早朝の雨
「今日ね、たくさん歌のレッスンをしたの! こっちの世界にもグランドピアノに似た楽器があってね、リーガンが、あ、声楽の先生ね、リーガンがみっちり指導をしてくれたの! あんなにいっぱい個別にレッスンを受けられて幸せ! たくさん褒められたし!」
この世界に夜の時間が訪れた。朝と変わらず曇り空は天からの光をまるで全く与えない。星の光も、月の光も。
で、今は興奮冷めやらぬ水越さんがベッドに寝てクッションを抱きながらごろごろと喋っているのを、隣で興奮冷めている私が布団を被りながら聞いている。
「フィンスターニス様にもたくさん聞いてもらえたの! 歌い終える度に拍手もしてくれて、微笑みながら! それでね…………」
拍手か。
本番を終えた時の観客の拍手程心臓を鳴らすものはない。長距離走をしたように息が上がる中、あの拍手が何よりも達成感を湧き上がらせる。厳しい指導で時には投げ出したくなったり、公演を終えたら退部しようと思った時もあったけれど、あの熱い拍手が心臓を動かすの。もう一度舞台に立とうよ、と。
いつの間にか眠っていた。
隣では水越さんが眠っている。
朝なのか夜中なのか…どっちだろう。
でももう一度眠れそうにない、コレは完全に目が覚めたやつだ。
起こさぬ様静かにベッドから降りて着替え、私は部屋を出た。この世界に初めて来た時の花の劇場を目指して。
城内は静まり返っていて、足音一つ聞こえない。私も足音が鳴らぬよう慎重に且つ素早く歩く。暗転中の舞台を歩くように。
劇場に続く扉を開けば金切り音ではない音が迎えた。雨だ。ザァァァポツポツポツポツと自然界のメロディーを奏でる。
『森の声質は雨に溶けるように馴染む。本番は雨ではないといいね』
上園先生から言われた言葉をふと思い出す。1年生の三学期に行われる校内公演の稽古期間に発声練習中に淡々と雨を聞きながら言われたんだ。それまで「声が小さい」「腹の息を最後まで出し切れ」「腹が板チョコになるまで息を吐いて凹ませろ」とダメ出しばかり食らっていたけれど、初めてダメ出し以外で私のことを先生から言われて……。体育館の屋根に打つ雨の音をじっくりと聞いたんだ。私の声、こんな感じなのかなって。
「風邪をひきますよ」
急に背後から声がして振り向くとフィンが立っていた。大きな末広がりの花の傘を持ちながら。
「大丈夫、ギリギリ雨には当たってない」
「そうですか。ここで待っていれば会えるかなと思って来たら先に来ていて驚きました。早起きなんですね」
早朝かそうでないかもわからない。時計も無ければ朝日も見当たらない。軽く肯いてはぐらかした。
「灰の魔女も僕たちと同じぐらいの時間に眠るんです。眠っている間は金切り音が鳴らない」
「もし起きたら姿を見ることが出来るんですか?」
フィンは少し驚いた顔をした。
「見たいんですか?」
「はい」
彼は腕を組んで考え、
「1時間後ぐらいに姿を現すと思います。普段は雲の中に身を潜めていますが、朝だけ姿を現すことがありますよ」
不安そうな顔をしながらも教えてくれた。
「わかりました。教えてくれてありがとうございます」
「何をするつもりですか?」
「見るだけですよ?」
「あまり危険なことはしないで下さいね。ほら、今だって寒いでしょう?」
そう言うとフィンは私の後ろの腰をぐいっと押して彼がさす傘の下に引き寄せた。これでは……軽く抱かれている気が……。
「さっき、一人で何か考え事をしていたのですか?」
この状態のまま会話しなきゃいけないの!?
離れたい気もするけれど、離れ難い。
「演劇部のことを思い出していたんです」
「やっぱり」
クスッと彼の品の良い笑い声が聞こえる。
「雨を見つめる後ろ姿が背筋がスッと伸びていてそれていて自然体で美しかったから、どうりでね」
後ろ姿が美しいって何!?
「お、王子様が一般人にこんな勘違いされそうなことを安々として良いんですか…っ」
「ん、どういうことですか?」
声色が本当に理解出来なかったような雰囲気だった。
「王子様って婚約者とか結婚相手だとか政治的な意味で決められたりするし、軽々しく他の女性に触れたらアウトなんじゃないんですか」
それに王子様の恋の相手なんて特別な女性だ。お姫様や、はたまた聖女。私なんかのような特別な取り柄のないもなければ美人じゃない女子なんか本気で相手にするわけがない。
「軽々しくなんて思ってないですよ」
彼へと引き寄せる力がぐっと強くなった。もっと身体が彼と密着してしまう。心臓の音が伝わってしまいそう……。
「この国では王族も国民も結婚相手は自分の意志で決めるのです。政略結婚などありません。王の座も王族であれば誰でも引き継ぐことも出来ます」
彼の顔がぐっと近付いて来る。
芝居で人工呼吸するシーンとかやったことあるけれど、それは女同士だったし、いや役としては男女だから異性同士か? いやいやいや、やっぱりあれは女同士だ。
男性とこんなに距離が近くなると、心臓が……こんなに跳ね上がるなんて………。
「僕の意志で触れたいと思う女性にしか触れませんよ」
近い近い近い近い近い近い近い近い!!!!
でも逃げられない。
プラチナブロンドの髪がサラッと垂れ、彼のダークブルーの瞳に吸い込まれそう…。
「フィンスターニス様ぁぁ!?」
声が城内から聞こえてきて、彼が迫って来るのが止まった。
「ほらほらほらほら呼んでますよ!!!」
「…………あと少しだったのに」
ちゅ。
満足そうに微笑む顔を見せたと思ったら平然と彼は城の中へと入って行った。
額に手を当てながらへなへなとしゃがみ込む。
唇が………あんなにあったかいのか……。いや、思い出すのはやめよう、生々しい。
拍手以外でこんなに心臓が熱く打つなんて、初めて知った。