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Ep.0-1 巡る黄金

 名も無い砂漠の街。雑多に立ち並び、道を狭める露店の軒下では、商人達が大声を張り上げている。

「さあ寄った寄った。豆は砂漠越えに欠かせない栄養源! 干し空豆、ヒヨコ豆やらレンズ豆。ピスタチオなんかはいかがかな」

「毛皮だ毛皮だ。牛の毛皮に羊の毛皮と選り取り見取り。砂漠の夜は良く冷える!」

「こっちへ来て見て御覧なさい。折角の水も入れ物が無くっちゃあ意味が無い。その上この壺、ちっとやそっと殴ったくらいじゃあ割れやしない」

 皆汗を拭う間も惜しんで、声を嗄らして喚いている。

 しかしその中にたった一人、椅子に腰掛け踏ん反り返り、固く突き出た腹を見せびらかして、声一つ発しない商人が居る。一時の休憩ならばいざ知らず、この巨漢の商人は、一日中をそうして過ごしていた。売り物は真っ赤に熟した林檎。艶やかに日の光を照り返す瑞々しい果実は、砂漠にあって貴重なもの。黙っていても売れるのだ。

 ただ商人は、声を立てぬ代わりに、じっと目を見張っていた。

 そんな様子を知ってか知らずか、荷台の陰からそっと伸びる手が、林檎を一つ掴んでは素早く引っ込み、また一つ掴みを繰り返していた。

 そうして積み上げられた山の下から盗んでいけば、いつか崩れるのが自然。ごろごろと道端に転げ出る林檎を見て、商人は飛び上がった。

「てンめえ、盗人野郎!」

「ヤベッ」


 整然と並べられた白い布が、晴天の下、風に揺れる。洗い立ての敷物や下着。

「ごめんなさいね、手伝わせてしまって。あら、まあ……」

 炊事場から顔を出した女は、皺を伸ばしてきちんと干された洗濯物を見て、感心した声を出す。

「慣れたものね」

「それはもう。何せ、もう十年ですからね」

 そう答える男の右袖は、通すもの無く翻る。

「左腕一本で出来ない事を探す方が大変ですよ」

 言っておどけた笑みを向ける男に、女はふっくらと丸みを帯びた頬を弛ませた。

「そうね。良く知ってる」

 二人の擽り合う様な会話を邪魔するのは、何処か遠くから響く声だ。

「ギルベルト! ギルベルト、何処に居る!!」

「おやおや。もう御仕事を放り投げてしまった様子で」

 わざとらしい溜息。その所作さえこの十年、いや、それより以前から慣れている。

「すみませんが、ハンナ、少し待っていて貰えますか」

「ええ、構わないわ。もう十年も待っているもの。へっちゃらよ」

「はは。ではせめて、あの手の掛かる坊ちゃんが独り立ち出来るまでは」

 それでは、と言い残したギルベルトの背中を見送って、ハンナはくすくすと笑った。

「あと何年待てば良いのかしらね」


 ぶつぶつと呟きながら部屋の中をうろうろと歩き回って、もう二十周。仮説を立てては崩し、理論に当て嵌めては否定し。研究に行き詰まった時の癖だった。そうなってしまうと、恋人が戸を叩く音も聞こえない。

 あっと思い付いて、机に向かう。だが筆を取ってから、発想を走り書きする前に、その手がぴたりと止まる。机の片端に置いた一冊の本を見詰めてから、フ、と吹き出した。

 まるで兄の様だと思った。

 それから漸く昼食の時間だと気付き、慌てて部屋を出る。その時、開けた扉が恋人の額にぶつかった。

「痛ッ! 痛いじゃないの、ロマン!!」

「あ……ご、ごめん」

 苦笑いで眼鏡がずり落ちた。


 老人は病室の窓から外を眺めていた。続く瓦屋根、透き通る空、聳え立つ城の灰色な壁面。腰を据えた椅子は、凭れると軋む。

「横になっていた方が宜しいかと」

 医者が老人の白髪頭を見ながら言った。

「座っている方が楽なんだ」

「左様ですか」

 毎日同じ様に繰り返される会話。十年も前、老人が公爵の座を退いてからずっとだ。

「明日も晴れるな」

 老人は呟く様に言う。南から吹く風が、薄い雲をゆっくりと、穏やかに流して行く。

 医者の目に、老人の身体は小さく、寂しげに見えた。

「弟にまた会えたよ」

 唐突に言った。

「あいつめ、儂に向かって笑いおった」

 心なしか楽しげな口振りで、肩を震わした。医者は言う。

「……明日は昼寝でもなさったらいかがです? ゆっくりと」

「それは名案」

 節の立った指が肘掛けを撫でた。

「この椅子は良いなあ」


 真昼間から喧騒に満ちた酒場。乾杯の声に、ちょっとした諍い。男達が囲むのは、この日狩られた熊肉を煮る鍋だ。

 酒場の隅で、ちびりちびりと酒を嘗める青年が居る。彼はこの酒盛りの主役のはずだった。山を下りては畑を荒らし、時として人を襲う大熊を狩ったのは、彼である。しかし村人達は村人達で勝手に盛り上がり、彼の事など忘れられていた。それで良いと、青年は思う。

「おかわりは良いのかい?」

 青年に声を掛けたのは、年の頃が十と幾つかの少年だった。

「食わないと無くなっちまうよ」

 青年は首を横に振った。

「僕は良い。余所者がしゃしゃり出て興醒めさせる必要は無いよ」

 遠慮でも謙虚でもなしに、言う。

「何言ってんだよ。あんた、英雄なんだぜ?」

「英雄?」

 ハッ、と鼻で笑う。

「もし英雄に憧れてるなら、やめた方が良い。英雄なんてろくなものじゃないよ」

 たぶんね、と付け加えて、一口に酒を煽る。酒に弱いのは十年来変わらない体質。途端に突っ伏して昏倒してしまった。


「隙あり!」

 そう叫んだ男児が鷲掴みにしたものは、その手より大きく、柔らかい。女は乳房に触れられた事よりも、思わずきゃあと悲鳴を上げた事に恥じらい、赤面して両腕を振り上げた。

「この悪餓鬼ッ!」

「これで五回目だ」

 勝ち誇った嬌声を上げながら、風の様に逃げ去っていった。

「もう許さん! 二度と許さん! 飯抜きだ!!」

 上気する顔を冷やそうと、左に眼帯をした顔に触れる。

「まあ、また怖い顔して。子供のする事じゃない。あのくらいの歳の子は仕方無いわ。そう目くじら立てないの」

 若い娘が顔を綻ばせて言う。

「ああいうのはいけない。絶対駄目だ!」

「はいはい。そういう事言わない。きっと寂しいのよ、あの子は」

 逃げた子供は幼くして親を亡くした。神殿に集められた子供達は、皆そうだ。かつての荒んだ世界で親に死なれた孤児達。神殿は巫女を立てなくなって久しく、引き取り手の無い子供や奴隷解放で行き場を失った子供らを保護する内に、いつの間にやら孤児院の様相を呈する様になっていた。

「わたしはスケグル、戦乙女だ! こんな子育てなど……!!」

 言い掛けて、ふと、物陰から様子を窺う視線に気が付いた。先程の男児が、スケグルの怒鳴り声を聞いて、恐る恐る、申し訳無さそうにしている。

 娘がスケグルの顔を覗き込む。

「あれえ? 言ってる割にはまんざらでも無さそうな顔してるけど」

 スケグルの顔がまた一気に紅色に染まった。


 積み木を積む。崩す。また積む。また崩す。

「何を苛々していらっしゃいますか」

「文字を書くのは好かん! 指が疲れる」

 彼に与えられた仕事。輸出入の台帳にいちいち署名するのだが、その数は僅か六である。アーデル・フォン・ヘイデンと二度書いた所で、嫌になった様だ。

「はあ、全く……旦那様、大事な御仕事で御座いますよ」

 ヘイデンが再び国として再建を果たそうという所だ。財源である資材や農作物の輸出を管理するのはギルベルトの仕事だが、アーデルの署名が済まなければ、先へ進めない。

「放り投げるとは何事です」

「う……」

 ぴしゃりと叱り付けられて、アーデルは怯む。幼少期の生活の所為で、二十歳を過ぎてもまだ子供だった。

 幾度か唸った後、現実から逃れる様に床に寝そべった。

「……あーあ。ボクはいつまで待てば良いのかな」

「またそんな事を言って……」

「ずっとだ! ずっとだぞ! ボクはずっと待ってるんだ!!」

 手脚をじたばたと振る。

「……戻られたら遊び呆ける御つもりでしょうが、そうは参りませんよ」

 ギルベルトが冷たい目線を送りながらそう言うと、アーデルはむくりと起き上がった。

「何を言ってるんだ。遊ぶに決まってる」

 さも当然と言い切る。

「ボク達は友達だからな!」

 ニッと破顔するのを見て、ギルベルトは深い溜息を吐いた。

「……紅茶をお入れしましょう。それと、ハンナがトルテを焼いてくれました。お召し上がりになりますか?」

「勿論だ!!」

「では署名が終わり次第、御持ち致しましょう」

 苦いものの混じった笑い。厳しく接しているつもりでも、何処かで甘やかしてしまう。親代わりというのはなかなか上手くいかない役所である。


 女はテーブルに頬杖を突き、深い嘆息を吐いた。港の酒場などというのは、昼間の内はがらんどうである。店を閉めてしまえば良いものだが、さりとて、そうした所で暇を持て余すのは目に見える。

 そろそろ良い男の一人や二人、現れてくれはしないものだろうか。女は何と無しに思う。男臭い船乗り共は好かない。商いをする守銭奴とは傍に居たくもない。例えば子供の様な悪戯っぽい笑みを浮かべて、気の利いた口説き文句を口に出来る、ほっそりとした男ならば、良い。十年程前から理想は高くなってしまった。

 一晩限りの男を思い続ける程、感傷的な女ではないつもりだが、しかしどうしても比べてしまう。男選びは一生の事。妥協せず比較し続けていたら、いつの間にやら年増女の仲間入りである。

 再び溜息を漏らした。


 走り回る我が子を眺めながら、男の方からそっと女に寄り添ってみる。長椅子の端から落ちかける程まで、それを避けた。

「何だよぅ。良いじゃない」

「うざったい」

 十年も一緒に居て、いつまでも恋人気分というのはどうかと、女は思う。

 だって、と男は口を尖らせた。

「好きなんだもん」

 子供の様な物言い。

「馬鹿言ってんじゃないよ」

 口ではそう冷たくあしらうが、夫のそういう所、嫌いではなかった。

「死ぬまで一緒に居ようよ、スィベル」

「死ぬ時はアンタが先ね、オスマン」

 酷な返しをされてオスマンは、うふ、と笑壺に入る。それからスィベルの手を握った。

 スィベルは何も言わず、何気無く、指を絡めた。

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