1-1:ようこそ、カレンプロへ
新藤衣瑠夏が渋谷ハチ公前でアイドルにスカウトされた翌日。
初日は、クラリス・クラリスによって異世界案内をされた。少し中世に似た街並みになっている。だけど、生活習慣などは衣瑠夏がいた地球と大きく変わることはなさそうだった。子供達の笑い声、馬車の足音、噴水の水しぶき、道行く人の談笑、獣たち野の鳴き声、そしてかすかに聞こえてくるのは奏でられる音楽と歌声を聞くと異世界だろうと衣瑠夏の心は安らぎに包まれていく。
異世界案内後はクラリスが用意してくれたホテルに行き、休息をとった。
そして、一夜明けた今、
「ようこそ、カレンプロへ。新藤衣瑠夏ちゃん」
衣瑠夏はクラリス・クラリスに案内され、今日から彼女が所属する事になるカレン・プロの事務所へとやってきていた。
四階建てとなるカレン・プロの事務所。
その最上階へと案内された衣瑠夏は社長室へと通された。
カレン・プロの社長は口ひげが似合うダンディーな男性だった。これからカレン・プロの一員となる衣瑠夏に優しい口調で事務所との契約内容を説明してくれた。
アイドルとして活動していくのは当然だが、アイドル活動とは別に特記すべき内容としては、アイドルとしての活動以外に、カレン・プロが経営する飲食店『キサラギ・ステーション』のスタッフとして雇われることがある。
これは売れない新人時代のアイドル達の生活を少しでも安定させるために、カレン・プロがアイドル以外の働き場を提供させたいと始めたことらしい。
四階建て事務所の一階と二階が、飲食店『キサラギ・ステーション』となっている。
アイドル活動の給料とは別に、バイトとして時給制で働いた分だけ収入が入ってくる。
事務所経営だから、シフトの調整が簡単だし、何より渋谷ハチ公前でスカウトされて、いきなり異世界にやってきた衣瑠夏は、まさに無一文状態である。
アイドルになっても、すぐに稼げる保証もない中、カレン・プロからの提案はまさに渡りに船だ。
もちろん、アイドル契約以外にもキサラギ・ステーションでのバイト契約も結ぶことにした。
住居もカレン・プロが提供してくる寮に入ることが決まったし、なんとか生きていけそうな算段が立ってきた。
「それでは、新藤衣瑠夏君。これから、カレン・プロの家族としてよろしく頼むよ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたしますね」
十数枚に及ぶ契約書全てにサインを終えた衣瑠夏は、カレン・プロの社長と熱い握手を交わし合った。
こうして、新藤衣瑠夏はアイドルとしての第一歩を踏み出した。
社長室を出たら、事務所の大広間に繋がっている。
普段はアイドル達がこの大広間に集まって今後の予定を確認したり、時には談笑で盛り上がっているらしいが、今日は珍しく誰もいない。
大広間を抜けるとその先には執務スペースが設置されている。
合計で三つある机の一つに、今日も鮮やかな金髪をツーテールにまとめている彼女が座っていた。
「お疲れ様、クラリスちゃん。契約終わったよ。ねえ、社長さんにも言われんだけど、これからキサラギ・ステーションの方にも挨拶したいの。どう行けば良いのかな?」
「それならクラリスにお任せだよ。店長からシフトリーダー、メンバーの一人一人まで、衣瑠夏ちゃんのこと紹介してあげますよ」
クラリスに手を引かれ、事務所を出る。
階段を二人で駆け下りて、カレン・プロ事務所の一、二階に併設されているアイドル経営喫茶店、キサラギ・ステーションの扉を開いた。
まず案内されたのは一階であった。
見た目は普通の喫茶店と何ら変わりない。
だが、アイドル候補生やすでにアイドルとして活躍しているメンバーがウェーターをしているため、店員は皆、容姿端麗。
誰もがお客さんから注文を取りながらも、笑顔を絶やすことがない。
「さあさあ、衣瑠夏ちゃん。まずは、スキュワーレに挨拶しに行かないといけないよね」
立ち尽くす衣瑠夏の手を引きながら、クラリスは店内を突き進んでいく。
カレン・プロの社員だけあって、顔なじみの店員も多いのだろう。
すれ違うウェーターに明るく声を掛けながら、従業員専用ドアを開け、クラリスは衣瑠夏を招いていく。
「さあさあ、衣瑠夏ちゃん。ここが、キサラギ・ステーションの店長室。ねえ、入るよ。スキュワーレ」
金髪ツインテールの彼女はドアをノックしながらも、向こうからの返事を待たず扉を開いた。
ドアの向こうには大きめの執務机があり、その前に二人掛けのソファーが小テーブルを挟み込む形で設置されていた。
執務机に座って明細書とにらめっこをしていた美女が、視線を上げた。
吸い込まれそうに澄んだ翡翠色の瞳が衣瑠夏を見てくる。
そのあまりの美しさに射貫かれてしまかったかのように、体が硬直してしまう。
「その子が、クラリスがスカウトしてきた新人?」
翡翠色の瞳を持つ彼女が発したのは、女性にしては低音でしゃがれた声だった。澄んだ瞳と声のギャップは、一度声を聞けばもう忘れられないとさえ思えてしまう。
「そうだよ、そうだよ。新藤衣瑠夏ちゃん、可愛い女の子でしょう」
「ええ、可愛いわね。でも、クラリスがスカウトしたのだから、当然それだけではないでしょう?」
「うん。衣瑠夏ちゃんを一目見た時、ユカナに似た魅力を感じたんだよね」
「それはやめて欲しい所ね。ユカナみたいなアイドル馬鹿は一人で十分よ。でも、騒がしい毎日は嫌いじゃないから、あなたが来てくれた事で、今以上に騒がしい毎日が期待できそうね」
澄んだ翡翠色の瞳を持つ彼女は、独特なしゃがれた声を発しながら衣瑠夏に手を差し出した。
「ようこそ、キサラギ・ステーションへ。自分は、スキュワーレ・ササマよ。アイドル兼任しながら、ここの店長をしているわ。つまり、アイドルとなったあなたの上司であり、ライバルね。これから、よろしく頼むわよ。新藤衣瑠夏」
かくして、渋谷ハチ公前でアイドルにスカウトされ、異世界にやってきた、新藤衣瑠夏の騒がしい毎日が始まっていた。
一週間のうち、三日はアイドル見習いとして歌やダンスのレッスンを行い、三日はキサラギ・ステーションでウェーターとして働き、一日は休日に充てるというスケジュールが組まれている。
衣瑠夏がまず取り組んだことは歌を覚えること。
異世界からやってきた衣瑠夏は、この世界の歌謡曲に対して圧倒的に知識が足りなかった。
キサラギ・ステーション、通称キラステで働いている間も、隙あらばBGMとして流れてくる歌に耳を傾けた。
レッスンも歌唱を重点的に鍛えるようクラリスにお願いして、一曲でも多く歌えるように毎日を過ごしている。
そして、アイドル見習いとしてカレン・プロに所属してから約一ヶ月が経った。
衣瑠夏はスキュワーレに店長室に呼び出され、しゃがれた声で宣言された。
「新藤衣瑠夏。一週間後、キサラギ・ステーションの店内イベントでやるステージにあなたも立ってもらうわ。しっかりと準備なさい」