Ep.22-1 黄金の研究
一方、客室に入って暫く後、ミダは床に胡座をかいて、もじもじとしていた。
「どうした。一緒に寝るのは嫌か?」
早々ベッドの上で脚を伸ばし、身体を休めていたカティアは、ミダの様子を居心地悪さ故と思った。だが、
「べ、別に嫌じゃねえけどさ……」
ミダは口籠もるが、言う通り、嫌だという様子でもなかった。寧ろ、一つのベッドに入るならカティアと以外は考えられないと思っている。
「なら何なんだ? ……ああ」
訊ねてから考え付き、薄く笑いながら、やれやれと小さく頭を振る。
「我慢する事は無いぞ。何なら、一緒に行くか」
「だーもう、うるせえ!」
顔を赤らめながら立ち上がり、燭台を引ったくって部屋を飛び出した。
ばたりと扉を閉めてから、後悔に襲われる。そもそも、屋敷には不慣れだ。何処に行けば目当ての場所があるのか知れないし、灯りの落とされた屋敷内を散策するのに、一人では心細いものがある。
はっきり言って、怖い。それが今の今まで言い出せなかった理由だった。
かと言って、今更引き返せる訳も無く、エスに付いて来てくれと頼むのも躊躇われる。そんな事を言えば馬鹿にされるに決まっているのだ。ならばロマンしか居ない。案内させれば一石二鳥だ。そう思い、彼が初めて出て来た部屋を見るが、扉の隙間から灯りは漏れ出ていなかった。もう眠ってしまったらしい。
仕方無し、とぼとぼと階段を下った。どうやら二階にあるのはロマンの部屋と客室しか無い様なのだ。考えてみれば、二階にあるはずも無い。
「うう、寒い……」
雨音は変わらず五月蠅く聞こえる。身が縮こまる程、広間は冷え冷えとしていた。身体を強張らせると、漏れてしまいそうだ。
降り立って左手には食卓、右手には兄弟の兄・ルドルフが顔を出した扉がある。という事はつまり、背後にある一枚の扉の先である。いよいよとなって、ミダは足を速めた。
扉の先はエル字型の廊下に続いていた。落胆する。窓はあるが、外は月明かりも見えない暗闇。ミダは意を決して、廊下に踏み込んでいった。
角を曲がると、更に三枚の扉がある。手前から順々に開けてみる事にした。
一枚目は、鍵が掛かっている。二枚目も同様。とうとう最後だ。ここしか有り得ない。そうなると、安堵感から緊張が一気に解れた。意気揚々と最後の扉へ向かった、その時だ。
ひたり。
その、雨音とは別の音を耳にして、ノブに手を掛けたまま固まった。
ひたり。
音は背後からゆっくりと迫ってくる。
ひたり。
誰かの足音には違い無い。違い無いが、こんな時間、灯りを持つミダに声を掛けず近付いてくるのは、誰だ。
ひたり。
ミダは恐る恐る振り返った。
「ぎゃ……!!」
日が昇る事にはすっかり雨も上がり、空気も冴え冴えとした朝を迎えた。
ロマンの厚意で朝食まで馳走してくれると言うので、一行は有り難く頂戴することにした。昨晩と同じスープだったが、今朝については久方ぶりに焼いてみたというパンも付けられていた。小麦粉や塩は、薬品や日用品と共に注文出来るのだと言う。しかしそれも定期的に訪れる商人に手紙を渡しての事だから、やはり外の事情には疎いらしい。
「昨晩は兄が驚かせちゃったみたいで、ごめんね」
配膳しながら、ロマンが詫びを言う。
「兄は昔から徘徊癖があって……許してね」
ミダは身体を丸めて呻いた。
「死ぬかと思った……てか、漏らしたかと思った……」
すんでの所だったらしい。
夜、ミダが見たのはルドルフだった。低い位置から照らし出したルドルフの顔に驚き、便所に逃げ込み、暫くその場を動く事が出来なくなった。そこを、丁度用を足しに来たロマンに発見され、何とか無事部屋に戻れたのである。ロマンによれば、その時既にルドルフの姿は無かったと言う。
暖炉の前を陣取ったカティアは鼻で笑った。
「だから付いて行こうかと言ったんだ」
「う、うるさいうるさい!!」
手を振り上げて喚くと、ロマンにまで笑われる。
しかし、とミダは首を傾げてしまう。
「……どうして裸だったんだろう……?」
呟きは誰の耳にも届かなかった。
ミダの向かいに着いたエスは、黙々とスープを口に運んでいる。幾日かぶりの食事だと言うのに、嬉しそうな素振りはない。匙を皿から口へと往復する作業を、ただ繰り返しているかの様だった。
「そう言えば、当人の姿が見えんな。朝食も摂らないのか」
「ええ。昨日の朝は食べたので、今日一日は食べないと思いますよ」
「凄まじい研究熱だな。まるで修行だ」
剣の修行でも絶食はしない。修道士は精神の鍛錬に食事を抜き、耐える事をするが、錬金術師にそんな必要はあるまい。
「彼を突き動かすのは、一体何なのだろうな。君らを追いやった連中への憎しみか?」
そこまで熱中出来る理由に、カティアは興味があった。剣と戦いだけが彼女を生かして来たが、今はそれも適わぬものだ。
「いえ、兄は……」
言い掛けて、言い淀み、一度決心するかの様に頷いてから、どこか苦い笑みを浮かべた。
「兄は、他人の評価なんて気にしてないんです。どうでも良いと思ってるはずです。ただ、兄には研究をする理由がありますから」
「理由とは?」
「兄には恋人が居たんです」
噛み合わぬ答えに、カティアは顔を顰める。いや、ルドルフの印象と、恋人という言葉の印象が合致しないのも、釈然としないものがあった。
「ああいう変わり者の兄ですけど、彼女は本当にいい人で。ぼくも良くして貰いました。兄も彼女には心を開いていたみたいで。でも、彼女は……」
「亡くしたのか?」
ええ、と頷くロマンは、故人を思い出してか下唇を噛み締め、苦しげな表情をする。
「毒を飲んで自殺を……どうしてそんな事をしたのか……それ以来です。兄がああやって、研究室に籠もる様になったのは」
「何故だ? 話が読めない」
「昨日もお話ししましたね。錬金術は永遠の命を得る為の学問でもあるけれど、ぼくは馬鹿げた思想だと思ってると。それは兄も同じです。でも……」
そこで言葉を切る。いくらか逡巡している様だ。だが、相手が見知らぬ者だからこそ話せる事もあると思い至ったのか、言葉を継ぐ。
「……兄は、生命を作り出す事は出来ると考えてるんです」
「つまり、ホムンクルスか」
今まで黙っていたエスが、突如声を上げた。
「ホムン……何?」
「人の手で造り出された人間だ。ホムンクルス」
テーブルに匙を叩き付け、エスはロマンを睨め付けた。
「それが一体何になる。余程馬鹿馬鹿しい」
「でも、兄は本気なんです」
兄を庇う様に弟は語る。
「兄は子供を作ろうとしてるんです。彼女との間に出来なかった、子供を……」
「そんな事が許されるものか!」
勢い良く立ち上がると、椅子が倒れた。
「死を超越する事と、生を造る事……生命を思うままにするのに、何の違いがある!!」
突然の怒号はロマンを当惑させるばかりだった。エスの只ならぬ様子に、ミダでさえ驚き、怯懦した。
「……少し落ち着け。彼の兄がしているのは研究であって、実現させた訳じゃない。そうだろう?」
カティアが宥め、言葉を失ったロマンに注釈を促す。ロマンはそれを受け、小刻みに何度も頷いた。
「え、ええ。ホムンクルスの技術は伝説の様なものなんです。四十日もの間一定の温度を保つなんて、現実的に無理ですから……」
エスにとっては、現実可能かどうかは問題ではないのだ。言い訳にしか聞こえず納得がいかなかったが、カティアの諫める目線と縮こまるミダを前にして、大人しく椅子を戻し、どっかりと腰を落とした。
様子がおかしいのはミダもカティアも気が付いていたが、神経を擦り切らした様な有様は、異常としか言い様が無い。一体どうしたのだろうと、スープ皿を睨むエスの目付きに怯えながらも、ミダは不安げに覗き込んだ。
こんな騒ぎがあっても、クラウスは至って冷静だった。暖炉の前に伏せ目を閉じ、じっとしている。
のし掛かる沈黙を振り払う様に、さて、とカティアが立ち上がった。
「我々はそろそろ失礼しなくてはな。世話になった」
「あ、ああ、いえ……」
未だに戸惑った様子のロマンは、何故か頭を下げた。
「一応兄にも知らせて来ます。ご挨拶に出てくるとも思えませんけど」
「承知した。ここで待っている事にしよう」
では、とロマンは覚束無い足取りで食堂を出て行った。
目だけで見送った後、カティアは鼻を鳴らして、エスを見下ろす。
「一体どうしたと言うのだ?」
エスが生命のあり方に拘るのは解る。だが矢鱈目鱈に怒鳴り散らす程、理性に欠けた男とは思えなかった。
「何でも無いさ」
椅子に凭れながら、エスは落ち着きを取り戻すべく溜息を吐いた。ミダと目線がかち合い、びくりと震えられるのを見て、薄い笑みまで浮かべる。
「少し、疲れているのかも知れないな。女に振り回されてばかりだった所為か」
肩を竦めて冗談めかすが、どうにも覇気が無い。
ミダは歯痒くて堪らなかった。エスが落ち込む理由を知り得たなら、効き目の有る無しは兎も角、励ましの一つも出来ようが、しかし全く見当も付かない。異変は昨日の晩餐から感じていたのに、切っ掛けが不明なのだ。外的な要因ならば心当たりの一つも思い浮かびそうだが、それさえ無い。元々計り知れない男とは言え、好いた男を理解出来ぬのは、辛い。
一方で、カティアも胸中に何かが絡み付くのを感じていた。その正体を探ろうと、深く深く心の根底に立ち入ろうとすれば、ぞろぞろと触手は這い、うねる。不快だと、カティアは思った。
突然に悲鳴が木霊した。甲高い、大気を切り裂く様なその声は、確かにロマンのものだ。
瞬間的に反応したエスが駆け出す。思わぬ事に、ミダも椅子を飛び降りた。
広間に飛び出すと向かいの扉――ルドルフの研究室に通じる扉が、半開きになっている。扉を開けると、すぐに地下へ通じる螺旋階段が続く。エスは飛び降りる勢いで駆け下りた。
地下に降り立つと、研究室から漏れる、煌々とした一筋の灯りの中で、ロマンが腰を抜かしていた。
「どうした?!」
ロマンは目を剥き、研究室の一点を見詰めたまま、ぱくぱくと口を動かす。
「……そんなはず……確かに……ぼくは……」
譫言の様に呟くばかりだ。エスはロマンが見詰める方、研究室の中を覗き込む。
鼻を突く異臭に、思わず口元を覆った。そして目の前に現れた、異様な光景に眉を顰める。
幾本も立てられた燭台の蝋燭は、その形を殆ど失い、僅かに残った芯だけが燃えている。天井まである棚の薬品は、その瓶を悉く割られ、ガラスの破片が散乱する。そして床一面は赤黒く塗り潰されていた。その色は見紛う事無く、血の色だった。夥しい量の血液と、流れ出た薬品類とが混じり合い、吐き気を催す程の表現し得ぬ異臭を放っていたのだった。
血溜まりの中、ルドルフが倒れていた。全身を血の色に染め上げられ、まるで血の塊が人間の形を成したかの様に。




