灰の魔女と雲
駄目だ、まだ心臓がバクバク鳴ってる。
空や景色を見る他にやることがないからすぐに思い出してしまう。彼の唇が私の額に、柔らかくて少しあったかい…………。
ダメダメダメダメダメダメダメ思い出したらダメっっ!!!
軽く頬をぺちぺちと叩き、空を見上げた。どこまでも続く灰色の空を。
―――――あと少しだったのに。
って言ってたけど、何!? あと少しって、まさか、まさか、まさかまさかまさかまさか………唇に…するつもりだったのかな……。
だーかーらー!!! 思い出しちゃ駄目だってば!!
そうだ!
「外郎売りでもやろう」
足を肩幅に開き、スッと立つ。頭の中心が一本の糸に釣る下げられているように、まっすぐと、軽く。
外郎売り、それは滑舌の練習に使われる題材。元は歌舞伎の演目で、劇中の長台詞だけを抜き出して演劇やアナウンサーなど声を仕事とする人たちの避けて通れない練習法だ。江戸商人の言い回しに慣れない且つ早口言葉の連続に舌が付いて来れず、初見でスラスラとは読めない代物。部活動で3年間毎日欠かさず練習をしてきても、絶対的に外郎売りを滑舌良く言えているという自信は全く生まれない。
「拙者親方と申すは―――――」
1回目終了。間髪入れずに2回目開始。
ええと、外郎売りって1回で4分ぐらいだから、1時間後の灰の魔女登場までに何回読めば?
60÷4=15
……………15回? え、多少4分より多いとしても、10回はやらないといけないってこと? それが嫌ならフィンのことを思い出せって? それも嫌だし、どうしたらやる気出るかな。
1番やる気が出る方法…。部活でどんな辛い練習も逃げ出さなかった方法……。
そうか!
上園先生から指示されたことにしよう! うん、それなら逆らう気にはならない!
ぽっぽっ…ぽつぽつぽつぽぽぽザァアアアアアアアアアアア!!!!
急に豪雨!? 濡れないようにと壁際まで避難。待ってよ、あと12回やらないといけないのに。
『森の声質は雨に溶けるように馴染む。本番は雨ではないといいね』
上園先生の言葉を思い出す。今は観客も居ないし本番の舞台じゃないけれど、
負けたくない。
雨に私の声を隠されたくなんかない。
どんな豪雨だろうが雷雨だろうか暴風雨だろうが、私の声を真っ直ぐに貫いてやる。
豪雨を目の前にして外郎売りを読むなんて自分でも狂ってると思う。身体が冷えて風邪でも引いたら稽古に迷惑をかけてしまう。
それでも、私は退かない。
私は今、外郎売りを読む役者として立っているのだから!
「まだ居たのですか!?」
背後から声を荒げながらフィンが来た。途端に真っ白いふわふわのタオルに包まれる。タオルの暖かさに自分がすっかり冷えていた実感が漸く沸いた。
「流石に中に入りましょう。体調を崩しますよ!」
戻りたくない。けれど、戻るしかない。
諦めた気持ちで前髪から雨粒を滴り落としていると、あの音が聞こえてきた。
灰の魔女の金切り音。
「あれが………」
灰色の雲の間から灰の魔女が姿を現した。灰色のドレスを纏い、髪はボリュームがありそうで大きくアップしている。
彼女は仮面を被っていた。トランプのジョーカーのような。縦半分に顔が左右に表情が描かれ、向かって右側は笑った顔、そして左は泣いた顔。彼女が金切り音を降らすことに楽しんでいるようにも見えるし、泣きながら何か訴えているようにも見える。いじめっ子に仕返しをするような、それとも親に構って欲しい愛情不足の子どものような…。
「灰の魔女です。今朝は姿を見せるのが早いですね。それに、こんな豪雨も初めてです。さ、アカリ、中に入って」
フィンに肩をぎゅっと抱かれ、半ば強引に私は城の中へと押し戻された。顔を振り返ると、灰の魔女がこっちを見つめていた。
笑いながら…?
泣きながら…?
「びしょ濡れじゃないですか。いったいこんなになるまで何の呪文を唱えていたのですか」
タオルで拭きながらフィンが心配そうになりながら聞いてくる。
「あの、自分で拭きます」
「すぐに中に戻って来なかった罰です。じっとしていて下さい」
これではシャワー上がりの犬だ。俯きながら拭かれていくのを大人しく待つしかない。
「で、何の呪文だったのですか?」
「呪文? ああ、外郎売りのことかな」
「ういろううり?」
ファンタジーの世界に歌舞伎なんてあるはずがなく、フィンは珍しそうな顔をして覗き込んでくる。
「演劇の基礎練習の1つ。灰の魔女が現れるまで他にやることもないからやっていたの。私の国の短いお話を滑舌良く喋る感じです」
「そうでしたか。アカリは本当に演劇が好きなんですね」
「…………うん」
もっと外郎売り、したかったな。
体育館や教室でやる外郎売りよりも、あんな高くて開放的な場所から出来るなんて贅沢だった。世界に比べて自分なんて小さな存在だけれど、どこまで自分の声が届くのか試したくなる。
「服は流石にタオルでは乾ききれませんね。着替えをしましょう」
そう言うとフィンは構わずにタオルで包んだ私をひょいと抱きかかえた。
「ひゃあ!? お、降ろして! 歩けるから!」
お姫様抱っこなんて恥ずかしい!!
こんなの他の人に見られたらどうすんのよ!!
水越さんに見られたら絶対に冷たくされる。
「風邪でもひかれたら一大事ですからね。常に温めないと」
笑顔で恥ずかしいことを言うばかりで降ろしてくれる気配はない。
「こんなの誰かに見られたら」
「おや、二人きりだったら良かったのですか?」
「ち、ちがっ」
「今城の者たちはウタ様に夢中ですからね。皆してホールに行って歌声を楽しんでいますよ」
「そう…」
そりゃそうだ。水越さんは歌が上手いし、愛嬌もある。世界を救ってくれる聖女様があんなに可愛かったらそりゃ夢中になって追っかけたくもなる。
そんな風に考えていると
「僕は誰に夢中なのか聞きたい?」
フィンが少しいたずらっぽく聞いてきた。
「………やめておく」
「残念」
彼の足音が城内に反響する。窓には豪雨が打ち付けていた。
フィンの方を見ると彼のシルクらしき服が一部色が濃くなっていた。いけない、濡れているんだ。
「あ、本当に降ります。私のせいで濡ちゃう」
「では、アカリが離れると冷えてしまいますね。アカリの温もりで寒さなんて感じませんよ」
こ、この男は………っ!!
言い返せないでいるとフィンが勝ち誇ったようにクスクスと笑い出す。もういい、このまま大人しくしておこう。
「………アカリは、灰の魔女を見て怖くなかったのですか?」
「え?」
「誰もが魔女を見て悲鳴を上げました。振り返ってまで見続けたのはアカリが初めてです」
なるほど。私の世界にはゲームやアニメがあるから魔女を見てもそこまで驚きはしないのかもしれない。コスプレする人だっているし。
「見つけた、って感じだったかな。最初に抱いた感情は」
「なるほど」
「あの仮面を見て……仮面の下の彼女の感情が気になるんです」
「仮面の下の感情……」
彼も視線を窓に向ける。けれども、多量の雨が滝のように流れ落ちるのが見えるだけで、雲の様子さえもわからない。灰の魔女なんてもっと見えない………。
「……貴女の言葉は一つ一つが胸に刺さる。この国の核心を突いているみたいで」
フィンはそう呟くと私の頬に唇でそっと触れた。
ま、また………!?!?
口をぱくぱくしながら目を合わすと、フィンは満足そうに微笑み、そのまま廊下を歩き続けるのだった。
せっかく忘れかけていたのに。




