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Ep.18-3 炎上する黄金

 燃え盛る炎の中で、カティアは呻いた。左の上腿を押さえる指の隙間から溢れ出る血は止まる事を知らず、寝台を赤く染め抜き、床にまで滴る。深く抉られた傷は腱にまで達し、身体を起こす事すらままならない。

 出血と激痛で遠ざかりそうになる意識を打ち振るう様に、カティアは叫んだ。

「何故だッ! 何故こんな事をする!!」

 タンスを倒し、椅子を積み上げ、たった一つの出入り口を塞いだマリナは、振り向きながら寂しげに笑った。

「お姉様みたいに強くないから……」

 マリナは、ほう、と溜息を吐き、煙を吸い込んで激しく咳き込んだ。

「……解らないでしょう? きっと解らないの。戦う力が無い事の苦痛なんて……!」

 咳き込む合間から途切れ途切れに言う。その言葉はどこか、自己の中で完結している様だった。

 カティアの腿に短剣を突き立て、身動きを封じた後、マリナは部屋中に油を撒き、火を放った。火は瞬く間に燃え広がり、部屋を埋め尽くし、廊下を這い出て宿中を焼き、更に乾いた風に乗って隣家へも燃え移っていった。

 階下が焼け落ちる音がした。部屋が揺れ、僅かに傾く。倒壊が間近に迫っている。

「死ぬぞ、お前も……!」

「みんな死んじゃえば良い!!」

 マリナは呪いの言葉を吐き、頭を振った。

「わたしを道具にする奴らも、非力なわたしも……みんなみんな、大ッ嫌い!!」

 身体を雁字搦めにしていた鎖を振り払うべく、マリナは悲鳴に似た声を上げる。

 それが何故こうするに結実するのか。そう問おうとしたカティアは、口を噤む。髪を掻き乱し振り乱すマリナの鬼気迫る様子を見れば、何者かが娘のか弱い心を捻り潰していたのだと、容易に知れたからだ。

 マリナはカティアを暗殺するべく送り込まれた刺客だ。そんな狡獪な手口を思い付く輩を、カティアは一人しか知らない。

 だが、この場で恨み言を呟く気にはなれなかった。望まずも凶行に走るより無かった、マリナという娘への憐れみが勝っている。

「……もうやめよう。誰がお前を咎められる」

 女に生まれ、奴隷に生まれ、利用され、使い捨てられる。それを責める権利は、何人たりとも有してはいないのだ。

 カティアの柔らかな声音に、マリナは顔を上げた。その頬は涙で濡れているが、しかし、口元は薄く微笑んでいた。

「もう遅いの。全部手遅れなの。だから……ね? お姉様……」

 マリナの顔に張り付いた笑みは、何もかもを悟り、死の恐怖さえ克服した笑いだった。

「……一緒に死にましょう?」

 そう言うや、油の瓶を手に取り、高々と掲げ上げる。

 カティアが止める間も無かった。マリナが瓶を返すなり、油が身体を流れ落ち、移る火は、蛇が絡み付くかの如く駆け上った。

 一瞬のうちに全身を炎に包まれたマリナは両手を広げ、踊る様にくるくると回りながら、高らかに笑う。それは子供の無邪気にはしゃぐ様な、無垢なものだった。

 不意に、力無く膝を折り、カティアの横たわる寝台に縋りついた。

「……嗚呼、お姉様、お姉様……大好きです、お姉様、嗚呼……幸せ……」

 譫言の様に繰り返す声は次第に焼かれ、ついには風を切る様な呼吸の音に変わっていった。

 マリナの焦げた手がカティアの肩口を掴む。最後のありったけを込めているのか、ひとのものと思えぬ程の力だ。意識朦朧とするカティアには振り払う力も無い。

 マリナは腕を引き、ずるりと身体を持ち上げると、未だ燃え続けるその顔をカティアに寄せ、愛おしげに頬擦りをした。

「あ、ああ……ッ!!」

 ジュウ、という音と共に、カティアの左顔面が焼ける。

 抱き寄せられ、カティアの服にも火が燃え移る。


 壁の崩壊する音がした。


 宿屋に入ったエスが目にしたのは、凄惨な有様だった。

 火の海にいくつもの死骸が横たわっている。鎧は纏っていないが、帝国の兵だとすぐに知れた。焼かれる前に死んだのだろう、悶え苦しんだ様子は無く、ただ肉の焼ける嫌な臭いを放っていた。

 階上から誰かの叫ぶ声がする。エスが駆け上った直後に、階段は焼け落ちた。

 叫び声の主はすぐそこに居た。それはエスも見知った顔、衛生兵・ルートガーだ。煙に巻かれたのか、燃え盛る廊下で壁に凭れて蹲り、廊下の奥に向けてカティアの名を叫び続けている。呼び声は上官の名を言うものではなく、恋しい女を呼ぶのと同じだった。

「逃げろ! 焼け死ぬぞ!!」

 エスに襟首を掴まれルートガーは驚くが、すぐにカティアの部屋の方へと視線を戻した。

「駄目だッ! まだ彼女が居るんだ。彼女が……!!」

 煙を多量に吸った所為か、気が動転している所為か、舌の回らぬ調子で言う。しかし意識ははっきりとして、カティアを助けなければならないという意志を訴えた。

「俺に任せろ! お前は逃げるんだ! まだ間に合う!!」

「嫌だッ!!」

 ルートガーは倒れた仲間達の為に奔走した。だが、誰一人助けられなかったのだ。呼吸が止まり、鼓動が止まり、兵達は皆死んでいった。せめてカティアだけでも――いや、カティアこそは、自らの手で助けなければならないと、ルートガーは突然襲い掛かった煙にも、猛然と立ち向かったのである。

 愛した女を守るのは、男の意地だ。

「馬鹿! 死んだら元も子も……」

 エスが言い掛けた時、天井が崩れ、燃えた梁が落ちてきた。咄嗟にルートガーを階段のあった方へ突き飛ばし、自身は廊下の続く方へ飛び退いた。間一髪で躱した梁は、廊下を分断し、二人の間に割って入る。ルートガーの声が聞こえ、無事だと知れた。

「行け! カティアは俺が助ける!!」

 瓦礫の向こう側から、嫌だ、嫌だ、と泣き喚く声がする。その声に背を向け、エスは走り出した。

 泣くだけでは誰も助けられない。力が無ければ、ひとを救う事など適わないのだ。

 廊下の床は所々抜け落ち、火の手が行く手を遮る。舌打ちをしたエスは、近くの部屋に飛び込んだ。廊下を行けぬなら、壁を突き抜けば良い。

 隣室とを隔てる壁は燃え上がり、近付く事さえ困難だが、エスには雷を放つ特別な力がある。しかし、木版の薄壁と言えど、破壊するのには相当の体力と気力とを要した。

 一枚、二枚、三枚――次々に壁を破っていく。

「クソッ……まだあるのか……」

 部屋は小さく分けてある故に、壁も多い。加えてカティアは最も奧の部屋に居る様だった。この調子では、カティアの元に辿り着く前に力尽きてしまう。かと言って、廊下に出る事も出来ない。

 力を振り絞り、雷を打つ。だが、壁は崩れず、代わりにエスが、膝から崩れ落ちた。限界だった。

「ここまで……なのか……?」

 最早腕を上げる事さえ出来なかった。力を使い切り、煙を吸ったエスの意識が、次第に床に沈んで行こうとする。

 己の無力さを呪う。


 あの時もそうだった。

 それはエスが子供の頃――故郷の町が無惨にも滅ぼされた時。瓦礫の下で、呪いを刻まれる以前の左腕を伸ばしながらだった。

 手を伸ばした先に、母の顔が見える。落ちた屋根の隙間から差し込む、一筋の日の光に照らし出された顔は、微笑んでいた。

 大丈夫。きっと大丈夫。

 母はエスを励ます為に、繰り返し虫の息で呟いていた。誰よりも何よりも愛した母の、命の灯火が、目の前で果てようとしている。そのぬくもりが消える前に、母の頬に触れたかった。しかし、あともう少しの所で指先は空を掻く。

 力があれば母を助ける事が出来ただろうか。力があれば、この瓦礫を押し退けて、母を救い出す事が出来るだろうか。無力が故に、そう思う事しか出来ない。

 力が欲しい。たった一人を救えるだけの力が欲しい。エスは心からそう願った。

 その時、閃光が走る。瞬間、エスの身体は宙を舞っていた。


 もっと力があれば、カティアを救う事が出来るだろうに。

 何が神の力だ。何と役立たずで、何と無意味な神だろうか。

「もっと、もっと力があったら……!!」

 エスは暗転してゆく意識の中で、力を求めた。忌み嫌い、呪ってきた力だが、この時ばかりは、更なる力を切望した。

 左腕を激痛が襲う。ぎりぎりと締め付ける様な、ねじ切ろうとする様な痛みだ。二の腕まで上り、肩口を伝い、首にまで至る。エスは悶絶し、のたうった。

 自分の身体に何が起きているのか解らない。ついには左の頬にまで及び、左半身が痙攣を始める。このまま死ぬのだろうか。だとしたら何故だ。エスの脳裏にそんな思いが駆け巡った。

 不意に、痛みが消えた。真冬の水を浴びせられたかの様に、キンとした冷たさだけを残して、苦痛は消え去った。

 エスは不思議な感覚を覚えた。体中に力が込み上げてくる。薄れ掛けていた意識がはっきりとする。

 立ち上がる。異様なまでに身体が軽かった。金の籠手もまるで重さを感じない。左手に握り拳を作ると、バチリと青白い光が爆ぜた。

 左腕を突き出すと、白い大蛇が一瞬の閃きとなって壁を打ち壊した。これまでに無い、輝きだった。

 行ける――エスは確信し、走り出した。

 足首から羽が生えた様に、軽やかだ。まるで床を踏み締めている心地が無い。駆け抜けながら雷撃を放ち、次々に壁を破壊していく。

 最後の一枚を破り、エスは叫んだ。

「カティア!!」

 炎に囲まれ、カティアは横たわっていた。傍には、消し炭の様になった死骸が寄り添って、カティアの服も燃え上がっていた。

 エスは火を恐れずカティアを抱え上げると、窓から飛び出した。

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