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Ep.27-2 黄金は滅びへ向かう

 泉から浮かび上がり、ミダは大きく息を吸った。昔放り込まれたのとは違う場所らしい。

 水面から両手を突き出して、じっと眺める。エスの髪が縫い込まれた手袋だ。その手袋をミダに渡した看守こそが、かつてエスに力を授けた男なのだろうか。だが、もうその男はこの世に居ない。


 看守に連れ出されてからすぐ騒ぎになった。宮殿中を兵士達が駆け回り、ミダ達を追った。

「居たぞ! こっちだ!!」

 背後から追っ手の叫び声がする。ミダを抱えて走る看守の脚はそう速くなく、今にも追い付かれそうだった。

「ここだ」

 看守が飛び込んだのは、小さな中庭だった。日が差し込み、植えられた芝生が鮮やかな緑色を放っている。中央の壁に獅子の顔を象った像が据えられ、その口からは水が流れ出ていた。

「さあ、ミダ。この中に入るんだよ」

「で、でも……」

 水の中に入るのは初めてだ。それに、獅子の口はミダなら入れそうな大きさだが、看守にはとてもじゃないが小さ過ぎる。

「言っただろ? ずっと一緒に居られる訳じゃない。別れの時は必ず来る」

 力強く言う看守は、大丈夫、と笑った。

「大丈夫だよ。さ、深く息を吸って。流れはそう強くないから、這って行く気持ちだよ。後から急に流れが強くなるから、そうしたらそれに任せて。ここで頑張ったら、君は自由の身だ」

 追っ手の足音が迫ってくる。しかし踏ん切りが付かず、ミダは尻込みをした。とても置いては行けない。ずっと一緒に居たかった。

 そう逡巡している内に、兵士達が戸を破って雪崩れ込んでくる。

「さあ、早く! 行くんだ!!」

 看守が怒鳴る。でも、でもとミダは泣き出しそうになった。

 突然、看守の身体が宙に浮く。槍に刺し貫かれた。

「行け……行けェ――!!」

 絶叫であり、断末魔の叫びだった。幾本もの槍が突き立てられ、ミダの顔に血飛沫が噴き掛かる。

 その後の記憶は殆ど空白である。ただ看守の、行け、という声が頭の中に反響していた。溺れる様にして水路を流され、気が付いた時には、城壁の外、河の畔に流れ着いていた。

 呆然と見上げた空は、白々しい程に、美しい青だった。


 女の悲鳴がする。続いて何人もの女が声を上げた。ハッと我に返り辺りを見回すと、裸の女達が身体を隠しながら逃げ惑っている。どうやらミダが浮上したのは、行水場だった様だ。

「いけね!」

 慌てて泉から飛び出して、逃げる。騒ぎを聞き付けられたらひとたまりも無く見付かってしまう。廊下へ出てすぐ、向かいの扉に駆け込んだ。

 洗濯場だ。この辺りは召使い達の生活区域なのだろう。右手に、干した後らしくきっちりと畳まれた洗濯物が入った籠を見付け、しめたとばかりに飛び込む。すっぽりと身を隠せる上に、濡れた身体を乾かせるのだから、一石二鳥というものである。


 ガルディアスの耳にアーサー・ベックマン殺害の一報が届いたのは、丁度ミダが侵入した頃である。

「死んだか……」

 惨い有様だったという。喉を食い破られ、床一面を覆う程の夥しい出血。まるで獣の仕業だ。

「は。犯人は捜索中でございます。つきましては、将軍閣下に検分を……」

「良い」

「は……?」

「存分に処理せよ」

 そう指示を下しただけで、ガルディアスは席を立とうともしなかった。

 殺した者も、その動機も、見当が付いている。惜しむらくは、カティアの部隊の生き残りが殺害の犯人として捕らえられてしまう、という事だ。彼がその手を汚さなければ、ガルディアスが自ら手を下していたところである。

 だが、もし仮にベックマンを闇に葬ったとして、それで終わらせるつもりは無かった。無論、殺められなかった今でも変わらない。

 伝達に訪れた兵が去ったてから程なくして、徐に立ち上がる。

 鎧の前に佇み拳を握り締める。これを纏うのはこれが最後になるだろう。

 玉座の間へ続く螺旋階段を、ガルディアスは一歩一歩確かめながら上った。その胸にあるのは、怒りでも悲しみでも、正義感でもなく、ただひたすらの虚無感だった。

 上り詰めたところ、巨大な鉄扉の両脇で、衛兵が敬礼する。

「皇帝陛下は御在室か? 火急の用だ」

 は、と答え、道を空けながら、衛兵達は戦装束のガルディアスをまじまじと眺めた。

「……戦ですか?」

「そんなところだ」

 はぐらかしつつ、顎で二人を指す。

「諸君らは休んで良い」

「は? しかし……」

「構わん。私が許す」

 衛兵達は怪訝そうにしたが、ガルディアス将軍のご命令ならば、と階段を下り去った。

 観音開きの扉を押し開けると、眩しく光が差した。床も柱も、何もかも黄金が埋め尽くし、四方を囲む空から降り注ぐ陽光を一点に集めて、輝いている。

 西の遠くの空に、暗雲が立ち込めていた。

 正面中央にたった一人、神は居た。黄金の仮面を被り、黄金の玉座に鎮座し、世界を見下ろす、神を自称する男だ。

「皇帝陛下」

 跪き、頭を垂れる。

「この国を滅ぼしに参りました」

 ガルディアスは低く、それでいて明朗に言う。

 皇帝は黙したまま、ただガルディアスを見下ろす。

「この国が、貴方が、世界を淀ませてしまった。清らかな水に毒を垂らし、掻き混ぜ、混沌とさせてしまった。私もその一役を担ってしまった。だから私は、貴方を滅ばさなければならない」

 皇帝を殺す。それこそが、ガルディアスに出来る償いだ。

「貴方が真実に神ならば、何故こうも世界を穢してしまったのだ。そうまでして世界を手に入れて、何になると言うのか」

 たった一人の欲望が、一体何万の命を奪ったか知れない。

 皇帝はやおら答える。

「世界など要らない」

 仮面の下からのくぐもった、その言葉で全てを思うままにしてきた声。

「こんな狂った世界、欲しがるものか」

「ならば……ならば何故……」

 ガルディアスは立ち上がり、神を騙り世界を翻弄した男を見据える。

「神が必要なのだ。神を失ったこの世界で、人々が信奉し、生きる糧とし得る絶対の存在が」

「貴方がそうだと言うのか。欲に溺れた貴方が……!

 仮面の奧で、濁った青い眼が細められる。

「違うな。私は旗に過ぎない。人間が到達すべき頂上を示す道標」

「戯言を!!」

 ガルディアスは剣を抜いた。やめろ、と皇帝は怯むでもなく言った。

「ガルディアス、君に私は殺せない。死なぬのだ、私は」

「まだ神を騙るか、欲深き業の深い人間が」

 付き合いきれぬと剣を構える。

「……最期に訊ねたい。何故ヘイデンを滅ぼさねばならなかったのか」

「ヘイデン……」

 皇帝はその名を聞いて、肘掛けを握った。そこにどんな感情が籠められていたかは、仮面に隠されて見えない。

「……運命だった。そう言うより無い。私が犯した最大の過ちだ」

 その言葉に、ガルディアスは激昂した。

 自らの罪を認めるのならば、贖罪をするべきなのだ。だが、偽りの神は世界を歪ませ続け、罪を知る一方で、罪を重ね続けた。ガルディアスにはそれが許せない。

 許せぬ己と同じである事が、赦せなかった。

 雄叫びと共に皇帝目掛け、駆け出す。剣先を皇帝に向け、そして一思いに突き刺した。

 剣はずぶりと皇帝の胴を刺し貫き、玉座にまで届いた。

「……すまない」

 皇帝は呟く。

「憎かろう。恨めしかろう。私は君の良心を奪ってしまった。そして君の命さえ、奪わなければならない」

 腹を刺されているというのに、口振りは変わらず、身じろぎ一つせず、苦痛を感じている素振りも無い。

 不死身だ。

「君は正しい瞳をしているな。歪み無く世界を見詰めている。その目が、彼らを導いてくれると信じていた」

 ガルディアスは剣を引き抜こうとするが、びくともしない。

「……出来れば君は殺したくなかった。約束しよう。安らかな眠りを」

 皇帝の腹から、うぞうぞと黒い蔦が、剣を伝い上る。

 蔦がガルディアスの手に触れた瞬間、電撃が走る。ガルディアスの身体を内側から焦がした。

「ありがとう、ガルディアス」

 ガルディアスは絶命する間際に手を伸ばし、皇帝の仮面を引き剥がし、皇帝の素顔を見る。

「……誰……」

 呟きの後、落雷の閃光と共に、その身体は消滅した。

 暗雲が少しずつ、しかし確かに、近付いてくる。


 どろどろと血は溢れ続ける。もたれ掛かった壁を流れ、床を濡らしていく。手にした蝋燭の火が、ルートガーの荒れた呼吸に揺らめいている。

 ルートガーは火薬庫に身を潜めていた。最期に一つすべき事が残り、それを果たすべく、そこに居た。

 手元の樽を引き倒すと、口が開き、火薬がルートガーの足元に零れ出た。

 ずっとカティアの傍に居たかったが、それはもう叶わぬ夢だ。その想い故に、ルートガーは獣になってしまった。理性を無くし、怒りや憎しみに任せて人を殺めた。二度と人間には戻れない。ケダモノは、カティアの傍に居てはいけないのだ。

 カティアは清らかな存在だった。唯一無二の正義だった。ルートガーにとっては、言葉で人々を蹂躙する皇帝などではなく、カティアこそが神だった。

 愛していた。情欲でない、深い敬愛。

 神に赦されるはずはない。だが赦されたいと請い願う。

 カティアの幻影が微笑む。

 また傍に行ける気がして、ルートガーはそっと目を閉じた。


 突然の大きな揺れに、ミダは転げ出た。地震かと思いきや、遠くに聞こえる轟音は、爆発のものだ。

 何が起きたのか知る由も無いが、騒ぎに乗じて皇帝の元に忍び込めるだろうと、ミダは走り出す。

 思惑通り、廊下の角に身を潜めたミダに兵士達は気付かず、走り抜けていく。

 それは良いとして、しかし、道が解らない。宮殿は広く入り組んでいて、一体何処をどう通れば良いのか解らなかった。

 兵士達を遣り過ごしながらうろうろとしていると、突然近くの扉が開き、あっと声を上げる間も無く、部屋の中に引きずり込まれた。

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