金はしっかりと貯まっている。
安心して老後は虎徹と暮らしていける。
また半年後に虎徹に出会うから、その時に仕事を辞めよう。
その時は67歳。もう、全部の時間を虎徹だけに捧げよう。
虎徹が死んでから1ケ月後に辞職願をだすが、パートなので大した引継ぎもないかと思ったら、まあまあ面倒とされているものがあって、ちゃんと会社からOKを貰い、退社したのは3ケ月後の事だった。
退社の日には、森元さんが顔を出してくれた。
彼女は、この会社の専務と結婚して戸塚の姓に代わった。時折、菓子を持って顔を見せてくれていた。
その時に「お菓子をいただきました。美味しかったです」とlineをしているが、その少ないやり取りしかない彼女が唯一の親しい人だったかもしれない。
「仕事を辞めてどうするの?」
お互いに年老いたが、彼女は良い歳の取り方をしているのだろう。昔より少し丸みを帯びて柔らかい印象になっている。
私は、偏屈物の顔だろう。
「ひたすら猫を愛します」
瞳に心配の色が見える。
「また、ザバトラの子を迎えるのかしら?」
「ええ。これで最後になるでしょうね」
「その猫って、普通なの?ごめんなさい。少し……縁が強すぎると思って」
優しい言葉を選んでくれている。「気持ち悪い」と言わない事を感謝した。
「そうですね。縁が強すぎると、幸せも不幸も強くなります。
でも、どんなに猫の死を看取ったとしても、禍福は糾える縄のごとし。ですから。
後悔はしていません。そして、子猫を拾ったときの幸せと満ち足りた心は、何物にも捨てがたいです」
「はあ。変わらないわね。あなたを好きな男性もいたのよ。前にセッティングした後に言われたのよ。この間だって、一緒に穏やかな老後を過ごしたいって人、断ったそうじゃないの。
なんで、そこまで猫にこだわるのかしらね?」
「私には猫が全てなんです」
「まったく。仕方がないわね。Lineは消さないでよ。たまには連絡するから、返事をちょうだい」
「ええ。お気遣いをありがとうございます」
「気になるし、心配にもなるわよ。ちゃんと食事をとるのよ!」
私は頭を下げて会社を後にした。
そして、帰り道に公園のベンチで再会をした。
小さな、私の王子様に。
_______________________
6年後
戸塚陽子 旧姓森元
lineの電話が来た。
珍しいことに笹原さんだ。彼女から連絡が来ることは、ほとんどない。
どうしたのかしら。変ね。嬉しくない。嫌な予感がする。怖い。
「もしもし?久しぶりね。笹原さんからの連絡って珍しいわね」
「もしもし、戸塚さんで宜しいでしょうか?」
知らない女性の声だった。
「はい。そうです」
「突然のお電話を失礼いたします。
私は、笹原さんの住んでいるアパートの大家の富岡と申します。
実はですね、笹原さんが昨日亡くなられて、手続きを済ませましてね。空きがありましたので、すぐにはなりますが明日が火葬場での直葬となります」
息をのむ。Lineの内容では最近歳を感じている。くらいしか書いていなかったのに。
「亡くなったんですか?」
「ええ。もう1年くらいガンで緩和ケアだけをされていたそうです。
玄関の扉の開いた状態で亡くなっていて、枕元に手紙がありましてね。本当に何から何までご自身で手配をされていました。
家具も布団以外なくなっていまして、お布団の中でスーツを着られていました。
前日に病院に行かれたとのことで、かかりつけ医の死亡診断書もすぐ取れました。その事も書かれていまして、すぐに死亡診断書をもらえましたので、火葬の手続きも出来ました。
直葬の支払いだけは出来なかったと現金も用意してくださっており、十分にそれで足りました。その後、お寺の無縁仏の永代供養に入られる手続きも済んでおりましたので、直葬の後はお寺さんがお骨を持って行ってくれます。
お手紙には、身寄りも友達もいないから、他に連絡は必要ないとありましたが、携帯電話を見せてもらいまして、戸塚様との交流があったようですので、一応ご連絡をさせていただきました」
「それは、ありがとうございます。あの、参列させていただきます」
「ああ、良かったわ。笹原さんのお顔はとても満足されたような良いお顔でしたよ。
誰もいないのは寂しいと思ったんです。
ただ、お隣の人が昨夜、男の人が笹原さんの部屋からゴミを何往復かして出していたと言っていましたが、それらしき人は見つかりませんでした。
息子さんのような年齢だったそうですが、ボランティアの方とか病院の先生に聞いたのですが、分りませんでしたの」
その後の会話は覚えていない。明日の3時からだというのだけ覚えてはいたが、なんだか色々と考えてしまっていた。この歳になると周りで亡くなる方も出てくる。
でも、笹原さんは、ちょっと特別だった。親しいわけではないのだが、なんだか気になる人だった。
翌日、喪服を着たけれど、一応お香典も用意したが喪主は大家さんなのだろうか。
火葬場は、……直葬の場所は笹原さんの自宅の駅から少し歩く。
公園を抜けよう。天気が良いし。
公園に入って少し歩くと、女子高生が数人困ったようにざわめいていた。
見ると、木製のベンチの下に猫の死骸があった。サバトラの猫だ。痩せているようだから、寿命だろうか。野良猫の命は短いだろうし。
おばさんが、「保健所に連絡をしたよ」と言っているのが聞こえた。
その場を立ち去る。
そうよね。野良猫の死体は保健所が処分するんだった。
振り返ると、おばちゃんが段ボールに猫の死骸を入れていた。
死後硬直して四肢が突っ張っている。死んだばかりなのね。
サバトラの猫。
サバトラの猫。
笹原さんが亡くなったのは昨日。
公園のベンチでサバトラの子猫を拾い続けていた。
その場所で、サバトラの猫が死んでいた。
ねえ。笹原さん。あなた、幸せだったのよね。
直葬から家に帰宅した戸塚さんは、物思いにふけっていた。
「陽子、どうしたんだい?疲れたの?」
優しい夫が聞いてくる。
良い夫だ。息子も二人成人して長男は結婚して孫もいる。
そう。私は幸せな人生を送っている。
でも、それらがなくても、幸せに生きた女性を知っている。
誰にも言えないけれど。想像でしかないけれど。
「少し疲れただけ」
そう伝えた視線の先の空には明るい満月があった。