Ep.20-3 謀略の黄金
まともな人間ならば骨が砕ける高さから飛び降りた後も、エスはカティアを抱え、風を切って走った。駿馬の如くに疾走し、黒髪と金髪とが靡く。城の外周に植えられた色取り取りの花からの、青臭くも微かに柔らかい匂いが、エスの鼻腔を甘美にくすぐった。
不意に、懐かしく思えた。幼い頃にも、こうして草いきれの中を駆けずり回った記憶がある。それは万人が持つ思い出だろうが、しかしエスに限っては、こうした懐古という喜楽と憂いとを併せ持った想起をするのは、極めて希な事だった。辛い過去ばかりだ。
どうして輝かしい過去が思い出されたのか、エス自身にも解らない。その要因が咽せ返る程の草いきれだけであるとは、思えないのだが。
ふと、カティアの声によって今へ呼び戻された。
「あれは宮殿の兵だ」
城門の前で立ち尽くす一団は、確かにこの国のものとは違う、エスも見慣れた装いだ。「それにあの馬……グラニじゃないのか!」
グラニは、ガルディアスが皇帝から下賜された、彼の愛馬である。威風堂々とした巨体を持つ艶やかな黒馬は、神の乗馬の血統だと噂されるが、真偽は定かでない。
何にせよ、グラニがここにあるという事は、ガルディアスが来ているという事である。
「……戻ってくれ」
僅かに考え込んでから、カティアが思い口振りで言う。
「ああ? いきなり何だ?」
問い返されても、頼む、と険しい顔をするばかりだった。
ガルディアスは、弱々しくエスの肩に頼るカティアと対峙して、剣の構えを解いた。顔が焼けただれ、服は裂け、手首に赤くありありと枷の跡が浮いた、義子の痛ましい有様に愕然とした様な、奥歯で憎悪を噛み殺す様な顔をして、エスを眼光鋭く睨め付けた。
「貴様……これは、どういう事だ」
問われたエスは黙したまま睨み返す。
「ガルディアス様……公爵殿下……」
カティアは、主の肩越しに公爵を見る。厳しい顔付きだが、眉尻が僅かに下がり、目は哀れむ様な、それでいて突き放す様な鈍い色を持っていた。
慕うべき師、恩人、そしてカティアの間に張り詰めた空気が立ち込め、カティアは全てを察した。それは、口述だけの釈明や、確たる証拠の無い告発では拭い去る事の出来ないわだかまりだ。消す事の適わない猜疑心だ。
途端、カティアの中に諦念が芽生える。仕方の無い事だと悟り切ってしまった。
肩に掛けていた手をのけて、エスの胸を強く押す。剣を杖代わりによろりと進み出て、ガルディアスの前に跪いた。
「将軍閣下、公爵殿下に申し上げます。この場にあります疑惑は、全て潔白に御座います。城下に火を放った者は私で御座いませねば、まして公爵殿下の手の者による仕業でも御座いませぬ」
散々痛め付けられた身体とは思えぬ程、朗々と述べ上げた。ガルディアスは眼を細める。
「……その証、立てられるか」
「立てられませぬ」
毅然と答えるカティアに、ガルディアスも公爵も苦い顔をする。すかさず、しかしながら、とカティアは続けた。
「しかしながら……我が身の潔白を、我が言の確かなるを証す事ならば、我が身一つで」
サーベルの刃を、鞘から僅かに抜き出す。それでも自らの喉を掻き切るには、十分だった。
「おい! やめろ、そんな事は!!」
「止めるな! 止めてくれるな!!」
制止するエスに怒号で返し、ガルディアスを見上げる。
「……我が身の不名誉は、我が身で以て晴らしとう御座います」
忠義に生き、名誉に死ぬ。騎士とはそうあるものだと、カティアは信じている。そしてそう教えたのは、他でも無いガルディアスだった。故に、止める事は出来なかった。例え本心とは違えども。
「公爵殿下も、どうか、御心穏やかに……」
カティアは祈る様に言うと、白刃を喉元に宛がい、目を閉じた。
そして一思いに、両手の力を込めて、押し付ける。
鮮血が刃を伝い、鞘を流れ落ち、絨毯を濡らした。
「……止めるなと言ったはずだッ」
エスがカティアとガルディアスとの間に割って入り、刃を掴み止めていた。掴む右手の肉が抉られ、血が流れ出る。カティアの喉は薄皮一枚を切られている程度だった。
「止めるさ。お前が何と言おうと、お前が死ぬのは俺が許さない」
カティアは剣を引く手に一層力を入れるが、びくともしない。
「あんたらも何だ?」
振り返り、ガルディアスと公爵とを睨む。
「自分らの為に誰かが命を投げ出そうとしてるんだ。止めろよ。黙って見てるんじゃない!」
「こうするより無いのだ! これは国の問題なのだ! お前が口を……!!」
「いいや、気持ちの問題だ!!」
カティアの声を遮り、エスは怒鳴る。
「ひとを信じるか、信じないか。たったそれだけの事だ! 死んでやっと信じて貰える、そんな信用の無い女なのか、お前は? それとも何か」
ガルディアスと公爵の目をじっと見返し、継ぐ。
「……あんたら、ひとを信じた事が無いのか?」
問われた二人は、押し黙るより無かった。そんな事は無いと否定する、そのたった一言が口に出来なかったのだ。
二人が共にカティアを信じ、互いを信じている。信頼や絆というのは、そう脆いものではない。だが、守るべきものが多くなると、それだけ疑う事を覚えてしまう。国を担う為の用心深さは、私心は押し殺される。
答えが無い事に、エスは鼻で笑った。
「なら、俺のする事は一つだ」
身を翻し、抱き竦める様にカティアの身体に左腕を回すと、小さな電撃を発する。カティアは短く呻き、昏倒した。
「何を……ッ!」
ガルディアスは咄嗟に剣を抜くが、エスはカティアを抱え、既に間合いの外に飛び退いている。
「カティアを攫う。俺はあんたらと違って、こいつを死なせたりしないからな」
「……貴様」
「追って来るが良いさ。あんたらがカティアを信じる様になったら、返してやる」
そう告げると、エスは素早く謁見の間を飛び出して行った。
残されたガルディアスは暫く戸口を見詰め、剣を収めた。公爵は溜息を吐きながら、力無く椅子にもたれ掛かった。
「若造め……」
恨み言を呟くが、その顔はどこか憑き物の落ちた様な顔だった。
「……ガルディアス。今度の事は、暫く置いておくとしよう」
その提案に、ガルディアスも異論は無かった。二人共が、カティアが死で訴えようとした時点から、いやそれ以前から、カティアを信じたいと願っていたのだ。
しかし、自らの言の数々を撤回出来ぬのは、業であるとしか言い様が無い。
「こちらは始末で手が足りぬ。そちらで追ってくれ、ガルディアス。そしてきっと、真相を掴んでくれ」
「……御意に」
城の裏手、人気の無い蔭で、男は手を叩いた。
「やあ、面白い! 愉快、爽快!! 攫うとは粋だなあ。これで暫くはここも平和だ」
ケラケラと独り笑う。
「良いのかしら?」
日陰からすっと現れたのは、闇の女――テレーゼだった。
「ああ、良いんですよぅ、あんなおっさんの命令なんて。ボクは自分が楽しいと思える物語を描きたいんですから」
「そう。楽しい物語になった?」
いえいえ、と顔の横で平手を振る。
「これからです。まだまだこれから」
思い描く陰惨な未来を想像して、男は含み笑いを漏らした。
「でも困るなあ。そちらさんも、物語を着々と作ってるみたいで。お仲間が増えたんでしょ?」
「ああ、『あれ』? あれは噛ませ犬みたいなものよ」
「そうなんですかあ」
にこやかだが、興味無さそうな口振りだ。
「ま、良いです。それはそれで楽しいかも知れない」
うふ、と身をよじって笑った。
「不幸な人間を見るのが大好きなんですよ、ボク」
「まあ、狂った男」
「うふふ、こりゃどうも。それじゃま、神様によろしく」
ひらひらと手を振って、鼻歌を歌いながら軽い足取りで立ち去って行った。




