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Ep.28-1 黄金の神話

 肩を上下に揺らしながら、呼吸を整える。眼前にそそり立つ扉の向こうに、皇帝は居るはずだ。遂に辿り着いた。エスの目指した場所に、ミダ一人が臨む。

 憎き父親と再会した時、何を言うべきか。ミダはもう決めている。その言葉を投げ掛けた時、皇帝は何の感慨も持たないだろう。だが、意義はある。ミダにとっては、自らその口で告げなければいけない言葉なのだ。

 落ち着いてから、扉に両手を押し当てる。ぐっと力を込めると、まるで内側から手助けがあるかの様に、難無く開かれていく。

 間近に聞こえる雷鳴と共に、閃光が溢れる。

「漸く来たか」

 くぐもった声がミダを出迎えた。玉座に座した皇帝。

 しかし、仮面の姿ではない。全身に龍の如き鱗が這う、黄金の甲冑を纏った武人の装束である。顔面を覆い隠す兜は荒ぶる獅子の意匠。赤のたてがみは戦意の象徴か。

 総身を黄金に包まれているが、ただ一点、左腕の籠手だけは、錆の浮いた鉄製だった。その様式にはミダも見覚えがある。エスの籠手と同一だ。

「残念だ。残念でならない。彼に手を引かれて現れるものと思っていた」

「……あいつは諦めちまった」

 繋いだその手はエスから放された。約束は果たされず、結束は解けてしまった。

「でも、エスはここに居る。今でも一緒だ」

 ミダは自らの胸を叩く。エスは未だミダの心の中に留まっているのだ。だから、ミダは独りでもここへ来られた。

「そうか。『その悲しみ』は、もう君のものになったのか。それも良い」

 皇帝は兜の内で、フ、と含み笑いを零した。

「では何故ここまで来た。目的を無くして尚私に会いに来る意味は何だ」

「オレはオレの意志で来た。あいつから貰った信念を貫く為に来た」

 ミダは下ろした手に拳を作り、真っ直ぐに皇帝を睨んで言い切る。

「オレは、もうあんたの道具じゃない。誰かの為の神様なんかじゃない。オレは、人間だ!」

 ありったけの声で叫ぶ。言葉が届かなくても良い。ただ意志を示す。それだけに意味があった。

 皇帝は声を立てて笑う。

「良い。良い言葉だ。とっても素敵だ、ミダ。君は素敵なものを貰ったな」

 ハハ、と顎を上げ、肩を揺らして笑う。

 その口振り、その所作に、ミダは眉根を寄せた。

「……あんた、誰だ」

 ミダの知っている皇帝、我が娘を道具としてしか見なかった父親の姿と、今対峙した男の印象とが食い違う。

 皇帝は冷たい男だった。笑う事は無く、全てを蔑む目付きをし、端々に冷酷さを見せる言葉遣いをする男だった。だが、今の皇帝には、それを感じない。笑い声は朗々として邪気が無く、表情は見えず目さえ窺い知れないが、ミダに向けられる視線、言葉付きは柔らかく、どこか温かみさえ覚えてしまう。

 違う。ミダは直感した。

「あんたは偽モンだ。本物は何処だ! オレの親父は何処に隠れてる?!」

 紛い物の神の紛い物。そんなものと言葉を交わした所で、何の意味も無い。だが偽りの皇帝は言う。

「いいや、私こそ皇帝だ。この場に胡座をかき、世界を我が物にしたと自惚れ、身の丈に合わぬ神を演じるのが、この私」

 諧謔的な台詞は、自嘲でも自虐でもなく、何処か他人事の様である。

「君の言う男なら、死んだよ。君が道具を脱してすぐの事だ」

「な……ッ」

 ミダは言葉を失った。

「私が殺した。あの馬鹿で愚かで、神の力を己の権力と違えた男は、この手で葬り去った」

 唖然。愕然。男の言葉を俄に信じる事が出来なかった。

 もし男の言う事が真実ならば、一体何を目指していたのか。エスの悲しみは、決意は、何だったのか。全てが解らなくなる。目眩がする程の絶望感に襲われた。

「嘘だと思うか。全てが無駄だったと思うか」

 ミダを見透かした様に言った。

「だが私には無駄ではなかった。待っていたのだ、君を」

 男は立ち上がり、マントを翻しながら、段を降りる。

「エス・ライト……彼は真の神となるべき存在だ。力を統べ、闇を束ねる唯一無二の存在。世界の悲しみを一身に受ける神」

 そして君は、とミダを指差す。

「君は光だ、ミダ。絶望の闇を打ち払い、世界に光をもたらす存在。光そのもの。この世にあって祈りを捧げる、先導者たる預言者、神話の証言者」

 そして私は、つ両腕を広げる。

「神を偽る邪なる支配者。欲、罪悪の象徴。踏破されるべき悪」

「……何を……」

「彼は今や神となった。砂漠で貧しき民を救い、異教徒らに怒り、邪悪に天罰を与え、炎に身を投じて火傷一つ負わず、死すら超越し、死を嘆き、雷土と共に現れ、稲妻と共に去る。彼の足跡は各地に残り、その行為は伝説となる。そして伝説は神話へ……」

 男が語るのは、エスとミダの旅路、その物語。

「……あんたは誰だ。一体何なんだ!」

 ミダは叫ぶ。男は答える代わりに、

「私は信託者。私は宣教者。私は殉教者。神の系譜を紡ぎ、神の意志を伝え、神の元に滅びる」

 呪文の様に唱える。

「私を滅ぼすのは、ミダ、君の役目だ。君にしか出来ない」

 ミダに歩み寄り、左手を差し出す。

「彼と同じく、死ねない身体だ。だが私は神ではない。彼の様に、神の力から逃れる事は出来ないのだ」

 黄金に変じさせろという意味だ。

「私を滅ぼしてくれ。君にしか頼めない」

「出来る訳無いだろ……ッ」

 ミダはたじろぐ。男の言う意味も、そうしなければいけない理由も、解らなかった。

「どうして……どうしてオレがそんな事……!!」

「知りたいか?」

 男は訊ねる。ミダの中で大きくなりつつある疑問を、助長する様な問い。

「……知りたい……」

 ミダを押し流した潮流。人間同士の繋がり。世界の膨大な全てを、ミダは知りたかった。

「……教えてくれ」

 男が兜の下で笑った。

「そうだ。知りたくなった事は聞き返す。知識を得る知恵の基本だ」

 教えよう。そう言って、男は突然ミダの腕を掴み、手袋を引き脱がした。

「私の命で」

 ミダの指先が、鉄の籠手に触れる。じわじわと黄金が浸食していく。

 閃光が走った。それは雷雲立ち込める空ではなく、ミダの目の裏で起こった。

 本が捲られる様に、いくつもの場面がミダの意識に流れ込んでくる。ミダのものではない記憶が、感情が、渦を巻く。


「明日、出立するよ」

 椅子に座ったまま、彼女はそっと微笑んだ。別れを惜しんで泣いてくれる事もしなければ、どうして離れてしまうのだと喚く事もしない。それが彼女の優しさだった。

「そう」

「君には辛い思いをさせてしまう」

「辛くないわ。だって……」

 腹を撫でる。その中には、恐らくきっと、生涯この目に見る事の無いだろう命が、目覚める日を待ち、眠っている。

「名前は決めたのか?」

 彼女はゆっくりと頭を振った。耳に掛けていた黒髪がはらりと落ちて、痩せた頬に掛かる。

「この子には、名前を付けないつもり」

「君と同じく、か……」

「そう。貴方と同じに。だって、悲しいでしょう? 名を呼ばれて蔑まれるのは」

 そうかも知れない。悪罵の言葉は、時として向けた相手の名と並ぶ。そうして名と近くなった悪しき言葉が、人を縛り付ける。だから彼女と一緒に名前を捨てた。

「父親になりたかった」

 醜く罵られるその時、彼女とその子とを守れる父親になれたなら良かった。だが、なれない。貴賤の差が、周囲が、それを許さないだろう。

「良いの。嘘は誰かを傷付けるだけ」

 子供に父親は居ない。彼女は乙女のままに子を授かった。好事家は訳知り顔であらぬ噂を垂れ流すだろうが、誓って真実だ。この、彼女の髪にも触れられぬ臆病者が、長い時間彼女を見守ってきたのだから。

「……その子は、神の子なのだろうか」

 訊ねると、彼女は直ぐ様言った。

「いいえ。この子はわたしの子。もし神の子なら、世界中の悲しみを背負わなくちゃいけなくなる。きっと」

 だからわたしの子だと、彼女は笑った。


 兄は変わった。顔を合わせては叱責を飛ばしてきた兄が、不意に顔を綻ばせる事が多くなった。娘が生まれてからだ。

「兄さん。そろそろ行くよ」

 別れはあっさりと終わらせるつもりだった。

 代々公爵殿下の傍らを守護する家柄。その次男坊などは、目の上の瘤か脛齧り。箸にも棒にもかからないものとして扱われる。そんな家から離れられて清々すると思っていた。

「そうか」

 兄はただ一言そう言った。それきりのはずだった。だが、

「行く前に、娘に会っていかないか」

 そう誘う。断る道理も無く、兄夫婦の寝室へ招かれた。

 丁度、兄嫁が授乳をしている所だった。母というのは、神秘のものだ。乳房を露わにしているにも拘わらず恥じらう素振りは見せず、慈愛に満ちた笑みを浮かべて、懸命に乳を吸う我が子をうっとりと眺めている。

「名前は決めたのですか?」

 訳も無く尋ねていた。心の片隅に彼女の事を思い出しながら。決めたと言う兄の顔が、心なしか柔らかい。

「エミリアと名付ける事にした。良い名前だろう?」

 頷く事しか出来なかった。

 片や、未来を案じて名を付けぬ親が居る。片や、未来への展望を抱いて名を付ける親が居る。そのどちらか一方だけを素晴らしい事と思えない。父親になれなかった男の、僻みだろうか。

「男子が産まれなかった事を惜しんではいない。男も女も変わりはしないし、我が子に代わりは無い。何れにせよ、この子は父親を憎むだろう。だがそれで良い。それも家長の務めというものだ」

 いつになく、寂しげな口振りだった。きっと兄も、家柄という縄で雁字搦めになっているのだろう。

「達者でな。いつか手紙でも寄越せ。たった一通で良い。子が生まれた時にでも、な」

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