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Ep.25-1 さらば黄金

 約束は果たされた。十年の月日を隔て、絶望を越えて、小さな約束はこの時この場所で結実したのだ。

 抜け殻の様だった。エスは愛情の遣り場を失っていた。母を行きずりの女達に求め、幼い頃のカティア――そう名乗る前の彼女を孤独な少年少女達に求めた。

 ミダはカティアによく似ている。太陽の輝きにも負けぬ黄金の髪も、空の青よりも濃く深い瞳の色も、あの頃のカティアを思わせる。

 エスは丘を登り、カティアの傍らに立った。見上げるカティアの双眸。

 忘れられるはずのない瞳。もう全てかなぐり捨てて良い。そうエスは思った。

「……あの墓は、お前を埋めるはずだった」

 呟く様に言う。カティアは目を逸らした。

「何の事だか解らない」

「忘れただなんて言わせない」

 強い口調に、眠ったミダは唸りながら寝返りを打った。

 カティアは、ハ、と鼻で笑う。

「一体何を忘れたというのだ? この私が」

「俺だ。俺の事だ!」

「……何を言っているのやら。貴様など、知らん」

 横顔の表情を髪に隠して、カティアは突き放す。

「思い出せ! 俺とお前はこの場所で出会った。ここで約束を交わした。ここで、俺達は……!!」

「黙れッ」

 再びエスに向けられたカティアの目は、激しい怒りに燃え上がっていた。

「貴様など知らない!」

「……思い出せ。お前はカティアなんて名前じゃなかった。本当の名前は……」

 風が吹いた。カティアとエスの間で花びらを巻き上げ、吹き抜けていく。

 長い間忘れずにいた名前を飲み込み、エスはカティアを見詰めている。睨み返すカティアの瞳は、僅かに湿っている。

 カティアの右腕を赤い雫が伝う。

「貴様と居ると、生きていたくなる」

 細く鋭い刃が、エスの胸を貫いていた。

「……何故……?」

「貴様は私の生きる理由を否定する。だから……!」

 カティアは剣を捻る。刃が肉を抉り、骨を削ぐ。剣が引き抜かれた瞬間、鮮血が溢れ出し、エスの口からこぼれ落ちた。

 膝から転げ落ちたミダは目を覚まし、ふたりを見上げた。赤く濡れた剣を握るカティアと、口元と胴とを赤く染め上げられたエス。

 何が起こっているのか解らなかった。


 クラウスは枕にしていた腕から頭を上げた。鼻を突くのは、おぞましい悪意の臭いだった。

 巨大で、強大な、ケダモノの臭いだ。

 総毛立ち、それ以上身動きを取る事が出来なかった。身体が凍り付く。恐怖で全身を抱き竦められているかの様だ。

「テレーゼ……! 一体何をする気だ!!」

 クラウスは叫んだ。その声は、何にも気付かず、子供を遊ばせ、食事をし、笑い合う人々の耳には聞こえない。

「貴方には関係無いし、貴方には止められない。貴方はただ黙って見ていれば良いの。臆病で、小さな犬は……」

 眼前に佇むテレーゼは、冷笑を浮かべてクラウスを見下ろしていた。

「いつまでも思う様になると思うな!!」

「そういうのを何と言うか知ってる? 負け犬の遠吠えと言うのよ」

 嬌笑がクラウスの耳を劈き、居竦められる。

「光の中は、いつまで耐えられるの?」

 クラウスは唸り声すらも上げられない。

「答えはすぐに解る。自分の居場所は自分で決める事ね」

 そしてテレーゼの影は、蠱惑する笑みを残して消えた。


 胸騒ぎがする。軍団を従えてヘイデンへ向かうガルディアスは、奥歯を割る程に、歯軋りした。

 かつてのヘイデンにカティアが留まっているという情報をもたらしたのは、見覚えの無い顔だった。この近辺で兵に刃を向けて以降、行方が知れなくなった事と合致するが、不確かな報ではあった。

 いや、それは良い。問題は、カティアがヘイデンに居るという事だ。

 カティアが亡国へ戻るのは禁忌だった。何故ならば、そこに残された過去、記憶は、カティアの人格を崩壊させ兼ねないからだ。

 ガルディアスが拾う前、カティアに何があったのかを聞いた事は無い。だが剣を握るカティアからは、触れてはならない、仄暗いものを感じていた。まるで忘れようとするかの様に、別の人生を歩もうとする様に、カティアは振り返る事をせず、ただ剣士としての精進を目指していたのだ。

 一見強固に見える殻も、内側から突けば脆い。

「急げ!」

 百の兵を従え、馬を走らせる。


 白詰草の冠が赤黒く濡れる。血液をごぼりと吐き出すエスは、立ち尽くしたまま、カティアを見詰めていた。

「何だよ……! 何やってんだよ!!」

 ミダが叫ぶ。その声にアーデルは飛び起き、ハンナが悲鳴を上げる。

「お前……ッ」

 掴み掛かろうとするミダを、カティアは横目に睨み付けた。

「寄るな」

 そう言う声は低く、そして重い。

 ミダはエスに縋り寄り、その身体を支える。鼓動に合わせて胸から血が噴き出した。

「エス……!」

 ミダが傷口を押さえても、血は止まらない。

「大丈夫」

 エスは言う。

「痛くないんだ。傷の痛みは感じない」

「そんな訳あるか!!」

 エスはそっとミダを押し返す。

「ミダ、彼とこの場を離れてくれ。俺は、大丈夫だから」

 繰り返す言葉は、あたかも己に言い聞かせているかの様だった。しかし、大量に出血しているはずなのに、エスはその脚でしっかりと立っている。それでも、

「駄目だ!」

 ミダはエスとカティアの間に割って入った。

「死んじゃ駄目だ! オレが守ってやるから! だから……!!」

 エスの身に何かあったら、今度は守る。そう胸に決めてここまで来た。見捨ててはおけないのだ。しかし、エスはミダの頭を撫でて、

「聞き分けの悪い奴だ」

 言うや、ミダの襟首を掴み、投げ飛ばした。ミダは丘をハンナの元まで転げ落ちる。次いで、身体を捻り、何処にそんな余力が残っているのか、アーデルをも同じ様に投げた。

 ミダは慌てて駆け戻ろうとするが、ハンナに抱き留められる。

「離せッ! 離せってば!!」

 手足をじたばたとさせてもがく。しかしハンナの腕は恐怖できつく強張っていた。

 エスを見上げるカティアの目は、以前そうであった様に、獣の目をしている。冷たい輝きを放つ、今にも襲い掛からんとする獰猛な目だ。

「もう自分を偽らなくて良い」

 エスが言うと、カティアは刃を翻し、斬り付ける。腹を裂かれても、エスはひるまなかった。

「お前はそんな女じゃない」

「黙れ」

 カティアの剣がエスの左頬を割る。ぱくりと開けられた傷口からどす黒い液体が流れても、エスは悲哀に満ちた表情を崩さない。

「お前は優しくて、誰も傷付けられない女だ」

「黙れと言っている!」

 押す手、引く手、返す手でエスを切り刻んでいく。腕の皮膚が破れ、脚を突き抜かれても、エスは微動だにせず、倒れなかった。

 ミダは目を覆う。見ていられなかった。エスが切り刻まれる様を、愛した男が傷付いていく様を。

 抵抗もせず、ひたすらにカティアの目を見詰める。透き通った視線が、一人の女を覆うカティアという人格の殻さえも、射貫く様だった。

「黙れ、黙れ黙れ!!」

 壊されていく。ひびが入る。欠け落ちていく。剣を振り回す度に、剥がれていく。

 めりめりと音を立てたのは、カティアの心であり、そしてエスに刻まれたいくつもの傷だった。

 身体に絡み付く文様の蔦が伸び、傷口を縫い合わせてゆく。貫かれた胸も、裂かれた腹も、割れた頬も、塞がっていく。

 エスは自らの胸を掴んだ。

「俺はきっと、死ねない」

 血が止まり、傷が消える。

「俺はもう、人間ではないのだと思う」

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