Ep.21-1 黄金の生命
カティアが目を覚ますと、そこは森の中だった。視界が上下に揺れながら、木々の合間を抜けて行く。朦朧とした意識に、何故か懐かしい匂いがする。芳しく胸を掻き回す、形容の出来ない香りだ。土や木々のそれとは、違っている。
「……腹減った……」
背後から子供の声がする。
「そういや、ロクなモン食ってない……」
「この強行軍、育ち盛りには辛かろうな」
更に後ろから、低い声音の諧謔が聞こえる。
「熊か猪でも出てくれれば良いだろうが」
「それ以外にも、木の実もあれば芋もある。森は食い物に溢れてるな」
すぐ傍で、よく知った声がする。才知に長けた弁士の様な、全てを見知った様な口振りの主が誰なのか、カティアにはすぐに知れた。すると、俄然体中の感覚が蘇ってくる。どうやら、身体をどこかで拾った襤褸布に包まれ、エスに背負われているらしいと気付いた。
「……おい、お前」
我ながらなんて言い様だとカティア自身思う。だがそうした言い方以外、思い付くものが無かった。
エスは顔を間近に振り向けつつ、悠長な挨拶で答えた。
「やあ、おはよう」
「おはよう……じゃない。何をしているんだ、お前は」
自害を阻まれたのまでは憶えている。そこから今までの記憶がすっぽりと抜けているのだが、その間何があったのか、大方の想像は付いた。
連れ去られた――追う者が追われる者に拐かされるなどおかしな話だ。
「下ろせ」
「駄目だ。お前は怪我人だからな」
「下ろせと言っている!」
カティアは怒号と共に、エスの首筋に肘打ちを繰り出す。エスが驚き蹌踉めくと、隙ありとばかりにその背から飛び降りるが、しかし先に地に着いた左脚は、身体を支えることなく針金の様に力無く折れ、尻餅を突いた。
「全く……だから言っただろう? と言うか、恩人に対してそれは無いな」
エスは首筋を軽くさすりながら見返り、肩を竦めた。
尻を土に着けてみると、エスの言う通りに立ち上がる事さえ困難だった。左脚の怪我のみならず、体中が衰弱し切ってている。いくら気を取り戻したばかりとは言え、いくら相手がエスとは言え、先程の肘打ちに何の手応えも感じられなかったのは、全く存外である。
自らの疲弊ぶりに、カティアは思わず失笑を漏らした。
「……情け無い。何と情け無い……!!」
「何が情け無いんだ? 誇りを傷付けられたからか?」
カティアはただ俯き、砂を掴む。その所作、その姿はまるで惨敗を噛み締める兵士そのものだった。騎士として、軍人として、今この時程に情け無い格好を晒している瞬間は無い。
カティアの自尊心は虫けらの如くに踏みにじられてしまった。例えるならば、踏み潰された蟻が反っくり返り、脚の先をひくりひくりと痙攣させている様だ。往生際を知らず、惨めである。
「生きる事は、別に無様な事じゃない。生きる事が無様なら、ひとは生まれたその瞬間に死ぬべきだ。ひとはなまじ歳を取り、思考を得て、理由を探すから、そんな矛盾に気が付かない」
エスは諭す様に語り掛けながら、腰を屈めた。
「ひとは何の為に生まれてくる? 生む方はそこに要らない理由を付けるかも知れない。だが、ひとは生きる為に生まれてくる」
カティアは顔を上げ、悲しげな目でエスの瞳を見返す。
「……ならお前は、赤子に還れとでも言うつもりか」
そうじゃない、とエスは頭を振る。
「生きる理由や目的が、生きる事以外である必要なんて無いんだ。俺もミダも、生きる為に旅をしている」
エスの視線が向けられるのを見て、カティアの剣を抱えたミダは、小さく頷いた。
旅の目的地は帝国。だが果たして、帝国に辿り着いた時、一体何を得るのか。それは知れぬ。唯一解るのは、待ち受ける困難ばかりである。しかし、ミダは行く意味を見失ってはいない。エスと共に行き、エスと共に生きる。たったそれだけが今を生きる意味なのだ。
「生きる理由を失い、生きる事を放棄し、それでも死を恐れながら、諾々と生きる奴が居る。俺は、そういう連中が嫌いだ。どうなろうと、どうしようと構いはしない」
クラウスの耳がぴくりと動いた。エスは暗にルッツの事を言っている様だ。
思い返せば、エスはルッツに対し悉く無関心だった。ルッツに生きる意味を説く事もしなければ、死を求める臭いを漂わせた時にも、全くの無言を貫いていた。それをクラウスは、エスがルッツの性格や言動が気に食わぬか、男であるという事からと思い込んでいたが、そうではない様である。
ルッツは生きていなかった。かと言って、死んでもいなかった。生を捨て、死を迎え入れられぬまま、ただただ時を過ごす、そんな男だった。
それならば自分も似た様なものなのだがと、クラウスの胸の内で、本来の姿をした心象は自嘲した。
「だがお前は違う。生きるのをやめてはいない。騎士としての死を望んでも、お前はまだ生きている」
「……死んだも同然だ」
「違う。お前は生きる事を知っているじゃないか。ひととして生まれ、生きる事を……」
エスはカティアの両肩を掴み、軽く揺さぶる。
「お前は妹の話をしただろう? お前は俺に何を話してくれた?」
エスの問い掛けに、カティアは想起する。脂汗に塗れた母の笑みと、普段は厳しく強い父が破顔する姿。耳を劈く赤ん坊の泣き声は、幸福に満ちた両親の間で、歓喜を歌うかの様に思えた。
生まれ出る事に意味などありはしなかった。無垢なる生命は祝福されていた。
しかし幸福は、たったの一月で灰燼に帰した。赤ん坊は、可愛い妹は、生きていたのにも関わらず、生を奪われてしまった。
そしてカティアは、自らに与えられた本来の名を捨て、赤子のままに死んでいった妹の、生きられなかった分までも生きようと誓ったのだ。
――そう。生きようと誓ったのだ。
「……それは、私の命じゃない」
「だが、お前は生きると誓った。生きたいと願った。その時お前は、生きる為に生きる道を選んだんじゃないか」
「それは、私じゃないんだ……」
カティアは考え込んでしまう。自己を失ったカティアにとって拠り所だった騎士道は、脆くも崩れ去った。そんな今、そうした漠然とした地に足を付ける事が、出来るのだろうか。
「カティア……」
ミダが呼び掛けながら、カティアの横に立つ。
「……この間は、その、悪く言って、ごめん。本当はあんな風には思ってない。ただ、生き伸びたのを喜ばなかったのに、腹が立ったから」
素直に謝罪する。未だ拭い去れぬわだかまりを感じてはいるが、このカティアの狼狽ぶりを見て、何かを言わずにはいられなかった。安い同情だと嗤われても構わない。深い霧の中に落ち込む時、誰かに手を差し伸べられる事の喜びを知っているから、ミダはそうせずにはいられなかったのだ。
「死んだ方が良いって考えた事が俺にもあったよ。でも、最近やっと、そう思うのは間違いだって気付いた。俺だって、あんただって、生きてて良いんだ。本当はみんなそうなんだ」
死ななければならない命など、この世には存在しない。同様に、奪われて良いものなど無い。それでもこの世界は、弄ばれて消えていく命が絶えない。他人の命が奪われて行くのを目の当たりにして、自らの命を捨てるなど、出来ようはずが、赦されようはずがないのだ。
だがやはり、カティアの胸に立ち込める霧は晴れない。剰りにも、戦いに没入し過ぎていた。今更、と思ってしまう。
「少し考えさせてくれ」
カティアはそう答え、下唇を薄口が滲む程に噛み締めたが、エスもミダも、これを言い兆候と捉えた。考える時間はあって良い。少なくとも、思い悩むのは意固地さの解れ始めた証明だ。
不意に、ぐう、と腹の音が鳴った。場の空気にそぐわぬそれは、ミダのものでなく、確かにカティアの腹からしたのだった。
エスが声を立てて笑う。
「ハハハ。腹が減るのは生きている証だ」
「……五月蠅い!」
カティアはエスを睨め付けるが、咄嗟に押さえた腹の下は、また小さく鳴った。
日没が迫り、木々のざわめきが大きくなった。木の葉の隙間に仰ぎ見る空には暗雲が立ち込め、森の中では既に夜の暗さだ。一雨来そうである。
雨に降られての野宿は避けたい。エス達は足を速めた。とは言え、カティアが背負われるのを頑なに拒否したために、剣を杖にして続くのでは、そう焦る事も出来ない。どこか雨を凌げる場所を探すのは急務だが、この際仕方の無い事だと、エスもミダも思っていた。
ところが、
「なあ、おい。あれ、火だよな?」
ミダの視界の端、梢の合間に、ちらりと光が過ぎった。指差された方を一同見遣ると、確かに、灯りが見える。
「誰か暮らしているのか? こんなところに」
カティアが疑問を口にする。道から大きく逸れた、深い森の中だ。交通の便を考えれば、木樵でも住もうとは思わないだろう。だがひとの気配は確かにする。こんな場所に好き好んで住むのは、余程の人間嫌いか、或いは良からぬ者だ。
「行こう! 行こう行こう!!」
腹を空かせたミダは飛び跳ねてはしゃぐ。カティアは訝しげだったが、しかし敢えて無視をするという訳にもいかず、ミダに急かされながら、一同は灯りを目指した。
木立を抜けた先で、皆息を呑んだ。目の前に館が現れたのである。どうやら裏手に出たらしいが、二階建ての館、その石造りの外壁が、さも平然と佇んでいた。しかも足元は刈り込まれた芝が広がり、さらに二階の一室から煌々とした明かりが漏れ、ひとの生活する臭いが確かにした。
「やっぱりだ!」
ミダは手を叩くが、大人二人は俄には喜べない様子。
「怪しいな」
館は、名うての建築家が造り上げたものと思しく、大層立派なものだ。壁を作る石材の一つ一つが丹念に削られ、整然と並んでいる。窓枠の辺りには彫刻まで施してあった。そんな館が、こんな森の中にぽつんとあるのだから、エスは怪しいと言わざるを得ない。
「ああ、怪しい」
一体どんな人物が、どうして建てたのか見当が付かない。仮に人里離れてひっそりと暮らしたいという趣向であるならば、この館は寧ろ逆だ。もし小屋であったなら腑に落ちようが、森と混じり合わず、自然と調和せずにあるこの景観は、どうにもちぐはぐに思えてならなかった。それよりも不審に思う理由は、帝国領内にあるにも関わらず、カティアも知らぬという事だ。
「何だよ! 今までだって怪しい所にさんざ入ってったじゃないかよ?」
「しかしな、これはどうにも……」
これまでの場合は、古城であるとか、神殿であるとか、村はずれの屋敷であるとか、何と無しに納得の行く場所だった。だが今度に限っては、この存在に説明が付かない。
エスらが二の足を踏んでいると、ぽつり、ととうとう雨が降り出してしまった。最初の一粒を感じた後、直ぐ様勢いを増し、大雨となっていた。
「ああ、もう、じれったいな! オレは行くからな!!」
冷たく降りしきる雨に耐えかねて、ミダは外壁沿いに走り出した。
「またあいつはッ! 全く……学習するって事を知らないのか」
「子供というのはそういうものだ」
エスが愚痴を言い、カティアが頷く。二人がそんな遣り取りをしている間に、クラウスもミダに続いて歩き去ってしまった。どうやら雨に濡れるのは苦手な様だ。
取り残されると、二人共に訝しんでばかりいるのが馬鹿と思えてくる。遂に諦め、ミダの後を追った。




