Ep.19-2 黄金は燃え尽きず
キルヒアイス公爵は悪夢にうなされていた。
漠然と広がる草原で、彼の弟――クラウスが、寂しげな目を向けて、佇んでいる。口は開かない。公爵はクラウスに訊ねる。
「どうしてなのだ」
お前の身に何が起きたのだ。何故お前は消えたのだ。ありとあらゆる感情を込めて訊ねる。だがクラウスは答えない。
幾度も訊ねた。答を得ないまま、何度も何度も、愛しい弟へ同じ質問を投げ掛けた。
やがて、クラウスの姿が消える。霧の様に、掻き消えてしまう。咄嗟に公爵は手を伸ばすが、捕まえようとする手は、空を切る。
そして、あれが現れるのだ。
黄色の双眸をし、鋼の如き体毛を震わせる、黒き巨大なケダモノ。
公爵は逃げる。背後からはケダモノが、牙を剥いて追ってくる。どこへ逃げても、どこに隠れても、ケダモノは迫り来る。
そんな夢を、公爵は数年前から毎晩見るのだった。
公爵の寝室に忍び込む者が居た。黒装束に身を包み、顔を隠した影の手には、短剣が握られている。足音も無く公爵の傍にまで歩み寄り、剣を振りかざした。
その時、影は手首を掴み上げられ、床に引き倒された。
「くッ……」
賊を投げたのは、黒髪の偉丈夫だった。髭と前髪との隙間から、月明かりを浴びてぎらりと光る目で、見下ろしている。始めからそこに立っていたかの様だったが、その存在は全く気付かれていなかった。
賊は覆面の下で笑った。余裕の笑みである。賊は襲い掛かる事もせず、開け放たれた窓から逃げていった。
男も深追いはしない。賊を捕らえるよりも、公爵の傍に居たいと考えたからだった。
「……兄上」
クラウスは屈み込み、兄の耳元でそっと囁いた。
「申し訳ありません、兄上。おれは……クラウス・フォン・キルヒアイスは、死にました」
公爵の唸り声は止まり、その口元が微かにほころんだ。
漸く、夢の中で答えを聞いたのだった。
短い呻きと共に、エスは目を覚ました。軽く頭痛がする。
見上げた天上は見知らぬものだ。最後に憶えているのは、井戸の中でミダに助けを求めた事。
身体を起こそうとすると、押し止められた。
「煙を吸っている。まだ起き上がらない方が良いだろう」
低い、諭す様な声だ。
「……あんたは?」
「安心しろ。わたしは医者だ」
中年の医者は髪を刈り込み、髭を生やした強面だったが、目は小さく、優しい印象がある。
右隣に目を遣ると、顔中に包帯を巻かれ、ミイラの様な姿になったカティアが横たわっていた。
「カティ……彼女は生きていますか?」
「今のところは。今日一日が山かも知れん」
外の空は、青白く輝きつつあった。医者の施術はほんの先程終えたばかりである。
「この状態で未だ生きているのは、奇跡としか言い様が無いな」
「彼女は強い女ですから」
エスの声は確信に満ちていた。こんな事で死ぬ様なカティアではないと、信じ切っている。きっと大丈夫だ。
「ありがとうございます、先生」
「礼ならあの子に言ってくれ」
医者が顎で指し示した先で、ミダは眠っていた。座っていたのがそのまま転げた格好で、丸くなっている。
「あの子に頼まれたから治療したんだ。他の誰かだったら、どうだったか解らんよ。お前さんが目を覚ますまではと意地を張っていたが、余程疲れていたんだろうな」
ミダの寝顔は安らかなものだった。エスはそれを眺めながら、
「……あいつも、強い奴ですよ」
そう呟いた。
暫く経過を見なければならない。包帯をこまめに替える必要もあるし、診療所まで運ぶべきだと医者は言ったが、エスは断った。
「それは困る、かも知れない」
「困る? 何故かな? 金の心配なら無用だが……もしや、あの火事と何か関係があるのか?」
医者に問われ、エスは押し黙る。そこの所はエスにも知れないが、火災とカティアとの関わりは、否定しようも無い。
まあ良い、と医者は息を吐いた。色々と思うところはある様だが、深く詮索しないのは、有り難い事だった。
「また来る。もし何かあったら呼んでくれ。場所はあの子が知っている」
「……助かります」
医者は出て行った。エスは横たわったまま、そっとカティアの手を握る。白く細い指は熱を帯びていた。
励ますつもりでも、慰めるつもりでもなかった。ただ、エスがそうしたかっただけである。
日暮れ頃に目覚めたミダが最初に感じたのは、嫉妬心だった。
いつの間にか起き上がっていたエスは、その右手をカティアの左手に重ねている。それが、何と無く――あくまで何と無く、許せなかった。
「おはよう」
エスが、文様の伸びた横顔を向けながら口にしたのは、そんな挨拶だった。その声が懐かしく思えたが、何故だか余所余所しくも聞こえる。
「……おはよう」
ミダは答えつつ二の句を期待したが、言うべき事は全て言ったという風に、エスはそれきり口を閉ざしてしまう。
ありがとう。苦労を掛けた。悪かった。
そんな言葉の一つや二つでもあって良いだろうに、エスは何も言わない。ミダは不平や不満を垂れる意欲さえも失ってしまった。
労いや謝礼を期待するのは、偽善的だと嘲罵されるかも知れない。独善的だと誹りを受けるかも知れない。だがミダはそれでも構わなかった。
ミダは下唇を噛んだ。たった一言エスに褒められたかった。それだけで十分だ。いや、それさえも無ければ、ミダの心に何も注がれない。ただぽっかりとした空間が出来るだけである。
暫くして、やっとエスが口を開くが、そこから出た言葉はまたもミダを落胆させた。
「クラウスはどうした?」
昨晩、エスとカティアをこの空き家へ運び入れた後から姿を消している。恐らく黄金へ変えた柱の処理に向かったのではないかとミダは考えたが、喉の奥に重いものの詰まったミダが出来た答えは、
「どっか行ったよ」
という、酷くぶっきらぼうなものだった。しかし、エスはそれだけで全てを悟った様に、そうか、と呟いたきり、また押し黙る。
喚き出してしまいたい気分だった。泣き出してしまいたかった。けれど、エスに向ける言葉は一つも込み上げて来ず、涙は頭の中に立ち込める霧となり、もやもやとするばかりだ。
エスが遠くに感じた。冗談や諧謔の類を言われていたのも、昔の事に思える。まるで蜃気楼の様だ。距離を保っている内は良いが、ぐっと近くに歩み寄ろうとすると、その分だけ遠ざかる。そして手の届かぬ所で物事は動き、それを見せ付けられる、歯痒さを感じるばかり。
悔し紛れに毒突いてみたところで、意味も成さないだろう。ミダは膝を抱えた。
医者が再び顔を見せたのは間も無くの事だった。
カティアの顔に巻かれた包帯が、交換するべく解かれていく。徐々に現れたのは、炭化し、壊死し、黒ずんだ横顔。眉まで焼けて、精悍な顔立ちは見る影も無かった。
「一生残るだろうな。まだ若かろうに……」
医者は呟く。
「……脚の方はどうです?」
「腱をやられている。もう利かぬかも知れん」
「治らないと?」
エスは眉間に深々と皺を刻み、医者に食って掛かった。医者は頭を振る。
「訓練次第で歩ける程度にはなるだろうが……」
「それでは駄目だ!」
不意に叫ぶと、医者も怒鳴り声で返した。
「がなり立てても変わりはしない!! 手は尽くしたんだ」
毅然とした医者の言葉に、エスは項垂れた。
「……恋人かね?」
「いえ……」
「そうか。何にせよ、命があるだけでも喜ぶべきだろう? 今は、な」
医者の言う事は正しい。だがエスは手放しに喜ぶ事など出来なかった。
脚が使えないのでは、剣士としては死んだも同然だ。目覚めたカティアがどう思うか、想像に難くない。
手早く包帯を巻き直し、鞄を取った医者が立ち上がりながら言った。
「命あっての物種だ。死んでしまったら元も子も無い。……わたしにはそうとしか言えんよ」
エスは口を閉ざしたままだった。
医者と入れ替わりに、クラウスが戻って来た。足音を立てず、エスに歩み寄る。
「クラウス……」
「様子は?」
クラウスは重い口振りで訊ねた。見ての通りさ、とエスは頭を振った。
「……死なせてやった方が、楽だったかも知れない」
「馬鹿を言え」
弱音を吐くエスを、クラウスは叱咤する。
「心にも無い事は口にするモンじゃない。お前だって、死なせたくないから無茶をしたのだろうが。そんな忌々しいものを受け入れてまで」
言われたエスは左の頬に触れながら、そうだな、と掠れた声で言った。
「……なあ、クラウス」
ミダが声を上げた。訊きたい事、聞きそびれた事が山程あった。
「あの女は何なんだよ? お前は? ルッツはどうなったんだ?」
「あれは只の亡霊だ」
クラウスはミダを振り返り、眼を細める。悲しげな、人間のするそれと同じ表情だった。
「人間を憎み、恨みながら死んでいった女だ。ルッツの事は知らん。死んだとは思えんが、心の闇に飲まれてしまった。もう戻れないだろう。あれがルッツを引き込んだ理由も、おれには解らない」
「お前の事は?」
「おれは、ただの犬だ」
はぐらかす様でいて、どこか自嘲的に言う。結局、ミダには何一つ解らずじまいだった。
「……妙なものだな。犬が喋っている……」
いつの間にか気が付いたカティアの、しゃがれた声がした。
「ここは、『あちら』か?」
「いや、まだ『こちら』だ、カティア……」
腰を浮かし、カティアの顔を覗き込むエスが、低く沈痛な口振りで答える。
「そうか。部下はどうなった?」
「……火の中で、無事な奴と一人会った。しかし、あの後どうなったか……」
そうか、とカティアは淡々とした口調で言う。深い青色の瞳は、天井の一点を見据えたままだった。
不意に、カティアは顔をエスの方に傾けて言った。
「悪いが、水を飲ませてくれないか。喉が乾いた」
「解った。待ってろ」
エスは慌てた手付きで杯に盥から水を汲み、カティアの口元に遣る。しかし、喉に流し込むなり噎せ込み、吐き出してしまった。呼吸が苦しくなった所為か、咄嗟にカティアの左手が、エスの腕を掴んでいた。
「……すまない」
カティアは思わずしてしまった事を恥じながら、手を解く。いや、と呟くエスの表情は、深い憐れみの色に染められていた。
相当に弱っているはずだ。身体も心も、かなり参っている。それは目に見えて解る。だが、それでも気丈に振る舞うのは、騎士の誇りか、女の意地か。だとすれば、こんなに悲しいものがあるかと、エスは憐憫を感じずにはいられなかった。
エスはもう一杯水を掬うと、今度は自らの口に含んだ。そして、そっとカティアの唇に近付き、ゆっくりと口移していった。
耐え切れなくなったミダは、顔を伏せ、下唇を噛み締めた。




