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Ep.18-2 炎上する黄金

「お、っと……」

 不意に、ミクラスは椅子から転げ落ちそうになり、ルートガーにしがみついた。

「いけねぇな。あんまり飲んじゃいねぇはずだが……」

「大丈夫かい?」

「ああ……少し部屋で休んだ方が良さそうだな」

 まだ自己診断が出来るのだから、言う通りまだ泥酔している様ではない。体調が悪いのであれば、介抱するのがルートガーの仕事だ。

「部屋まで送るよ」

「悪い」

 ルートガーが肩を貸すが、脚が利かないのか、ミクラスはなかなか立ち上がれない。どんちゃん騒ぎしている兵士の一人に声を掛け、二人掛かりで漸く運び出す事が出来た。

 半ば抱え込む様にして、何とか二階の部屋に辿り着く。

「……ふう。やっと着いた。さ、ベッドまで自分で行けるか?」

 ミクラスに話し掛けるが、答えは無い。どうしたものかと顔を覗き込んでみると、ぐったりと俯き、顔面蒼白、目を閉じてしまっていた。

 これはいけないと慌ててベッドに寝かせる。ミクラスの意識は無く、何度呼び掛けてもまるで聞こえていない。揺すろうが叩こうが無反応だ。口元に耳を近付けてみると、

「呼吸が無い……?!」

 力無く開けられたミクラスの口からも、鼻からも、息が漏れる事が無かったのだ。脈を取れば、まだ辛うじてあるものの、今にも切れてしまいそうな危ういものだった。

「ま、まずいぞ、これは! 医者だ! 医者を呼んで来てくれ!!」

 ルートガーはもう一人の兵に向けて叫んだ。兵士は狼狽えながらも、指示通りに医者を呼びに急ごうとする。

 だが、踏み出した先から膝ががっくりと折れ、その場に転げた。どたりという音に、ルートガーはギョッと振り返る。

「ど、どうした?」

「い、いや……急に力が……」

 立ち上がろうと腕を立てても、一向に身体が持ち上がらない様子だ。

 今の今まで足取りはしっかりしていたと言うのに、これは一体全体どうした事だ。ルートガーは駆け寄って、抱き起こそうとする。しかし、弛緩した身体は重く、床から離れようともしない。

 呻き声を上げていた兵士だったが、やがて、ミクラスと同じく意識を失った。

「お、お前もなのか……ッ!」

 仰向けに寝かせて呼吸を確かめるが、矢張り止まっている。

 困惑している時間は無い。兎に角医者だと、ルートガーは駆け出した。

 部屋を飛び出し、階段を駆け下りながら、思い付く。医者は他に任せた方が良い。いざという時の蘇生術をわきまえた者が二人を見ていなければならないのだ。

「誰か、医者を呼んでくれ! 二人倒れた! 誰か、早く……!!」

 酒場に降り立ったルートガーは愕然とした。

 騒がしかったのが、しんと静まりかえっている。ルートガーが大声を出したからではない。

 誰も彼もが昏倒していた。ある者は卓に伏せ、ある者は床へ手足を投げ出して倒れている。

 近くに伏せていたマイヤーに飛び付いて、身体を起こした。だが、やはりだらりとするばかりで、呼吸もしていなかった。

「何なんだ! 何なんだよ!!」

 ルートガーは酷く混乱し、頭を抱えた。


「お酒はお召しにならないのですか?」

「飲まん。私は下戸だ」

 ベッドの上で仰向けに寝そべったカティアは、目を腕で覆ったまま答えた。

「……お疲れですのね、お姉様」

「少しな」

 肉体も精神も鍛え上げたカティアだが、尊敬する人物が錯乱する姿を見たのでは、流石に参る。

 カティアはあの後すぐに、追われる様に城を出た。公爵の取り巻き達は、彼の心が乱れたのをカティアの所為にしたがったし、訳が解らぬながらも、きっかけを与えてしまったのだという事を察したカティアは、ものを訊ねる事も出来ぬままだった。

 そもそも公爵に弟が居たというのも初耳だったが、クラウスという名にカティアは聞き覚えがあった。珍しい名前ではないが、ここ最近聞いた様に思うのだ。

「家族の事は憶えているか?」

 何の気無しに、カティアはマリナへ訊ねた。勿論、奴隷にするべき質問でないとは承知している。しかし、相手がマリナだからこそ訊ける事でもあったのだ。

 マリナは些か困惑しつつも、

「は、はい……姉が居ました。幼い頃、奴隷市で生き別れに……」

 言葉短く答え、俯いた。

「それでか。私を姉と呼ぶのは」

「申し訳御座いません」

 頭を垂れるマリナに向けて、カティアは、良いさ、と言ってやる。

「私も似た様なものだ」

 マリナは顔を上げる。依然腕で覆われたカティアの表情は窺い知れなかった。

「妹が居たよ。まだ赤ん坊の内に死んでしまったがね。生きていたなら、今頃はお前と同じ程か」

「そうでしたか……妹様のお名前は?」

 聞き返され、カティアは、フッ、と笑う。

「……『カティア』だ」

「え? それでは……」

「私の名は妹のものを貰ったのだ」

 カティアはガルディアスに名を訊ねられた時、咄嗟に、妹の事を思い出した。愛らしい寝顔は、国も家も関係が無かった。それが無惨にも瓦礫の下敷きになり、呆気なく死ぬ。カティアは幼心に世の無情嘆き、そして、出来る事ならば己の命と妹の命とを引き替えにしたいとも思った。だが失われたものは返らず、自身は望まず生きている。

 そこで思い付いた。妹の代替となって生きなければならない。そして、妹の無念をいつか、妹の名で晴らさねばならない。

「では、本当の名前は……」

「名も姓も、とうの昔に捨てた。今はただの『カティア』だ」

 マリナは絶句した。カティアは腕の下から目を覗かせ、マリナに視線を送る。

「良いな? この事は他言無用だ。ガルディアス様にも話していないのだ」

 それを何故マリナに話しているのか、カティア自身解っていない。倦み疲れた心がそうさせたのか、姉と慕い寄り添う娘に心が開けたか。何にせよ、心の内に秘めていた事を誰かに告げる事で、カティアの疲弊した気持ちはいくらか楽になった。

「もう下がって良いぞ。手間の掛かる利かん坊共が精々騒いでいる事だろうしな」

「いえ、そろそろ落ち着いた頃だと思います……」

「そうか。まあ良い。兎に角、私は眠る」

 カティアはそう言い切り、マリナが出て行くのを待たずして、目を閉じた。

 寝息を立て始めたのは、それからすぐだった。他者の居る寝所でこれ程無防備に眠れるのは、やはり、疲れているというだけの理由ではない。

 カティアの寝顔を見詰めるマリナの胸に、重苦しいものが充満していった。それが目頭まで上り、涙の雫を押し流す。

 気を許していたのは、マリナも同じだ。姉と呼んだのはマリナがそうしたかったからである。姉の事を話したのも、あの狡猾な男が用意した段取りとは違う。

 マリナは、そっとキルヒアイスの紋章が刻まれた短剣を取り出し、鞘から抜いた。磨き上げられた白刃に己の顔が写る。

 カティアを殺さなければならない。でなければ生きられない。生きる為にやらなくてはならない。

 カティアは強い女だとマリナは改めて思い知った。もしカティアが今のマリナの立場なら、マリナを殺して平然と生き延びる事は出来ないだろう。この場を静かに去り、出来ぬとフィンクに告げ、そして一切物怖じせずに死ぬのだろう。

 死ぬのは怖い。必死に掴まえ続けてきた生を手放す事は出来ない。誰かの為に死を厭わぬのは、マリナには不可能だった。

 なら、どうしろと言う。

 殺したくない。死にたくない。生きていて欲しい。生きていたい。選択不能な二つの選択肢を提示され、逃げ出す事も許されず、マリナはただただ苦しむばかりだった。

 カティアに全てを打ち明ければ良かったのか? それも今更である。何故なら、もう始まってしまったのだから。もう後には退けない。

 マリナの手に温かな雫が落ちる。その瞬間、閃く様に、爆ぜる様に、第三の選択肢が頭を過ぎった。

 そうだ。それが良い。途端に、マリナの胸中の暗雲は消え去り、代わって陽光の如き幸福感が差し込んでくる。まるで、これまで背負っていた全ての不幸が一瞬の内に消え去ったかの様に、朗らかな気分になる。

 もう苦しむ事はない。もう辛い思いはしないで済む。

 マリナは短剣を振りかざした。


 空が茜に染まっている。だが、燃えているのは日の沈み切った西の空でなく、エスの向かう東の空である。嫌な胸騒ぎがエスの足を速めた。

 平野を直走り、木立を抜けた先に、エスは空を焼くものの正体を見た。

 街が燃えている。城壁の内側から火の粉と黒煙とが立ち上り、彼方にそびえる城の輪郭を浮かび上がらせていた。


「東に走れ。嫌な臭いがする」


 エスが耳の中で聞いた、クラウスの言葉である。

 クラウスの言う「臭い」とは、嗅覚で感じるそれとは違ったものだ。

――ひとの悪意や憎悪といった邪な意識。

 それらは悪臭としてクラウスの鼻に届く。野を越え山を越え、時には海を越えて、悪臭は漂ってくる。そして嗅ぎ付ける度、人語を解し口にする犬は、エスにだけ聞こえる声で囁くのだ。

「嫌な臭いがする」

 クラウスが嗅ぎ分けるのは、そうした汚臭ばかりではない。人間の悲哀や憐憫でさえ、如何様なものなのかエスには知れないが、感じ取る事が出来る。

 犬の鼻は旅の大きな助けとなっていた。例えば砂漠の中で商人の馬車に乗った時、例えばルッツに出会った時、クラウスはエスに助言をもたらしていた。

 しかし、あの廃村に向かう頃から、クラウスの様子はおかしかった。気の触れた女が背後に迫った時、いち早くその存在を察知しただろうにも関わらず、エスに告げなかった。またエリーゼを名乗る女が現れた時にも、その嗅覚に感じた何かを知らせずに、屋敷へ上がる様促し、かと思えば、

「残した死骸が気になる。見に行け。ミダは任せろ」

 と、独り出て行く事を勧めた。

 エスは、クラウスがこの世のものであらざると知りながら、信用している。存在しないはずのものという意味では、エスの左腕の力も同じなのだ。だが、何を思い何を考えるかは知れない。

 急ぎ駆け戻り、屋敷にわだかまる闇を目の当たりにした時、またクラウスの声がした。信頼が揺らぎ、疑念を口にしたエスに、クラウスは初めて詫びた。


「すまない……これは、俺の戦いなんだ」


 エスにとってはその一言が、クラウスを信じるに事足りた。

 ミダを託し、力強い答えを聞くと、エスは走った。


 城門から逃げ出す人々の波を掻き分けて行く。

「き、貴様、怪しい奴ッ」

 門番が槍で道を塞ごうとするが、エスは立ち止まらない。

「邪魔ァ!!」

 槍をむんずと掴むと、兵士ごと薙ぎ倒し、城下へ突き進んだ。

 火は一面に燃え広がり、灰を撒き散らしている。その中を逃げ惑う町民のうち、商人らしい男を捕まえて、エスは怒鳴る様に尋ねた。

「火はどこから出た?!」

「や、宿屋だよ! 大通りを真っ直ぐ行った所の……!!」

 エスが手を放すと、商人は慌てて城門の方へ走り去った。

 宿屋――その言葉に悪い予感は募っていく。

 宿を使うのは街の住民ではない。利用するのは街の外から来た者だろうが、帝国領のこの国を訪れるのは、そう多くないだろう。だとすれば、宿屋に居る人間は限られてくる。そして、エスはクラウスの言葉で走らされた。

 ならば、心当たりは一人しか居ない。

「カティアか……!!」

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