Ep.25-3 さらば黄金
「エミリア……!」
ぐったりと倒れそうになるエミリアを、エスは抱き支える。撃ち抜かれたエスの傷は見る見る塞がっていくが、エミリアの腹は、失速した弾丸を留めて、破かれたままだった。
ミダはこの光景を、ただ愕然と、呆然と眺めていた。頭の中が白濁する。ただただ驚いて、何も考えられず、何の感情も湧き出てこない。その目にはひたすらに、散っていく女の姿と、残されゆく男の姿が映る。
縛り付けていた恐怖の鎖が突然消え去り、クラウスは急ぎ駆け付けた。そして、今起きている状況を即座に知った。
「ルッツ、貴様ァ!!」
怒号と共にルッツに駆け寄り、銃を奪い取る。ルッツは目を向き、へたり込んで、がたがたと震えていた。逃げ出す事も出来ず、己のした事に怯えていた。
愚かで、己の無い、糸の切れた操り人形を、クラウスは殺す気にもなれなかった。
横たえられたエミリアは、空を仰ぐ。しかしその目には何も映っていなかった。
「エミリア! エミリア、死ぬなッ!!」
エスは叫ぶ。そうしても消えゆく命はどうにもならないと悟っていて、叫んだ。
エミリアの唇が僅かに動く。細い呼吸の中で、何かを言おうとする。
「カティアで良い」
寄せた耳に、確かにそう聞こえた。
「お前を忘れようとした私は、カティアで良い」
深い闇に穿たれた双眸には、最早光すら届かない。
「生きたかった。エミリアとして生きてみたいと思った。でも、手遅れだ……」
「遅くない! 今からだって、今だけだって……!!」
「良いんだ。カティアにも、捨てられないものがあったから」
開かれた瞳の内側に、ガルディアスの姿が浮かんで、消える。
娘として愛してくれていた事を、カティアは知っていた。ガルディアスは国や家を奪った仇であり、そして、代え難い父親だった。そんな父を、カティアも愛していたのである。
だが、伝える事は出来なかった。
「エミリアは十年前に死んだんだ。そう思ってくれ」
言って、カティアはエスの腕を掴む。
「剣だ。剣を取ってくれ」
剣士として死なせてくれという事だ。それは、エスには耐え難い苦痛である。しかし最期の頼みを拒む事は出来なかった。
手に剣を握らせる。カティアはそれを胸の前に置き、両手を添える。
カティアには、それが最期に出来る、エスへの最大の思い遣りだった。エミリアを二度失った時、エスがどれ程悲しみ、泣くか、容易に想像出来た。
「太陽は出ているか?」
カティアはエスに問う。
「ああ、出ている。ずっと変わらない。ずっと、ずっと同じ場所にある」
エスは何度も頷いた。良かった、とカティアは笑う。
「太陽は良い……」
少女は太陽になりたかった。叶うはずのない夢だと思っていた。
それでも、少年の胸の中では、少女は太陽になっていた。
少年は太陽に指輪を贈った。言葉に出来ない想いを形にして、さり気なく、気付いて欲しいと願いながら。
少女は嬉しく思い、指輪を大切にした。誰にも知られない様に、そっと枕の下に隠しておいた。毎朝毎晩、指輪を眺めて、少年の事を思い出した。
ある朝、指輪は静かに枯れていた。
「ああ……ああ……」
エスは両手で頭を抱えた。握り潰してしまう程に、強く強く、押さえ付けた。
悲しみが、怒りが、爆発してしまいそうだった。
慟哭が空に響く。
ギルベルトの剣が大地に突き立った。柄には、未だその手が握られている。苦痛に跪くギルベルトは、遠く離れた剣を睨んだ。続きを失った腕から、夥しい血が流れ落ちる。
「すぐに止血すれば、命は助かる」
ガルディアスは剣に付いた血を払いながら言った。
「教えてくれ。カティアは何処にいる? 貴様を殺したくはないのだ」
剣の構えを見て、すぐにカティアと同郷、ヘイデンの生き残りだと解った。
「……貴方は知らないでしょうね。命よりも大切なものはあるのです」
キッとガルディアスを見上げるギルベルトの顔が、見る間に青ざめていく。
「殺しなさい。私は敗れました」
ガルディアスは眉根を寄せる。故郷を思う気持ちには、どうしても勝つ事が出来なかった。
俄に、兵士達が騒がしくなる。
「で、殿下!」
兵士達が驚き、見詰める先に、エスが佇んでいた。幾度もの斬撃の度伸びた文様に全身を覆われ、その腕にカティアの亡骸を抱えて。
ガルディアスは言葉を失った。まるで胸を大砲に撃たれたかの様だった。ぐったりとして動かない女を愛娘だと、そして死んでいるのだと知覚するのを拒む様に、思考が停止する。
「……もう良い……」
エスは呟く。形容仕切れぬ目でガルディアスを睨んでいる。
「……もう沢山だ。奪い合い。殺し合い。愛し合い。もうまっぴらだ……」
命を失った身体は、ずしりと重い。
「……人間なんぞ、糞食らえ」
人間で居たくなくなった。
失うものなら得たくない。悲しむのなら何も感じたくない。死んでいくのなら、生きていたくない。
「貴様……カティアを……ッ」
ガルディアスは憤然、剣を構えて立ちはだかる。エスは怯むことなく歩み出した。
「退け。俺は墓を掘らなくちゃいけない」
エスの身体から火花が散る。瞬く光は、以前までの白ではなく、黒色だった。
「そこを退け!!」
激昂は大地を揺らす程。兵士や難民達の中には腰を抜かす者があり、ガルディアスでさえ、居竦められた。
ゆっくりとした足取りは重く、それでいて、心ここにあらずと不確か。身動き一つ取れず、凍り付いた驚愕の表情のまま立ち尽くすガルディアスの脇を抜け、蹲るギルベルトの前を通り過ぎた。
「エスさん……貴方は……」
ギルベルトの声は譫言の様で、そう言ったきり、気を失った。
「ギルベルト!」
ハンナとアーデルが駆け寄っていく。
その時ミダは、その場からエスの後ろ姿を見送り、泣く事だけしか出来なかった。




