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Ep.26-2 黄金独り

「思い通りになりましたねえ」

 ニヤつきながら、フィンクは他人事の様に言う。いや、本当に他人事だった。

 ベックマンは頬の肉を歪めて、醜悪な笑みを浮かべる。

「時間は掛かったが、キヒ、これで、これで……キヒ、キヒヒ」

 笑いを押し殺そうとして顔を覆った両手の隙間から、声が漏れる。

 どう見ても豚だと、フィンクは思った。

「それじゃあ、これで」

 言い残して去るフィンクに労いも無く、ベックマンは悦に入る。

 逆賊は死に、親代わりは責任を負う。ガルディアス将軍が失脚するまでのあらすじを思い描いて、笑いが止まらない。

 ガルディアスが戻り次第、皇帝に陳情するつもりだ。その時の台詞も決まっている。哀れ崩れる鉄面皮。想像すればする程に、喜悦が込み上げてくる。

「キヒ、キヒ……愚かな男だガルディアス。身の丈に合わぬ事をするから……キヒヒヒ」

 執務室で漏らす独り言は誰にも聞こえない。

「将軍。ああ、将軍。良い響きだ……将軍、将軍……」

 眼下に平伏す兵の列。頭から浴びる酒、噛み締める肉。足の下でひいひいと泣き喚く女達。誰にも咎められず、誰にも邪魔出来ない。いずれ皇帝さえ、その手に操れるだろう。

 止めど無い欲望、妄想さえも、今や止められる者は居ない。

 音も無く部屋の戸が開く。風が押す様に、少しずつゆっくりと開けられる扉に、ベックマンは気付かなかった。

 漸く異変を察知したのは、扉が開ききり、蝶番が軋んだ時だ。

「誰だ?」

 顔を上げても、入室者の姿は見当たらない。

「そこを閉めろ。おい、聞こえるだろうが!」

 廊下には衛兵が一人立っているはずである。しかし、返事は無い。

「居眠りでもしておるのか! たわけめ!!」

 叱罵もとうとう独り言の様相を呈し、仕方なしとベックマンは重い身体を持ち上げて、扉を閉めに向かう。

 ただで転ぶものかと、ついでに無能な兵らを罵倒してやるつもりだった。ぶつくさと口の中で文句を唱えながら、廊下に顔を突き出す。

 だが、左右を見回しても人影は無い。蝋燭の明かりの薄暗さが、ただ続いている。

 小便でも行っているのだろうか。職務怠慢は処罰に能いする。戻ってきたならこの手で絞め殺してやろう。そう思い、首を引っ込めようとしたその時、ベックマンの視界、その下方に、床とは違うものが過ぎった。

 それは兵士だ。倒れ伏した兵の周りに、血溜まりが出来ている。

 最期の脈動が、兜と胴との隙間から、どばりと血を噴き出させた。

「ヒ……ッ」

 息を呑むと同時に、喉から悲鳴が捻り出された。

 しかし大声を上げるよりも早く、何者かが部屋の内側からベックマンの襟首を掴み、引きずり込む。床面に投げ出され、素早く戸を閉められた。

 鍵を掛ける音。ベックマンは慌て、身体を転げさせる様にして、その何者かを仰ぎ見た。

 全身に包帯を巻いた男だった。幾本もだらりと垂れ下がる包帯は黒く汚れ、その立ち姿は、まるで亡霊か死神である。

「き、貴様ッ! 何者であるか……!!」

 ベックマンは尻餅を突いた格好のまま、虚勢を張る。誰何に、男は答えない。

 ただひたすらに、表情を覆い隠す包帯の間から、全ての光を飲み込む様な、沈んだ双眸をベックマンに向けている。

「誰や! 誰やある!!」

 叫びは誰の耳にも届かない。それもそのはずだ。余程の用がある時以外近寄らぬようにと言い付けたのは、ベックマン自身である。

「ワタシはベックマンであるぞ! 男爵であるぞ! 後の将軍であるぞ!!」

 思い付くままに喚き立てるが、しかし地位や肩書き、ましてや妄想の産物など、憎しみを抱えて立つ男には、意味が無い。

 男は何事かを呟く。それは磨り潰された様な、獲物を前にした野獣が唸る様な声だった。確かにこう言ったのである。

「カティア様の恨み」

 男の手には短剣が握られている。先程衛兵の首筋を断ち切ったばかりの、血潮に濡れた短剣だ。

「き、貴様……生き残りか……ッ」

 膝が震えるが、ベックマンは何とか立ち上がった。そうと知って、俄に冷静さを取り戻しつつあった。

 慎重に後退りしながら、口を動かす。

「成る程、仇討ちといったところか。しかし、何処でワタシの事を聞いた? ワタシ以外には……」

 言い掛けて思い浮かんだのは、フィンクの薄ら笑いだった。

「……フィンクか。奴め、裏切ったな。とうとう化けの皮を剥ぎやがった。まあ構わん。奴もこの手で処刑してやる」

 言う内に、机に踵が当たる。遂に逃れる事も適わなくなったと見せたが、本来そこまで至るつもりだった。

 机の脇に鞭が掛けてある。ベックマンは素早く取って、思い切り振り上げた。

 男も瞬時に飛び掛かったが、ベックマンに先手を打たれ、肩口を打ち据えられ、弾き返された。倒れ込んでも即座に腕を伸ばし短剣を向けるが、先んじて一撃を加えたベックマンに利があり、続く二打目に剣を叩き落とされた。

 鞭はベックマンの様な男に向いた武器である。鞭の先は腕の振りよりも大きく、そして速い。振られる度に鳴り響く乾いた音は、その凄まじい速さにのる、空を切るのではなく、空を叩く音だ。

 容赦無く鞭が男に襲い掛かる。鋼鉄の編まれた鞭先は、男の包帯を破き、皮膚を裂いた。肩、脚、頬を幾度も打たれ、その度血飛沫が飛散した。

「ハッ! 哀れな負け犬よ。ワタシに、逆らうから、こう、なるのだ」

 男は手も足も出ず、猛攻に耐えている。何れ痛みと出血とに倒れるだろう。

 ベックマンは快楽を覚えた。欲情を身体中に感じる。

「そうだ。あの娘もそうだった。あれも、丁度そんな風にして、ひいひい泣き喚いていたっけな」

 マリナの事だ。

「奴もそうしたかった。ワタシの前に平伏させて、こうやって、嬲ってやりたかったものだ」

 カティアの事だ。

 鞭打ちを防ぐ腕の下から、男の目がぎらりと光り、ベックマンの姿を捉える。武器を奪った油断と、快楽に溺れ命の遣り取りであるのを忘れた瞬間を、野獣は見逃さない。

 打ち付けられる鞭を、男はその腕に絡み取った。握るベックマンごと引き寄せ、喉笛に噛み付く。殺意の牙がぶ厚い肉を噛み千切った。

 何が起きたのか解らぬ様子で、ベックマンは立ち尽くしたまま喉を押さえる。ひゅうひゅうと漏れ出る息も、噴き出す血も止まらず、顔面を蒼白にして、徐に倒れた。

 男は喉仏を吐き出して、ベックマンが絶命する様をじっと見守った。


 復讐は果たされた。しかし、ルートガーの心は晴れない。残るのは虚無感ばかりだ。誰かに喜ばれる事も無い。悲しい思いをさせるだけ。

 最初から承知の上だった。復讐は独善である。込み上げる憎しみを狂気に変えて、消化させる事に他ならない。憎悪や憤怒、悲哀はひとの為だが、行いはきっと、誰の為でも無いのだ。

 よろりと振り向き、部屋を後にする。引き摺る脚が血の筋を引いた。

 まだやらなければいけない事がある。もうカティアの元には戻れない。許されるはずが無い。

 罪は償わなくてはならないのだ。


 帝国の兵士に手当を施されたギルベルトは、穏やかな顔をして眠る。

「どうして、あの人は彼を助けたの」

 寄り添ったハンナが、ぽつりと呟く。治療は右腕を切り落とした当人、ガルディアスの指示だった。痛み止め、止血、化膿止め、縫合。出来うる全てをして、あまつさえ、去り際にあるだけの薬を置いて行った。

「きっと、本当に悪い奴は、それほど多くねえんだ」

 帝国に属する者だろうと、そうでなかろうと、変わらない。世の悪は、総じて相対悪でしかないのだ。悪となる存在が、自らと同じく人間である以上、絶対悪はありにくい。同様に、絶対的な善も有り得ない。

 エスもそう、カティアもそうだ。ガルディアスも、恐らくはルッツも、ミダ自身も。

 何故ならば、人間は神ではないからだ。人間は遍く曖昧で、矛盾を抱えている。信念はひとそれぞれに違い、噛み合わず、どれ程理想を掲げようと、万人から理解される事は無い。

 誰もが自らの偽善を疑う。傍目に見た悪も、信奉した時点でその者にとって善になる。そして誰もが、その事に気付いている。

 だからエスは、人間でいる事が嫌になったのだろうと、ミダは思う。幾千幾万色が混ざり合う不定形の渦に、流されるのも抗うのも、嫌になったのだ。

 抗おうともがき苦しむ、エスの必死な姿にミダは惹かれていたというのに、エスはそれをやめてしまった。

 今頃エスは泣いているだろうか。いや、感情を募らせる事さえも放棄してしまったかも知れない。

 ミダは意を決した。

「……オレ、行くよ」

「行くって、何処に?」

 アーデルがミダの顔を覗き込む。

「何処にも行くなよ。ボクとお前は友達だろ?」

 ミダはふるふると頭を振った。

「エスはオレの大事な仲間なんだ。クラウスも。居なくなった今だって変わらない。友達だって、そうなんだろ、きっと」

 失われても無くならないものはある。ミダがかつて亡くした少年を慕う様に、エスがカティアを想っていた様に。

「だから、オレは帝国へ行くよ。その為にずっと、あいつらと旅をしてきたんだ」

 エスが最後に言った言葉を、受け止めようとは思えなかった。例えエスが諦め、そうしろと言っても、ミダはもう信念を曲げる事はない。今だって、エスを信じているのだから。

「大丈夫。オレはちゃんと戻ってくるよ。約束する」

 力強く頷くと、アーデルは顔をしわくちゃにした。ミダを止める事は出来ないのだと悟った。

「……ひとりじゃ無理よ。死んじゃうわ」

 ハンナの言葉に、ミダは苦笑いで答える。

「そうかも知んねえけど、でも、たぶん何とかなる。だってオレ、あいつに付いてこれたんだぜ?」

 これまでの旅路を経て、自らの命をどうでも良いと思わなくなった。エスに守られ、エスを守りたいと思うその気持ちが、強さになっていた。

 だからミダは、ひとりで帝国へ向かうのを無謀とは思わない。エスが離れていった今でも、その背中を追うのと同じつもりだ。

「どうして、そんなに……」

 ハンナは言葉を失った。ミダの頑なさと、子供らしい無邪気さとの差違が、胸を締め付ける。

「あいつと約束したから……ってのは、もう何の意味も無いけどさ、自分で自分の気持ちを裏切れねえよ。それにオレ、けりを付けなくちゃいけないんだと思う」

 生まれや、課せられた運命との決着。その為に往かねばならない。

 待ち受けるだろう凄惨極める荒波や、乗り越えられぬだろう困難を前にして、やけにさっぱりとした気持ちだった。きっとエスも同じ気持ちで旅をしていたのだろう。

 エスが見失った志は、ミダの中で息づいている。

「ちょっくら皇帝に会ってくるよ。で、文句言ってくる。もしかしたら一発二発殴るかも」

 ミダは頭を掻いて、笑った。

「どうしようもねえ親父は殴らねえと。オレ、あの馬鹿親父の娘だからさ」

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