Ep.28-2 黄金の神話
手の甲に、ぽつりと染みが浮いている。水で濯いでも、石で擦っても落ちなかった。きっと血の染みだ。
生まれて初めて人を斬った。
国王に仕えて数ヶ月目のある日、王が隣国の姫君を娶る際、護衛の一として輿に付いた。その道々、賊が襲い掛かったのだ。
雨の様に降り注ぐ矢。次々に倒れる仲間達。斬り掛かる男達。一心不乱に斬り返す。
気が付けば、独りだった。仲間も賊も皆地に伏していた。たった独り、姫君を守り抜いていた。怯えた姫君を背中に担ぎ、帰国の途へ就いた。
噂に聞くには、賊らは姫の輿入れを拒む隣国の民。余程慕われた姫だったのだろう、政略結婚を良しとしなかったそうである。
「ありがとう」
担いだ姫君の囁いた言葉が、思い返す度に胸を突いた。
槍を手に佇む。ただひたすらに立ち尽くす。それが仕事だった。不名誉な栄誉が与えられ、王妃となった姫君の守衛として登用されて以来、ただ立っている事が仕事になった。
呆然としているだけで禄を食む。ひとは羨むが、喜ばしい事ではなかった。
しんと静まり返った夜、不意に呼ばれ、王妃の部屋に入る。
あられもない姿の王妃が居た。一糸纏わず寝台に横たわり、枕に肘を突いてこちらを見る。
「こち来や」
蝋燭の火にぬらりと照らされた四肢がうねる。
「御戯れを」
「この姿、戯れと思うか」
王妃は笑い、寝台から降り立った。恥部を隠さず、ひたりと歩み寄って、胸に寄り添う。
「妾も女。素肌を見せれば恥じもしよう。だが好いた男の前では別」
胸当ての上を白い指先が這い回り、隙間を見付けては忍び込む。
「抱いてたも。あの日あの時から、妾の中にはそちしか居らぬ。そちの子を孕みたい。あれは初夜より役立たず。妾は寂しい」
抱いてたも、と二度請い囁いてから、耳に歯が立てられる。
ぞわりと全身を駆け抜けるのは、嫌悪感か、或いはそれに似た感情だった。
思い出すのは、故国に残してきた彼女の事。純粋無垢、穢れを知らぬ乙女。
抱いた。感触は無く、声は聞こえず、無我夢中、彼女の像を穢していく。
手の甲の染みがじわりと広がるのが見えた。
姫の誕生に、祝いは無かった。御生誕の知らせは何処にも流れず、知るのは守衛や産婆らのみである。産後の養生で暇を預かった。
数日の後、王より謁見の間に呼び付けられた。王は玉座に頬杖を突き、じっとりとした目で見下ろしている。
「貴様の勲功、聞き及んでいる」
平坦な口調。王は唐突に言った。
「貴様を将軍に任命する」
「は……?」
意外だった。功績など、後の妃を守護したというたったそれだけの事である。これは何の悪戯かと疑った。
「よって、将軍の印として、貴様に鎧を授ける」
手で侍女達に合図すると、傍らの鎧に掛けられた覆いが、さっと除けられた。
黄金の甲冑が立っていた。龍と獅子の意匠は、まさに威風堂々。
「近くで良っく見るが良い」
「は……」
まだ信じられずにいた。言われるがまま立ち上がり、鎧に歩み寄る。
「この様なものを……恐れ多く」
豪華絢爛の甲冑を前に、手が震える。
「見事な細工であろう。だが、最も見事なのは背だ」
「は」
ぐるりと回り込み、背甲を見る。その瞬間、総毛立った。
顔があった。人間の顔だ。苦悶に歪み、凍り付いた顔。それも、王妃の顔に瓜二つ。
「子が生まれてな。その子というのが、また面白い。触れたものを金に変じさせてしまうのだ。生まれ出た時にもいくらか女を金にしてしまってな……」
神の力というものらしいな、と言う王の声が耳の中に滑り込んでくる。全身を脂汗が滲んだ。
「確かその女、貴様が随分と世話をした女だ。憐れに思ってな、いつでも添うて居られる様、鋳つぶして鎧にしてやったわ。どうだ。気に入っただろう」
肩を揺らして笑う。
がくりと膝が折れた。
「……あ、有り難き、幸せに……」
ぞわぞわと、何かが腕を駆け上った。
「将軍。初めての任を授けよう」
「は」
忌まわしい鎧を纏い、王と再び対峙し、跪く。
「どうやら不埒な行いをする国があってな、これを成敗したい」
「不埒な行い……で御座いますか」
「左様。どうやら麻薬を密かに我が国へ持ち込んでいる様だ。しかも調査に向かわせた兵を嬲り殺しにしたらしい」
それは、聞いていない。もし他国へ派兵したならば、知らぬはずが無い。
嘘だ。
「……その国というのは」
「何。取るに足らぬ小国だ。確か……」
王はにたりと邪悪な笑みを浮かべた。
「……ヘイデンと言ったか」
一体何をしている。数百の兵を従えて、一体何処へ、何をしに向かう。
解っている。解っているのだ。
これは侵略。これは虐殺。これは死よりも重い刑罰。
首を吊る縄を己で結べと言うのと同じか。磔刑の十字を自ら組み槍を研げと言うのと同じか。いや、違う。
この手で故国を滅ぼせと言う。愛した者をこの手に掛けろと言う。嫉妬に狂わせた罪を贖えと言う、何よりも非情な罰。
抗う事も出来ず、堕落へと向かう馬に揺られる。
「おや、将軍殿下。顔色が優れませんな」
ベックマンが言う。何も知らぬ肥えた男爵。兜で顔を隠した。
突き倒される男。燃え上がる女。踏み散らされる子供。見ている事しか出来ない。
打ち崩される生家。黙って見ている事しか出来ない。
愛した女の住む家が、瓦礫へと変わる。ただ、見ているしかない。
闇の中へ堕ちていく。どろりとした底なしの沼に、沈んでいく。
頭痛がする。どす黒く暗き蛇に締め付けられる。
膨れ上がる。
雷鳴。黒い稲妻。
私は狂ってしまった。狂ってしまった私の怒りが、遣り場の無い悲しみが、雷土となって放たれる。兵達を消し飛ばしていく。
何もかもを失った私は、何を考える事も無く、彼女の姿を探した。瓦礫を掻き分け、その亡骸を求めた。
彼女は居なかった。私の狂気が、彼女さえも消してしまった。
この身体に備わった力も神の力と呼ぶのなら、邪神だろう。
嘆き。呪い。あらゆる叫びが慟哭となる。
瓦礫の合間に、小さな手を見付けた。白詰草の花を握り締めた、小さな手。瓦礫の下にあって、雷土に晒されて、確かに生きた手。
抱き上げた子は、確かに彼女の子だった。彼女に出来なかった分、その黒髪を強く抱き締めた。
その時、私の身体を這い回る罪が蠢くのを感じる。
悟ってしまった。この罪は悲哀。本来持つべき者に移ろうとしているのだと。世界の悲しみを背負う者に、帰ろうとしている。
死ぬつもりだった。彼女の子に託した悲しみで、この身を滅ぼすつもりだった。与えられたのが忌むべき神の力ならば、力を真の神に返し、その力の元に死そうと。しかしそれさえ適わない。身体中の戒めは、死を許さなかった。
まだ役目があるのだろう。そう思った。
待たなければならない。神が、神となるその日まで。私の役目は、それを見届け、人身御供になる事だ。そう確信した。
邪なる神は、正統なる神に滅ぼされるべきなのだ。
鎧を脱ぎ、代わりに包帯で身体を隠し、傷病兵に紛れて、帝国に忍び入った。
そして初めて出会った。私の――。
「もう良い」
不意に、ミダは現在へ呼び戻された。
「もう傷付けるなよ」
ミダの手と触れる男の手、そして交わるもう一つの手。
ミダが二度と触れられぬと思っていた手だ。
「十分だ。念願は叶っただろう? 夢想は現実になっただろう? だから、ただ一つくらい、思うままにならない事があっても良いはずだ」
黒髪。呪いを這わせた顔貌。黄金の籠手。
「偽物の神として死ぬつもりだったんだろうが、そうはさせない」
人間であり続ける事に固執する剰り、己を見失ったはずの男。雷雲と共に再び現れた男。
「貴様は死なせない」
「エ……」
ミダの目から涙がぽとりと零れ落ちる。
「エス……!」
エスの手がミダと男とに触れている。男の言に従うのなら、神の力を統べる力が、黄金の指先を封じ込み、雪崩の如く押し寄せる記憶を堰き止めていた。
「……哀れむか、私を」
「違う」
エスは男がミダの手首を掴むのを引き剥がしながら、毅然と言い放った。
「貴様は許さない。これは仕返しだ。俺を人間で居られなくした、貴様への」
奥歯を軋ませて、男を睨む。
「俺も人間として死にたかった」
人間としての生を取り戻す――それは、神の力、雷の力を元の持ち主に返し、人間に立ち戻り、死ぬ事だった。つまりは、死ぬ為の旅だった。
あの日あの時、人の子として死ねたならば、罪悪に身を苛まれる事も無かっただろう。人を棄てる事も無かっただろう。
復讐ではなく、人生の未来を手に入れる為でもなく、ただ、死を渇望してこの地を目指してきた。
だがもう死は適わない。人間としての生さえ奪われた。愛した者との再会で一度は掴みかけた人間の一生をも、また取り上げられてしまった。
エスも男の過去を垣間見た。かと言って、許す事は出来ない。許せるはずが無い。だから、
「貴様は、神を騙った愚者として、狂人として生きろ。咎は受けるべきだ」
死は男の願望。慰め。ならば、エスがそうされた様に死を奪う事が、最大の報復である。
フ、と男は笑う。続け様の呵々。
「ハハ、ハ、ハハハ……!」
「何が可笑しい」
「……手遅れだよ。今更と言うものだ、それは」
言うや、黄金に侵された左腕を自ら掴み、ぐっと力を込めると、一息に引き千切った。
どばりと溢れ出したのは、血ではなく、闇だった。塗り潰された黒の、液体でも気体でもない、闇。止まる事を知らず流れる闇が、床が放つ黄金の輝きを覆い隠し、エスとミダの足元にまで広がった。
「何だこれは! 貴様は何だ!!」
「化け物だよ、エス。『ただの化け物』だ。身体は朽ち果てても尚生き長らえ、この闇を意志の媒介とした、怪物だ」
どうやら一筋縄ではいかないらしい。エスは舌打ちする。
その時、エスの後ろからミダが叫び声を上げた。




