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Ep.18-1 炎上する黄金

「嫌だッ! こんなのは、嫌だ……! 認めない!!」

 ルッツの手がミダから離れ、頭を抱える。激しく頭を振り、何かを追い出そうとするかの如く、掻き毟った。

「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ、嘘だッ!!」

 喚き、蹲る。

 そう、これは嘘なんだ。ミダは直感していた。まるで現実味が無い。巫女に捕らわれている間に見た夢と同じく、自分自身の存在感が無いのだ。例えるなら、動く絵画を見せられている様な、蜃気楼を見ている様な、そんな感覚。

 現実でないのなら、これは一体何なのか。過去の記憶でもない。ミダのものでもルッツのものでもないだろう。

 だとしたら、これはルッツの想像だ。いや、想像するのを拒絶した現実か。

 何れにせよ、ミダはルッツと同じ幻惑を見せられている。精神の中にあって決して分かつ事の出来ないものを、共有している。同じ悪夢の中に居る。

 ここはどこか、ミダにはそれすら解らなくなる。

 あの男は誰だ。あの女は誰だ。

 きっと女はエリーゼではない。テレーゼだ。だとすれば男は、クラウス・フォン・キルヒアイスという男。

 汚らわしい。男女の交わりなど知らぬミダでも、この光景は不浄なものだと嫌悪感を抱いた。それは内側から込み上げるものではなく、外側から、徐々に闇が染み込んでくる様に、じわりじわりとミダを浸食していく。その感覚には憶えがあった。

 悪意だ。強烈な悪意が、ミダもルッツも飲み込もうとしている。

 ルッツは既に術中に嵌り、悶え苦しでんいた。何とかしなくては、ここから逃げなければと、ミダがルッツに手を伸ばしかけた時だ。

 ルッツの背後で影が蠢いた。闇の中から白い腕が伸び、細い指先がしなやかに、ルッツの荷を解き、銃を取り出す。そして、ルッツに握らせる。

「解っているでしょう?」

 女の声がする。エリーゼの声だ。いや、正しくは、違う。ルッツの耳に唇を寄せるのは、捕らわれた船の中で、影から現れた幽霊、夢の中に現れた黒い女だ。

「ずっとこうしたかったんでしょう?」

 女はルッツを抱く様にして、縦横を絡み合う男女――男の方へ向けさせる。

「僕は……僕は……ッ」

 ルッツは玉の汗をかき、目を血走らせ、死に掛けた魚の様に口を動かした。

「クラウスが憎いでしょう?」

 震えるルッツの手に、その手をそっと重ね合わせて、女は囁く。

「私を愛しているんでしょう?」

 女の髪が黄金色に煌めく。それは草原が風に靡く様に髪を撫で、消えた。

 ミダは漸く気付いた。幽霊はエリーゼであり、エリーゼはテレーゼなのだ。

「教えて。あなたの愛って、何かしら?」

「僕は……僕はッ!!」

 ルッツの指が引き金に掛かる。


 銃声が轟いた。駆け付けたエスは足を止め、屋敷を睨める。

 屋敷は闇に包まれていた。夕暮れの赤々とした空を背にして、まるで黒色の獣が蹲る様に、その一点のみに闇がわだかまっている。

「何が起こっているんだ、クラウス!」

 エスは闇に向けて喚いた。

 一陣の風が通り抜け、エスの髪を揺らす。

「東? 東に走れとは、どういう事だッ」

 独り呟くが、問いの答えはエスの耳に届いている。

「俺はお前を信じて良いんだな? ……解った。ミダを頼む」

 エスは足を引き、屋敷を横目に駆けた。


 跳ねた銃口から煙が上る。放たれた銃弾は大きく逸れ、天井を貫いていた。

「お前はどこまで馬鹿なんだ」

 男が言う。偉丈夫がルッツの正面に立ち、銃身を掴み上げたのだった。

 ミダには、男がいつからそこに居たのか解らない。まるで始めからそこに佇んでいたかの様だが、一瞬のうちに現れた様にも思える。

 また別の幻を見せられているのだろうか。男の顔貌は髭に覆われて伺えず、無造作に伸びた黒髪は四方八方に乱れ、全身を黒衣に覆っているが、しかし、それは確かにクラウス・フォン・キルヒアイスだ。今は姿を消した、ベッドの上の幻影とは違う姿だが、ミダは何故だかそう思う。

「闇に囚われて己を失うな。目の前にある光さえ見るのを忘れてしまえば、人間は……」

 低く唸る様な声音で男は言い、腕を振るって銃ごとルッツを投げ倒した。

「今はおれの領分だが、ここはまだアレの腹の中だ。抜け出すぞ」

 ミダに目を向ける。視線がかち合い、ミダはハッとした。その目には見覚えがあった。

 今までもずっと近くに居た、黒毛の犬と同じ目の色をしていたのだ。

「……クラウス?」

「説明をしている(いとま)は無い。行くぞ。立て、ルッツ!」

 茫然自失としてへたり込んだルッツの襟首を掴み、力任せに立ち上がらせる。ルッツは怯えた目をしてクラウスを見ていた。

 クラウスは廊下を走る。ミダは抱えられ、ルッツは後ろを引き摺られていった。

 一体何がどうなっているのか。ミダは大いに混乱した。ひとの姿をしたクラウスからは、あの幽霊の様な生きた気配を感じない。ぬくもりや感触さえ無いのだ。

「やっと会えたわね、クラウス」

 幽霊の声がする。壁の中、天井の上、床の下。四方八方から聞こえた。まるで闇自体が喋っているかの様である。いや、本当にそうなんだとミダは確信していた。

「光のもとへ行くの? 影のあなたが……」

「影は、光の中にしか存在し得ない。光が強い程に、はっきりと輪郭を与えられる。曖昧模糊としたお前とは違うのだ」

「それだから駄目なのよ。光に引かれた、ただの影は……境界など要らないでしょう? 融け合う事を恐れて、一つになる事を望むなんて、愚かしいわ」

 闇は嘲う。

「人間は孤独だ。自我を持ち、個を持ってしまった。生まれながらに悟っているのだ。人間は一人では生きられない」

「なら、生にしがみつくのをやめれば良い」

「それが生と向かい合うのを放棄したお前の詭弁か? 傲るな!」

 クラウスは永遠に続く廊下を駆けながら吠える。闇は沈黙した。

 いくら走れど闇から逃れる事は出来ぬ様に、ミダには思えた。それでも、絶望はしない。希望の灯火は、胸の内で揺れもせずに燃え続けているのだ。

「……どうして解り合えないのかしら。わたし達は、愛し合っていたはずなのに」

「愛していたさ! だが、今は……」

 苦しげに言葉を切ると、闇は、そう、と嘆息を込めた声で言う。

「そうなの……あなたはそうなのね、クラウス。じゃあ……」

 クラウスの足が止まる。ルッツを引く手に抵抗があったからだ。

 振り返ると、暗闇の中でその姿を瞭然とテレーゼが立ち尽くし、ルッツの手首を掴んでいる。

「彼は、どうかしら?」

 首を傾げた微笑みの裏には、底知れぬ悪意を秘められていた。

 クラウスは眼を細め、睨む。

「……そいつが望みか」

「いいえ。私が望まれたのよ」

 そうでしょう、と同意を求められると、ルッツは顔を歪めて何かを言いたげに口を開けた。だが声は出ず、呼吸さえも止めてしまう。

 クラウスがルッツの名を静かに呼んだ。

「ルッツ、惑わされるな。そちらへ行ったら、二度と戻って来られなくなる」

 テレーゼが被せる様に問う。

「外に、あなたの行くべき場所はあるのかしら? 待っているひとが居るのかしら?」

 互いに、真っ二つに裂かんばかりにルッツを引き合う。ルッツは苦悶の表情を浮かべた。テレーゼはこの世のものではないと、理性では悟っている様だった。しかし、

「ぼ、僕は……ッ」

 クラウスの手を振り解く。テレーゼは勝ち誇った笑みを浮かべ、そのままずるりとルッツを闇の中に引き込んで行った。

「ルッツ!!」

 ミダは叫んだが、ルッツの姿は掻き消え、見失う。

「クラウス! ルッツが……!!」

 見上げた先には、怒りとも悲しみとも取れる皺が刻まれた、クラウスの顔がある。

 間も無く、クラウスはルッツの消えた方から顔を背け、また走り出す。

「見殺しにするのかよッ!」

「手遅れだ!!」

 クラウスは怒号を飛ばし、床を蹴った。

 と、無限の闇に終わりが見えた。目前に壁が出たのだ。行き止まりである。しかしクラウスは足を止めず、そのままぶち当たった。一跳びに壁を破った瞬間、視界が大きく開け、闇から解き放たれる。転げ出た先は草の上だった。

 外はまだ日が落ちていない。西の端に落ち込みかけた太陽が、未だ辺りを赤々と燃やしている。

 どっしりと佇んでいたはずの屋敷は、酷くくたびれたものに変わっていた。窓は割れ、柱はひしゃげ、所々煤けている。屋敷に入り込む以前から幻は始まっていたのだと知り、ミダは今更ながら目眩がしそうだった。

「な、何なんだよ、これ……! 何がどうなってんだッ! ルッツは? お前は……?!」

 巨漢の男が居るであろう方向に顔を向ける。しかし、そこに四つ足で立っていたのは、人の姿でない、犬のクラウスだった。

 あの男さえ幻だったのかと、ミダが唸りかけた時、犬は口を開いた。

「言っただろう! 説明の間は無いのだ!!」

 吠えるしゃがれ声は確かに人間のものであり、クラウスという男のものと全く変わり無かった。

 クラウスは俄然ミダに向かって体当たり。股の下から軽く跳ね上げられ、後ろ向きに黒毛の生い茂る背中に乗せられる。たまげるミダに構わず、クラウスはエスが向かったのと同じ方へ疾走した。

「酷い臭いだ! こんな臭いがしていたのでは、一体いくら死ぬ……」


 ルートガーは耳を塞ぎたい気分だった。酔った兵士共が祖国の歌など歌っているからだ。やたらに大きく酷いだみ声では、郷愁に浸りようも無い。

 日暮れ前に城から戻ったカティアは、何故だか疲れた様子で、部屋に引き籠もってしまった。ルートガーの居場所は無く、仕方無しと食事に下りて来てみれば、この有様である。

 一頻り歌い終えたミクラスが、ルートガーの隣へどっかりと腰を下ろしながら、首に腕を回して、酒臭い口を寄せる。

「おう、何だ、テメェ。シケたツラしやがって。欲求不満か?」

 どっちが、と言い返す代わりに、苦笑いを返す。酒を一滴も飲めぬルートガーには、酔っ払いの扱いなど慣れたものだ。したい様にさせておけば良い。機嫌を損ねると喧嘩沙汰になりかねず、また酒の場での喧嘩を止める者は居ないのだから、滅多な事はしない方が良い。

 やれ女の一人でも作れだの、男として情け無いとは思わないかだのと、耳元で好き勝手くだを巻かれ、素面のルートガーはうんざりとしたが、溜息は許されそうにない。

「おい! 酒が切れたぞ!!」

 忙しなく目の前を行き来するマリナを、ミクラスが呼び止める。

「は、はい! ただいま……」

 慌ただしく答え、ガチャガチャと腕いっぱいに瓶を抱えながら、一度奧へ引っ込んでいった。落ち着きの無いその様に、ルートガーは同情を禁じ得ない。カティアの傍に居たいのに、という気持ちは同様だ。

「……なあ、お前さぁ」

 ミクラスが急に神妙な顔付きになって訊ねる。

「妹が居るんだってな? 歳は、あのくらいか?」

 マリナの去った後を顎で指し示した。ルートガーが頷くと、そうか、と気落ちした調子で言う。

「おれにはな、恋人がいる。たぶん同じ頃だ。もう一年も会ってない。ここの所は手紙も来なくてな。元気にやってるかさえ……つい、むしゃくしゃしちまってよ」

 それであんな蛮行に走ったと言うのだろう。女を襲う言い訳には出来ない。

 しかし、ルートガーも気持ちは察する。

 兵隊はいつ何時戦場に赴かねばならなくなるか、死ななければならなくなるか、知れないのである。いつでも死ねる覚悟――いや、生きる勇気が必要だ。それだけ、家族や恋人の存在は彼らにとって大きい。互いを結び付けるのが手紙という細い糸でも、心強い命綱となり得る。

 もし、そんな命綱がぷつりと切れてしまったら。想像するだけでさえ恐怖だ。

「悪かったなぁ」

 ミクラスはぼそりと呟く様に詫びた。

 笑ったと思えば泣く、泣いたと思ったら笑う。酒とはそういうものだが、心にも無い事は言えなくなる。酔いは寧ろ本心を吐露する手助けをする。

「……謝る相手が違うよ」

「そうだなぁ。違いねぇ。ま、いくら詫びてみたって許しちゃくれないだろうけどよ」

 悔いと諦めとがない交ぜになった言葉を吐き、口元だけに苦笑いを浮かべた。

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