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Ep.24-2 記憶は黄金の輝き

「ひとを嫌いになるのは簡単。ひとを好きでいるのは難しい。でも、本当に強い子は、難しい事をしなくちゃ」

 母はそう言って、少年を叱った。

 その日少年は、お前は忌み子だと言われた。娼婦の子だと言われた。意味は解らなかったが、それがとてつもなく酷い言葉だと、母を悪く言う言葉だとは解った。だから、そう言った連中の鼻柱を思い切り殴った。

 生まれ付き力が強かった。小さな体格と細い手脚のどこから出るのか、誰よりも大人よりも、力が強かった。だから喧嘩をしてはいけないと、母から常々言い付けられていたのだ。

 少年は母が好きだった。世界でたった一人、愛情を注いでくれる人物。大好きで堪らなかった。だから、守りたかった。母を傷付ける者は許さない。

 だが、母は厳しい顔をして、少年を叱った。


 少年は泣いた。母を嘲われるのは悔しい。母が傷付けられるのは悲しい。しかし母を怒らせるのは、悲しげな目で見詰められるのは、もっと悲しい。どうしようも無いから、泣くしか無かった。

 花の咲き乱れる丘は、彼にとって秘密の場所だった。他の子供達はこの場所を知らない。だから泣くには最適な場所だった。

「ちょっと、あんた」

 不意に背後から声を掛けられて、少年は驚いた。

 振り返ると、少女が居た。さらりとした金髪を風に靡かせて、空の色よりも青い大きな瞳がじっと覗き込んでいる。太陽を背中に背負って、輪郭がきらきらと輝いていた。

 綺麗だ。少年はそう思った。


「ひとを嫌いになったり、怒ったりするのはすごく簡単よ。でも、ひとを好きでいるのは、愛するのは、すごく難しいの。本当に強いひとは、難しい事をするひとなの」

 母は少年の頬をそっと撫で、

「強くなりなさい」

 そう言ったから、少年は墓を掘った。

 かつて母に罵詈雑言を浴びせた男も、母に冷たい視線を送りひそひそ声で良からぬ噂を立てた女も、同じ様に墓に埋めた。

 誰も恨みたくない、憎みたくない。でないと、母がまた悲しむ。この世に居なくなった後に同じ苦しみを味わわせたくなかった。母はずっと悲しい思いをしてきたから、悲しみそのものの様なひとだから。少年は|悲しみ(Leid)の子なのだから。

 本当に墓を作ってやりたいひとの遺骸は、どこにも無かった。だから、二つの誰も居ない墓を作った。その前に屈み込んだ少年に、一人の男が声を掛ける。

「……生き残り、か?」

 男は帝国の兵士だった。攻め込んできたのと同じ服装をしていたから、少年にもそれが解る。しかし少年は怒りを表す事も、逃げる事もしなかった。ただ一度ちらりと振り返った後は、また同じ様に、空っぽの墓を見る。

「これを全部、一人で?」

 兵士は驚愕の体で立ち並ぶ墓を見回した。少年は黙ったまま頷く。

「……全て滅ぼせと命令が下っている。全てだ。解るな?」

 少年は再び頷いた。もう死んでも構わないと思った。やるべき事はやった。何もかもを失った後に、命が欲しいとは思わなかった。

 しかし、男は言う。

「逃げろ。ずっと南に逃げるんだ。海の向こうの砂漠まで。そこまで行ったなら帝国の目も避けられる」

 少年が振り向くと、男は眉を寄せて、悲しげな顔をしている。

「そうだ。ずっとずっと遠くに逃げろ。そしていつか、戻って来ると良い」

 男は言葉を紡ぐ度に意を固く決する様、目を輝かせていった。

「いつ……?」

「五年……いや、十年。お前が大人になるまでだ。その時までに……」

 言い掛けた言葉を飲み込み、小さく頭を振った。

「……生きろ。そして、また会おう」

 男は踵を返し、少年から離れていった。


 十年。男に言われた通り、少年はこの地に舞い戻り、そして昔と同じく、墓の前に屈み込んでいる。

 心を通わせた者は二人とも死に、灰燼と消えた。亡くした痛みを消せぬままに彷徨い、隙間を埋める事も適わず、ただ虚しさだけが募った十年。

 愛した者達が戻るのならば、命さえ棄てて構わぬと心に決めた。だがその決意が半ば必要を失った今、胸を掻き毟るのは喜びよりも戸惑いだった。

 旅の目的を果たさずとも、すぐ掴める場所に幸せがある。願っても叶わぬと思っていた幸福を、今すぐでも手に入れる事が出来るのだ。しかしその時に、これまでの旅が、その目的が、決意が、空を漂う事になる。倒れそうな時に支えられてきたものを、捨てなければならなくなる。

 葛藤に苛まれ、蹲り、ただ少年の様に泣いた。


 ルートガーに宛がわれた部屋へ、兵士に伴われ、ひとりの少女が訪れた。ルートガーの妹である。連絡が途絶えた事で兄の身を案じた妹が届け出て適った、面通しだ。

 帝国にとって、一兵卒は駒でしかない。ひとりひとりの名など記録しない。口でも文でも名を語れぬルートガーの身元を検めるには、親しい間柄にある者を探すより無かったのだが、帝国にあっては特例的な対処である。これは偏にガルディアスの計らいだった。

「この娘に見覚えはあるかね」

 妹の隣に立った兵士がルートガーに訊ねる。だがルートガーはじっと妹の目を見返すばかりだった。

 妹は、包帯に巻かれ目も当てられぬ様相の男を見て、直感した。姿形は見る影もなくしたが、その目の輝きだけははっきりと、優しさを湛えた兄のものだった。

「……お兄ちゃん!」

 物言わぬ兄に、妹は今すぐにでも寄り縋りたい気持ちだった。

 だがルートガーは、やおら頭を振った。違う、知らぬ、お前の兄ではないと、無言のままに答える。

「そんな! お兄ちゃんでしょう? あたしには解るよ!!」

 歩み寄ろうとする妹を、兵士が二の腕を掴んで止める。

「どうして! どうして嘘を吐くの?! お兄ちゃん、お兄ちゃん……!!」

 妹は連れ出されながら、必死に兄を呼んだ。

 許してくれと、ルートガーは心の中で詫びた。もう帰る事は出来ないのだ。もう優しく、可愛がってやる事は出来ぬのだ。

 何故なら今ルートガーを生かしているのは、深い憎悪なのだから。

「感動的ですねえ」

 不意に、そう言う声がした。戸口の当たりに立ち、妹が連れ出されていった廊下の先を見遣りながらケラケラと笑う男に、ルートガーは見覚えがあった。配達員として現れ、フィンクを名乗ったあの男である。

「可愛い妹を抱き締める事も出来ない。心中お察ししますよ」

 言葉とは裏腹に、顔に張り付いているのは薄ら笑いだった。後ろ手に戸を閉め、錠を下ろす。

 この男は一体何の用だ。いや、それよりも何故妹だと知っているのか。ルートガーは不審がり、フィンクを睨んだ。フィンクは見透かした様に、

「エドガー・ルートガーさんでしょ? ぼくの事を憶えてますかね」

 忘れるはずもない。事件はフィンクが訪れたその日の晩に起きたのだ。

「実はですねえ、今日はあなたの為になるお話を聞かせたくて来たんですよ」

 踊る様な足取りでルートガーに歩み寄る。話とは何だ、とルートガーは目で訊ねた。

「火を付けた犯人、知りたいでしょう?」

 それは、解っている。マリナだ。彼女以外には考えられないだろう。

 違うのだろうか? 疑問を浮かべると、心を読んだかの様に、まあご想像通りなんですがね、とフィンクは言う。

「ただ、あの娘は捨て駒に過ぎませんよ。あれは良く躾けられた捨て犬で」

 この男――ひとを何だと思っているのか、平気な顔をして残酷な事を言う。

「飼い主が誰で、何の為に犬を走らせたか。知りたいですか? 知りたいでしょう?」

 愉快そうな口振り。嫌悪感で吐き気がしそうだったが、ルートガーは頷く。

 もし、本当にそんな人間が居るのなら、殺してやりたい。

 フィンクはルートガーの耳元に口を寄せ、その者の名を囁いた。

「アーサー・ベックマン」


 苛立ちによって放たれた刃は、打ち立てられた杭を真二つに切断した。ぶ厚い鋼の剣を片手に振るい、地に突き刺したガルディアスは、切り口を睨み、

「不細工」

 と呟いた。

 ガルディアスは気の迷いを感じると、彼専用の訓練場で、こうして剣を取る。葛藤も憂鬱も、杭と共に叩き切ってしまえる気がするのだ。しかしこの日ばかりは、ぐるりを囲う十二を斬っても、気が晴れることはなかった。

「おやおや、ここに居られましたか将軍殿。急な呼び立てに出向いてみれば見当たりませぬから、探してしまいましたぞ」

 背後から粘り気のある声で言ったのは、ベックマンだった。

「戻られたか」

「ご命令とあれば飛んで来ない訳にはいかないでしょうが。一体何のご用ですかな、将軍殿? 警邏という仕事も楽ではないのですがな」

 恨みがましい口振り。ベックマンがガルディアスを快く思っていないのは確かだ。将軍の座を奪われた妬み、宮殿の外へ追い遣られた恨みを持っているに違い無い。

 しかし、過去に軍資金を流用していたベックマンは、処刑されても当然の身だった。ガルディアスは、かつての上官に出来る最大の情けを掛けたつもりである。

「報告を受けました」

「カティアに襲撃された一件かな? 随分と遅い対応ではございませんかな、将軍殿」

 ガルディアスが未だ背を向けているのを良いことに、ベックマンは頬の肉を歪めて笑う。

「責任逃れをなさるつもりかと思ってましたがね」

「罷免は覚悟の上ですよ、男爵。だが、全ては事実を確認した上で決める」

「どうかな? 将軍の立場を使えば、事実をねじ曲げる事など容易い事だろうがね」

「捏造や虚言はそちらがお得意でしょう、男爵殿」

 振り返ったガルディアスの目が、鋭くベックマンを射刺した。

「……まるで嘘の報告をした様な口振りですな、将軍殿」

 ベックマンはガルディアスを自信ありげに見返す。いつでも、そうして追及を免れて来たのだ。

「死人に口なしと思われたのではないかな?」

「馬鹿を仰るな。使いを出したのは件の火災より以前の事。それに奴めは死んではなかろうが」

 ベックマンが言い返すと、ガルディアスはただ黙してベックマンを睨む。

「……成る程な。成る程な将軍殿。つまりはこう仰りたい訳だ。『貴様の差し金だ』と」

 ベックマンは嘲う。

「あらぬ疑いは困りますぞ、将軍殿。罪無き者を磔にする様な事はやめるべきですな」

「だが罪無き民も多く死んだ」

「その咎を負うべきは公爵殿下と将軍、あなたでございましょうが」

 ベックマンは一歩も譲ろうとしない。保身の為の嘘は慣れたものだった。

「いつまでも言い逃れが出来ると思わぬ事だ。こちらには生き証人が居る」

「ではお早くその証人とやらの口を割らせる事ですな。もっとも、確たる証拠は得られぬだろうが」

 肩を揺らして、勝ち誇った様に笑う。疑いを確信にしても構わぬと、挑発するかの様に。

 業を煮やしたガルディアスは剣を取った。身を翻し、大きく振り回すと、ベックマンに切っ先を突き付け、ぴたりと止める。

「もしも、カティアの身に何かあれば、貴様を許さない。いつかその尻尾を掴んでみせる。男爵殿、豚の尻尾は切れにくいものか?」

「……試してみれば宜しかろう。出来るものならな」

 失礼、とベックマンは踵を返し、訓練場を出て行った。

 廊下に出た所で待ち構えていた男が、薄笑いを浮かべて肩を竦めた。

「おお、怖い怖い」

「手抜かりは無いだろうな」

 ベックマンは歩みを止めず、男を横目にちらりと見遣る。

「嫌ですねえ。ぼくが手を抜いた事がありますか?」

 ひひひ、と軽薄に笑う男を見れば、どうにも信用ならぬ、とベックマンは思う。

「……すぐだ。すぐに奴を引きずり下ろしてやる」

 怒り心頭と呟き、どすどすと足を踏みならして歩いて行った。

 薄笑いの男は、太った後ろ姿を見送ると、訓練場の方に体を向けた。ベックマンの去った方へひらひらと手を振り、呟く。

「ま、精々気張れや」

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